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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第104話 エレノア、西区の話を父へ伝える

 リディアからの手紙は、夕方の薄い光の中で届いた。


 白百合の封蝋ではなく、ブルースターの小さな印。


 エレノアはそれを見るだけで、胸の奥が少し温かくなるようになっていた。


 以前なら、姉からの手紙は緊張のほうが強かった。


 完璧な姉。

 王太子妃候補だった姉。

 いつも正しく、いつも遠く、近づこうとすると自分の未熟さばかりが見えてしまう姉。


 けれど今は違う。


 手紙の中のリディアは、完璧な人ではなかった。

 迷い、考え、疲れ、休む練習をしながら、それでも自分の線を引いている人だった。


 エレノアは自室の机に座り、そっと封を切った。


 中には、西区の話が書かれていた。


 施設はある。

 施療院もある。

 道もある。

 灯りもある。


 けれど、それでも行けない人がいる。


 酒場前を通れない人。

 荷馬車が怖い人。

 裏道が暗くて避ける人。

 夜に施療院が開いているのかわからない人。

 子どもを抱いて歩けない人。


 そして、聞き取り票の最初にはこう書かれているという。


 ――これは、あなたが悪いと記録する票ではありません。次に来やすくするための票です。


 エレノアは、その一文を何度も読んだ。


 あなたが悪いと記録する票ではありません。


 紙に書かれた言葉なのに、まるで自分へ向けられているようだった。


 できないことがあると、すぐ自分が悪いと思ってしまう。

 姉のように振る舞えない自分が悪い。

 父の期待にすぐ答えられない自分が悪い。

 縁談の話を聞いても、何を望むのかわからない自分が悪い。


 けれど、リディアは言う。


 まず、妨げになっているものを見るのだと。


 エレノアは手紙を胸元に寄せた。


 ちょうどそのとき、扉の向こうから侍女の声がした。


「エレノア様。奥様がお茶の間へお越しになるようにと」


「母上が?」


「はい。旦那様もご一緒でございます」


 父も。


 エレノアの指先が、便箋の端を少し強く握った。


 胸が早くなる。


 父の前で話すことには、まだ慣れていない。


 以前より、ほんの少しだけ言えるようにはなった。

 けれど、怖くなくなったわけではない。


 父グラントは怒鳴る人ではない。

 だからこそ怖い。


 沈黙する。

 見つめる。

 短く問い返す。

 その一つ一つが、自分の言葉を試されているように感じる。


 エレノアは、リディアの手紙を丁寧に畳んだ。


 持っていくべきか迷った。


 父に読まれるかもしれない。


 けれど、隠すものではない。


 姉から自分へ届いた言葉を、自分の中にしまうだけではなく、必要なら置けるようにしたい。


 エレノアは手紙を持って、お茶の間へ向かった。


 部屋には、母セレスティアが先にいた。


 淡い色のドレスをまとい、穏やかな顔をしている。だが、目元には少し緊張があった。


 父グラントは窓際に立っていた。


 背筋はいつも通りまっすぐで、表情は読みにくい。


 机の上には、リディアが以前送ってくれた冬季灯火網の小冊子が置かれている。北区、東区、南区の頁には、父が読んだ跡があった。紙の端がわずかに折れている。


「来たか」


 父が言った。


「はい、父上」


 エレノアは礼をし、席についた。


 茶が注がれる音が、やけに大きく聞こえた。


 最初に口を開いたのは、母だった。


「リディアから、また手紙が?」


「はい。西区のことが書かれていました」


「西区」


 父が、短く繰り返す。


「施設が多い区だ。施療院もある。教会もある。職人組合の詰所もある。新しいことをする必要があるのか」


 来た。


 エレノアは、膝の上で手を握りそうになった。


 だが、少しだけ力を抜く。


 姉なら、すぐに謝らない。

 自分の言葉を置く前に、引っ込めない。


 そう思った。


「私も、最初はそう思いました」


 エレノアは言った。


 父の視線がこちらへ向く。


