第100話 職人たちにも、夜を生きる理由がある
西区の夜を塞いでいるものは、酒場だけではなかった。
そのことを、リディアは頭ではわかっていた。
けれど、実際に職人組合と荷運び人組合の代表者たちが同じ部屋に集まると、その重みは紙の上で考えていたものよりずっと大きく感じられた。
会議の場所は、前回と同じ西区職人組合の会議室だった。
長机には傷が多い。
椅子も揃いではなく、背もたれの高さが少しずつ違う。
窓の外からは、荷車を押す音と、材木を下ろす低い声が聞こえてくる。
ここは王宮ではない。
綺麗に磨かれた床も、香を焚いた小サロンもない。
でも、リディアには、この場所のほうが西区の話をするには合っている気がした。
会議室には、すでに酒場組合長ロッソがいた。
相変わらず腕を組み、少し不機嫌そうな顔をしている。だが、前回ほど敵意はない。リディアが入ると、彼は顎を軽く引いた。
「宰相夫人。今日は大所帯ですな」
「ロッソさんの条件でしたから」
「言いましたっけね」
「はい。酒場だけでなく、荷馬車と屋台も同じ場に、と」
そう返すと、ロッソは低く笑った。
「覚えがいい」
「記録していますので」
「それも聞きました。何でも書く奥様だと」
「何でもではありません。必要なことだけです」
「なら、今日は必要なことが多い」
ロッソは視線を横へ流した。
そこには、職人組合の代表ダリオと、荷運び人組合の代表バスティアンが座っていた。
ダリオは以前から案内役として協力してくれている中年の職人で、がっしりした体つきながら、話し方は比較的穏やかだ。
一方、バスティアンは痩せていた。背は高いが、肩や腕の筋は硬く締まっており、長年荷を運んできた人間特有の無駄のない体つきをしている。目元は鋭く、口元には疲労が刻まれていた。
その隣には、屋台組合から来た小柄な女性もいる。名をマイラという。焼き豆とスープの屋台をまとめている人物らしく、明るい色の頭巾を巻いていた。
そして、施療院からは院長と受付係ミラベル。
慈善局の西区担当官。
リディアの隣には、アルベルトとオスカー。
狭い会議室に、それぞれの夜を背負った人たちが集まっていた。
リディアは席につき、まず机の上に聞き取り票の集計を置いた。
「本日は、西区施療院へ夜間に向かう方々の妨げについて、皆様と話し合いたいと思います」
誰もすぐには答えなかった。
腕を組む者。
資料を見る者。
警戒する者。
それぞれが、自分の仕事を責められるのではないかと身構えている。
リディアは、その空気を急いでほどこうとはしなかった。
早すぎる笑顔は、かえって信用されない。
「最初に申し上げます。今日の会議は、誰か一つの組合を悪者にするためのものではありません」
ロッソが、わずかに眉を動かした。
「聞き取りでは、酒場前を通りたくないという声が多く出ました。同時に、荷馬車が多く通りづらい、屋台や荷物で道幅が狭くなる、裏道が暗い、施療院が夜に開いているかわからない、付き添いがいない、という声も出ています」
リディアは、集計表の項目を一つずつ指した。
「西区の夜は、一つの理由だけで通りにくいのではありません。いくつもの理由が重なって、施療院へ行く足を止めています」
バスティアンが低い声で言った。
「それで、荷馬車をどけろと?」
やはり来た。
リディアは彼を見る。
「荷馬車をすべて止めたいのではありません」
「止められたら困る」
バスティアンの声が少し強くなる。
「夜に運ばなきゃ、朝の市場に間に合わない荷がある。魚、野菜、薬草、布地、酒樽、材木。昼の道は混みすぎて、かえって運べない。うちの連中は、遊びで夜に馬車を動かしているわけじゃない」
「はい」
「荷が遅れれば、翌朝困るのは貴族様じゃなくて、まず市場の連中だ。店が開かない。飯が出ない。薬草が届かない。そういうことになる」
「承知しています」
「本当に?」
バスティアンの目が鋭くなる。
「紙の上で承知しているのと、実際に荷を待つ連中の顔を知っているのは違う」
