第98話 酒場前を避ける道は、暗すぎた
西区施療院の聞き取り票は、二日目の朝にも増えた。
初日は十二枚。
二日目の午前だけで、九枚。
数だけを見れば、王都全体を動かすにはまだ小さい。けれど、そこに書かれた内容は、リディアたちが西区を見るための輪郭を少しずつ濃くしていた。
酒場前を通りたくなかった。
荷馬車が多かった。
子どもを連れて歩けなかった。
夜間受付が開いているかわからなかった。
付き添いがいなかった。
裏道が暗かった。
そして、二日目の集計で特に目立ったものが二つあった。
ひとつは、酒場前を通りたくないこと。
もうひとつは、酒場前を避ける裏道が暗すぎること。
リディアは作業室の机に広げた地図を見ながら、しばらく黙っていた。
「大通りは明るい。でも、騒がしい」
彼女は地図の太い線を指でなぞった。
「裏道は静か。でも、暗い」
次に、細い線を辿る。
「どちらも、施療院へ続いているのですね」
オスカーが言った。
「はい。紙の上では」
リディアはそう答え、少しだけ眉を寄せた。
紙の上では、どちらも道だ。
けれど、人が夜に歩くとなると意味が違う。
大通りには灯りがある。酒場もある。人の目もある。荷馬車も通る。声も大きい。
裏道には人が少ない。酒場前を避けられる。けれど、灯りも少ない。角が多く、どこから誰が来るか見えにくい。
明るさだけでも、静けさだけでも、安心にはならない。
そのことを、西区は何度もリディアへ突きつけてくる。
「今日、裏道を見に行きたいです」
リディアが言うと、オスカーはすぐに予定表を確認した。
「昼間でしたら可能です。ですが、夜の様子とは違います」
「ええ。だから、まず昼に形を見る。夕刻の様子はまた別に」
「旦那様には?」
「もちろん、お伝えします」
そう言ってから、リディアは少しだけ苦笑した。
「伝えずに行けば、屋敷中から止められるでしょうから」
「間違いなく」
オスカーは真顔で頷いた。
作業室の扉の近くで茶器を整えていたエマも、当然のように言った。
「奥様がお一人で西区へ向かわれるようなことがあれば、玄関でお止めいたします」
「エマまで」
「当然でございます」
リディアは、小さく笑ってしまった。
以前なら、守られることを少し窮屈に感じたかもしれない。
今も、自由を奪われるのは嫌だ。けれど、これはそうではないとわかっている。
見に行くな、ではない。
見られる形を整えようとしている。
それはアルベルトがずっとしてくれていたことだった。
執務室へ行くと、アルベルトはすでに西区の報告書を読んでいた。
リディアが入る前に、話す内容を察していたような顔だ。
「裏道か」
第一声がそれだった。
リディアは少し目を瞬く。
「まだ何も言っていません」
「聞き取り票を見ればそうなる」
「さすがです」
「昼に見るだけなら行ける」
「ありがとうございます」
「ただし、夕刻確認は別日だ。今日、昼と夕刻を続けて見ると疲れる」
先に釘を刺された。
リディアは反論しかけて、やめた。
昨日の聞き取りで、思った以上に神経を使った。今日も同じように外へ出れば、疲れは残るだろう。
「わかりました。今日は昼の確認だけにします」
素直に答えると、アルベルトがほんの少しだけ眉を上げた。
「本当に成長したな」
「最近、それを言われることに慣れてきました」
「それも成長だ」
「そうなのですか?」
「ああ」
真顔で言われると、なぜか反論できない。
リディアは少し笑い、地図を示した。
「西区の裏道が、どう暗いのか見たいのです。ただ灯りが足りないのか。角が多いのか。家々の窓が外へ向いていないのか。助けを呼びにくいのか」
「全部だろうな」
「全部」
「西区の裏道は、昼間でも建物の影が濃い。夜はさらに視界が切れる」