「施設があるなら、行けばいいのではないかと。でも……リディアお姉様の手紙には、施設があっても行けない人がいると書かれていました」


「なぜ行けない」


 問いは鋭かった。


 エレノアは、リディアの手紙を開いた。


「酒場前を通りたくない人。荷馬車が怖い人。裏道が暗くて通れない人。夜に施療院が開いていると知らない人。子どもを連れて歩けない人がいるそうです」


「それは、本人の都合だ」


 父の声は冷静だった。


「王都がすべての事情に合わせて道を作ることはできぬ」


 母が少し不安げにエレノアを見た。


 エレノアは喉が詰まりそうになった。


 父の言うことにも理はある。


 すべてに合わせることはできない。

 制度が何もかも面倒を見ることはできない。


 でも、それで終わらせたくなかった。


「全部を変えることは、できないと思います」


 エレノアはゆっくり言った。


「でも、使えない人が多いなら、整えたことにはならないのではないでしょうか」


 言った瞬間、部屋の空気が止まった気がした。


 父は黙った。


 怒らない。


 けれど、沈黙が重い。


 エレノアは逃げそうになる自分を押さえた。


「続けなさい」


 父が言った。


 叱られたわけではない。


 続けろと言われた。


 エレノアは小さく息を吸う。


「東区の橋も、橋そのものはありました。でも雨の日や川霧の夜には渡れない人がいました。だから、渡り灯や引き返した人の記録が必要になりました」


 父の目が、わずかに動いた。


「南区の孤児院も、毛布はありました。でも窓が冷えていて、古い毛布を全部取り替えるだけでは眠れない子がいました。だから、残すもの、直すもの、新しくするものを分けました」


 自分の声が、少し震えている。


 それでも、止まらなかった。


「西区も、施設はあります。でも、そこへ行けない人がいるなら……施設があるだけでは足りないのではないかと思います」


 父は、しばらく何も言わなかった。


 セレスティアが、そっと茶杯を持ち上げる。だが、飲まずにまた置いた。


 沈黙に耐えきれず、エレノアは謝りそうになった。


 生意気を言ってごめんなさい。

 わかったようなことを言ってごめんなさい。


 喉元まで出かかった。


 けれど、その前に父が言った。


「では、どこまで制度が面倒を見るべきだと思う」


 問い返された。


 叱責ではない。

 問いだった。


 エレノアは、答えに詰まった。


 どこまで。


 そんなこと、すぐにはわからない。


 全部、と言えば幼い。

 何もしなくていい、と言えば違う。


 リディアならどう言うだろう。


 いや。


 リディアなら、エレノア自身の言葉を待つはずだ。


 エレノアは、便箋を見下ろした。


 そこには、姉の文字がある。


 これは、あなたが悪いと記録する票ではありません。次に来やすくするための票です。


「全部ではないと思います」


 エレノアは言った。


「でも、まず……妨げを知るところからだと思います」


 父の眉が、ほんの少し動いた。


「妨げ」


「はい。来られなかった人を責める前に、何が妨げだったのかを聞く。それだけなら、すぐに全てを変えるわけではありません。でも、何が妨げか知らなければ、何を直すべきかもわかりません」


 父は、机の上の小冊子へ視線を落とした。


「リディアの受け売りか」


 エレノアの胸が、少し痛んだ。


 受け売り。


 そう言われるのは怖かった。


 でも、完全には違うとも言い切れない。

 リディアの手紙から学んだことだからだ。


「お姉様から教わった考えです」


 エレノアは正直に言った。


「でも、今は私もそう思います」


 父の視線が戻ってくる。


 エレノアは、逃げずに続けた。


「私は、以前なら、できない人は努力が足りないのだと思っていたかもしれません。自分にも、そう思っていました。うまく話せない私が悪い。すぐに答えられない私が悪いと」


 母が、小さく息を呑んだ。


 エレノアは母を見なかった。


 今は、父へ言葉を置く時間だった。


「でも、お姉様の手紙を読んでいると、まず何が妨げになっているのか見てもいいのだと思えるのです。道が怖いのか。声が怖いのか。知らなかったのか。誰かが一緒なら行けるのか」


