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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第99話 酒場組合長は、悪者にされることを嫌う

 西区の酒場組合長ロッソは、想像していたよりも大きな男だった。


 背が高いだけではない。肩幅が広く、首も太く、座っていても部屋の空気を一段重くするような存在感がある。


 年は四十を少し越えたくらいだろうか。濃い赤茶の髪を後ろで雑に束ね、顎には短い髭がある。上等な礼服ではなく、黒い厚手の上着に、少し磨きすぎた革靴。貴族の前に出るため最低限整えてはいるが、着慣れていないことはすぐにわかった。


 彼は王宮ではなく、西区職人組合の会議室へ来た。


 それも、リディアの希望だった。


 王宮に呼びつければ、相手は最初から身構える。

 酒場組合の問題を語るなら、西区の空気がある場所のほうがいい。


 会議室は、木の匂いがした。


 壁には古い工具が飾られ、長机には傷が多い。窓の外からは昼の西区の声が聞こえてくる。荷馬車の車輪、職人の笑い声、どこかで金槌を打つ音。


 ロッソは椅子に腰を下ろすと、リディアとアルベルトを交互に見た。


「で、宰相閣下と宰相夫人が、わざわざ酒場の親父を呼び出して何の話です」


 口調は丁寧ではない。


 だが、無礼とも少し違った。


 この男は、最初から下手に出る気がないのだ。


 リディアは、持参した資料を机の上に置いた。


「西区施療院へ夜間に向かえない方々について、聞き取りを始めました」


「聞いてますよ。最近、うちの界隈で妙な票を取ってるって」


「妙な票」


「“あなたが悪いと記録する票じゃありません”でしたかね」


 ロッソは、少し皮肉っぽく言った。


「ずいぶん変わった言い方だ」


「必要な言い方でした」


 リディアは静かに返した。


 ロッソの目が少し細くなる。


「それで、その票にうちの名前が出たってわけですか」


「酒場前を通りたくない、という項目が多く出ています」


 リディアは、あえて回りくどく言わなかった。


 ここで曖昧にすれば、余計に相手は疑う。


 ロッソは鼻で笑った。


「なるほど。酒場が悪いと」


「いいえ」


 即座に否定すると、ロッソの表情がわずかに動いた。


「酒場が悪いと決めたいのではありません。ですが、酒場前を通れない人がいることを、見なかったことにもできません」


 ロッソは、背もたれに体を預けた。


「うちの客をならず者扱いするのか」


「していません」


「でも、そう聞こえる」


「そう聞こえるのは、わかります」


 リディアは頷いた。


「だから、今日は酒場組合の方から話を聞きたいと思いました。西区の夜にとって、酒場がどういう場所なのかを知らずに制度を作れば、きっと間違えます」


 ロッソは少し黙った。


 すぐ反発されると思っていたのかもしれない。


 アルベルトは、リディアの隣で黙っていた。

 彼が口を挟まないことで、この場の最初の言葉はリディアに任されているのだと伝わる。


 ロッソは指で机を軽く叩いた。


「酒場は悪場所じゃありませんよ、奥様」


「はい」


「職人が一日の仕事を終えて、飯を食い、酒を飲み、少し愚痴を言う場所だ。荷運び人が体を温める場所でもある。夜番の連中が交代前に腹へ何か入れる場所でもある。誰も彼も、ただ騒ぎたいからいるんじゃない」


「はい」


「うちの店がなけりゃ、西区の連中は寒い路地で黙って帰るだけになる。家に火がないやつもいる。ひとりで飯を食いたくないやつもいる。そういう連中を、酒場は拾ってる」


 声には怒りがあった。


 だが、それだけではない。


 誇りもあった。


 ロッソは、自分たちの仕事を守ろうとしている。


 そのことがリディアにはわかった。


「その役割を否定するつもりはありません」


 リディアは言った。


「むしろ、西区の夜に必要な場所だと思います」


「なら、なぜ酒場前を問題にする」


「必要な場所であっても、通れない人がいるからです」


 ロッソの眉が寄る。


「それは、うちが悪いのか」


「悪いかどうかではなく、そこに妨げがあるという話です」


 リディアは資料を一枚開いた。


 聞き取り票の集計だ。


「この二日間だけで、酒場前を通りたくないと答えた方が複数います。理由はさまざまです。声が大きい。店先に人が溜まる。子どもを抱いていると避けにくい。高齢者には急に笑い声が上がるだけで怖い。荷馬車と酒場客が重なる時間帯は、道幅が狭く感じる」


