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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第101話 夜道には、広さより「間」が必要だった

西区の夜を調べるには、地図よりも時計が必要だった。


 そのことに気づいたのは、酒場組合、荷運び人組合、屋台組合、職人組合、施療院が同じ机についた翌日のことだった。


 道は、同じ場所にある。


 大通りも、裏道も、施療院へ続く角も、荷馬車が停まる広場も、地図の上では昨日と変わらない。


 けれど、時間が変わると道は別物になる。


 昼は通れる。

 夕刻は詰まる。

 日が落ちると騒がしい。

 夜が深まると、今度は酔った声が増える。


 リディアは、西区施療院の二階にある小さな控え部屋で、窓の外を見下ろしていた。


 今日は、夜道の時間帯観察の日だった。


 直接、通りを歩くわけではない。

 施療院の二階、職人組合の窓、そして酒場通りの角に置かれた見張り役が、それぞれ時間ごとの人の流れを記録する。


 リディア自身は、アルベルトとともに施療院に詰めていた。


 外へ出たい気持ちは少しあった。


 しかし、アルベルトに「今日の君の仕事は、歩くことではなく集めることだ」と言われた。


 その言い方があまりに実務的で、しかも正しかったので、反論できなかった。


 窓の外では、まだ夕刻前の西区が動いている。


 荷馬車が一台、軋む音を立てて角を曲がった。

 道具箱を背負った職人が三人、肩を並べて歩いている。

 屋台のマイラが、鍋を据える位置を少しずらしていた。


 昨日の会議の結果、屋台は試験的に、行列が道の中央へ伸びないよう向きを変えることになっている。


 たったそれだけ。


 けれど、実際に見ると、道の印象が少し変わる。


 人が並ぶ向きが変われば、空く場所が生まれる。

 空く場所が生まれれば、誰かが通れる。


 リディアは、小さなことの積み重ねを見ていた。


「奥様」


 受付係のミラベルが、控え部屋へ入ってきた。


 手には最初の時間帯記録がある。


「日没前の記録です。荷馬車が多いですが、酒場客はまだ少ないです。ただ、職人の帰り道と屋台の準備が重なっています」


「ありがとうございます」


 リディアは受け取り、机に広げた。


 記録表には、時刻ごとに項目が並んでいる。


 荷馬車数。

 店先滞留。

 屋台行列。

 職人帰路。

 施療院利用者。

 通行困難箇所。

 声の大きさ。

 見通し。

 案内人配置の可否。


 最初にこの表を見たダリオは、「声の大きさまで記録するのか」と笑った。


 だが、リディアは真剣だった。


 西区では、声も道を塞ぐ。


 まだ正式文にはしていない。

 だが、そういう感覚はもう現場の記録に入れなければならない。


 アルベルトが、表を覗き込んだ。


「日没前は、荷馬車が多いな」


「はい。職人の帰りとも重なっています」


「この時間は案内時刻に向かない」


「同感です」


 リディアは、地図の大通りに小さな印をつけた。


 赤ではない。

 強すぎる色は避けた。


 日没前は、荷馬車と職人帰路が多い。


 その程度の印だ。


 少しして、次の記録が届いた。


 日没直後。


 酒場の扉が開き始める時間だった。


 施療院の窓からでも、通りの空気が変わるのがわかった。


 夕方まで働いていた人々が、ただ帰るだけの顔ではなくなる。

 誰かと話す。

 笑う。

 店先で立ち止まる。

 屋台の湯気に引き寄せられる。


 悪いことではない。


 むしろ、一日の終わりに人が温かい場所へ向かうのは自然なことだ。


 だが、その自然な流れの中へ、具合の悪い人が子どもを抱いて入っていけるかというと、別の話になる。


 窓の下で、若い男たちが大きな声で笑った。


 誰かを笑ったのではない。


 たぶん、仲間内の冗談だ。


 それでも、その声が上がった瞬間、通りの端を歩いていた年配の女性が足を止めたのが見えた。


 彼女は少し迷い、屋台の列を避けるように裏道へ入った。


 リディアは胸の奥が重くなるのを感じた。


「今の方は、施療院へ?」


 隣にいたミラベルが窓の外を見て、首を横に振った。


「わかりません。ただ、よくある動きです。大通りを避ける方は、あの角で迷います」


「迷う角」


 リディアは呟き、地図に印をつけた。


 迷う角。


 正式な報告には、別の言葉で書くだろう。


 大通りから裏道への分岐点。

 酒場前回避のための迂回入口。

 通行者が停滞しやすい箇所。


 でも、今のリディアには“迷う角”という言葉のほうがしっくりきた。


 地図には、道の分岐しかない。


 けれど実際には、そこに心の分岐もある。


 通るか。

 避けるか。

 我慢して帰るか。


 その選択が、たった一つの角に詰まっている。


 日没直後の記録は、予想通り難しいものになった。


 酒場前滞留、多い。

 屋台行列、多い。

 荷馬車、まだ多い。

 職人帰路、多い。

 施療院利用者、少ない。

 通行ためらい、複数確認。


 リディアは表を見て、静かに頷いた。


「この時間は駄目ですね」


