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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第105話 ファーネル侯爵夫人、今度は「夜道の美談」を狙う

 エレノアからの手紙が届いたのは、朝の支度が終わった頃だった。


 白百合の封蝋。


 リディアはそれを見ただけで、自然と背筋を伸ばしていた。


 姉妹の手紙は、もう単なる近況のやり取りではなくなっている。

 それぞれが自分の場所で見つけた言葉を、相手へ渡すものになっていた。


 封を切ると、エレノアの少し緊張した字が並んでいた。


 父に西区の話をしたこと。

 施設があるだけでは足りないのではないかと問うたこと。

 縁談について、わからないまま頷きたくないと言えたこと。

 そして、一月の考える時間をもらったこと。


 読み終えたリディアは、しばらく便箋を見つめていた。


 胸の奥が、静かに熱い。


 父が、叱らなかった。

 エレノアが、言えた。

 わからないと、言えた。


 そのどれもが、小さなようで大きかった。


「奥様」


 エマがそっと茶を置いた。


「よいお手紙でございましたか」


「ええ。とても」


 リディアは便箋を丁寧に畳んだ。


「エレノアが、父上に考える時間がほしいと伝えられたそうです」


 エマの表情が、ほんの少しやわらいだ。


「それは、ようございました」


「まだ何も決まってはいません。でも……自分の言葉を置けたのだと思います」


「それは、何より大切でございますね」


 リディアは頷いた。


 その通りだった。


 答えが出たわけではない。

 問題が解決したわけでもない。


 けれど、エレノアは自分の中に聞き取り票を作り始めた。


 望むこと。

 嫌なこと。

 まだわからないこと。


 それを分けようとしている。


 西区の聞き取り票が、人の道を少し開いたように。


 エレノア自身の道も、少しずつ見えてくるかもしれない。


 リディアは返事を書きたい衝動に駆られたが、その前に今日の予定を確認しなければならなかった。


 西区の夜道案内試行は、いよいよ具体化し始めている。


 案内札。

 案内人記録票。

 酒場前の滞留調整。

 荷馬車の時間確認。

 屋台の列の向き。

 施療院の受付体制。


 その全てを、まだ試験という形で少しずつ動かしている段階だ。


 焦ってはいけない。


 名前をつけすぎてもいけない。

 美談に寄せすぎてもいけない。


 そう思っていたところへ、オスカーが作業室へ入ってきた。


「奥様。王宮慈善局より連絡です。本日午後、慈善婦人会の小会合で西区支援について意見交換を行いたいとのことです」


「西区支援について?」


「はい。出席者には、ファーネル侯爵夫人のお名前もございます」


 リディアの手が、わずかに止まった。


 ファーネル侯爵夫人。


 慈善舞踏会で、支援を美しい物語へ変えようとした人。

 南区では、感謝文を求める流れに巧みに乗ろうとした人。


 今度は西区か。


 リディアは、胸の内で静かに息を整えた。


「内容は?」


「正式な議題は、“西区夜道案内試行における寄付募集方法”です。ただし、夫人側から案内人を紹介する茶会の案が出ているようです」


「案内人を?」


「はい。夜道に立つ若者たちの献身を広く知ってもらえば、寄付が集まりやすいと」


 来た。


 リディアは、はっきりそう思った。


 案内人を英雄にする流れ。


 勇敢な若者たち。

 夜道に立つ守り手。

 病人や子どもを導く献身。


 美しい。


 きっと社交界受けもいい。


 でも、それは危うい。


 案内人たちは、まだ試験運用の前にいる。

 寒さも怖さも負担も、これから記録する段階だ。


 それを先に称えてしまえば、彼らは寒いと言いにくくなる。

 怖いと言いにくくなる。

 手袋が薄いと、言いにくくなる。


 リディアは机の上に置いていた案内人記録票を見た。


 必要なもの。


 そこには、厚い手袋と書かれている。


 その欄を、消させてはいけない。


「旦那様へ相談します」


 リディアは立ち上がった。


 執務室へ行くと、アルベルトはすでに同じ連絡を受けていたらしい。


 リディアが入るなり、彼は短く言った。


「ファーネルだな」


「はい」


「案内人を飾りにする気だ」


「やはり、そう見えますか」


「ああ」


 迷いのない答えだった。


 リディアは、少しだけ安堵した。


 自分だけが過敏なのではない。


「私は、案内人を茶会に呼ぶことには反対です」


「正しい」


「ただ、寄付募集は必要です。外套、手灯り、防寒具、休憩用の温かい飲み物、案内人の交代人員。どれも必要になります」


「なら、それを前面に出せ」


「案内人本人ではなく、必要物資と勤務記録を?」


「そうだ」


 アルベルトは机上の紙を一枚引き寄せた。


「支援者に見せるべきなのは、“勇敢な若者”ではない。“案内人が続けるために必要な条件”だ」


 リディアは頷いた。


 まさに、そこだった。


 案内人を美談にするのではなく、案内人が続けられる仕組みを支援してもらう。


「外套、手袋、手灯り、休憩場所、交代人員、声かけ時の対応手順」


