第14話 義姉と婚約者は策を考える
ベッラ・オーケソンは、学園の廊下を一人で歩いていた。
小型魔獣の事件から、数日が経った。
以前なら、彼女の左右には誰かがいた。
セリアがいて、ラウラがいて、ニナがいた。
ベッラが少し笑えば、彼女たちも笑った。
誰かを見下す言葉を口にすれば、それに同意した。
リシェルのことを話せば、当然のように同じ方向を見て、同じように嘲った。
けれど、今は誰もいない。
セリアたちは、小型魔獣の件で謹慎になった。
それだけではない。
彼女たちの家にも報告がいき、しばらく学園に顔を出すこともできないらしい。
もちろん小型魔獣の事件は、ベッラ自身が命じたわけではない。
あの子たちが勝手にやったことだ。
自分は関係ない。
なのに、周囲の目は変わった。
廊下を歩くと、生徒たちがちらちらとこちらを見る。
「あの小型魔獣の件……」
「ベッラ様の周りの方たちでしょう?」
「本人は関係ないらしいけれど……」
はっきりと責められているわけではない。
だが、声を潜めて噂されているのはわかる。
それが、腹立たしかった。
「私がやったわけじゃないのに……」
小さく呟いても、その言葉に頷く者はいない。
ベッラは唇を噛んだ。
何もかも、気に入らない。
特に、リシェルだ。
ふと中庭の方へ視線を向けると、ちょうどリシェルの姿が見えた。
リシェルは、アルヴィン・ルンドホルムと並んで歩いていた。
その少し後ろには、下級生の少女もいる。
ミーナ・ロセッティ。小型魔獣の件で証言した生徒だ。
そのミーナが、リシェルを見上げるようにして、何かを嬉しそうに話している。
リシェルはそれに淡々と答えていた。
そして、アルヴィンは当然のようにリシェルの隣にいる。
その光景を見て、ベッラの胸がざわりとした。
アルヴィン・ルンドホルム。公爵家の嫡男。
銀の髪に青い瞳を持つ、学園でもっとも目立つ生徒の一人。
成績も魔法も優秀で、誰もが遠くから見ているような存在。
そんな彼が、リシェルの隣を歩いている。
〈なんで、どうして、あの子が……!〉
ベッラは奥歯を噛みしめた。
リシェルは以前と違う。
少し前まで、あの子はいつも下を向いていた。
背中を丸めて、声も小さく、ベッラが何か言えばすぐに顔を伏せた。
その姿を見ると、ベッラは安心できた。
自分の方が上だと、確認できたからだ。
けれど、今のリシェルは違う。
背筋が伸びている。顎を引き、まっすぐ前を見ている。
周囲の視線など気にしていない。
まるで、自分がそこに立つのは当然だとでもいうように。
それが、腹立たしいほど様になっていた。
ベッラはそこで気づいた。
リシェルは、自分より背が高い。
今まで、そんなことを意識したことはなかった。
いつも背中を曲げていたから。いつも下を向いていたから。
ベッラは、自分の方が上から見ているのだと思っていた。
だが今、リシェルがまっすぐ立つと、視線の位置はベッラより高い。
ただそれだけのことが、たまらなく悔しかった。
あの子は、もともとあんな顔をしていただろうか。
整った顔立ち。落ち着いた目。静かな声。
以前は、怯えと卑屈さに隠れていたものが、今は表に出ている。
だが認めたくはない。
あの子に威厳なんてあるはずがない。
妾の子で、何もできなくて、いつもこちらの顔色を窺っていた義妹だ。
自分より上に立てるはずがない。
そう思うのに、見えてしまう。
悔しいことに、今のリシェルは堂々としていた。
ベッラが見ても怯えない。
言葉を向けても、必要以上に反応しない。
怒るわけでも、泣くわけでもない。
ただ、どうでもよさそうに扱う。
それが一番、腹立たしかった。
「……何なのよ」
ベッラは小さく呟いた。
自分は、リシェルの婚約者だったエドガーを手に入れた。