アルベルトは地図の細い道を指した。
「ここは古い倉庫が多い。夜は閉じる。窓が少ない」
「つまり、外から見守られにくい」
「そうだ」
「では、灯りを置くだけでは足りませんね」
「足りない。灯りを置いても、人の目がなければ孤立する」
人の目。
昨日は、大通りの視線が足を止めると思った。
けれど裏道では、人の目がないことが怖さになる。
西区はややこしい。
視線が多すぎても歩けない。
視線がなさすぎても歩けない。
「難しいですね」
「ああ」
「でも、見ます」
「そのために行く」
短いやり取り。
それだけで、足元が少し定まった。
午後前、リディアたちは西区へ向かった。
同行したのは、リディア、アルベルト、オスカー、護衛二名、そして案内役のダリオだった。
昼の西区は、昨日の朝と同じくよく動いていた。
職人の声。
木箱を積む音。
屋台から漂う焼き玉ねぎの匂い。
荷馬車の車輪が石畳を叩く音。
しかし、酒場の前はまだ静かだった。扉は閉じている店が多く、看板の下には樽が置かれているだけ。昼のこの場所だけを見れば、なぜ夜に人が足を止めるのかわからないかもしれない。
ダリオは大通りの角で立ち止まった。
「ここが、聞き取りでよく出る酒場前です」
リディアは通りを見た。
道幅は十分ある。灯りを吊るす金具も残っている。施療院へ向かうには、確かにこの道が最短だ。
「昼は、問題が少なく見えます」
「そうでしょう」
ダリオは少し苦笑した。
「昼に来た役人は、だいたいそう言います。広いし明るい。何が問題なのかと」
「夜は」
「店が開けば、人が外に出ます。酔っている者もいる。喧嘩をするほどではなくても、声は大きい。女衆や年寄り、子ども連れは避けますね」
「避けた先が、裏道」
「はい」
ダリオは路地のほうを指した。
「こちらです」
その裏道に入った瞬間、空気が変わった。
昼なのに、少し暗い。
両側の建物が高く、道幅が狭い。窓はあるが小さく、ほとんどが板で閉じられている。倉庫の裏壁が続き、人の暮らしの気配が薄い。
大通りの喧騒が、一歩ごとに遠くなる。
静か。
だが、落ち着く静けさではなかった。
「……声が届きにくそうです」
リディアは呟いた。
ダリオが頷く。
「助けを呼んでも、大通りまでは聞こえにくいです。倉庫の中に人がいれば別ですが、夜は閉まります」
アルベルトが壁際を見た。
「灯りを置く場所も少ないな」
「ええ。吊り金具はほとんどありません。置き灯りならできますが、狭いので荷車が当てるかもしれません」
オスカーがすぐに記録する。
リディアは道の角を見た。
直線ではない。少し歩くたびに曲がる。
先が見えない。
昼でもそう感じる。
夜なら、もっとだろう。
「一人で歩くには、怖いですね」
リディアが言うと、ダリオは少し驚いたように彼女を見た。
貴族の女性が、はっきり怖いと言うとは思わなかったのかもしれない。
彼は少し間を置いて頷いた。
「はい。慣れていない人には、怖いと思います」
「慣れている方は?」
「慣れれば近道です。ただ、慣れている人間ほど、どこで足を速めるか知っています」
「足を速める場所があるのですね」
リディアはその言葉を拾った。
ダリオは苦笑した。
「あります。ここです」
彼は少し先の角を示した。
右へ曲がると、さらに細い通路があった。壁の一部が崩れ、雨水が溜まりやすいのか石畳に黒ずみがある。
「夜はここが特に暗い。足元も悪い。西区の人間は、ここだけ早足になります」
リディアはその場所を見つめた。
早足になる場所。
それは、地図には書かれていない。
だが、西区の人々の体には記録されている。
どこで息を詰めるか。
どこで足を速めるか。
どこで誰かと一緒に歩きたいと思うか。
