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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第96話 「自分が悪い」を、選択肢に入れない

 西区から戻った翌朝、リディアは地図ではなく、白紙の聞き取り票と向き合っていた。


 王都の地図は便利だ。


 道がどこにあるか。

 施療院がどこにあるか。

 教会がどこにあるか。

 職人組合の詰所がどこにあるか。


 それらは、すぐにわかる。


 けれど地図には、昨夜見たものが書かれていない。


 酒場の前で足を止めた女性。

 荷馬車を避けて立ち尽くした老人。

 明るい大通りを避けて、暗い細道へ入っていった背中。

 そして、施療院長が言った言葉。


 ――皆、自分が悪いと言いますから。


 リディアはペンを手にしたまま、しばらく動けなかった。


 聞き取り票を作るだけなら簡単だ。


 夜に施療院へ来られなかった理由を選んでもらう。

 遠かった。

 暗かった。

 騒がしかった。

 付き添いがいなかった。

 子どもを連れて歩けなかった。

 荷馬車が多かった。

 酒場前を通りたくなかった。

 道がわからなかった。

 その他。


 だが、質問の仕方を間違えれば、それは尋問になる。


 なぜ来なかったのですか。

 どうして我慢したのですか。

 もっと早く来られなかったのですか。


 そんな聞き方をされた人は、きっとまた答える。


 自分が悪いのだ、と。


「奥様」


 オスカーが向かいの席から声をかけた。


「最初の設問で止まっておられますね」


「ええ」


 リディアは白紙を見つめたまま答えた。


「“昨夜、施療院へ来られなかった理由”と書くだけでも、少し責めているように見えないかと思って」


「では、“昨夜、施療院へ向かう妨げになったこと”ではいかがでしょう」


「妨げ……」


 リディアは小さく繰り返した。


 来られなかった理由、ではなく。

 向かう妨げになったこと。


 責任を本人から外へ移す言葉。


「そのほうがよいですね」


 リディアは紙に書いた。


 ――昨夜、施療院へ向かう妨げになったことはありますか。


 その下に、小さく付け加える。


 ――答えたくない項目は、答えなくて構いません。


 オスカーがそれを見て、頷いた。


「必要な一文です」


「ええ。答えることも強制したくありません」


 リディアは選択肢を書き始めた。


 一、道が暗かった。

 二、道が騒がしかった。

 三、酒場前を通りたくなかった。

 四、荷馬車や荷物が多く通りづらかった。

 五、付き添いがいなかった。

 六、子どもや病人を連れて歩けなかった。

 七、道順がわからなかった。

 八、施療院が夜に開いているかわからなかった。

 九、外へ出るほどの症状かわからなかった。

 十、その他。


 そこまで書いて、手が止まる。


 入れない。


 自分が悪い。

 我慢すべきだった。

 大げさだと思った。


 そうした言葉は、入れない。


 本人がそう言うかもしれない。

 けれど、制度の紙がその言葉を用意してはいけない。


「奥様」


「はい」


「“外へ出るほどの症状かわからなかった”は、入れてよいのですね」


「はい。これは本人を責める項目ではありません。むしろ、どの程度なら夜間に来てよいかが伝わっていないという問題です」


「なるほど」


「西区では、案内不足もあるのだと思います。施療院があっても、夜に行っていい場所だと知らなければ、ないのと同じです」


 言いながら、リディアは東区を思い出した。


 橋があった。

 施療院もあった。

 でも、雨の夜には渡れない人がいた。


 西区も同じだ。


 道はある。

 施療院もある。

 けれど、行けない人がいる。


 その“行けない”を、本人の弱さにしてはいけない。


 午前のうちに試案を整えると、リディアはアルベルトの執務室へ持っていった。


「聞き取り票の案です」


 アルベルトは受け取り、黙って読む。


 リディアは、その横顔を見ながら少し緊張していた。


 この人は、甘い評価をしない。