エドガー・ナルティス。
子爵家の嫡男で、顔立ちはそれなりに整っている。
家格は決して高くないが、学園ではそれなりに人気もあった。
リシェルから奪うには、ちょうどよかった。
奪えば、リシェルは傷つくと思った。
悔しがると思った。
けれど、今のリシェルはエドガーにほとんど興味を示さない。
それどころか、アルヴィンと懇意になっている。
エドガーとアルヴィンでは、比べるまでもない。
家格も、容姿も、実力も、立場も。
何もかも、アルヴィンの方が上だ。
そんなことは、ベッラにもわかっている。
わかっているからこそ、悔しかった。
自分がリシェルから奪ったものより、今リシェルの隣にいるものの方がずっと価値がある。
そう思ってしまうことが、許せなかった。
遠くにいるリシェルが笑った。
何かを言ったアルヴィンに対して、少しだけ口元を緩めている。
その表情も、以前のように怯えたものではない。
自然だった。
ベッラの胸の奥に、どす黒いものが広がる。
憎い。悔しい。どうにかしなければならない。
このままでは、本当にリシェルが自分より上にいるように見えてしまう。
それだけは、嫌だった。
その頃、エドガー・ナルティスもまた、苛立ちを抱えていた。
中庭の端で、彼はベッラを待っていた。
以前なら、リシェルに婚約破棄をちらつかせれば、それだけでよかった。
少し冷たくする。婚約の話を出す。
それだけで、リシェルは青ざめるはずだった。
自分を捨てないでほしいと、目で訴えてきたはずだ。
だが、最近のリシェルは違う。
婚約破棄を匂わせても、動揺しない。
むしろ、好きにすればいいと言わんばかりの態度を取った。
最初は、強がりだと思った。
どうせ後になれば泣きついてくる。
自分の婚約者という立場を失うのが怖くなって、謝ってくる。
だが、リシェルは来なかった。
それどころか、彼女はアルヴィンと一緒にいる。
学園の生徒たちは、それを噂していた。
「リシェル嬢、アルヴィン様と親しいらしい」
「婚約者がいるはずでは?」
「でも、エドガー様の方もベッラ様と……」
「どちらが先なのかしら」
その声を聞くたびに、エドガーの背中に冷たいものが流れる。
まずいと、そう思い始めていた。
婚約破棄をちらつかせていたのは、自分の方だった。
リシェルを下に見ていたのも、自分だ。
けれど今、婚約破棄が現実になって困るのは、自分の方かもしれない。
リシェルは妾の子とはいえ、オーケソン伯爵家の令嬢だ。
婚約者としては、決して悪くない。
それに、今のリシェルにはアルヴィンがいる。
アルヴィンが何かを言ったわけではない。
だが、公爵家嫡男と親しいというだけで、周囲の見方は変わる。
もし、エドガーが不誠実な婚約者だと見られれば。
リシェルを蔑ろにし、その義姉であるベッラと親しくしていた男だと思われれば。
評判に傷がつくのは、エドガーの方だ。
今まで、自分がリシェルを選ぶ立場だと思っていた。
彼女が自分に縋る側だと思っていた。
だが今は違う。
リシェルの方から切られるかもしれない。
そのことに気づいてから、エドガーの胸には焦りが生まれていた。
「遅いな」
彼が苛立ちながら呟いた時、ベッラがやって来た。
表情は険しい。いつものような余裕はない。
「どうなっているのよ」
ベッラは開口一番、そう言った。
「あの子、最近おかしいわ」
「それは僕も思っている」
エドガーは答えた。
「だが、君の取り巻きが問題を起こしたせいで、余計に面倒になっている」
ベッラの眉が吊り上がる。
「私は関係ないわ!」
「でも、周りはそう見ていない」
「……っ」
ベッラは言い返せなかった。
エドガーも苛立っている。
「それに、リシェルがアルヴィン様と親しくしているのも問題だ」
「そんなこと、わかっているわよ」
ベッラの声が尖る。