「ああ」


 アルベルトも同意した。


「人が動きすぎている」


「けれど、西区の人たちにとって必要な動きでもある」


「だから、止める時間ではない」


「はい」


 リディアは日没直後の欄に、細く線を引いた。


 ここは案内時刻にはしない。


 次に来たのは、日没から少し経った頃の記録だった。


 ロッソが言っていた時間。


 酒場の最初の客が店の中へ入り、荷馬車の第一波が引き、屋台の列も一度落ち着く。


 本当に、通りが少し変わった。


 声は残っている。

 酒場も開いている。

 屋台の湯気も立っている。


 だが、人が外に溜まっていない。


 道の中央に空きがある。


 施療院へ続く角の前に、初めて“通れそうな幅”が見えた。


 リディアは窓辺に近づきすぎないよう気をつけながら、外を見た。


 護衛が下にいる。

 案内役の候補として立っている職人組合の若者もいる。


 すると、一組の親子が大通りの端に現れた。


 母親らしい女性が、小さな男の子の手を引いている。男の子は片手で腹を押さえていた。


 彼女は酒場前で一瞬立ち止まった。


 だが、店先には人が溜まっていない。

 屋台の列も建物側へ寄っている。

 荷馬車も角の手前にはいない。


 案内役の若者が、少し離れた場所で手灯りを掲げた。


 強く声をかけるわけではない。

 ただ、施療院はこちらだとわかるよう、灯りを低く持つ。


 母親は、その灯りを見た。


 そして、歩き出した。


 リディアは、思わず息を止めた。


 親子は通りを渡り、施療院の入口へ向かってきた。


 扉が開く。

 ミラベルが階下へ降りる。

 受付の声が小さく聞こえる。


 リディアは、窓から離れた。


 見すぎてはいけない。


 今の親子は、記録のためにいるのではない。

 診てもらうために来たのだ。


 それでも、胸の奥が熱かった。


 今の時間なら、来られた。


 たぶん、いつもならためらったかもしれない親子が。


「通れました」


 リディアは小さく言った。


「一組だけだ」


 アルベルトは静かに返した。


「はい」


「だが、一組通れた」


「はい」


 その一組を、美談にしてはいけない。


 小冊子に親子の話を載せることはしない。

 感動的な言葉を求めることもしない。


 けれど、制度の根拠としては残す。


 日没後、四半刻未満の空白時間。

 酒場前滞留減少。

 荷馬車減少。

 屋台列調整。

 案内役の手灯り。

 子ども連れ一組来院。


 そこまでなら書ける。


 その数字と条件なら、次につなげられる。


 ミラベルが戻ってきたのは、しばらく後だった。


「先ほどの親子、診察に入りました。母親の方が、今日は通れそうだった、と」


 その言葉に、リディアは胸がさらに熱くなる。


 今日は通れそうだった。


 それも、公の報告にはそのまま載せない言葉だ。


 けれど、忘れてはいけない言葉だった。


「記録には、どう残しましょう」


 ミラベルが尋ねる。


 リディアは少し考えた。


「子ども連れ利用者一組、案内時刻候補内に来院。通行条件が来院判断に影響した可能性あり」


「わかりました」


 感情を削った文章だ。


 でも、それでいい。


 言葉を守るために、記録では条件を残す。


 それが最近のリディアのやり方になっていた。


 その後の時間帯は、また通りにくくなった。


 酒場客が外へ出始める。

 二軒目へ向かう者もいる。

 屋台の列も再び伸びる。

 荷馬車は減ったが、人の声が増えた。


 案内役の若者は、途中で肩をすくめるようにして外套を直していた。


 寒いのだろう。


 リディアは、すぐに記録票へ目を移した。


「案内人の寒さ欄、必要ですね」


「北区と同じだな」


 アルベルトが言う。


「はい。火を守る人も、道を案内する人も、支える側です」


 案内人が英雄であってはならない。


 まだその考えを言葉にするには早い。

 けれど、兆しはもう見えていた。


 案内人がいるから安心。

 案内人が頑張ればいい。

 そんなふうにしてしまえば、北区の灯火守りと同じ危うさが生まれる。


 支える側も記録する。


 それは絶対に必要だった。


 夜が深まる前に、観察は終了した。


 リディアたちは施療院の小部屋で記録をまとめることにした。


 机の上には、時間帯ごとの表が並ぶ。


 日没前。

 日没直後。

 日没後しばらく。

 夜半前。


 それぞれに、人の流れが違う。


 リディアは地図に四つの色で線を引いた。


 日没前は、荷馬車と職人帰路の線。

 日没直後は、酒場と屋台の線。

 日没後しばらくは、空白の線。

 夜半前は、酔客と声の線。


 地図が、少しずつ夜の地図になっていく。


 ダリオがそれを見て、感心したように言った。


「道って、こうして見ると動いているんですね」


「ええ」


 リディアは頷いた。


「道は止まっているのに、使う人で変わります」


 ロッソも会議後に顔を出していた。


 彼は腕を組んで地図を見下ろし、少しだけ口を曲げた。


「俺の言った“短い間”、あったでしょう」


「ありました」


「長くはない」


「はい。でも、確かにありました」