そうした情報こそ、聞き取らなければならないのだ。
「ダリオさん」
「はい」
「西区の方々に、足を速める場所を聞くことはできますか」
「できます。ただ、最初は笑われるかもしれません」
「なぜ?」
「そんなもの、みんな知っているだろう、と」
「でも、私たちは知りません」
リディアは静かに言った。
「それに、施療院へ来られない方の中には、西区に慣れていない人もいるでしょう。新しく住み始めた人、子ども連れ、耳や足が弱くなった人」
ダリオは、少し真面目な顔になった。
「そうですね。慣れている者の当たり前は、当たり前ではない」
「はい」
リディアはオスカーへ視線を向けた。
「聞き取り票に、新しい項目を足しましょう。足を速める場所、避けて通る角、できれば通りたくない場所」
「選択式では難しいですね」
「地図に印をつけてもらう形は?」
「施療院で簡易地図を用意できます」
オスカーはすぐに頷いた。
「ただし、地図が読めない方もいるので、聞き取り担当者が一緒に確認する形がよいでしょう」
「はい」
地図に印をつける。
それは、西区の見えない怖さを少しずつ紙に移す作業になる。
裏道をさらに進むと、小さな空き地に出た。
昼の光が少しだけ差し込んでいる。
そこには古い井戸があり、石の縁に座っている老人が一人いた。
ダリオが声をかける。
「じいさん、ここで休みか」
老人は顔を上げた。
「おう。昼はここが静かでいい」
昼は。
リディアは、その言葉を聞き逃さなかった。
「夜は違うのですか」
老人はリディアを見て、少し驚いたようにしたが、ダリオが頷くと答えた。
「夜は通らんよ。足元が見えん。若い頃ならともかく、この歳で転んだら終わりだ」
「施療院へ行くときも?」
「夜なら我慢するね。朝まで待つ」
「痛くても?」
「痛くても」
老人は当たり前のように言った。
「こんなところで転んで朝まで見つからないよりは、布団の中で痛いほうがましだ」
リディアは息を止めた。
布団の中で痛いほうがまし。
その選択を、この人はしている。
夜道が危ないから。
誰にも見つけてもらえないかもしれないから。
「ありがとうございます。教えてくださって」
リディアが礼を言うと、老人は少し照れたように鼻を鳴らした。
「礼を言われるようなことじゃない。年寄りの愚痴だ」
「愚痴ではありません。道の記録です」
老人は目を瞬いた。
「道の記録?」
「はい」
リディアはそう答えた。
「夜にどこが歩きにくいかを知るための、大切な記録です」
老人は、しばらくリディアを見ていた。
やがて、小さく笑った。
「変わった奥様だ」
その言葉に、オスカーが少しだけ反応したが、リディアは笑った。
「よく言われるようになりました」
「なら、ついでに書いといてくれ。あっちの角、雨が降ると滑る」
老人は井戸の向こう側を指した。
「昼でも滑る。夜ならなおさらだ」
「書きます」
オスカーがすぐ記録した。
裏道の調査は、思っていたより多くのことを見せた。
暗さ。
見通しの悪さ。
助けを呼びにくい静けさ。
雨の日の滑りやすさ。
吊り灯りを置く場所の不足。
倉庫が閉まることで、人の気配が消えること。
足を速める角。
夜は通らないと決めている老人。
大通りに戻ったとき、リディアは思わず深く息を吸った。
騒がしい。
だが、人の気配がある。
裏道から戻ると、その騒がしさが少しだけ安心にも感じられた。
けれど、昨日の女性や子ども連れの母親にとっては、この騒がしさが怖さになる。
同じ音が、人によって違う。
同じ道が、時間によって違う。
西区は、本当に複雑だった。
「結論は出そうか」
アルベルトが尋ねた。
リディアは首を横に振った。
「まだです」
「それでいい」
