第102話 「夜の間」を知らせる札
西区の案内札が決まった翌日、リディアは別の紙と向き合っていた。
案内人の記録票。
施療院へ向かう人のための聞き取り票とは違う。
これは、道に立つ側のための票だった。
案内人候補は、三組から出る予定になっていた。
職人組合の若者。
教会の見習い。
施療院の夜間補助係。
酒場組合からは、店先の滞留を減らすための声かけ係が出るかもしれない。荷運び人組合も、試験時刻の前後だけ角を空けるため、搬入の調整役を置くことになっている。
西区の道を少し通りやすくするために、いろいろな人が動く。
それは心強いことだった。
だが、リディアは同時に、そこに危うさも感じていた。
北区の灯火守りのことを思い出す。
火を守る人が倒れれば、火は続かない。
あのとき、リディアは利用者数だけでなく、灯火守りの体調欄を記録へ入れた。支える側の疲れを見なければ、制度は美談の陰で人をすり減らしてしまう。
西区も同じだ。
夜道案内人を「勇敢な若者たち」と呼ぶことは簡単だった。
暗い道に立ち、具合の悪い人や子ども連れを施療院へ導く。
その姿は、きっと美談になる。
けれど、美談になった瞬間、案内人は休みにくくなる。
寒いと言えなくなる。
怖いと言えなくなる。
疲れたから交代してほしいと言えなくなる。
それではだめだ。
案内人は、英雄であってはならない。
支える人であり、支えられるべき人でもある。
リディアは白紙の上に、ゆっくり項目を書いた。
担当者名。
担当時間。
担当場所。
気温。
外套・手袋の有無。
休憩の有無。
声をかけた人数。
案内した人数。
引き返し。
危険を感じた場所。
寒さ。
怖さ。
疲労。
次回も担当可能か。
そこまで書いて、ペンを止めた。
怖さ。
記録票に入れるには、少し直接的すぎるだろうか。
案内人が若い男性中心なら、怖いと書きづらいかもしれない。
だが、書きづらいからこそ項目にする必要がある気もした。
リディアは、少し考えて表現を変えた。
――不安を感じた場面。
これなら、少し答えやすいかもしれない。
オスカーが向かいから票を覗き込み、静かに言った。
「かなり細かいですね」
「細かすぎますか?」
「いいえ。必要だと思います。ただ、案内人本人が書くには負担になるかもしれません」
「では、担当終了後に、施療院の受付か組合担当者が聞き取る形にしましょう。長くならないように」
「一人につき数分ですね」
「はい。寒い中で担当したあと、長く書類を書かせるのは違います」
オスカーが頷き、票の横に「終了後聞き取り式」と記す。
エマが茶を置きながら、紙面をちらりと見た。
「奥様、寒さの欄は段階にされてはいかがでしょう」
「段階?」
「“少し寒い”“かなり寒い”“手がかじかむ”“続けるのが難しい”など。言葉が用意されていれば、答えやすいかと」
リディアは顔を上げた。
「エマ、それはとてもよいです」
「恐れ入ります」
「確かに、寒いかどうかを自由に書けと言われるより、選択肢があるほうが言いやすいですね」
リディアはすぐに書き足した。
寒さ。
一、問題なし。
二、少し寒い。
三、手足が冷える。
四、続けるのが難しい。
五、次回は防寒具が必要。
少し迷って、「問題なし」を最初に置いた。
不満を言わせるための票ではない。
状態を正しく知るための票だ。
疲労も同じようにした。
一、問題なし。
二、少し疲れた。
三、立ち続けるのがつらい。
四、休憩が必要。
五、次回の担当は難しい。
不安を感じた場面。
一、特になし。
二、声をかけられて困った。
三、酔客が近くにいた。
四、荷馬車との距離が近かった。
五、暗い場所があった。
六、その他。
書いているうちに、リディアの胸が少し重くなった。
案内人は、ただ立っていればよいわけではない。
寒さに耐え、道を見て、人に声をかけられ、時には酔客のそばに立つ。
それを「勇敢」の一言にしてしまえば、細かな負担は消えてしまう。
消してはいけない。
「旦那様にも見ていただきましょう」
リディアは立ち上がった。
執務室へ行くと、アルベルトは財務局からの試算を見ていた。
西区の荷馬車調整費の件だろう。机には、荷運び人組合から出た搬入時間の表もある。
リディアが入ると、彼はすぐに顔を上げた。
「案内人の票か」
「はい」
「見せろ」
もう会話が早い。
リディアは少し笑いそうになりながら、票を差し出した。
アルベルトは一項目ずつ確認した。
目の動きが止まったのは、「次回も担当可能か」のところだった。
「これは入れていい」
「はい。無理に続けさせないために」
「“可能”だけではなく、“条件付きで可能”を入れろ」
「条件付き」
「防寒具があれば可能。二人組なら可能。時間が短ければ可能。場所が変われば可能」
リディアは、すぐに頷いた。
「確かに。可能か不可能かだけでは、続けるための改善が見えません」
アルベルトは票の下に短く書いた。