「記録票も匿名化して示せ」


「寒さ、疲労、不安を感じた場面も?」


「ああ。ただし個人が特定されないように」


「はい」


 リディアはメモを取った。


 案内人本人を呼ばない。

 匿名化した勤務記録を示す。

 支援対象は、拍手ではなく装備と交代。

 感謝ではなく継続条件。


 書いていて、自分の中で線がはっきりしていくのがわかった。


「旦那様」


「何だ」


「案内人を茶会に呼ばないことは、冷たいと言われるでしょうか」


「言われるだろうな」


 即答だった。


 リディアは少しだけ笑ってしまった。


「少しは慰めてくださっても」


「嘘は慰めにならない」


「旦那様らしいです」


「だが、冷たくはない」


 アルベルトは静かに続けた。


「案内人を守るためだ」


 その一言で、胸の奥が落ち着いた。


「はい」


 リディアは頷いた。


「守るためです」


 午後の小会合は、王宮の小サロンで開かれた。


 参加者は十名ほど。


 ローゼン侯爵夫人、グレイス伯爵夫人、ヴェルナー子爵夫人、数名の慈善婦人会員、王妃付きの女官、そしてファーネル侯爵夫人。


 セシリアも、案内札の意匠担当として招かれていた。


 リディアが席に着くと、ファーネル侯爵夫人はいつも通り完璧な微笑みを浮かべた。


「宰相夫人。西区の試み、たいへん興味深く拝見しておりますわ」


「ありがとうございます」


「夜道に立つ案内人の方々。なんて尊いお役目でしょう。きっと多くの方が心を動かされますわ」


 早い。


 もうそこへ持っていくのか。


 リディアは表情を変えずに聞いた。


 ファーネル夫人は、ゆっくり扇を開く。


「そこで、案内人の方々を慈善茶会へお招きしてはいかがでしょう。もちろん、負担のない範囲で。彼らがどのような思いで夜道に立つのかを語ってくだされば、寄付者の心も温まりましょう」


 数名の夫人が頷いた。


「それは素敵ですわ」

「若い方々の善意を知る機会になりますもの」

「支援者も、自分の寄付が誰を支えているのか見えますわね」


 言葉だけを聞けば、悪意はない。


 だからこそ危うい。


 リディアは、静かに口を開いた。


「案内人の方々を茶会へ招くことは、現段階では考えておりません」


 サロンの空気が、ほんの少し固まった。


 ファーネル夫人は驚いたように目を開いたが、それも計算された表情に見えた。


「まあ。なぜですの?」


「まだ試験前だからです」


 リディアは答えた。


「案内人が実際にどの程度寒さを感じるのか。どの場所で不安を覚えるのか。どのような防寒具や交代が必要なのか。それらを確認する前に、彼らを献身の象徴として紹介することは避けたいと思います」


「ですが、称えることは励みになりますでしょう?」


「励みになる場合もあります」


 リディアは否定しなかった。


「ですが、称えられることで、疲れた、寒い、不安だったと言いにくくなる場合もあります」


 ローゼン侯爵夫人が、静かに頷いた。


 グレイス伯爵夫人も表情を引き締める。


 ファーネル夫人は、柔らかな声のまま言った。


「宰相夫人は、本当に慎重でいらっしゃいますのね。けれど、慎重になりすぎると、人の善意の熱が冷めてしまいませんこと?」


 冷める。


 温度の言葉。


 ファーネル夫人は、いつも上手い。


 リディアは、少しだけ息を吸った。


「善意の熱で、案内人を温めることはできません」


 言った瞬間、自分でも少し強いと思った。


 だが、止めなかった。


「必要なのは、外套、厚い手袋、手灯り、休憩場所、交代人員です。もちろん、応援の言葉も無意味ではありません。けれど、それが装備や休憩の代わりになってはいけません」


 サロンが静かになる。


 セシリアが、少し目を見開いてリディアを見ていた。


 ヴェルナー子爵夫人が、先に声を上げた。


「私は、宰相夫人のご意見に賛成です」


 ファーネル夫人の視線が、わずかに動く。


 ヴェルナー子爵夫人は続けた。


「南区の毛布のときも、最初は全員分の新しい毛布を贈ることが善意だと思っていました。でも、実際には古い毛布を残し、補修することが必要でした。今回も同じではありませんか。案内人を称える前に、案内人が続けられる条件を整えるべきですわ」


 ローゼン侯爵夫人も頷いた。


「たしかに、若者たちを茶会へ呼べば華やかでしょう。しかし、彼らが話し慣れていない場で緊張し、余計な負担を感じる可能性もありますね」


 グレイス伯爵夫人が言った。


「それなら、匿名化した勤務記録を見せていただくほうが、支援する側も何が必要かわかりやすいですわ」


 流れが変わった。


 ファーネル夫人は、それでも微笑みを崩さない。


「皆様がおっしゃるなら、もちろん無理にとは申しません。ただ、わたくしは人の顔が見える慈善も大切だと思っただけですわ」


「顔が見えることは大切です」


 リディアは静かに返した。


「ただし、見せるべき顔と、守るべき顔があります」


 ファーネル夫人の扇が、ほんの少し止まった。


「案内人本人の顔を前に出すのではなく、彼らが夜道に立つために必要なものを明らかにします。匿名の記録として、寒さ、疲労、不安を感じた場面を共有します。そして、支援者の皆様には、拍手ではなく具体的な支援をお願いしたいのです」