 リディアはその時間帯に小さく丸をつけた。


「ここを、試験的な案内時刻にしたいと思います」


 ロッソは唸る。


「四半刻あるかないかだ」


「それでも、通れる人がいます」


 施療院長が静かに言った。


「今日、子ども連れが来ました」


 ロッソの表情が少し変わった。


「……そうか」


「はい」


 院長は続ける。


「この時間を知らせられれば、来られる人が増えるかもしれません」


「案内人は?」


 ダリオが聞く。


「今日は一人でしたが、正式試行なら二人必要です」


 リディアは言った。


「一人は大通り側、一人は施療院入口近く。裏道側にも置くなら、さらに必要になります」


「三人はきついな」


 ダリオが眉を寄せる。


「毎日ではなく、試験日を決めましょう」


 オスカーが補足する。


「まずは三日。人員負担、利用者数、引き返し、案内人の体調を記録します」


 ロッソが言った。


「酒場側は、その時間だけ店先の滞留を減らす。全店じゃないぞ。角の近くだけだ」


「承知しています」


 マイラの屋台については、すでに列の向きの調整が効果を見せていた。


 荷馬車については、バスティアンから後ほど搬入時間の記録が届く予定だ。


 まだ全部は揃っていない。


 けれど、最初の間は見つかった。


 夜道には、広さより“間”が必要だった。


 ただ道幅が広いだけでは足りない。

 ただ灯りがあるだけでも足りない。


 人が通れる時間。

 声が少し落ち着く瞬間。

 荷馬車が引く間。

 店先に人が溜まらない隙間。


 そこを見つけることが、西区の第一歩だった。


 帰りの馬車の中で、リディアは静かに目を閉じていた。


 疲れていた。


 今日は、ずっと見ていた。


 道ではなく、人の流れを。


 歩く人、止まる人、避ける人、通れた人。


 そのすべてが、目の奥に残っている。


「疲れたな」


 アルベルトが言った。


 問いではなく、確認だった。


「はい」


 リディアは目を閉じたまま答えた。


「今日は少し、目が疲れました」


「目?」


「ずっと見ていたので」


「なら帰ったら温室ではなく、先に休め」


 リディアは目を開けた。


「温室も駄目ですか」


「茶だけならいい。記録は駄目だ」


「先に言われました」


「予測できる」


 その返答に、少し笑ってしまう。


 笑うと、目の疲れが少しだけ軽くなる気がした。


「旦那様」


「何だ」


「今日は、一組通れました」


「ああ」


「たった一組です」


「たったではない」


 アルベルトは静かに言った。


「条件が揃えば通れることがわかった」


 リディアは、その言葉をゆっくり受け取った。


「はい」


「それが今日の成果だ」


「成果報告に載せるなら」


「条件を書く」


「個人の言葉は載せない」


「そうだ」


 短いやり取り。


 もう何度も繰り返した線。


 けれど、繰り返すたびに少しずつ自然になっていく。


 宰相家へ戻ると、エマが玄関で待っていた。


「奥様、目元がお疲れでございます」


「そこまで見えますか」


「はい」


「冷やす布?」


「すでにご用意しております」


 リディアは、もう驚かなかった。


 屋敷全体が、自分より先に自分の疲れを見つけることにも、少しずつ慣れてきている。


「ありがとうございます」


「受け取ります、でございますか?」


 エマが真顔で言った。


 リディアは思わず吹き出しそうになった。


「エマまで」


「旦那様の影響でございます」


「屋敷中が旦那様に似ていきますね」


「奥様も含めて」


「否定できません」


 温室ではなく、自室で少し目を冷やしたあと、リディアは短い休憩を取った。


 本当に短い休憩ではなく、エマが言うところの「きちんとした休憩」だった。


 その後、温室へ行くと、アルベルトがすでにいた。


「休んだか」


「はい」


「本当に?」


「エマに見張られていました」


「なら本当だ」


 リディアは苦笑した。


 長椅子に座ると、ブルースターが静かに視界に入る。


 今日は、その青が少し目に優しかった。


「旦那様」


「何だ」


「夜道には、広さより間が必要なのだと思いました」


 アルベルトは、少しだけ目を細めた。


「いい言葉だ」


「小冊子には?」


「まだ早い」


「わかっています」


「だが、制度の核にはなる」


 リディアは頷いた。


「道を広げることは、すぐにはできません。でも、通れる間を作ることなら、少しずつできるかもしれません」


「ああ」


「誰かの夜を奪わずに」


「難しいがな」


「はい。とても」


 でも、今日一組が通れた。


 その事実が、胸の奥に灯っている。


 感動話にはしない。

 報告書にも、そのままの言葉では載せない。


 けれど、忘れない。


 リディアは茶杯を両手で包み、静かに息を吐いた。


 西区の夜には、まだ書かれていない足音がたくさんある。


 明日から、その足音が通れる間を探していく。

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