会議室の空気が張った。
オスカーが少し姿勢を正したが、リディアは手で制した。
怒っているのではない。
彼は、自分たちの仕事を軽く扱われることを恐れている。
酒場のロッソと同じだ。
「私は、荷を待つ方々の顔を十分には知りません」
リディアは正直に言った。
バスティアンが、少しだけ虚を突かれたような顔をする。
「だから、今日ここでお聞きしたいのです。荷馬車を止めたいのではなく、どの時間に、どの道が、どれほど混むのか。施療院へ向かう方が通れる隙間があるのか。あるいは、作れるのか」
バスティアンは、まだ警戒を解いていない。
だが、話を聞く姿勢にはなった。
「隙間ね」
「はい」
リディアは頷いた。
「西区の夜から、酒場も荷馬車も職人の帰り道も消すことはできません。消すべきでもありません。でも、病人や子ども連れが通れる隙間は必要です」
マイラが、そこで小さく手を上げた。
「あの、屋台も少し言っていいかい」
「もちろんです」
「屋台は、酒場ほど大きな声は出さないよ。でもね、店を出す場所が悪いと道を狭くしてるのは本当だと思う。特に寒い日は、温かいスープに人が並ぶから」
「時間帯は?」
「日没直後と、酒場に入る前。あとは仕事帰りの職人が腹に入れてから帰る頃だね」
ロッソが横から言った。
「つまり、うちの客と被る」
「そうさ。あんたの店に入る金がない人も、うちでスープくらいは飲むからね」
マイラは肩をすくめた。
「それをやめろと言われたら困るよ。寒い夜に、屋台の湯気だけで助かる人もいるんだから」
リディアは、その言葉を静かに受け止めた。
屋台の湯気。
それもまた、灯りに似ている。
道を塞ぐこともある。
でも、誰かを温めることもある。
「やめてほしいとは言いません」
リディアは言った。
「ただ、施療院へ向かう道の入口を完全に塞がないよう、配置を調整できないか相談したいのです」
マイラは少し考えた。
「場所によるね。うちは動かせる屋台もあるけど、火を使うから風向きもある。スープをこぼして道を汚せば、それこそ滑る」
オスカーがすぐに記録する。
「屋台配置、火の向き、行列の向き、こぼれによる滑り」
「そんな細かいことまで書くのかい」
マイラが少し驚く。
オスカーは真顔で答えた。
「重要です」
リディアは頷いた。
「西区の道は、そういう小さなことが重なって通りにくくなっているのだと思います」
ダリオが腕を組み直した。
「職人側からも言わせてもらうと、仕事帰りに道を塞ぐつもりはない。ただ、道具を持って歩く連中は幅を取る。冬場は外套も厚い。声もでかい。耳が悪くなる仕事の者もいるから、自然と声が大きくなる」
「声の大きさも、仕事の影響なのですね」
「そうです。金槌や鋸の音の中で一日働いていると、普通の声が小さく感じる」
リディアは、はっとした。
大きな声。
それは、ただ乱暴だからではない。
仕事の音に慣れた人たちの声なのだ。
もちろん、それで怖がる人がいることは変わらない。
だが、意味が違って見える。
「ありがとうございます。そこも記録します」
ダリオは苦笑した。
「こんなことまで記録されるとは思わなかった」
「地図には書かれていませんから」
リディアが言うと、ダリオは少し目を細めた。
「確かに」
会議は、少しずつ具体的になっていった。
まず、日没直後は混む。
酒場が開き、屋台に人が並び、荷馬車が最後の搬入を行う。職人の帰路も重なる。
その時間に施療院へ向かう人は、もっとも足を止めやすい。
次に、日没から少し経った頃。
最初の客が酒場の中へ入り、荷馬車の第一波が引く。屋台の行列も少し落ち着く。
短いが、道に隙間ができる。
その後、夜半前。
酒場客が増え、酔った者が外へ出始める。再び通りにくくなる。
つまり、ロッソが前に言った通りだった。
ほんの短い、四半刻あるかないかの“間”がある。
「そこを使うしかないな」
アルベルトが言った。
全員の視線が彼に向く。
