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第18話 アルの家の聖獣


 次の休み、私はルンドホルム公爵家へ向かった。


 迎えの馬車は、ずいぶん立派だった。


 黒を基調にした車体に、銀の紋章が入っている。


「大きいな」


 私がそう言うと、隣にいたアルがこちらを見た。


「感想が雑だな」

「立派だ、と言えばいいのか」

「いや、無理に言わなくていい」

「そうか」


 アルは公爵家の馬車で迎えに来てくれた。

 今日は彼の家にいるという聖獣に近い存在、シルヴァに会うためだ。


 もちろん、それは大事だ。

 だが、私は馬車に乗る前に一つ確認した。


「猫はいるか?」

「いる」

「なら問題ない」

「今日はシルヴァのために来たんだろう」

「もちろんだ。だが猫も大事だ」

「……そうか」


 アルは少し呆れたように言った。


 馬車に揺られてしばらくすると、ルンドホルム公爵家に着いた。

 大きな門。広い庭。よく手入れされた植木。


 屋敷も、私の実家よりずっと大きい。

 だが、私はまず庭を見た。


「ずいぶん広いな。魔獣も走れそうだ」

「普通は屋敷の感想を言うところだ」

「そうか。屋敷も大きい」

「本当に雑だな」


 アルはため息をついた。


 屋敷の前には、使用人たちが並んでいた。

 皆、礼儀正しく頭を下げる。


 私は軽く頷いた。

 公爵家というものは、やはり人が多い。


 前世で国を持っていた頃も人は多かったが、あれはもっと騒がしかった気がする。


「両親は今日は不在だ」


 屋敷に入る前に、アルが言った。


「領地関係の用事でな。話は通してある」

「そうか」

「代わりに妹がいる」

「妹がいるのか」


 アルに妹がいるのは聞いていた。

 たしか、エリサという名だったはずだ。


 そう思った時、玄関の奥から足音が聞こえた。


「お兄様!」


 明るい声だった。

 現れたのは、アルに少し似た少女だった。


 銀色の髪に、青い瞳。

 顔立ちは綺麗で、どこかアルと同じ雰囲気がある。


 だが、表情はアルよりずっと豊かだった。


 少女はアルを見て、それから私を見た。

 そして、ぴたりと固まる。


「お、お兄様が……女性を家に連れてきた……?」

「エリサ、言い方を考えろ」


 アルが眉を寄せる。

 エリサは両手を口元に当て、目を輝かせた。


「だって、お兄様が自分から女性を連れてくるなんて初めてですもの! しかも、こんなに綺麗な方を……!」

「エリサ」

「はい、黙ります。でも驚いています」


 全然黙っていない。

 私はエリサを見る。


「お前もアルに似ているな」

「えっ?」

「可愛い」


 私は自然に手を伸ばし、エリサの頭を撫でた。

 アルが何か言う前だった。


 エリサは一瞬、完全に固まった。

 それから、頬を赤くして、目を潤ませる。


「……はぅ」


 どこかで見た反応だ。

 ミーナに似ている。


「兄妹だな。反応が似ている」

「似ていない」


 アルがすぐに言った。

 だが、エリサはぱあっと顔を輝かせる。


「リシェル様……! 私、エリサ・ルンドホルムです。よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく。エリサ」