――次回担当。可能/条件付きで可能/不可。条件欄。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「受け取る」
早い。
だが、もう驚かない。
リディアは微笑んだ。
「それから、案内人をどう紹介するかも考えなければなりません」
アルベルトは顔を上げた。
「英雄にするな」
「やはり、そう思われますか」
「ああ。英雄にすると休めなくなる」
同じことを考えていた。
リディアは胸の奥が少し温かくなった。
「案内人は、“夜道を支える担当者”として扱います。勇敢、献身、守護者、そういう言葉は避けたいです」
「避けろ」
「ファーネル侯爵夫人あたりが、きっと美しく呼びたがりますね」
「呼ぶだろうな」
「その前に、こちらの言葉を作ります」
リディアは紙の隅に書いた。
夜道案内担当
少し硬い。
だが、それでいい。
花を飾りすぎない。
人を飾りにしない。
西区の案内人も同じだ。
「夜道案内担当、でよろしいでしょうか」
「妥当だ」
「かなりいい?」
「普通にいい」
「普通」
思わず聞き返すと、アルベルトは真顔で言った。
「名前としては普通でいい」
リディアは少し笑ってしまった。
「確かに。名前が目立ちすぎてはいけませんね」
「そういうことだ」
午後、リディアたちは西区職人組合へ向かった。
今日は案内人候補たちへの説明会だった。
会議室には、若者が五人集まっていた。
職人組合から三人。
教会の見習いが一人。
施療院の夜間補助係が一人。
いずれも十代後半から二十代半ばほどだろう。若いが、子どもではない。西区の夜にもそれなりに慣れている顔だった。
しかし、貴族の女性が説明に来ると知って、どこか落ち着かない様子でもある。
その中で、職人組合の一人が最初に口を開いた。
「俺たち、道に立ってればいいんですよね」
軽い調子だった。
けれど、その声には少し誇らしさが混じっている。
役に立てる。
頼られる。
もしかすると、周囲から褒められる。
その期待もあるのだろう。
リディアは、まっすぐ彼らを見た。
「道に立つだけではありません。立っている間、自分の体調と周りの状況も見てください」
若者たちは顔を見合わせた。
「体調?」
「はい」
リディアは案内人記録票を机に置いた。
「担当後に、寒さ、疲れ、不安を感じた場面、危険箇所を聞き取ります」
教会の見習いが驚いたように言った。
「俺たちも記録されるんですか?」
「はい」
「案内される人だけじゃなく?」
「支える人も見ます」
リディアは静かに答えた。
「あなたたちが倒れたり、無理を重ねたりすれば、この仕組みは続きません。ですから、案内人を英雄のように扱うつもりはありません」
英雄。
その言葉に、若者たちの表情が少し変わった。
おそらく、そういうものを少し期待していた者もいただろう。
リディアは続ける。
「寒いなら寒いと記録してください。怖いと感じた場面があれば、それも記録してください。疲れたなら、次回の条件を変えます。交代が必要なら交代します。言いづらいことほど、票に入れます」
職人組合の若者が、少し眉を寄せた。
「怖いって書くのは、ちょっと」
「“不安を感じた場面”という項目にしています」
「ああ、それなら……まあ」
彼は少し照れたように頭を掻いた。
「でも、俺らがそんなこと言ったら、頼りないって思われませんか」
「思いません」
リディアは、はっきり言った。
「不安を感じた場所があるなら、そこは案内人にとっても利用者にとっても危険な場所です。あなたが記録することで、次に立つ人も、通る人も助かります」
若者は黙った。
その隣にいた施療院の夜間補助係が、小さく頷いた。
「それなら、書きやすいです」
リディアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
今度は、ダリオが若者たちへ言った。
「いいか、格好つけて寒くないとか言うなよ。倒れたら余計に迷惑だ」
言い方は荒いが、効果はあった。
若者たちの何人かが笑った。
「親方、それはひどい」
「本当のことだ」
ダリオは腕を組む。
「案内人が倒れたら、俺が怒られる」
「そこですか」
「そこだ」
会議室に少し笑いが生まれた。
張り詰めていた空気が、少しほどける。
リディアは、その笑いを邪魔しなかった。
支える人たちにも、笑える余白が必要だ。
そのあと、実際の配置について説明した。
大通り側に一人。
施療院入口近くに一人。
試験初日は職人組合と施療院補助係から。
二日目は教会見習いを加える。
担当時間は四半刻を超えない。
前後に必ず暖を取る。
防寒具は事前に確認する。
手灯りは高く掲げすぎない。
相手を急かさない。
声をかけるときは、「施療院はこちらです」と短く。
若者の一人が尋ねた。
「具合悪そうな人を見つけたら、腕を引いていいんですか」
「基本的には、勝手に触れないでください」
リディアは答えた。
「相手が支えを求めた場合は別ですが、まず声をかけます。無理に連れていくのではなく、道を示すのが仕事です」