「酒場に客が入り、荷馬車が一度引き、屋台の列が切れる短い時間。その間に案内人を立てる」
バスティアンが眉を寄せた。
「荷馬車を完全に止めるのは無理だ」
「完全には求めない」
アルベルトは言った。
「ただし、その四半刻だけ、施療院前へ向かう角を空ける。搬入が必要な荷は、一本手前で止めるか、時間をずらす」
「ずらすには人手がいる」
「試験期間中は調整費を検討する」
バスティアンは少し目を見開いた。
「金が出るのか」
「必要ならな。ただし、記録を出せ。どの荷をどれだけずらし、どの程度の負担が出るか」
バスティアンは、しばらく黙った。
金だけではない。
自分たちの負担が“あるもの”として扱われたことに、少し驚いているようだった。
「……記録なら出せる」
彼は低く言った。
「うちの若いのは字が苦手だが、俺がまとめる」
「それでいい」
マイラも言った。
「屋台は、その時間だけ列を建物側へ寄せるようにできるかもしれない。火の向きは店ごとに確認するよ」
ロッソは腕を組んだまま、少し唸る。
「酒場は、店先に客を出すなとは言い切れん。ただ、案内時刻の間は、店の中へ入るよう声をかけるくらいならできる」
「客引き声は?」
「数軒には控えさせる」
「数軒」
「全部は無理だ。まずは施療院へ向かう角に近い店だ」
リディアは頷いた。
「試験としては十分です」
そこで院長が口を開いた。
「施療院側では、その時間に受付を強化します。案内人が来た場合、すぐ対応できるように」
「案内人は誰が出す」
ダリオが尋ねた。
「職人組合から若い者を二人なら出せる。ただ、毎日は無理だ」
「教会の見習いにも声をかけます」
院長が言った。
「ただし、案内人の負担も記録します」
リディアはすぐに言った。
「寒さ、声をかけられた回数、危険を感じた場所、休憩の有無。案内人が倒れては続きません」
ロッソが、じっとリディアを見る。
「奥様は、本当に何でも記録するんだな」
「支える人を消したくありません」
リディアが答えると、ロッソは少しだけ視線を逸らした。
「……そういうことなら、うちの店からも熱いスープくらい出せるかもしれん」
マイラがすかさず言う。
「酒場が出すなら、屋台も出すよ。ただし、無理はしない。毎日は無理」
「毎日でなくて構いません。試験日のみ、量を決めましょう」
オスカーが記録する手が、少し忙しくなってきた。
会議室の空気が変わっていた。
最初は、誰もが責められることを恐れていた。
酒場も、荷運び人も、屋台も、職人も。
だが今は、それぞれが自分の事情を置き、そのうえで少しずつ隙間を探し始めている。
リディアは、その様子を見ながら静かに息を吐いた。
これが、西区の仕事なのだ。
誰かをどかすのではない。
誰かの夜を奪うのでもない。
ただ、施療院へ向かう人が通れる間を作る。
それは、とても地味で、とても難しい。
だが、必要だった。
「では、まとめます」
リディアは立ち上がった。
「試験案内時刻は、日没後、酒場の最初の客が落ち着き、荷馬車の第一波が引いた後の短い時間とします。正確な時刻は、明日から三日間、酒場組合、荷運び人組合、屋台組合、施療院で確認します」
全員が聞いている。
「その時間帯に、施療院へ向かう角を可能な範囲で空ける。酒場は店先の滞留を控えるよう声をかける。屋台は列の向きを調整する。荷馬車は必要な範囲で一本手前に止める、または時間をずらす。施療院は受付を強化する。案内人の候補と負担記録を準備する」
言葉にすると、細かい。
華やかさはない。
だが、現実の道は細かいことで塞がる。
なら、細かいことで開けていくしかない。
「この試験は、誰か一つの組合に責任を負わせるものではありません。西区の夜を生きている皆様の仕事を残したまま、施療院へ向かう人の道を作るためのものです」
バスティアンが、低く言った。
「綺麗にまとめるな」
リディアは少しだけ苦笑した。
「綺麗に聞こえましたか」
「少しな」
「でも、実際はかなり面倒です」
