第十一話 見ていた側
【mio_0912:戻れって言ってるの怖すぎw】
そのスクショを見た瞬間、ミオの顔から色が消えた。
事務所の中は静かだった。
青崎のスマホは、俺の手の中でまだ震えている。
ミオのスマホも鳴り続けている。
でも、誰もすぐには動けなかった。
「……これ」
ミオが小さく言った。
「私です」
声がほとんど息みたいだった。
俺はスクショを見る。
三年前のコメント欄。
画質は荒い。
でも文字は読める。
【mio_0912:戻れって言ってるの怖すぎw】
その下にもいくつかコメントがある。
《灰原またキレてる》
《空気悪》
《リョウくん困ってるじゃん》
《戻ったら配信終わるだろ》
軽い。
全部軽い。
人が死ぬ前のコメントとは思えないくらい軽い。
でも、たぶん当時はそうだった。
配信の中ではまだ事故じゃなかった。
ただの盛り上がりだった。
ただの空気だった。
「私、その配信見てました」
ミオはスマホを握ったまま続ける。
「リアタイじゃなくて途中からです。友達が送ってきて。なんか探索者が喧嘩してるって」
ミオの声は震えている。
でも、止まらない。
「その時、私まだ配信者じゃなくて。ただ見てるだけで。コメントも、そんなに考えてなくて」
そんなに考えてなくて。
たぶん、ほとんどのコメントはそうだ。
考えていない。
軽く打つ。
流れる。
忘れる。
でも、画面には残る。
「戻れって言ってるの怖すぎ、って」
ミオが自分のコメントを読む。
声が少し詰まる。
「私、書いてました」
青崎は何も言わない。
俺も何も言えなかった。
言葉を探す。
でも、どの言葉も少し違う。
怒ればいいのか。
許せばいいのか。
気にするなと言えばいいのか。
全部違う。
スマホが鳴る。
ミオの通知欄が流れる。
【白瀬ミオ、三年前に人殺し配信者を煽っていた?】
【死神の女、実は当時のアンチか】
【mio_0912は白瀬ミオ本人?】
速い。
いつも速い。
人の過去は掘られた瞬間に現在になる。
「違うんです」
ミオが言った。
すぐに言い直す。
「違わないです。書いたのは私です。でも、そんなつもりじゃなくて」
そこで止まった。
そんなつもりじゃなかった。
一番言ってはいけない言葉だと、自分で分かったのだと思う。
青崎が静かに言う。
「白瀬さん、今は投稿しない方がいい」
「でも」
「絶対に今は駄目です」
青崎の声は強かった。
燃えている最中の人間に向ける声だった。
さっきまで青崎自身が燃えていたのに、もう人の火元を見ている。
そういうところが本当に上手い。
ミオは唇を噛んだ。
「私、謝らないと」
「謝るのは必要です」
青崎が言う。
「でも、今すぐ一人で打つと、たぶん“そんなつもりじゃなかった”って書きます」
ミオが黙る。
図星だったのだと思う。
「それを書いた瞬間、もっと燃えます」
青崎は続ける。
「分かってますよね」
ミオは頷いた。
でもスマホから手を離せない。
俺は青崎のスマホを机に置いて、ミオの方へ手を出した。
「スマホ、預かります」
ミオが俺を見る。
目が赤くなっていた。
「嫌です」
「ですよね」
「見ない方がいいの分かってます。でも、見ないともっと怖いです」
「分かります」
「分かるんですか」
「めちゃくちゃ分かります」
言ってから、自分でも少し笑いそうになった。
燃えている人間同士の会話だった。
ミオはスマホを握ったまま、少しだけ笑いかけた。
でもすぐに顔が歪む。
「灰原さん」
「はい」
「怒ってますか」
難しい質問だった。
俺はミオを見る。
黒キャップは机に置かれている。
茶髪の毛先が汗で頬に張りついている。
動画で強い顔は今はただ不安そうな若い女の顔だった。
「分からないです」
正直に言った。
ミオの目が揺れる。
「怒っていいんですよ」
「怒っていいのは分かります」
「じゃあ」
「でも、怒れば楽になるわけでもないので」
ミオは黙った。
「三年前、あなたは見ていた側だった」
言うと、ミオの肩が小さく跳ねた。
「今は見られる側にいる」
俺は続けた。
「それだけだと思います」
「それだけ、ですか」
「それだけっていうか」
言葉を探す。
上手く言えない。
俺はいつもこういう時に言葉が足りない。
「俺もどこかでは見ていた側だったと思うので」
青崎が少しこちらを見る。
ミオも俺を見る。
「誰かの炎上とか、事故とか、謝罪とか。自分と関係ない時は、普通に見てたと思います。軽くコメントしたこともあると思います。覚えてないだけで」
覚えてないだけ。
それが一番怖い。
傷つけられた側は覚えている。
傷つけた側はだいたい覚えていない。
でもスクショは覚えている。
「だから怒ってないとは言えません」
俺は言った。
「でも、あなただけを怒るのも違う気がします」
ミオは下を向いた。
スマホがまた鳴る。
今度はDMだった。
画面に一瞬見えた。