 だからこそ、緊張する。

 そして、だからこそ信頼できる。


 アルベルトは最後まで読み、最初の設問に戻った。


「悪くない」


「かなりいい、ではありませんか」


「まだ足りない」


 即答だった。


 リディアは少し肩を落としかけたが、すぐに顔を上げた。


「どこでしょう」


「聞き取りをする側への注意書きが足りない」


「する側」


「票がよくても、聞く人間が責めるような声を出せば意味がない」


 リディアは、はっとした。


 その通りだった。


 紙だけ整えても、聞き取りをする施療院の受付や慈善局の担当官が、悪気なく相手を追い詰める可能性がある。


 夜に来なかったのですか。

 どうしてもっと早く。

 そんなふうに聞かれれば、票の言葉など消えてしまう。


「聞き取り担当者への心得を作ります」


「短くしろ。長いと読まない」


「はい」


 リディアは持参した余白に書き始めた。


 ――聞き取りは、来られなかった理由を責めるものではない。

 ――相手が「自分が悪い」と言った場合も、記録欄にはそのまま書かず、妨げになった外的条件を確認する。

 ――答えたくない項目を無理に聞かない。

 ――次に来やすくするための確認であると、最初に伝える。


 書き終えると、アルベルトが頷いた。


「これなら使える」


「かなりいい?」


「かなりいい」


 その言葉に、リディアは少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「受け取る」


 すぐに返ってくる。


 最近、このやり取りはすっかり定着してしまった。


 だが、そのたびに胸の奥が少し温かくなる。


「午後、西区施療院へ届けます」


「私も行く」


「旦那様も?」


「初回説明は重要だ」


「お忙しいのでは」


「忙しい」


「では」


「だが行く」


 言い切られた。


 リディアは少しだけ困った顔をしたが、内心では心強かった。


 西区はまだ、何が起こるかわからない。


 施療院だけでなく、職人組合や酒場組合も絡む。

 最初の説明に宰相であるアルベルトがいることで、方針の重みは増すだろう。


「ありがとうございます」


「二回目だ」


「これは同行へのお礼です」


「受け取る」


「早いです」


「予測できる」


 リディアは笑ってしまった。


 午後、二人は再び西区へ向かった。


 昼下がりの西区は、昨夜ほど騒がしくはない。


 職人たちの声はするが、酒場の扉は半分閉じている。荷馬車は通るものの、道には余裕がある。昨日の夕刻に感じた圧迫感は、ほとんどなかった。


 同じ道。


 しかし、まるで別の道。


 リディアは馬車の窓から外を見ながら、静かに言った。


「昼だけを見ていたら、私は西区を誤ったと思います」


「ああ」


 アルベルトが答える。


「地図も、昼の顔しか持っていないことがある」


「夜の顔を、どう記録するかですね」


「そうだ」


 施療院では、院長と受付係、夜間担当の若い看護人が待っていた。


 受付係は四十代ほどの女性で、名をミラベルという。しっかりした目つきで、記録に慣れている様子だった。若い看護人はジャンという青年で、少し緊張している。


 リディアはまず、聞き取り票を机に広げた。


「これは、夜に来られなかった方を責めるための票ではありません」


 最初にそう言った。


 院長が静かに頷く。


「次に来やすくするため、何が妨げになったかを知るためのものです。ですから、“なぜ来なかったのですか”とは聞かないでください」


 ジャンが少し眉を寄せた。


「ですが、症状が重いのに来なかった場合は、理由を知らないと危険では」


「理由は聞きます。ただ、責める形にしないということです」


 リディアは票の最初の文を指した。


「“昨夜、施療院へ向かう妨げになったことはありますか”と聞いてください」


 ミラベルが票を読み、低く言った。


「これなら答えやすいかもしれません」


「そう思いますか」


「ええ。うちへ来る方は、よく謝ります。遅くなってすみません、夜に行けなくてすみません、我慢してしまってすみませんと。謝りながら椅子に座る方が多いのです」