 ロッソは資料を見た。


 字を追う目は鋭い。


「……客が笑うことまで止められませんよ」


「止めてほしいとは言いません」


「酒場の前で話すなとも言えません」


「それも理解しています」


「じゃあ、何を求めるんです」


 そこで、リディアは一度言葉を止めた。


 求めるもの。


 それを間違えてはいけない。


 酒場を敵にすれば、西区の夜道導線は壊れる。

 けれど、酒場側の事情ばかり尊重すれば、施療院へ行けない人たちはまた自分を責めることになる。


「まず、施療院へ向かう人が通りやすい時間帯を探したいのです」


「時間帯?」


「はい。酒場の営業を止めたいのではありません。ですが、施療院へ向かう人が比較的通りやすい“間”があるなら、そこを案内時刻として使えるかもしれません」


 ロッソは、少しだけ目を細めた。


「酒場の客が少ない時間を教えろと?」


「それだけではありません。客が店の外へ多く出る時間、荷馬車と重なる時間、店先が混む場所。それを知りたいのです」


「それを知ってどうする」


「施療院の案内と合わせます。たとえば、店先が混む前の短い時間に案内人を立てる。あるいは、特定の店の前だけ人が溜まらないよう、案内時刻の間だけ協力をお願いする」


「協力ね」


 ロッソは苦い顔をした。


「便利な言葉だ」


 リディアは、少しだけ息を吸った。


 確かに、協力という言葉は便利だ。


 そして、ときに一方的だ。


「無償で負担を押しつけたいのではありません」


 リディアは言った。


「協力が必要な場合、その内容を明確にします。店側にどんな手間がかかるかも記録します」


 そこでアルベルトが初めて口を開いた。


「酒場組合にだけ負担をかけるつもりはない。荷運び人組合、職人組合、施療院も同じ場に入れる」


 ロッソはアルベルトを見た。


「宰相閣下がそう言うなら、ただの酒場潰しじゃないのはわかりますがね」


「潰す気なら、ここへ来て話をしない」


 アルベルトの声は低く、簡潔だった。


 ロッソは一瞬黙り、それから口の端を少し上げた。


「そりゃそうだ」


 空気がほんの少し緩んだ。


 リディアは続けた。


「酒場前を通れない方々にとって、酒場は怖い場所に見えています。でも、西区で暮らす方々にとって、酒場は必要な場所でもある。どちらか一方だけを正しいことにはできません」


