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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第95話 西区の地図には、夜の足音が書かれていない

 西区の地図は、きれいだった。


 少なくとも、紙の上では。


 王都西区は、北区ほど寒さの被害が多いわけではない。東区のように大きな川霧が生活を遮る場所でもなく、南区のように古い孤児院や長屋の修繕ばかりが並ぶ区域でもなかった。


 地図の上には、教会、施療院、職人組合の詰所、夜間に使える井戸、古い広場、荷馬車の通る道が整然と書かれている。


 道は比較的広い。

 施療院もある。

 教会の夜間受付も一応存在する。

 職人組合も強い。


 書類だけを見れば、西区は王都冬季灯火網の中で、もっとも支援が重複しやすい場所に見えた。


 だからこそ、難しかった。


 リディアは作業室の机いっぱいに広げた地図を見つめ、しばらく黙っていた。


「北区は、火を置く場所が見えました。東区は橋。南区は窓と毛布。でも、西区は……」


「一見すると、足りているように見えますね」


 オスカーが言った。


 彼の前には、慈善局から届いた西区の既存施設一覧がある。


 夜間施療院、一箇所。

 教会の臨時休憩所、二箇所。

 職人組合の詰所、三箇所。

 荷運び人向けの休憩小屋、一箇所。

 簡易灯のある大通り、二本。


 数字だけなら、悪くない。


 むしろ、北区や南区より整っているように見える。


 けれど、リディアの中には小さな違和感があった。


「整っているのに、なぜ慈善局は夜間施療導線調査を必要だと判断したのかしら」


「施療院の夜間利用数が少ないからです」


 オスカーは別の記録を差し出した。


「昼の利用者は多いのですが、夜間利用が極端に少ない。特に女性、子ども連れ、単身の高齢者が少ないようです」


「夜に病人が出ないわけではない」


「はい」


「では、行けていない」


 リディアは地図の上に視線を落とした。


 施療院はある。

 教会もある。

 灯りのある通りもある。


 それでも、行けない人がいる。


 東区の橋とは違う。

 橋のような明確な障害物がないからこそ、見えにくい。


 リディアは指先で地図の道をたどった。


 大通りから施療院まで、紙の上では近い。


 けれど、人は紙の上を歩くわけではない。


「夜の記録は?」


「少ないです。施療院の記録はありますが、“来なかった人”の記録は当然ありません」


「東区の引き返した人と同じですね」


「はい。ただ、西区の場合は橋の前まで来て引き返すわけではないので、さらに見えにくい」


 リディアは小さく頷いた。


 来なかった人。


 それは、記録に残りにくい。


 来た人だけを数えれば、問題は小さく見える。

 だが、来られなかった人の方にこそ、支援の穴がある。


 その時、作業室の扉が開いた。


 アルベルトだった。


 彼は地図を見るなり、すぐに言った。


「西区か」


「はい。昼の地図は整っています」


「夜は違う」


 即答だった。


 リディアは顔を上げる。


「ご存じなのですか」


「報告だけなら」


 アルベルトは机のそばへ来て、地図の西側を指した。


「ここは昼と夜で道の意味が変わる。昼は職人と荷馬車の通り道だが、夜は酒場帰りの男たちと夜間荷運びが増える。灯りがあっても、歩きやすいとは限らない」


「灯りがあるのに?」


「灯りは、道を照らす。だが、人の視線も集める」


 その言葉に、リディアは少し息を止めた。


 灯りは安心を作る。

 そう思っていた。


 北区では、火が人を集めた。

 東区では、手灯りが橋を渡らせた。


 だが西区では、灯りがあることで逆に歩きづらい人もいるのかもしれない。


 明るい道ほど、誰かに見られる。

 酒場の前を通らなければならない。

 男たちの視線を浴びる。

 荷馬車の車輪を避ける。

 声をかけられるかもしれない。


「西区の夜道は、暗さだけが問題ではないのですね」


「ああ」


 アルベルトは頷いた。


「騒がしい場所ほど、助けを求めにくいこともある」


 リディアは地図を見た。


 きれいな線。

 施療院までの道。

 灯りの印。


 だが、その線の上には、足音も声も視線も書かれていない。


「昼に調査しても、足りませんね」


「足りない」


「夜に行く必要がありますか」


 そう言った瞬間、オスカーとエマが同時にこちらを見た。


 エマは茶器を置く手を止めている。


 アルベルトの目も、わずかに鋭くなった。