 リディアは胸が少し痛んだ。


 施療院へ来ただけで、もう謝っている。


「謝らなくてよいと、伝えたいのです」


 リディアは言った。


「でも、言葉だけでは足りません。聞き方から変えたい」


 ジャンが少し考え込む。


「相手が“自分が悪いんです”と言った場合は?」


 アルベルトが口を開いた。


「そのまま記録するな」


 短い声に、ジャンが姿勢を正す。


「自分が悪い、は感想だ。必要なのは条件だ。何があれば来られたかを聞け」


「何があれば……」


「付き添いか、別の道か、荷馬車の少ない時間か、施療院が開いているという案内か」


 ジャンは、はっとした顔をした。


「なるほど」


 リディアは頷いた。


「相手が自分を責めているときほど、外側の条件を一緒に探してください。もちろん、無理に聞き出す必要はありません」


 ミラベルが、聞き取り担当者への心得を読み上げた。


「“答えたくない項目を無理に聞かない”。これは大事ですね。特に酒場前のことは、言いづらい人もいるでしょう」


「はい」


「それから、“子どもを連れて歩けなかった”も。母親たちは、自分の段取りが悪かったと思いがちです」


「段取りではなく、道の問題かもしれない」


 リディアが言うと、ミラベルは深く頷いた。


「わかりました。明朝から試してみます」


 そのとき、廊下の向こうから咳き込む声が聞こえた。


 院長が顔を上げる。


 受付係のミラベルが席を立った。


「今朝から待っている方です。昨夜、来られなかったそうで」


 リディアは、自然と視線を向けた。


 しかしすぐに自分を戒める。


 見せ物にしない。

 聞き取りを急がない。

 本人の状態が第一。


 院長が言った。


「無理に立ち会う必要はありませんが、もしよろしければ、票の試用を一件だけご覧になりますか。もちろん、本人に確認します」


 リディアは少し迷った。


 現場を見ることは必要だ。


 だが、相手の負担になってはいけない。


「本人が構わないとおっしゃるなら。顔を見られたくない場合は、私たちは席を外します」


 しばらくして、ミラベルが戻ってきた。


「構わないそうです。ただ、名前は出したくないと」


「もちろんです」


 診察前の小部屋にいたのは、三十代ほどの女性だった。


 顔色が悪く、膝の上に小さな子どもを抱いている。子どもは眠っていた。女性の手には、古びた布袋がある。


 リディアたちは少し離れた場所に立った。


 ミラベルが椅子に座り、柔らかい声で言った。


「昨夜、施療院へ向かう妨げになったことはありますか。答えたくないことは答えなくて大丈夫です」


 女性は少し驚いた顔をした。


 責められると思っていたのかもしれない。


「……子どもが熱を出して。でも、夜は酒場の前を通らないと来られなくて」


 声が小さい。


「酒場前を通りたくなかった、に印をつけますね」


 ミラベルは穏やかに言った。


「他にはありますか」


「荷馬車も多くて。子どもを抱いて避けるのが怖かったです」


「荷馬車や荷物が多く通りづらかった、ですね」


「あと……夜に来ていいのか、わからなくて」


「施療院が夜に開いているかわからなかった」


 ミラベルは一つずつ印をつける。


 女性は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく言った。


「私がもっと早く判断できればよかったんです」


 リディアの胸が痛んだ。


 その言葉。


 やはり出た。


 ミラベルは、一瞬だけペンを止めた。


 そして、ゆっくり言った。


「次に来やすくするために、道や案内を見直します。お話しくださってありがとうございます。あなたが悪いと記録する票ではありません」


 女性は、目を瞬いた。


「……そうなんですか」


「はい」


 ミラベルは静かに頷いた。


「次に困ったとき、少しでも来やすくなるようにするためです」


 女性は、膝の上の子どもを見下ろした。


 それから、かすかに息を吐いた。


「じゃあ……酒場の前を通らなくてもいい道があったら、来られるかもしれません」


 リディアは、その言葉を心の中で受け止めた。