「綺麗なことを言う」


 ロッソは言った。


「でも、道は一つだ」


「だから、時間と使い方を分けたいのです」


「……なるほど」


 ロッソは腕を組んだ。


 すぐに納得したわけではない。

 けれど、話を切る気配は少し薄れた。


「店先の客引き声を少し抑える時間なら、考えられなくはない」


 彼はゆっくり言った。


「ただし、全部の店が従うとは限らない。うちは組合だが、店主はそれぞれ気が強い。客に外へ出るなと言えば、文句も出る」


「まずは試験として、協力できる店だけで構いません」


「施療院へ向かう者のため、という名目なら、数軒は聞くだろう。うちの界隈にも、世話になった者は多い」


 ロッソは机の上の資料を指で叩いた。


「だが、条件がある」


 リディアは顔を上げた。


「何でしょう」


「酒場だけを悪者にしないことだ」


 その声は、先ほどよりずっと真剣だった。


「報告書に“酒場が妨げ”と書かれたら、うちは終わりだ。客も店主も反発する。西区の夜が荒れる。施療院へ行く道どころじゃなくなる」


 リディアは静かに頷いた。


「報告では、“酒場が悪い”とは書きません」


「なら、どう書く」


「夜間通行を妨げる音環境、人の滞留、通路幅の圧迫、という形になると思います」


 ロッソは少し顔をしかめた。


「役人の言葉だな」


「はい。けれど、誰か一つを悪者にしないためには必要です」


 ロッソは、しばらくリディアを見ていた。


 やがて、ふっと息を吐く。


「奥様、あんた本当に変わってるな」


「最近、よく言われます」


「褒めてるかどうかはわからんぞ」


「それでも、受け取ります」


 リディアがそう答えると、ロッソは少しだけ笑った。


「いい度胸だ」


 アルベルトが横でわずかに目を細めた。


 リディアは気づかないふりをした。


 ロッソは、指を三本立てた。


「条件は三つ。ひとつ、酒場を名指しで悪者にしない。ふたつ、店側に求めることは試験期間と時間帯を区切る。みっつ、荷馬車と屋台も同じ場に呼ぶ。酒場だけが道を塞いでるわけじゃない」


「わかりました」


 リディアは頷いた。


「その条件で、次の協議を組みます」


「早いな」


「必要ですので」


「それ、宰相閣下みたいな言い方だな」


 ロッソが言うと、オスカーがほんの少し視線を下げた。


 笑いをこらえたのかもしれない。


 リディアは少し頬を熱くした。


「……屋敷でよく言われます」


 アルベルトは何も言わなかった。


 だが、少しだけ満足そうに見えた。


 会議が終わる前に、リディアはロッソへ一つ尋ねた。


「酒場側から見て、施療院へ向かう人が通りやすい時間はありますか」


「日没直後は駄目だ。客が入り始める。荷馬車もまだいる。夜半前も駄目だ。酔った客が増える」


「では」


「店が最初の客で落ち着く頃。荷馬車が一度引いた後。ほんの短い間がある」


 ロッソは窓の外を見た。


「長くはない。四半刻あるかないかだ」


「それでも、大切です」


「その時間に案内人を立てるなら、数軒には店先を空けるよう言ってみる」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い。試してからだ」