「君が夜に行く必要はない」


「でも、夜でなければ見えないことがあります」


「調査員を出せばいい」


「それでは、報告になります。私自身が全てを見る必要はありません。でも、最初の一度は、夕刻の変わり目を見たいです」


 リディアは、地図の端を押さえた。


「昼の道が夜の道に変わる瞬間を見なければ、西区の困りごとを誤る気がします」


 アルベルトは黙った。


 その沈黙は、すぐに否定するためのものではなかった。


 考えている。


 リディアは待った。


 以前なら、この沈黙に怯えていたかもしれない。

 間違ったことを言ったのではないかと、すぐに言葉を足しただろう。


 だが今は、少し待てる。


 自分の言葉を置いて、待つ。


 エレノアが父の前でそうしたように。


 やがて、アルベルトは言った。


「昼ではなく、夕刻までだ」


「はい」


「夜更けには入らない」


「はい」


「私が同行する」


 リディアは瞬きをした。


「旦那様が?」


「当然だ」


「お忙しいのでは」


「この調査も仕事だ」


 その言い方は、いつもの実務の声だった。


 けれど、その奥にあるものも、今のリディアには少しわかる。


 心配している。


 ただ、心配という言葉ではなく、仕事という形で隣に立とうとしてくれている。


「ありがとうございます」


「受け取る」


 早い。


 リディアは思わず笑った。


「本当に早くなりました」


「学習したと言っただろう」


「はい」


 オスカーが咳払いをした。


「では、西区夕刻下見として日程を組みます。同行者は、旦那様、奥様、私、護衛二名、慈善局西区担当官。現地では職人組合の案内人をつけますか」


「つけろ」


 アルベルトが答えた。


「ただし、大人数にするな。視察団に見えると道の様子が変わる」


「承知しました」


 リディアは地図を見つめた。


 西区。


 まだ輪郭が見えない。


 けれど、少しだけ入口がわかった。


 地図に書かれていないものを見る必要がある。


 夜の足音。

 視線。

 騒がしさ。

 誰がどの道を避けるのか。


 それは数字だけでは見えない。


 午後、準備のために西区の追加資料が届いた。


 その中に、施療院長からの短い手紙があった。


 ――夜間に来る者は少ない。

 だが、翌朝になると「昨夜から痛かった」「夜は行けなかった」という者が来る。

 理由を尋ねると、遠い、暗い、怖い、迷う、子どもを連れて歩けない、酒場前を通りたくない、荷馬車が怖い、など答えはばらつく。

 共通しているのは、「行けなかった自分が悪い」と言う者が多いこと。


 リディアは、その最後の一文で手を止めた。


 行けなかった自分が悪い。


 まただ。


 渡れなかった人。

 書けなかった人。

 感謝を言えなかった人。

 そして、夜に施療院へ行けなかった人。


 できなかった人ほど、自分を責める。


 それは、リディア自身にも覚えがあった。


 もっと正しくできなかった自分が悪い。

 もっと可愛げを持てなかった自分が悪い。

 父の期待に応えられない自分が悪い。


 そう思っていた。


 でも、今なら少しわかる。


 できなかった理由は、個人の弱さだけではない。


 橋が怖いこともある。

 窓が冷えていることもある。

 感謝を求められる場の圧があることもある。

 夜道の視線が足を止めることもある。


 だから、そこを見る。


「西区では、“行けなかった理由”を責めずに集める必要がありますね」


 リディアが言うと、オスカーは頷いた。


「施療院の朝の聞き取り項目に入れられます。夜に来られなかった理由。ただし、詰問にならないよう選択式にする必要があります」


「はい。自由記述だけだと答えにくいでしょう。遠い、暗い、騒がしい、酒場前を通る、荷馬車が多い、子どもを連れて歩けない、付き添いがいない、その他」


「“自分が悪い”という選択肢は入れません」


 オスカーが言った。


 リディアは顔を上げた。


「ええ。入れません」


 その答えは、選ばせてはいけない。


 行けなかった自分が悪い。


 それを制度が選択肢として置いてしまえば、その人はまた自分を責める。


 聞くべきは、外側の条件だ。


 どの道が困難だったか。

 誰がいなかったか。

 何が怖かったか。


「西区の聞き取り票は、慎重に作りましょう」


「承知しました」


 夕方近く、エレノアから手紙が届いた。


 白百合の封蝋。


 最近、この封蝋を見るとリディアの胸は少しだけやわらかくなる。


 ――お姉様。

 西区調査に入ると聞きました。母上からです。