 そこで、少しだけ声が細くなった。


「人のことも……同じなのかもしれません」


 父は、目を細めた。


「人のこと、とは」


「たとえば、縁談のことです」


 言ってしまった。


 自分でも驚くほど、はっきりと。


 セレスティアが、今度こそ顔を上げた。


 父は黙った。


 エレノアは、膝の上で手を握りしめそうになったが、何とか開いた。


「私はまだ、何を望むのかわかりません。父上が考えてくださることを全部否定したいわけでもありません。でも、わからないまま決められるのは怖いです」


 声が震えた。


 でも、止まらなかった。


「その怖さを、私の未熟さだけにしないでほしいのです」


 言ったあと、部屋が深く静まった。


 自分は今、父に対してとても大きなことを言ったのではないか。


 そう思った瞬間、足元が冷たくなる。


 だが、父は怒鳴らなかった。


 低い声で尋ねた。


「では、お前は何を望む」


 エレノアは、答えられなかった。


 何を望む。


 わからない。


 胸の中に言葉がなくなる。


 以前なら、ここで何か模範解答を探しただろう。


 家に相応しい方。

 父上のお考えに従います。

 よい縁であれば。


 そんな言葉なら、いくつもある。


 でも、それは自分の答えではない。


「……まだ、わかりません」


 エレノアは小さく言った。


 父の顔を見るのが怖かった。


 けれど、下を向かなかった。


「でも、わからないまま頷きたくありません」


 セレスティアが、そっと手を口元に当てた。


 父は長く黙った。


 今度の沈黙は、先ほどより長かった。


 時計の音が聞こえる。


 外で馬車が通る音も聞こえる。


 エレノアの心臓の音まで聞こえそうだった。


 やがて父は、小冊子を手に取った。


 北区。

 東区。

 南区。

 そして、リディアが送ってきた西区の手紙。


 父はそれらをしばらく見たあと、言った。


「考える時間が必要だということか」


 エレノアは、息を止めそうになった。


 そして、ゆっくり頷いた。


「はい」


「どれほど」


「……わかりません。でも、期限をいただけるなら、その間に考えます。何を望むのか、何が嫌なのか、何がまだわからないのか」


 リディアに教わったわけではない。


 でも、聞き取り票のように、自分の中の項目を分けることならできるかもしれないと思った。


 父は、便箋を机に置いた。


「一月」


 短い言葉だった。


 エレノアは目を見開く。


「一月、考えなさい」


「……よろしいのですか」


「ただし、考えるだけで終わらせるな。何を考えたのか、言葉にしなさい」


 厳しい。


 だが、命令だけではない。


 時間を与えられた。


 エレノアの胸に、信じられないほど大きな安堵が広がった。


「はい」


 声が震えた。


「ありがとうございます」


 父は、それには返事をしなかった。


 ただ、小冊子の西区に関する手紙をもう一度見た。


「リディアは、また面倒なことを始めたな」


 その言葉に、エレノアは少しだけ身を固くした。


 だが、父の声には以前のような否定だけがあるわけではなかった。


「面倒なことだ。だが……施設があっても行けぬ者がいる、か」


 父は、低く呟いた。


 エレノアは何も言わなかった。


 今は、父の言葉を奪わないほうがいいと思った。


 リディアが自分の言葉を待ってくれたように。


 父にも、考える沈黙があるのかもしれない。


 その夜、エレノアは自室に戻ると、机に座った。


 手がまだ少し震えていた。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 父に、縁談が怖いと言った。

 わからないまま頷きたくないと言った。

 考える時間がほしいと、ほとんど言ったようなものだった。


 そして父は、一月をくれた。


 エレノアは、机の引き出しから小さな紙を取り出した。


 そこに、見出しを書いた。


 望むこと

 嫌なこと

 まだわからないこと


 それだけ書いて、手が止まる。


 すぐには埋まらない。


 だが、それでいいのかもしれない。


 わからないものは、わからないと書いていい。


 エレノアは、リディアへ手紙を書き始めた。


 ――お姉様。

 西区の手紙を読みました。

 父上に、施設があるのに行けない人がいるなら、それは足りていると言えるのでしょうかと話しました。

 父上は、どこまで制度が面倒を見るべきだと思う、と尋ねました。

 私は、全部ではなく、妨げを知るところからだと思います、と答えました。


 そこまで書いて、息を整える。


 続ける。


 ――それから、縁談のことも少し話しました。

 私はまだ何を望むのかわかりません。

 でも、わからないまま頷きたくないと言いました。

 父上は、一月考えなさい、と言いました。

 叱られませんでした。

 怖かったです。

 でも、言えました。


 言えました。


 その言葉を書くと、少し涙が出そうになった。


 でも、泣かなかった。


 今日は泣くより、書きたかった。


 ――お姉様。

 私は、自分の中にも聞き取り票が必要なのかもしれません。

 何を望むのか。

 何が嫌なのか。

 何がまだわからないのか。

 まずそれを書いてみます。

 もしうまく書けなくても、自分が悪いとは書かないようにします。

 エレノア。


 封をして、白百合の印を押した。


 窓の外は、もう夜だった。


 王都のどこかで、西区の案内人候補たちが手袋を確かめているかもしれない。

 施療院では、また誰かが朝に来て、聞き取り票へ印をつけるかもしれない。


 エレノアは、自分の小さな表を見下ろした。


 望むこと。

 嫌なこと。

 まだわからないこと。


 空欄ばかりだ。


 でも、空欄でもいい。


 それは、まだ考える時間があるということだから。


 一方、同じ夜。


 フォルセイン侯爵グラントは、書斎でリディアの小冊子を開いていた。


 北区の火。

 東区の橋。

 南区の窓。

 そして、西区の聞き取り票。


 施設があるのに、行けない人がいる。


 彼は、その一文の意味を何度も考えていた。


 家がある。

 父がいる。

 縁談を整える力もある。


 それでも、娘が自分の道へ行けないなら。


 それは、整えていると言えるのか。


 グラントは、眉間に深い皺を刻んだ。


 答えは、まだ出なかった。


 だが、問いは残った。


 それだけは確かだった。

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