 王妃付きの女官が、そこで口を開いた。


「王妃陛下も、支える側の負担を記録する方針に関心をお持ちです。今回の案内人記録票は、北区灯火守りの体調記録と同じく、制度継続のため重要と見なされています」


 王妃の名が出ると、場の空気は決まった。


 ファーネル夫人は、完璧な礼をした。


「それでは、わたくしも支援物資の募集に協力いたしますわ。外套や手灯りでしたかしら?」


「はい」


 リディアは頷いた。


「加えて、厚い手袋、温かい飲み物、案内後に暖を取る場所の整備、交代人員への補助です」


「承知いたしました」


 ファーネル夫人は微笑んだ。


 けれど、その目の奥には、面白くないという光がわずかに残っていた。


 会合の終わりに、セシリアがリディアのそばへ来た。


 少しだけ声を落とす。


「リディア様」


「はい」


「また、人を飾りにしようとしていましたね」


 リディアは、少し驚いてセシリアを見た。


 彼女の表情は、以前よりずっとはっきりしていた。


 花を飾る側だったセシリアが、人を飾りにする危うさを見ている。


「ええ」


 リディアは静かに答えた。


「でも、今日はあなたも気づきました」


「はい」


 セシリアは頷いた。


「案内人の方々を茶会へ呼ぶなんて、最初は素敵に聞こえました。でも、考えてみると……怖いですね。皆の前で“頑張ります”と言ったら、もう寒いとは言えなくなりそうで」


「その通りです」


「花も、飾られすぎると弱ります」


 セシリアは、少し苦笑した。


「最近、私は何でも花に例えてしまいますね」


「でも、よくわかります」


 リディアは微笑んだ。


「案内人も、根を守らなければいけません」


「根」


「外から見える姿ではなく、続けるために必要な部分です」


 セシリアは、ゆっくり頷いた。


「では、案内札も、案内人を目立たせすぎないようにします。道と時刻を目立たせる。人は、必要なところにだけ」


「お願いします」


 リディアはそう言って、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。


 味方が増えている。


 ただリディアを慰める人ではない。

 それぞれが、自分の言葉で線を見つける人たちだ。


 宰相家へ戻ると、アルベルトが執務室で報告を待っていた。


「どうだった」


「案内人を茶会へ呼ぶ案は、止めました」


「そうか」


「代わりに、匿名化した勤務記録と必要物資を示す方向になりました。外套、手袋、手灯り、休憩場所、交代人員、温かい飲み物」


「妥当だ」


「ファーネル侯爵夫人は、まだ面白くなさそうでした」


「だろうな」


「でも、場は通りました」


「ならいい」


 短い。


 けれど、その短さが今は頼もしい。


 リディアは、案内人記録票を机に置いた。


「“善意の熱で、案内人を温めることはできません”と言ってしまいました」


 アルベルトが少しだけ眉を上げた。


「いい言葉だ」


「強すぎませんでしたか」


「強いが、必要だ」


「小冊子には?」


「入れてもいい」


 リディアは目を瞬いた。


「珍しいですね」


「今回は支援募集に使える。拍手ではなく物資へ向ける言葉だ」


「なるほど」


 リディアは、少し考えて頷いた。


 たしかに、今回は小冊子へ載せてもよいかもしれない。


 ただし、感情を煽るためではなく、具体的支援へ繋げるために。


 ――善意の熱で、案内人を温めることはできません。

 夜道案内担当には、防寒具、手灯り、休憩、交代人員が必要です。


 これなら、使える。


 夜、温室でリディアはその文を小さな紙に書いた。


 今日は書類ではなく、文案。


 しかしアルベルトはすぐに見つけた。


「それは仕事だな」


「少しだけです」


「少しだけは信用しない」


「では、一文だけ」


「一文なら許す」


 リディアは小さく笑った。


 そして、紙を見せる。


 アルベルトは読み、頷いた。


「悪くない」


「かなりいい?」


「かなりいい」


 その返事に、胸が温かくなる。


「旦那様」


「何だ」


「案内人を英雄にしないことは、少し寂しいですか」


「寂しい?」


「人は、誰かを称えたいものなのでしょう。支える人を立派だと思う気持ちは、悪いものではありません」


「ああ」


「でも、称える前に支える。そういう順番にしたいです」


「それでいい」


 アルベルトは静かに言った。


「称えるのは、続けられる仕組みを作ってからでも遅くない」


 リディアは、その言葉をゆっくり受け取った。


「はい」


 外は冬の夜だった。


 西区の案内人たちは、まだ試験の前にいる。

 彼らは英雄ではない。


 寒いと言っていい人たちだ。

 怖いと言っていい人たちだ。

 手袋が薄いと言っていい人たちだ。


 そのことを守るために、リディアはまた一つ線を引いた。


 目立つ称賛より、続けられる支援を。


 それが、西区夜道案内試行の次の灯りだった。

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