「ただ、裏道に灯りを置けば済む話ではないことはわかりました」
「ああ」
「大通りも、裏道も、それぞれ危うい。どちらか一つを正しい道にはできません」
「なら、選べる形にする」
その言葉に、リディアは頷いた。
「こちらでも行けます、ですね」
まだ正式な札にはしていない。
だが、その考えは西区に合っている気がした。
大通りだけが道ではない。
裏道だけが逃げ道でもない。
時間帯も、付き添いも、案内人も、選択肢になる。
西区に必要なのは、一つの正解ではなく、いくつかの行ける道なのかもしれない。
帰りの馬車の中で、リディアは調査メモを見ていた。
アルベルトがすぐに言う。
「休め」
「まだ昼のうちです」
「揺れる馬車で書くな」
「見るだけです」
「それも休め」
リディアは少しだけ唇を尖らせかけて、自分で気づいてやめた。
子どものようだ。
だが、アルベルトは少しだけ口元を緩めている。
「今、笑いましたか」
「少し」
「珍しいですね」
「君がわかりやすい顔をした」
「そんなに?」
「ああ」
リディアは頬が熱くなった。
それでも、メモは閉じた。
「わかりました。休みます」
「いい判断だ」
「成長しましたので」
「そうだな」
自然にそう返されることに、もう少し慣れてきた。
宰相家へ戻ると、リディアは作業室で最低限の報告だけを口頭で残した。
オスカーが記録を整理し、裏道調査の項目をまとめる。
新たに必要な調査は三つ。
足を速める場所の聞き取り。
裏道の滑りやすい箇所の確認。
吊り灯り・置き灯りの設置可能場所。
そして、大通り側については、酒場前の人の滞留と荷馬車の時間帯。
結局、どちらの道も見る必要がある。
夜、温室でリディアはブルースターを眺めていた。
今日は書類を持っていない。
少しだけ誇らしい。
アルベルトが入ってくると、まず手元を見た。
「持っていないな」
「はい」
「いい」
「褒められました」
「褒めた」
リディアは小さく笑った。
それから、昼に見た裏道のことを話した。
昼でも暗かったこと。
助けを呼びにくいこと。
老人が「布団の中で痛いほうがまし」と言ったこと。
雨の日に滑る角。
足を速める場所。
話しながら、胸が少し重くなった。
「裏道は静かでした。でも、安心ではありませんでした」
「ああ」
「静けさも、人を孤立させるのですね」
「そうだな」
「西区は、明るさと静けさの両方に気をつけないといけない」
「難しいな」
「はい」
リディアは茶杯を両手で包んだ。
「でも、少し見えました」
「何が」
「大通りを怖がる人に、裏道だけを示してはいけない。裏道を怖がる人に、大通りだけを示してもいけない。選べる形にすることが必要です」
「こちらでも行けます」
アルベルトが言った。
リディアは顔を上げる。
「旦那様も、その言葉を覚えていらしたのですね」
「使える言葉だからな」
「はい」
その言葉は、道のためだけではない。
人の生き方にも、きっと必要だ。
リディアは、自分が王太子妃候補ではない道を歩き始めたことを思った。
エレノアが、父の決める縁談だけではない道を探し始めていることも。
こちらでも行けます。
それは、とても静かで強い言葉だった。
「旦那様」
「何だ」
「西区の札に、いつかその言葉を入れたいです」
「まだ早い」
「はい。わかっています」
「だが、悪くない」
リディアは微笑んだ。
「かなりいい?」
「かなりいい」
その返事に、胸が温かくなる。
外は冬の夜だった。
西区の裏道は、今ごろ暗いだろう。
大通りは騒がしいだろう。
どちらかの道の前で、足を止めている人がいるかもしれない。
いつか、その人が選べる札を見つけられるように。
リディアは、明日もまた地図にないものを記録しようと思った。