【謝罪まだ?】
【人殺し配信者を叩いてたくせに利用して売名?】
【死神の女、最低】
ミオの指が震える。
「私、配信します」
ミオが言った。
「駄目です」
青崎が即座に止める。
「今やったら駄目です」
「でも、黙ってたら」
「黙ってる間も燃えます。でも喋ったらもっと燃える可能性がある」
「じゃあどうすればいいんですか」
ミオの声が少し大きくなった。
今まで抑えていたものが漏れた。
「すみませんって言えばいいんですか。そんなつもりじゃありませんでしたって言えばいいんですか。でもそれ、絶対駄目なんですよね。じゃあ何て言えばいいんですか」
青崎は黙った。
ミオは続ける。
「私、今まで散々、そういう謝罪見てきました。言い訳するなって思ってました。すぐ謝れって思ってました。黙るなって思ってました。でも自分がなると、何も分からない」
スマホの通知音が重なる。
部屋の中に、何人もの知らない人間がいるみたいだった。
「何を言っても違うんです」
ミオの声が震える。
「でも何も言わなくても違うんです」
それはよく分かった。
炎上した人間が立つ場所は大体そうだ。
どこに足を置いても熱い。
跳ねても燃える。
立ち止まっても燃える。
青崎がゆっくり息を吐いた。
「まず、事実だけ確認しましょう」
いつもの青崎だった。
空気を整えようとしている。
でも今回は、少し慎重だった。
「白瀬さん、そのアカウントはあなた本人ですか」
「はい」
「当時、何歳ですか」
「14です」
14。
その数字に俺は少し固まった。
三年前。
ミオは14歳だった。
俺は、そのコメントを書いた人間を勝手に大人だと思っていた。
いや、そもそも考えていなかった。
コメント欄の向こうに、年齢があると思っていなかった。
青崎も少しだけ目を伏せる。
「当時、灰原さんのことを知っていましたか」
「名前はその時初めて見ました」
「神谷リョウさんは?」
「友達が好きでした。私は詳しくなかったです」
「事故が起きた後、そのコメントは消しましたか」
「……消してません。忘れてました」
ミオの声が小さくなる。
「忘れてました」
それが一番本当なのだと思う。
青崎は頷いた。
「今、必要なのは言い訳ではなく事実です」
ミオは顔を上げる。
「事実?」
「はい。14歳の時に、軽い気持ちでそのコメントを書いたこと。事故後、そのことを忘れていたこと。今日それが掘り返されて、初めて自分の言葉が誰かを傷つける側にあったと分かったこと」
「それ、謝罪になりますか」
「謝罪の前段階です」
青崎は言う。
「いきなり許してもらおうとすると燃えます」
この人は本当に燃え方を知っている。
知りすぎている。
「許してもらうためじゃなくて、まずは自分が何をしたかを間違えずに言う」
青崎は続ける。
「それから謝る」
ミオは小さく頷いた。
でも、すぐにスマホを見る。
通知。
通知。
通知。
俺はそのスマホを見て言った。
「配信じゃなくて文章にしましょう」
ミオが俺を見る。
「文章?」
「配信だとコメント見ながら喋ることになる」
俺は言った。
「今のミオさんだと、たぶんコメントに反応します」
「します」
即答だった。
「するんだ」
「しますよ。絶対します」
ミオは少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「だから文章の方がいいです」
青崎も頷く。
「賛成です」
「でも、文章も切り抜かれますよね」
「されます」
俺は言った。
「でも、配信よりはマシです」
ミオはしばらく黙った。
そして、小さく頷いた。
「書きます」
青崎がノートパソコンを開く。
「ここで書きましょう。投稿前に確認します」
「添削されるんですか」
「されます」
ミオが少しだけ嫌そうな顔をする。
「謝罪文の添削って、最悪ですね」
「最悪ですね」
俺が言う。
青崎も頷く。
「でも、よくあります」
「あるんですか」
ミオが聞く。
「あります」
青崎は言った。
「謝罪文には、大体誰かの赤が入ってます」
「嫌な業界」
「配信者ですから」
「配信者を免罪符にしないでください」
ミオはそう言って少しだけ呼吸を整えた。
青崎が新規文書を開く。
白い画面。
点滅するカーソル。
ミオはキーボードの前に座った。
でも、すぐには打てない。
指が止まっている。
俺は隣に座る。
「代わりに打ちますか」
「それは嫌です」
「ですよね」
「自分で書かないと駄目なので」
そう言って、ミオは打ち始めた。
【三年前のコメントについて】
タイトルだけで手が止まる。
ミオが唇を噛む。
「重い」
「タイトルから重いですね」
「何なら軽いんですか」
「水について」
「怒りますよ」
「すみません」
青崎が少しだけ笑った。
ミオもほんの少しだけ笑った。
でもすぐ画面へ向き直る。
文章が少しずつ打たれていく。