 父上は「西区は施設が多い。新しいことをする必要があるのか」と言っていました。

 私は、東区の橋や南区の窓のように、見えるものだけが困りごとではないのかもしれないと思いました。

 もし、私の考えが違っていたら教えてください。

 それから、昨日父上がまた小冊子を読んでいました。

 成果報告の頁です。

 何も言いませんでしたが、前より長く見ていました。


 リディアは読みながら、小さく微笑んだ。


 父が小冊子を読んでいる。


 何も言わない。

 けれど、読む。


 それだけでも、以前とは違う。


 エレノアの考えも、間違っていなかった。


 見えるものだけが困りごとではない。


 西区は、まさにそういう場所かもしれない。


 リディアは短い返事を書いた。


 ――エレノア。

 あなたの考えは、とても大切です。

 西区には施設があります。道もあります。灯りもあります。

 けれど、それでも行けない人がいるなら、見えていない理由があります。

 私は今度、その理由を探しに行きます。

 地図に書かれていない夜の足音を、少し見てきます。

 帰ったらまた書きます。

 リディア。


 書いたあと、少しだけ考えた。


 地図に書かれていない夜の足音。


 小冊子には書かないかもしれない。


 でも、エレノアには書ける。


 姉妹の手紙には、報告書とは違う言葉があっていい。


 その違いも、最近ようやくわかってきた。


 翌日の夕刻、リディアは西区へ向かった。


 アルベルトも一緒だった。


 馬車の中には、リディア、アルベルト、オスカー。護衛は別馬で控えめにつく。大げさな視察団には見えないよう、馬車も宰相家の紋を目立たせないものにしていた。


 西区へ近づくにつれ、空の色が少しずつ沈んでいく。


 昼の店が片づけを始め、夜の店が灯りをつける。

 職人たちが帰路につき、荷馬車が最後の積み荷を運び、酒場の扉が開く。


 同じ道なのに、空気が変わる。


 リディアは窓の外を見つめた。


 昼と夜の境目。


 そこに、人の流れの変化がある。


「見えるか」


 アルベルトが尋ねた。


「はい」


 リディアは答えた。


「同じ道なのに、歩いている人が変わっています」


「ああ」


「昼の地図では、これは見えませんね」


「見えない」


 馬車は、西区の大通り手前で止まった。


 そこからは少し歩く。


 案内役として、職人組合の中年男性が待っていた。名をダリオという。がっしりした体つきで、いかにも西区に慣れた人物だった。


「宰相閣下、宰相夫人。本日は短い距離だけご案内します」


「頼む」


 アルベルトが言う。


 ダリオはリディアへも礼をした。


「このあたりは、昼は問題ありません。ただ、日が落ちると少し騒がしくなります」


「少し?」


 リディアが尋ねると、ダリオは苦笑した。


「西区の人間にとっては少しです。慣れていない方には、かなりかもしれません」


 歩き始めると、その意味はすぐにわかった。


 大通りには灯りがある。


 暗くはない。


 しかし、静かでもなかった。


 酒場の前で笑う男たち。

 荷馬車の車輪。

 職人たちの大声。

 道端で客を呼ぶ食べ物屋。

 木箱を積み上げる音。


 リディアは外套の前を少し押さえた。


 怖い、というほどではない。


 アルベルトも護衛もいる。

 だから歩ける。


 けれど、もし一人だったら。

 子どもを連れていたら。

 具合の悪い家族を支えていたら。

 この道を通って施療院へ行けるだろうか。


 わからなかった。


 いや、ためらうだろう。


 灯りがあるのに、安心しきれない。


 そのことが、リディアにははっきりわかった。


 道の角で、若い女性が足を止めていた。


 手には小さな包み。外套のフードを深く被り、酒場の前を通るか迷っているように見える。


 彼女は一歩進みかけ、酒場の入口から大きな笑い声が上がると、反射的に足を引いた。


 リディアは、胸がきゅっとなった。


 その女性は、リディアたちには気づいていない。


 しばらく迷ったあと、遠回りの細い道へ入っていった。


 ダリオが小さく言った。


「あっちへ行くと遠いです。灯りも少ない」


「でも、酒場前を避けられる」


 リディアが言うと、ダリオは頷いた。


「ええ。女衆はよくあちらへ回ります」


「その道は安全ですか」


「昼は。夜は……人通りが少ないので、別の怖さがあります」


 リディアは、その細い道の奥を見た。


 暗い。


 大通りは明るく騒がしい。

 細い道は暗く静か。


 どちらも、完全には安心できない。


「西区の問題は、暗さだけではありませんね」


 リディアは言った。


