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第16話 銀角黒豹を手懐ける


 銀角黒豹の咆哮が、実習場に響いた。


「きゃぁぁぁぁ!」

「うわぁ!?」


 その瞬間、生徒たちが一斉に悲鳴を上げる。

 銀角黒豹は、檻を内側から叩きつけるように暴れた。


 檻を固定していた魔法具が軋む。

 黒い毛並みが逆立ち、銀色の角に荒い魔力が集まっていく。


 悪い魔獣ではない。

 私には、それがわかった。


 怒っている。だが、誰かを傷つけたいわけではない。

 怯えている。苦しんでいる。


 逃げたいのに、逃げられない。

 首輪の術式で魔力の流れが乱されているせいで、動きが荒くなっているだけだ。


「全員、下がれ!」


 アルの声が実習場に響いた。

 周囲の生徒たちに、はっきり届く声。


 その声に、一部の生徒たちは我に返って後ろへ下がった。

 だが、全員がすぐに動けたわけではない。


 ベッラは、銀角黒豹のすぐ近くで固まっていた。

 顔を青ざめさせ、鎖を持ったまま動けないでいる。


「ベッラ、離れろ!」


 エドガーが叫ぶ。

 だが、彼自身は一歩も近づかない。


 腰が引け、顔は引きつっていた。

 助ける気があるのか、ないのか。


 よくわからない男だ。


 教師たちが結界を張ろうとしている。

 しかし、ベッラが近すぎる。


 下手に結界を展開すれば、銀角黒豹とベッラを同じ中に閉じ込めることになる。

 それでは意味がない。


 銀角黒豹がもう一度、低く唸った。


「グルルルル……!」


 檻の扉が、内側から歪む。

 次の瞬間、魔法具の一つが弾け飛んだ。


 檻の扉が開き、銀角黒豹が飛び出した。


「きゃあああっ!」


 生徒たちが逃げる。

 銀角黒豹はまっすぐ誰かを狙っているわけではない。


 ただ、逃げ道を探している。

 だが、その身体は大きい。


 荒れた魔力を纏ったまま走れば、それだけで危険だ。

 その進路上に、女生徒が一人いた。


 恐怖で足がすくんでいる。

 動けていない。


 間に合わない。


 私は手を伸ばした。

 風の魔力を指先に集める。


 見えない糸のように伸ばし、女生徒の身体に巻きつける。


「来い」


 風が走った。

 女生徒の身体がこちらへ引き寄せられる。


 驚いたように目を見開いた彼女を、私は横抱きに受け止めた。

 その直後、銀角黒豹の前脚が、彼女がいた場所をかすめた。


 地面が抉れる。

 もう少し遅ければ、危なかった。


 私は魔力で床を蹴り、女生徒を抱えたまま横へ飛ぶ。

 安全な距離まで移動してから、そっと彼女を下ろした。


「怪我はないか」

「は、はい……」

「た、助けてくださって……」

「怪我がないならいい」


 それだけ言って、私は銀角黒豹へ視線を戻した。

 周囲がざわついている。


 だが、今はそれどころではない。


「結界を張る! 生徒は後ろへ!」


 アルが魔力を展開した。

 淡い光の壁が、逃げる生徒たちと銀角黒豹の間に広がっていく。


 教師たちもそれに合わせて動き始めた。

 指示が早い。判断も的確だ。


 さすがアル、あとで撫でてやろう。

 だが、今は撫でている場合ではないが。


 銀角黒豹が結界にぶつかる。

 光の壁が揺れた。


 アルの眉がわずかに動く。


「リシェル、下がれ!」

「嫌だ」

「即答するな!」

「あの首輪を壊す」

「なっ、近づきすぎるな!」


 アルの声が飛んでくる。

 私は答えず、銀角黒豹へ歩く。


 銀角黒豹は私に気づき、金色の瞳を向けた。

 とても苦しそうだ。


「大丈夫だ」


 私は低く言った。


「お前を傷つけない」

「グルル……!」


 銀角黒豹が唸る。

 私の声はまだ届いていない。


 痛みの中にいる者に、言葉だけで安心しろと言うのは難しい。

 私はさらに近づいた。


「リシェル!」


 アルの声が少し強くなる。

 銀角黒豹が飛びかかってきた。


 黒い巨体が、視界を覆う。

 鋭い前脚が、私へ振り下ろされる。