【三年前の神谷リョウさんの事故配信で、私は「戻れって言ってるの怖すぎw」とコメントしていました。】
そこで止まる。
ミオの呼吸が浅い。
俺は何も言わなかった。
青崎も何も言わない。
次の文。
【当時の私は14歳で、配信の空気に乗って、軽い気持ちで書きました。】
ミオは打ったあと、自分で首を振った。
「軽い気持ちって言い訳っぽいですか」
「事実なら入れていいと思います」
青崎が言う。
「ただ、そのあとに“だから仕方ない”と読める文を続けない方がいい」
ミオは頷く。
次の文。
【軽い気持ちだったから許されるとは思っていません。】
俺は画面を見る。
悪くないと思った。
でも、俺が判断していいのか分からない。
ミオは続ける。
【事故のあと、そのコメントのことを私は忘れていました。今日、スクリーンショットを見て、自分が当時、画面の向こうの人間を何も考えずに見ていた側だったことを思い知りました。】
指が止まる。
ミオの目に少し涙が溜まっている。
「……これ、変ですか」
「変じゃないです」
俺は言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も正解分からないので」
ミオは少し笑った。
「ですよね」
青崎が画面を見ている。
「一つだけ」
「はい」
「“見ていた側”は良いです。ただ、“思い知りました”は少し自分の反省が中心に見えるかもしれません」
「じゃあ」
「“そのコメントが、灰原さんや関係者の方にどう見えるかを今日初めて考えました”くらいの方がいいです」
青崎の添削は的確だった。
怖いくらい。
ミオが修正する。
【今日スクリーンショットを見て、そのコメントが灰原さんや関係者の方にどう見えるかを初めて考えました。】
ミオが止まる。
「初めて、って最悪ですね」
「でも事実なんですよね」
「はい」
「なら、入れた方がいいと思います」
ミオは頷く。
文章は続く。
【今さら謝っても、その時のコメントが消えるわけではありません。神谷リョウさんの名前や事故を軽く扱う空気の中に、自分もいたことを認めます。】
俺はその文を見て少し息が止まった。
認めます。
その言葉が思ったより重かった。
ミオは最後に打つ。
【本当に申し訳ありませんでした。】
画面が静かになる。
短い文章だった。
でも、ミオは長い距離を走ったあとのように疲れていた。
「どうですか」
ミオが聞く。
俺と青崎は黙って画面を見る。
余計な言い訳はない。
でも、完璧でもない。
完璧な謝罪文なんてない。
「いいと思います」
青崎が言う。
「ただ、最後に一文だけ足してもいいですか」
「何ですか」
「今後、この件について配信で軽く扱わない、という文です」
ミオは頷く。
【この件について配信で軽く扱うことはしません。】
追加する。
ミオは画面を見たまま、しばらく黙った。
「投稿します」
誰も止めなかった。
ミオが投稿ボタンを押す。
それだけだった。
でも、押したあと、ミオの肩が少し落ちた。
スマホが鳴る。
すぐ反応が来る。
早すぎる。
《ちゃんと書いてる》
《14歳か……》
《でも忘れてたはきつい》
《謝っただけマシ》
《売名後に謝罪か》
《白瀬ミオ、見直した》
《許す許さないは灰原次第では》
最後のコメントに俺は少し困った。
許す許さない。
それを俺に渡されても、困る。
ミオが俺を見る。
「私、許されたいんですかね」
「俺に聞かれても」
「ですよね」
「たぶん、許されたいと思います」
俺は言った。
「普通に」
ミオは黙る。
「俺もそうです」
「灰原さんも?」
「許されたいですよ」
言ってから少しだけ笑った。
「誰に許されたいのか分からないけど」
ミオは下を向いた。
それから小さく頷いた。
「私も分からないです」
青崎のスマホが机の上で震えた。
俺が預かっていたスマホだ。
画面を見る。
また、脅迫アカウントからだった。
【いい子ぶるな】
続けてもう一通。
【全員同じだ】
さらに画像。
今度は霧島ハヤトの昔の投稿だった。
三年前の日付。
【神谷リョウ事故ったってマジ?配信者って命張っててすげーな】
俺は画面を見た。
霧島も見ていた側だった。
軽く言った側だった。
三年前の事故は俺だけの過去ではなかった。
青崎の始まりで。
ミオの古いコメントで。
霧島の軽い投稿で。
いろんな人間の小さな言葉に残っていた。
通知がまた鳴る。
【次は全員まとめて燃やす】
青崎が低い声で言った。
「相手は謝罪させたいんじゃない」
ミオが顔を上げる。
「じゃあ、何がしたいんですか」
青崎は画面を見る。
「配信者全員に三年前を返している」
その時。
俺のスマホにも通知が来た。
知らないアカウントからのDM。
【お前ら全員、リョウで伸びた】
その一文の下に動画リンクが貼られていた。
タイトルは、
【神谷リョウ追悼切り抜き集】
再生数はすでに増え始めていた。