 来られるかもしれない。


 その“かもしれない”が大事だった。


 できない理由を責めるのではなく、できる条件を探す。


 聞き取りが終わると、女性は診察室へ案内された。


 リディアは、小部屋の外でしばらく黙っていた。


 アルベルトも何も言わない。


 やがて、ミラベルが票を持って戻ってきた。


「この票、使えます」


 彼女は言った。


「最初の聞き方で、顔が変わりました」


 ジャンも頷く。


「“あなたが悪い票ではない”と、最初に言ったほうがいいかもしれません」


「心得に入れましょう」


 リディアはすぐに答えた。


 ――これは、あなたが悪いと記録する票ではありません。


 その一文を追加する。


 強すぎるかもしれない。

 だが、西区には必要だ。


 施療院を出るころには、夕刻に近づいていた。


 昨日と同じように、西区の道は少しずつ夜の顔に変わり始めている。


 酒場の扉が開き、荷馬車が増え、人の声が重なる。


 リディアは道の向こうを見つめた。


 あの女性が言った。


 酒場の前を通らなくてもいい道があったら、来られるかもしれない。


 それは、支援の入口だ。


 大きな制度名はまだいらない。

 まず、来られるかもしれない道を探す。


 馬車に戻ると、リディアは膝の上で聞き取り票の写しを見つめた。


「旦那様」


「何だ」


「西区では、“来られるかもしれない”を集めたいです」


 アルベルトは少しだけ目を細めた。


「いい言葉だ」


「小冊子には?」


「まだ早い」


「はい」


 リディアは微笑んだ。


「私もそう思います」


「まず、票を十日回せ」


「十日」


「それから道を分ける。酒場前を避ける道、荷馬車の少ない時間、付き添いが必要な場合、施療院案内札」


「職人組合と酒場組合にも話す必要がありますね」


「ああ」


「難しそうです」


「難しい」


「でも、必要です」


「そうだ」


 馬車の外で、西区の灯りが揺れていた。


 暗さだけではない。

 明るさだけでもない。

 騒がしさ、視線、荷馬車、道順、案内不足。


 西区の困りごとは、複雑だ。


 けれど、今日一つだけ確かなことがあった。


 “自分が悪い”を選択肢に入れない。


 そこから始める。


 宰相家へ戻ると、リディアはすぐに聞き取り票を修正した。


 オスカーが清書し、翌朝から西区施療院で試用する手配を整える。


 最後に、リディアは票の冒頭に一文を入れた。


 ――これは、あなたが悪いと記録する票ではありません。次に来やすくするための票です。


 その文字を見たとき、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 誰かに、昔の自分に、言いたかった言葉かもしれない。


 あなたが悪いと記録するものではない。


 次に進みやすくするために、何が妨げだったのかを見る。


 それは、リディア自身にも必要な考え方だった。


 夜、温室でその話をすると、アルベルトは静かに聞いていた。


「君にも効く言葉だな」


 彼は言った。


 リディアは少し驚き、それから頷いた。


「はい。たぶん」


「なら、覚えておけ」


「はい」


「君が何かできなかったときも、“自分が悪い”を最初に選ぶな」


 胸が、静かに震えた。


 リディアはブルースターを見た。


 青い花が、夜の温室の中で淡く浮かんでいる。


「では、旦那様が私に聞いてください」


「何を」


「何が妨げになったのか、と」


 アルベルトは、少しだけ黙った。


 それから、低く答えた。


「聞く」


 その一言で、リディアは安心した。


 西区の聞き取り票は、明日から動き始める。


 どれだけの人が答えてくれるかはわからない。

 どんな反発が出るかもわからない。


 けれど、最初の一文は決まった。


 これは、あなたが悪いと記録する票ではありません。


 その言葉が、誰かの足を少しでも施療院へ向けられるなら。


 リディアはそのために、また明日もペンを取ろうと思った。

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