「はい」


 ロッソは立ち上がった。


 帰り際、彼は少しだけ振り返った。


「奥様」


「はい」


「酒場は騒がしい。だが、西区の夜から酒場の声が消えたら、それはそれで寂しい街になる」


 リディアは少し考え、頷いた。


「声を消したいのではありません。通れる隙間がほしいのです」


 ロッソは、一瞬だけ目を丸くした。


 それから、低く笑った。


「なら、隙間を探しましょうや」


 そう言って、彼は会議室を出ていった。


 扉が閉まったあと、室内に残った空気が少し変わった。


 張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んでいる。


 オスカーが記録を整えながら言った。


「思ったより、話が通じましたね」


「ロッソさんは、酒場を守りたかったのですね」


 リディアは答えた。


「悪者にされたくない。自分たちの役割を消されたくない。そこを見ないまま協力を求めたら、きっと失敗していました」


 アルベルトが頷いた。


「相手には相手の夜がある」


「はい」


「それを見た上で、妨げも見る」


「難しいですね」


「難しい」


 彼はいつものように、簡単だとは言わなかった。


 だから、リディアも安心できた。


 帰りの馬車で、リディアはロッソの言葉を思い返していた。


 酒場は騒がしい。

 だが、西区の夜から酒場の声が消えたら、それはそれで寂しい街になる。


 それも本当だ。


 西区の夜は、ただ危ないものではない。

 そこには働いた人々の食事があり、笑いがあり、疲れをほどく場所がある。


 けれど、その声の前で足を止める人もいる。


 どちらかを消すのではなく、隙間を探す。


 四半刻あるかないかの、夜の間。


 それが、次の鍵になりそうだった。


「旦那様」


「何だ」


「今日は、酒場を責めずに話せたでしょうか」


「ああ」


「でも、少し怖かったです」


「ロッソが?」


「いえ。相手の役割を認めると、こちらの線が弱くなるのではないかと」


 リディアは手元の手袋を見た。


「酒場にも理由がある。職人にも理由がある。荷運び人にも理由がある。そう考えると、施療院へ行けない人の困りごとが、どこかへ薄まってしまう気がして」


「薄めるな。分けろ」


 アルベルトは短く言った。


 リディアは顔を上げる。


「酒場の役割と、酒場前を通れない人の困りごとは別だ。どちらも事実として置けばいい」


「どちらも」


「ああ。片方を消す必要はない」


 リディアは、ゆっくり頷いた。


 北区でも、東区でも、南区でも同じだった。


 火を使う人と火を守る人。

 橋を渡れた人と引き返した人。

 新しい毛布と古い毛布。

 寄付者の成果報告と子どもの感謝を求めない線。


 分けること。


 それが、ずっと必要だった。


「分けて置く」


 リディアは小さく言った。


「はい。覚えておきます」


「君は忘れないだろう」


「そうでしょうか」


「書くからな」


 あまりに当然のように言われ、リディアは笑ってしまった。


「確かに、書きます」


「ただし、今は書くな。馬車が揺れている」


「また先に」


「予測できる」


 リディアは、素直にメモ帳をしまった。


 宰相家へ戻ると、エマが玄関で待っていた。


「本日はお早いお戻りでございますね」


「今日は会議だけでしたから」


 リディアが答えると、アルベルトがすぐ横から言った。


「精神的には疲れている」


「旦那様」


「事実だ」


 エマはすでに頷いていた。


「では、温かいお茶をご用意いたします。作業室ではなく、まず温室へ」


「先に報告を」


「オスカー様が記録をお持ちです」


 囲まれている。


 完全に。


 リディアは少しだけ抵抗する気配を見せたが、アルベルトに見られて諦めた。


「……温室へ行きます」


「いい判断だ」


 温室では、ブルースターが静かに咲いていた。


 リディアは長椅子に座り、茶杯を包んだ。


 外の光は少しずつ傾いている。


 西区では、そろそろ酒場が開き始める頃だろう。


 店先に声が出る。

 荷馬車が通る。

 施療院へ向かうか迷う人がいる。


 そのすべてを同じ紙に書くのは難しい。


 けれど、書かなければ見えない。


 アルベルトは少し離れた椅子に座った。


「泣くか」


「今日は泣きません」


「そうか」


「でも、胸は少し重いです」


「茶を飲め」


「はい」


 いつものやり取りに、リディアは少し笑った。


 茶を飲むと、本当に少し落ち着くのが悔しい。


「旦那様」


「何だ」


「ロッソさんは、悪い人ではありませんでした」


「ああ」


「でも、酒場前を通れない人がいることも、本当です」


「ああ」


「どちらも置いて、隙間を探す。……これが西区の仕事なのですね」


「そうだ」


「難しいです」


「なら、一人で抱えるな」


 リディアは、ふと顔を上げた。


 アルベルトは、いつものように淡々としている。


「酒場組合、荷運び人、職人組合、施療院、慈善局。全部使え」


「使う、ですか」


「制度は、一人で作るものではない」


 その言葉は、もう何度も形を変えて聞いてきた。


 けれど、そのたびに必要な場所へ届く。


「はい」


 リディアは頷いた。


「一人で抱えません」


「いい」


 少しだけ、胸が軽くなった。


 その夜、リディアはエレノアへ短い手紙を書いた。


 ――西区の酒場組合長と話しました。

 酒場は、施療院へ向かう人にとって怖い場所になることがあります。

 でも、西区で働く人にとっては、体を温め、食事をし、少し笑うための場所でもあります。

 どちらかを消すのではなく、通れる隙間を探すことになりました。

 人の困りごとは、ひとつの悪者を見つければ終わるものではないのだと、今日改めて思いました。


 そこまで書いて、少しだけ迷った。


 父に読まれる可能性もある。


 でも、エレノアには伝えたい。


 リディアは続けた。


 ――父上とのことも、きっと似ているのかもしれません。

 父上を悪者として閉じ込めれば楽かもしれない。

 でも、それだけでは見えないものもある。

 ただし、線は戻しません。

 相手の事情を見ることと、自分の線を消すことは違うのだと思います。


 書き終えて、封をした。


 白百合へ向かうブルースターの手紙。


 それが届くころ、西区の夜はまた別の声を持っているだろう。


 リディアは窓の外を見た。


 酒場の声も、施療院へ向かう人の足音も、同じ夜にある。


 その間に、誰かが通れる隙間を作る。


 それが次の仕事だった。

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