「騒がしさを避けると暗くなり、明るさを選ぶと視線を浴びる」


 ダリオが驚いたようにこちらを見る。


「……そうです。まさに」


 アルベルトも、黙って頷いた。


 しばらく歩くと、施療院へ続く角に出た。


 紙の地図では、ここから施療院まで近い。


 だが実際には、途中に荷馬車の停車場所があり、道幅が狭くなっている。夕刻には荷を下ろす者が集まり、通り抜けにくい。


 そこを通る老人が、荷車を避けようとして足を止めていた。


 誰かが悪いわけではない。


 荷運び人も仕事をしているだけだ。


 けれど、具合の悪い人が通る道としては、かなり厳しい。


「施療院は近いのに、遠いですね」


 リディアは呟いた。


 距離ではない。


 通れるかどうか。


 それが問題だった。


 施療院に着くころには、空はほとんど夜の色になっていた。


 西区施療院長は、痩せた男性だった。目の下に疲れがあるが、声はしっかりしている。


「夕刻の道をご覧になりましたか」


「はい」


 リディアは頷いた。


「地図より、ずっと複雑でした」


「そうでしょう」


 院長は深く息を吐いた。


「夜に来られない人を責める者もいます。施療院はあるのに、なぜ来なかったのかと。ですが、私は責められません」


「朝に来る方が多いと伺いました」


「ええ。昨夜から痛かった、熱があった、子どもが泣いていた。でも夜は無理だった、と」


「無理だった理由を、聞き取りたいと思っています。ただし、責める形ではなく」


 リディアが言うと、院長は少しだけ目を細めた。


「それはありがたい。皆、自分が悪いと言いますから」


「その選択肢は、票に入れません」


 リディアが答えると、院長は驚いたように顔を上げた。


「自分が悪い、を?」


「はい。聞きたいのは、その人を止めた条件です。道、時間、視線、荷馬車、付き添いの有無。本人を責めるためではありません」


 院長は、しばらく黙っていた。


 そして、深く頷いた。


「宰相夫人。西区には、その聞き方が必要です」


 帰り道、リディアは馬車の中で黙っていた。


 外では、夜の西区が通り過ぎていく。


 灯りはある。

 声もある。

 人もいる。


 なのに、行けない人がいる。


 西区の困りごとは、まだ形になりきっていない。


 けれど、入口は見えた。


「旦那様」


「何だ」


「西区には、灯りを増やすだけでは足りません」


「ああ」


「道を選べるようにする必要があります。騒がしい大通りだけでなく、暗い細道だけでもない。付き添い、時間帯、荷馬車の整理、酒場前を避ける案内……」


「導線だな」


「はい。東区とは違う導線です」


 橋を渡るための導線ではない。

 夜道の中で、自分を責めずに施療院へ向かえる導線。


 それを作る必要がある。


 アルベルトは静かに言った。


「名前をつけるのは、まだ早い」


「はい」


「まず聞き取りだ」


「はい」


「それから、現場の協力者を探す。施療院、職人組合、酒場組合、荷運び人」


「酒場組合も?」


「避けては通れない」


 たしかにそうだ。


 酒場が悪いと決めつければ、西区の人々は反発する。

 けれど酒場前を通れない人がいるなら、協力を求める必要がある。


 敵を作るのではなく、導線を整える。


 それは難しい仕事になりそうだった。


「疲れたか」


 アルベルトが尋ねた。


「少し。でも、見てよかったです」


「そうか」


「旦那様が同行してくださったので、見られました」


 アルベルトは少し黙った。


「仕事だ」


「はい」


「……それだけではない」


 リディアは、はっと顔を上げた。


 アルベルトは窓の外を見ていた。


「君が見る必要があると言った。なら、見られる形にするのは私の役目だ」


 胸の奥が、静かに震えた。


 この人は、時々こういうことを言う。


 飾らず、短く。

 けれど、逃げ場がないほどまっすぐに。


「ありがとうございます」


 リディアは言った。


「受け取る」


 その返事に、少し笑う。


 王都の夜を馬車が進んでいく。


 西区の地図には、まだ夜の足音が書かれていない。


 でも、今日少しだけ聞こえた。


 迷う足音。

 遠回りする足音。

 荷馬車の前で止まる足音。

 施療院へ行けず、翌朝まで痛みを抱える人の足音。


 それを、これから記録にしていく。


 責めるためではなく、次の道を作るために。


 リディアは窓の外の夜を見つめながら、静かにそう決めた。

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