「連れていくんじゃなくて、示す」
「はい」
「こちらでも行けます、って札と同じですか」
その言葉に、リディアは少し驚いた。
もう案内札の話が候補者たちにも伝わっているらしい。
「その通りです」
彼女は頷いた。
「こちらへ来なさい、ではありません。こちらでも行けます、と伝える仕事です」
若者たちは、それぞれ考えるように黙った。
教会の見習いがぽつりと言った。
「それ、難しいですね」
「はい」
リディアは答えた。
「難しいです」
簡単な仕事だとは言わない。
英雄扱いもしない。
ただ、必要な仕事だと伝える。
「だから、記録します。一人に背負わせないために」
その言葉に、何人かが静かに頷いた。
説明会の最後に、ロッソが顔を出した。
酒場組合長は、会議室の入口にもたれながら若者たちを見回した。
「お前ら、案内人になったからって偉そうに酒場の客へ説教するなよ」
若者の一人が笑う。
「しませんよ」
「あと、酔っぱらいに絡まれたら、正面からやり合うな。店の者を呼べ。うちも試験時間は気をつける」
リディアは少し驚いてロッソを見た。
彼は視線を逸らしながら言った。
「案内人が殴られたら、酒場の評判が悪くなる」
「そうですね」
「だから、うちのためだ」
「はい」
リディアはそれ以上言わなかった。
ロッソなりの協力の言い方なのだろう。
直接「助ける」とは言わない。
けれど、案内人を守る必要は理解している。
説明会が終わると、候補者の一人がリディアのところへ来た。
最初に「道に立ってればいいんですよね」と言った若者だった。
「宰相夫人」
「はい」
「俺、ちょっと勘違いしてました」
「勘違い?」
「なんか、こう……夜道に立って、人を助けるって、格好いい役目かと思ってたんです。でも、そうじゃなくて、ちゃんと寒いとか怖いとか書く仕事なんですね」
リディアは少し考えた。
「格好悪く感じますか」
「いや」
彼は首をひねった。
「逆に、ちゃんと仕事って感じがします」
その言葉に、リディアは胸の奥が温かくなった。
「そう思ってくださるなら、よかったです」
「俺、字は下手なんで、聞き取りでお願いします」
「もちろんです」
「あと、防寒具は……手袋が薄いです」
彼は少し気まずそうに言った。
「厚いものを用意します」
リディアはすぐに答えた。
「それも大事な記録です」
若者は、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、お願いします」
その一言が、リディアにはとても大きく聞こえた。
支える人が、必要なものを求めた。
手袋が薄い。
たったそれだけ。
だが、言えたことが大事だった。
宰相家へ戻る馬車の中で、リディアはその話をアルベルトにした。
「手袋が薄いと言ってくれました」
「ああ」
「よかったです」
「いい兆候だ」
「はい。無理をする前に言える仕組みにしたいです」
「そのための票だ」
アルベルトは短く言った。
「北区と同じですね」
「違う形だが、根は同じだ」
「支える人も見る」
「ああ」
リディアは、膝の上で手を重ねた。
「案内人を英雄にしない。少し寂しい言い方かもしれませんが、必要ですね」
「英雄は長続きしない」
「旦那様らしい言葉です」
「事実だ」
「はい」
リディアは小さく笑った。
事実。
彼の言葉は、いつもそこへ戻る。
だが、その事実がリディアには温かく感じられるようになっていた。
夜、温室でリディアは案内人記録票の清書を眺めていた。
もちろん、長く見ているとアルベルトに止められるので、これは確認だけだった。
担当時間。
寒さ。
疲労。
不安を感じた場面。
次回担当条件。
必要なもの。
必要なもの。
その欄に、今日の若者の言葉が入る。
厚い手袋。
たった一つの手袋から、制度は変わる。
「旦那様」
「何だ」
「私は、以前なら案内人に感謝することばかり考えていたかもしれません」
「ああ」
「でも、感謝だけでは手袋は厚くならないのですね」
アルベルトは、少しだけ目元を緩めた。
「そうだな」
「記録して、用意して、交代を考える。そちらのほうが、たぶん支える人には必要です」
「感謝は悪くない」
「はい」
「だが、感謝を制度の代わりにするな」
リディアは、その言葉をゆっくり受け止めた。
成果報告は、ありがとうの代わりではない。
感謝は、制度の代わりではない。
また一つ、線が増えた気がした。
「小冊子に入れたくなります」
「まだ早い」
「わかっています」
「だが、覚えておけ」
「はい」
ブルースターが静かに揺れている。
西区の案内人たちは、まだ夜道に立っていない。
試験はこれからだ。
けれど、少なくとも彼らは英雄としてではなく、仕事をする人として記録される。
寒いと言っていい。
怖いと言っていい。
疲れたと言っていい。
手袋が薄いと言っていい。
そのことが、リディアには大切だった。
誰かを支える人も、また支えられるべき人なのだから。