「きゃぁぁ!」


 見ている女生徒の悲鳴が上がった。

 私は片手を上げた。


 銀角黒豹の前脚を、掌で受け止める。

 重い衝撃が腕に響いた。


 足元の地面に亀裂が走る。

 だが、それだけだ。


 押し潰されるほどではない。

 前世で受けてきた攻撃に比べれば、ずいぶん可愛い。


 銀角黒豹の金色の瞳が、わずかに揺れた。

 驚いているのだろうか。


 私はその前脚を押し返さず、ただ支えた。


「大丈夫だと言ったはずだ」


 ゆっくりと魔力を流す。

 薄く、柔らかく。


 乱れた魔力の流れに沿わせるように。

 銀角黒豹の唸り声が、少しだけ弱くなる。


 その隙に、私は首輪を見る。

 黒い首輪には、いくつもの術式が重ねられていた。


 小型魔獣たちにつけられていた紐より複雑だ。

 大型魔獣用に強化されているのだろう。


 だが、雑だ。

 魔力を流す方向が強引すぎる。


「本当に、雑だな」


 私は空いている手を首輪へ伸ばした。

 銀角黒豹がまた唸る。


「グル……」

「怖がるな」


 私は静かに言う。


「それを壊すだけだ」


 指先で術式の芯を探る。

 壊すだけなら簡単だ。


 ただし、乱暴に壊せば銀角黒豹にも反動がいく。

 だから、術式の流れを一つずつ外す。


 拘束。痛覚刺激。魔力妨害。命令強制。

 くだらないものばかりだ。


 私はその中心を掴む。


「砕けろ」


 指先に魔力を込めた。

 黒い首輪に亀裂が走る。


 次の瞬間、首輪は細かく砕けて地面に落ちた。

 銀角黒豹の身体から、余計な力が抜ける。


 荒れていた魔力が、少しずつ静まっていく。

 まだ警戒はしている。


 だが、もう暴れようとはしていない。

 私は受け止めていた前脚を、そっと地面へ下ろした。


 そして、その場に膝をつく。

 目線を少し下げる。


「もう大丈夫だ」


 銀角黒豹は低く唸った。

 私は手を差し出す。


「来るか?」


 銀角黒豹はしばらく私を見ていた。

 それから、ゆっくりと顔を近づける。


 私の手の匂いを嗅ぐ。

 金色の瞳が、少しだけ和らいだ。


 そして、額を私の手に押し当てた。

 周囲が大きくざわつく。


「懐いた……?」

「あの大型魔獣が?」

「さっきまで暴れていたのに……」


 私は銀角黒豹の額を撫でた。

 毛並みは滑らかで、温かい。


 大きい。とても大きい。

 そして、可愛い。


「お前も可愛いな」


 銀角黒豹が低く喉を鳴らした。

 悪くない音だ。


 アルが近づいてくる。

 表情は少し険しいが、声は落ち着いていた。


「本当に無茶をする」

「無茶ではない」

「片手で大型魔獣の攻撃を止めるのは、普通は無茶と言う」

「そうなのか?」

「そうだ」


 アルはため息をついた。

 だが、怒っているだけではない。


 少し安堵しているようにも見える。


「助けたかったんだ」

「……わかっている」


 その声は、いつもより少し優しかった。

 私は銀角黒豹を撫でながら頷く。


「大きいものも可愛いな」

「今それを言うか」

「大事なことだ」


 後ろの方で、ミーナが震えていた。

 怯えているのかと思ったが、目がきらきらしている。


「リシェル様……やっぱりすごいです……!」

「そうか」


 また反応に困る。

 私は銀角黒豹を撫でながら、ベッラの方を見た。


 ベッラは立ち尽くしていた。

 顔は青ざめ、唇が震えている。


 自分が見せびらかすために連れてきた魔獣。

 それが自分を拒み、今は私の手に額を預けている。


 その事実が、理解できないような顔だった。


 周囲の生徒たちの視線が、ベッラに向かう。


「ベッラ様、あの魔獣を苦しめていたの……?」

「さっき、躾ければいいって言っていたよね」

「危なかった……」

「リシェル様がいなかったら、怪我人が出ていたかも」


 小さな声が、いくつも重なる。

 ベッラは何か言いたそうに口を開いた。


 だが、言葉が出ない。

 代わりに、エドガーが慌てたように言う。


「こ、これは、その……商人が悪いのであって……!」