「あの子がアルヴィン様の隣にいるなんて、どう考えてもおかしいじゃない」
「おかしいかどうかではなく、実際にそうなっているんだ」
エドガーは周囲を気にしながら声を落とした。
「このままだと、婚約の件もまずい。僕が一方的に彼女を蔑ろにしたように見える」
ベッラは冷たく笑った。
「実際そうでしょう?」
「君がそれを言うのか?」
「私のせいにしないで」
二人の間に、ぎすりとした空気が流れる。
以前なら、二人はリシェルを下に見ていればよかった。
あの子は何もできない。あの子は自分たちより下だ。
そう言っていれば、気分がよかった。
だが今、その前提が崩れている。
だから、二人は互いに苛立ちをぶつけるしかなかった。
ベッラは中庭の方を見る。
遠くに、リシェルとアルヴィンの姿がまだあった。
アルヴィンが、小型魔獣を抱えた下級生に何かを言っている。
リシェルはその隣で、魔獣の頭を撫でていた。
その光景を見て、ベッラの中に一つの考えが浮かぶ。
「……魔獣」
「何だ?」
「アルヴィン様は、魔獣がお好きなのかもしれないわ」
エドガーは眉を寄せる。
「急に何の話だ」
「見ればわかるでしょう。リシェルは小型魔獣の件でアルヴィン様と近づいたのよ」
「それは……そうかもしれないが」
「なら、私だって同じようにできるわ」
ベッラの声に、少しずつ自信が戻っていく。
そうだ。
リシェルが魔獣で注目されたのなら、自分も魔獣で注目されればいい。
しかも、リシェルが相手にしているのは小型魔獣だ。
学園の厩舎にいる、どこにでもいるような小さな魔獣。
なら、自分はもっと珍しいものを用意すればいい。
美しくて、希少で、高価な魔獣。
それを連れていれば、アルヴィンの目もこちらへ向くはずだ。
エドガーは少し不安そうに言った。
「君は魔獣に詳しいのか?」
「詳しくなくても、珍しい魔獣を連れていれば目立つでしょう?」
「扱えるのか?」
「そんなもの、詳しい人に任せればいいわ」
エドガーは黙った。
だが、彼も焦っていた。
このままでは、リシェルが自分から離れていく。
しかも、アルヴィンの隣へ行ってしまう。
それだけは避けたい。
もしベッラがアルヴィンの興味を引ければ、リシェルとアルヴィンの距離を離せるかもしれない。
そして、リシェルも思い出すはずだ。
自分の婚約者は、エドガーなのだと。
「……普通の魔獣では駄目だ」
エドガーは言った。
「どうせなら、誰もが目を引くものがいい」
「わかっているわ」
ベッラは薄く笑う。
「珍しい魔獣を扱う商人くらい、探せば見つかるでしょう?」
「商人か」
エドガーはわずかに顔をしかめた。
小型魔獣の事件でも、商人の話が出ていた。
魔獣を大人しくさせる道具を渡した商人。
その噂は、すでに学園内にも流れている。
「その商人、大丈夫なのか?」
ベッラは鼻で笑った。
「問題があったのは、セリアたちの使い方でしょう。きちんと買えばいいだけよ」
「……そうか」
エドガーは完全には納得していなかった。
だが、反対もしなかった。
ベッラはリシェルの方を見る。
彼女はまだ、魔獣の頭を撫でている。
隣にいるアルヴィンは、何かを言いながらもそこから離れない。
その光景が、ベッラにはたまらなく不快だった。
自分はまだ負けていない。
リシェルが変わったのなら、自分は別の方法で上に立てばいい。
アルヴィンの視線を奪う。
リシェルよりも珍しく、美しく、価値のある魔獣を見せる。
そうすれば、また自分が中心に戻れる。
「見ていなさい、リシェル」
ベッラは小さく呟いた。
リシェルが魔獣で注目されたのなら、自分はもっと珍しい魔獣で注目されればいい。
それが、また自分たちの足元を崩す一歩になるとは、ベッラもエドガーもまだ気づいていなかった。