そう答えると、バスティアンは初めて少し笑った。
「それなら本当だ」
ロッソも鼻で笑う。
「面倒なことをやるなら、最初からそう言えばいい」
「以後、そうします」
「いや、奥様は今のままでいい。面倒だが、悪くない」
悪くない。
その言葉に、リディアは思わずアルベルトを見てしまった。
アルベルトは何も言わなかったが、少しだけ目元が動いた。
会議が終わったあと、ロッソがリディアのそばへ来た。
「宰相夫人」
「はい」
「今日の話、酒場の連中にそのまま持っていく。全員が素直に聞くとは思わん」
「はい」
「でも、施療院へ行けないやつがいることは話す。うちの客にも、家族が世話になっている者がいるからな」
「ありがとうございます」
「礼は試験が終わってからにしろ」
「では、そのときに」
リディアが答えると、ロッソは少し顔をしかめた。
「本当に真面目だな」
「よく言われます」
「だろうな」
それだけ言って、彼は会議室を出ていった。
帰りの馬車で、リディアは少し疲れていた。
会議の内容が多すぎた。
酒場、荷馬車、屋台、職人、施療院、案内人、調整費、試験時刻。
頭の中で、いくつもの線が絡み合っている。
「疲れたか」
アルベルトが聞いた。
「はい」
今日はすぐに認めた。
「でも、少し進んだ気がします」
「ああ」
「誰も、自分たちの夜を奪われたくないのですね」
「当然だ」
「職人にも、荷運び人にも、酒場にも、屋台にも、夜を生きる理由がある」
リディアは窓の外を見た。
まだ夕方前だが、西区はすでに夜の準備を始めている。
樽を運ぶ男。
スープ鍋を磨くマイラの屋台。
荷馬車の車輪を点検する若者。
酒場の扉を開ける店主。
彼らもまた、誰かの困りごとの原因である前に、生活者なのだ。
そのことを忘れると、制度は乱暴になる。
「でも、施療院へ行けない人の声も消せません」
「消す必要はない」
アルベルトは答えた。
「両方置け」
「はい」
「そして、時間を分ける」
「夜の間、ですね」
「まだ仮の言葉だ」
「小冊子には?」
「まだ載せるな」
「わかっています」
リディアは少し笑った。
最近、自分でも先回りできるようになってきた。
宰相家へ戻ると、エマがすでに温かい茶を用意していた。
「本日は会議でかなりお疲れかと」
「どうしてわかるの?」
「旦那様から先に伝達がございました」
リディアはアルベルトを見た。
「いつの間に」
「馬車を降りる前だ」
「早いです」
「必要だった」
その言い方に、リディアは何も言えなくなる。
必要。
彼にとって、リディアが休むことも必要なことなのだ。
温室へ行くと、ブルースターが淡く揺れていた。
リディアは長椅子に座り、茶杯を包む。
今日は書類を持っていない。
持つ気力も、少し足りなかった。
「今日は書類を持っていません」
リディアが先に言うと、アルベルトは短く頷いた。
「いい」
「先に褒められる準備をしました」
「成長したな」
「それを言われるのも予想しました」
「なら、さらに成長だ」
リディアは笑ってしまった。
疲れているのに、笑える。
それが少し嬉しかった。
「旦那様」
「何だ」
「今日、皆の話を聞いていて思いました。私はまだ、王都のことを知らないのですね」
「ああ」
「知らないことばかりです」
「だから聞く」
「はい」
リディアは茶を一口飲んだ。
「知らないことを恥じるより、聞かないまま決めることを恥じたいです」
アルベルトは静かにこちらを見た。
「いい言葉だ」
「小冊子には?」
「まだ入れるな」
「やはり」
「だが、覚えておけ」
「はい」
温室の外で、冬の夕暮れが濃くなっていく。
西区では今ごろ、酒場の扉が開き、屋台の湯気が立ち、荷馬車が走り出す。職人たちが帰路につき、施療院へ向かう人はまた道の前で迷うかもしれない。
けれど近いうちに、その夜に短い隙間を作る。
四半刻あるかないかの、通れる間。
誰かの夜を奪わず、誰かの道を開くために。
リディアは、その小さな試験に向けて、静かに息を整えた。