 誰も、それに頷かなかった。

 私はベッラを見る。


「お前は、この子を見せびらかす飾りだと思ったのか」

「ち、違うわ……」

「違うなら、なぜ怯えていることに気づかなかった」

「そ、それは……」


 ベッラは答えられない。

 私は銀角黒豹の額を撫でた。


 この子は、ずっと怯えていた。

 ずっと苦しんでいた。


 それなのに、ベッラは珍しいかどうかしか見ていなかった。


「珍しいから価値があるのではない。生きているから尊いのだ」


 ベッラの顔が歪む。

 悔しいのか。怖いのか。


 それとも、言い返せないことが嫌なのか。

 よくわからない。


 教師が厳しい顔でベッラに歩み寄った。


「ベッラ嬢。今回の件は、見過ごせません」

「で、ですが、私は……」

「危険な首輪を確認もせずに使用し、大型魔獣を暴走させかけた。生徒に怪我人が出るところでした。さらに、その魔獣を苦しめていた」


 教師の声は硬い。


「本日の実習は、あなたの参加を停止します。保護者にも連絡します。魔獣の所有権と契約権についても、学園側で確認します」


 ベッラの顔がさらに青ざめた。


「そんな……」

「エドガー・ナルティス」


 教師の視線がエドガーへ向く。

 エドガーは肩を跳ねさせた。


「は、はい」

「君も同席していたな。事情を聞く必要があります」

「ぼ、僕はただ……」


 言い訳をしようとして、エドガーは口をつぐんだ。

 周囲の視線がある。


 誰も彼を庇わない。


 私が助けた女生徒が、近くまで来た。


「あ、ありがとうございました……!」


 まだ少し震えている。

 だが、きちんと頭を下げた。


「怪我がなくてよかったよ」


 私が言うと、女生徒は目を潤ませて頷いた。

 周囲の生徒たちの視線が、少しずつ変わっていくのを感じた。


 前は、違った。

 私はベッラの妹で、妾の子で、地味な令嬢。


 そう見られていたのだろう。

 今は、何かが違う。


「やっぱりリシェル様はすごいです……!」


 ミーナが感極まったように言った。

 その声に、近くの生徒たちも小さく頷く。


「確かに……」

「あの魔獣に近づけるなんて」

「しかも、落ち着かせていたよね」

「すごい……」


 私は少し困った。


「……そうか」


 アルが横で小さく言う。


「また信者が増えそうだな」

「信者ではなく、いい子たちだ」

「全員いい子扱いか」

「違うのか?」

「……まあ、悪い子ではないが」


 アルはそう言って、砕けた首輪の破片を拾った。

 その表情が、少し真剣になる。


「同じ系統だな」

「あの時の紐と?」

「ああ。大型魔獣用に強化されているが、術式の組み方が似ている」


 やはり、同じか。

 教師も破片を見て、険しい顔になった。


「こちらは学園で保管します。術式の解析も行いましょう」


 アルは頷く。


「偶然ではないな」


 私は銀角黒豹を撫でる。


「また、可愛いものを道具にした者がいるのか」


 腹立たしい。

 とても。


 銀角黒豹は、私のそばから離れようとしなかった。

 ベッラが震える声で言う。


「そ、それは……私の魔獣よ」


 だが、教師がすぐに止めた。


「今はあなたに近づけるわけにはいきません」

「……っ」


 ベッラは屈辱で顔を歪める。

 自分が自慢するために連れてきた魔獣。


 それが自分を拒み、私のそばにいる。

 エドガーも何も言えない。


 私は銀角黒豹の額を撫でた。


「お前もやはり可愛いな」


 銀角黒豹がまた低く喉を鳴らす。

 アルが横で呟いた。


「大型魔獣まで懐かせるのか」

「懐いたのか?」

「どう見てもな」

「そうか」


 それなら、嬉しい。

 ミーナが後ろで両手を握りしめていた。


「リシェル様……すごすぎます……」


 珍しい魔獣を連れてくれば、もう一度自分が中心に戻れる。

 そう信じていたベッラの目の前で、その魔獣は私の手に額を預けていた。



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