「はいっ!」


 元気だな、可愛い。

 アルが横で、少し面白くなさそうな顔をしている。


 私はそれを見て理解した。


「安心しろ、アル。お前も後で撫でる」

「その気遣いはいらない」

「そうか? 顔に出ていたぞ」

「出ていない」


 エリサが目を輝かせた。


「お兄様が、そんな顔を……!」

「エリサ」

「はい、黙ります。でもとても面白いです」


 やはり全然黙っていない。


 しばらくして、アルが話を戻した。


「シルヴァは離れにいる」

「離れか」

「ああ。屋敷の奥だ。離れの屋敷ごと、結界で囲っている」


 エリサの表情が、少し真面目になる。


「シルヴァは、昔はよくお兄様と一緒にいました。でも今は……」

「エリサ」


 アルが静かに遮った。


「ここからは俺が案内する」

「……はい」


 エリサは少し心配そうにアルを見た。


「お兄様、大丈夫ですか?」

「ああ」


 短い返事だった。

 私は二人を見る。


 アルもエリサも、そのシルヴァという存在を大事に思っているのがわかった。


「大事な相手なのだな」


 私が言うと、アルは少しだけ間を置いた。


「ああ、子どものころからな」


 それから、私たちは屋敷の奥へ向かった。

 庭を抜け、さらに古い木々の並ぶ道を進む。


 奥には、静かな離れがあった。

 古いが、荒れてはいない。


 むしろ丁寧に守られている場所だった。

 その周囲には結界が張られている。


 近づくだけで、肌にぴりりとした感覚があった。

 中にいるものの魔力が荒れているのだろう。


 離れの扉を開けると、広い空間があった。

 部屋というより、小さな庭を屋内に閉じ込めたような場所だ。


 草木があり、水場があり、月光を思わせる淡い光が差している。

 その奥に、白銀の大狼がいた。


 大きく、威厳がある姿だ。

 銀角黒豹とは違う。


 あちらが黒くしなやかな美しさなら、こちらは静かな月のような美しさだった。


 白銀の毛並み。澄んだ青銀の瞳。

 胸元には淡い紋様のようなものが浮かんでいる。


 だが、その魔力は荒れていた。

 綺麗なのに、苦しそうだ。


 シルヴァは私を見るなり、低く唸った。


「グルル……」


 空気が震える。

 エリサが少し身を縮めた。


 アルが前に出ようとする。


「シルヴァ、違う。彼女は――」


 だが、シルヴァはアルにも鋭く反応した。

 アルを守るように、私との間に立つ。


 白銀の毛が逆立つ。

 青銀の瞳が、私を射抜くように見た。


 なるほど。

 強い魔力を持つ者が、アルに近づいた。


 だから守ろうとしている。


「お前は、アルが大事なのだな」


 シルヴァが低く唸る。

 私は頷いた。


「わかる。アルは可愛いからな」

「今それを言うな」


 アルがすぐに言った。


「大事なことだろう」

「今は違う」


 後ろでエリサが口元を押さえていた。

 笑いそうになっている顔だ。


 緊張感が少しだけ緩んだ。

 だが、シルヴァの警戒は解けていない。


 聖なる魔力が荒れ、部屋の結界が小さく震える。


「リシェル、近づきすぎるな」

「大丈夫だ」


 私はシルヴァへ近づいた。

 シルヴァが前脚で床を叩く。


 風のような衝撃が飛んできた。

 私は片手でそれを受け流す。


「元気だな」

「……そういう問題ではない」

「すごい、シルヴァのあの攻撃で吹き飛ばない人初めて見た……」


 アルとエリサの声が後ろから聞こえた。

 私はシルヴァを見る。


「私はアルを傷つけに来たのではない」

「グルル……!」

「むしろ、守りたい側だ」


 アルが少し息を呑んだ気配がした。

 私は続ける。


「可愛いものは守る。アルもその中に入っている」

「……そこに入れるな」

「嫌なのか?」

「……嫌とは言っていないが」


 エリサが後ろで震えている。


「お兄様が……言い負けている……」

「エリサ」

「はい、黙ります」


 やはり少し楽しそうだ。


 私はシルヴァの魔力を見る。

 澄んだ流れの中に、黒く濁った糸のようなものが絡んでいた。


 銀角黒豹の首輪とは違う。

 小型魔獣の紐とも違う。


 だが、性質は似ている。

 従わせる。縛る。意志をねじ曲げる。


 数年前にかけられたという無理な契約術。

 その残滓だろう。


「まだ残っているな」


 私が言うと、アルが息を呑んだ。


「わかるのか?」

「ああ。従わせるための術式だ」


 シルヴァが苦しげに唸る。

 私は少しだけ目を細めた。


 腹立たしい。


 聖獣だろうと、魔獣だろうと、猫だろうと、人間だろうと。

 意志をねじ曲げる術式など、ろくなものではない。


「従わせるための術式など、壊してしまえばいい」


 私はシルヴァへ手を伸ばした。

 シルヴァが牙を剥く。


 だが、私は止まらない。


「お前を傷つけない、従わせるためではない。お前が拒んでいるものを壊すだけだ」


 魔力を流す。

 シルヴァの魔力に沿うように、ゆっくりと。


 聖獣の力は強い。反発も大きい。

 だが、支配の術式なら知っている。


 前世で、嫌というほど見てきた。

 力で従わせる者。恐怖で縛る者。


 契約という名で相手の意志を奪う者。

 そういうものは、壊すに限る。


「雑ではないな」


 私は黒い糸を探りながら呟いた。


「だが、趣味が悪い」


 術式そのものは高度だった。

 絡ませ方も、残し方も、簡単ではない。


 私は糸を一本ずつ外していく。

 シルヴァの魔力が大きく揺れた。


「シルヴァ……!」


 アルが一歩踏み出す。


「動くな、アル」


 私は言った。


「お前が近づくと、この子が守ろうとする」


 アルの足が止まる。

 シルヴァは苦しげに息を吐いていた。


 それでも、青銀の瞳はアルの方を見ている。

 本当に、アルが大事なのだろう。


「……頼む」


 アルの声がした。


「ああ」


 私は短く答えた。


 術式の芯を掴む。

 濁った糸が、シルヴァの魔力の奥に食い込んでいる。


 これを乱暴に引きちぎれば、シルヴァにも痛みが残る。

 だから、芯だけを砕く。


「砕けろ」


 指先に魔力を込めた。

 黒い糸が、音もなく切れる。


 次の瞬間、部屋の空気が変わった。

 荒れていた聖なる魔力が、少しずつ静まっていく。


 肌に刺さるようだった圧が薄れ、白銀の毛並みが柔らかく戻る。


 シルヴァはしばらく私を見ていた。

 それから、ゆっくりとアルの方へ向く。


 アルは息を止めていた。


「シルヴァ……」


 シルヴァが一歩、アルに近づく。

 もう、魔力は荒れていない。


 白銀の大狼は、アルの前まで来ると、静かに頭を下げた。

 そして、アルの手に額を押し当てる。


 アルの表情が、わずかに崩れた。

 泣いてはいない。


 だが、青い瞳が揺れている。


(よかったな、アル……今は可愛いとかは言わないでおこう。今は)


 シルヴァはしばらくアルに額を預けていた。

 それから、今度は私の方へ来る。


 大きな白銀の頭を、私の手に近づけた。

 私はその額を撫でる。


「お前も可愛いな」


 シルヴァが低く喉を鳴らした。

 その音は穏やかだった。


 エリサが胸元で両手を握る。


「シルヴァが……こんなに穏やかに……」


 アルが静かに言った。


「ありがとう、リシェル」


 私は少し困る。


「礼を言われることではない。可愛いものを苦しめる術式を壊しただけだ」

「それが俺にとっては、礼を言うことなんだ」

「……そうか。なら受け取るさ」


 私は頷いた。


 シルヴァはアルと私の間に座った。

 大きな身体だ。


 そこにいるだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。

 私はシルヴァを撫でる。


 白銀の毛並みは、銀角黒豹とはまた違う手触りだった。

 柔らかく、少し冷たい。


 だが、不思議と温かい。


 撫でていると、近くにアルの頭もあった。

 なので、ついでに撫でた。


「なぜ俺まで撫でる」

「近くにいたからだ」

「またそれか」

「シルヴァも撫でている。公平だろう」

「公平とはなんだ?」


 シルヴァがアルを見て、低く喉を鳴らした。

 まるで、諦めろと言っているようだ。


「シルヴァもそう言っている」

「絶対に違う」


 エリサが後ろで小さく笑った。


「お兄様、諦めた方がいいと思います」

「エリサまで」

「だって、シルヴァもリシェル様に撫でられて嬉しそうですもの」


 アルは何か言いたげだったが、結局ため息をついただけだった。


 私はシルヴァとアルを撫でながら思う。

 猫にはまだ会えていない。


 だが、白銀の聖獣と、少し照れているアルを撫でることはできた。


 ならば、今日の訪問はすでに十分な成果だ。


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