表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

94/110

第94話 父は、娘の言葉を叱らなかった

 成果報告茶会の翌朝、リディアは小冊子の余白に一文を書き足していた。


 ――成果報告は、ありがとうの代わりではない。


 昨日、王宮の小サロンで口にした言葉だった。


 言った瞬間は、ただ必要だから言った。ファーネル侯爵夫人に対して線を引くために。寄付者の満足のために、子どもたちの言葉を差し出さないために。


 けれど一晩置いてみると、その一文は思っていた以上に大きかった。


 成果報告は、ありがとうの代わりではない。


 支援がどこへ届いたかを伝える。

 何が改善し、何がまだ足りないかを示す。

 寄付者が次の判断をするための材料を出す。


 それは必要だ。


 けれど、その報告に、受け取った側の感謝まで背負わせてはいけない。


 ありがとうは、報告書の欄に記入する項目ではない。


 リディアは書いた文字を見つめた。


 少し強い。

 だが、今後の冬季灯火網には必要な強さだった。


「奥様、少し字が濃くなっております」


 オスカーが向かいから言った。


 リディアははっとして、自分の書いた文字を見る。


 たしかに、少し筆圧が強い。


「力が入っていましたね」


「悪いことではありませんが、正式文ではもう少し整えましょう」


「ええ」


 リディアは小さく笑った。


「オスカー、最近遠慮が減りましたね」


「奥様が率直な指摘を望まれるようになったからです」


「私が?」


「はい。以前なら、もう少し言葉を選びました」


 そう言われると、不思議な気持ちになった。


 周りが変わったのではなく、自分が受け取れるようになったのかもしれない。


 きつく責められるのではない。

 仕事をよくするために、指摘される。


 それを少しずつ怖がらなくなってきた。


 そのとき、ハロルドが入ってきた。


「奥様。エレノア様より、お手紙でございます」


 白百合の封蝋だった。


 リディアの胸が、静かに弾む。


 昨日の茶会で、エレノアは発言した。


 ありがとうを書けた子だけが外へ出されるなら、書けない子は見えなくなる。


 あの言葉は、リディアの胸に深く残っている。


 妹は、姉の言葉をなぞったのではない。

 自分の中で考え、自分の言葉として立たせた。


 リディアは封を切り、便箋を開いた。


 ――お姉様。

 昨日は、私の話を聞いてくださってありがとうございました。

 帰ってから、少し手が震えました。

 母上が温かいお茶を淹れてくださいました。

 父上は、最初は何もおっしゃいませんでした。


 そこまで読んで、リディアは少し息を止めた。


 父。


 グラントが、エレノアの発言をどう受け止めたのか。


 続きを読んだ。


 ――夕食のあと、父上に呼ばれました。

 叱られると思いました。

 余計なことを言うな、と言われると思いました。

 けれど父上は、私にこう尋ねました。

 「書けない子は見えなくなる、とはどういう意味だ」と。

 私は、うまく説明できたか自信がありません。

 でも、東区の引き返した方のことと、南区の感謝文のことを話しました。

 できた人だけ、書けた人だけ、笑えた人だけが記録されると、できなかった人は最初からいなかったようになるのではないかと。


 リディアは、便箋を持つ指に力が入るのを感じた。


 エレノア。


 あなたは、そこまで言ったの。


 胸の奥が熱くなる。


 ――父上は、しばらく黙っていました。

 私は怖くて、もう一度謝りそうになりました。

 でも、お姉様ならきっと、謝る前に自分の言葉を最後まで置くのではないかと思って、黙って待ちました。

 すると父上は、「なるほど」とだけ言いました。

 それだけです。

 でも、叱られませんでした。


 リディアは、目を閉じた。


 叱られなかった。


 それは、エレノアにとって大きなことだっただろう。


 父に自分の言葉を置いて、否定されなかった。

 問い返され、説明し、黙って待ち、叱られなかった。


 それは小さな変化に見えるかもしれない。


 けれど、フォルセイン侯爵家の空気を知っているリディアには、その重さがわかった。


 さらに続きがあった。


 ――父上はそのあと、お姉様の小冊子をもう一度見せるように言いました。

 私はお渡ししました。

 父上は北区と東区の頁だけでなく、南区の頁も読みました。

 そして「成果報告は、ありがとうの代わりではない、か」と呟きました。

 お姉様。

 父上が、少しだけ考えているように見えました。

 私はそれが嬉しかったです。

 でも、怖くもあります。

 父上が変わることを期待しすぎると、また苦しくなる気がするからです。

 だから私は、期待しすぎず、でも見なかったことにはしないでおこうと思います。


 リディアは、その一文で深く息を吐いた。


 期待しすぎず、でも見なかったことにはしない。


 エレノアは、リディアが思うよりずっと慎重に、自分の心を見ている。


 父が変わるかもしれない。

 でも、それにすがれば傷つくかもしれない。

 だから、期待しすぎない。


 それは、今のリディアにも必要な姿勢だった。


 最後には、妹らしい少し照れた言葉が添えられていた。


 ――それから、お姉様。

 昨日の茶会で、私が言葉に詰まったとき、お姉様が急かさずに待ってくださったことが嬉しかったです。

 あの一瞬、私の言葉を奪われなかった気がしました。

 ありがとうございました。

 エレノア。


 リディアは便箋をそっと畳んだ。


 胸がいっぱいだった。


 だが、涙は出なかった。


 涙より先に、静かな誇らしさがあった。


「奥様」


 エマが声をかける。


「よいお手紙でございましたか」


「ええ」


 リディアは微笑んだ。


「とても」


 オスカーも、少し表情をやわらげた。


「エレノア様は、昨日の件でお疲れでは」


「疲れたと思います。でも……言えたことを、自分で受け止めているようです」


「それは何よりです」


 リディアは手紙を胸元に置いた。


「旦那様に見せてきます」


 執務室へ行くと、アルベルトは王宮から届いた書類を確認していた。


 だが、リディアが入るとすぐに手を止めた。


「妹からか」


「はい。読んでいただけますか」


「ああ」


 アルベルトは手紙を受け取り、静かに読んだ。


 読み終えるまで、彼の表情はほとんど変わらなかった。けれど、「叱られませんでした」のところで、ほんのわずかに目元が動いたのがわかった。


 最後まで読んだあと、彼は手紙を丁寧に畳んだ。


「いい手紙だ」


「悪くない、ではないのですね」


「いい手紙だ」


 繰り返された。


 リディアの胸が温かくなる。


「エレノアは、父上の前で待てたそうです」


「ああ」


「謝りそうになったけれど、黙って自分の言葉を置いたまま待てたと」


「それは大きい」


「はい」


 リディアは手紙を受け取った。


「父上も、叱らなかったそうです」


「問い返した」


「はい」


「叱るより難しいことをしたな」


 リディアは少し驚いた。


「父上が?」


「ああ。相手の言葉を理解しようとするとき、人は問い返す。押さえ込むなら叱ればいい」


 その言葉に、リディアは黙った。


 父が、理解しようとした。


 そう断言するには、まだ早いかもしれない。


 だが、少なくとも今回は押さえ込まなかった。


 エレノアの言葉を、すぐには潰さなかった。


「期待しすぎないようにしたいです」


 リディアは静かに言った。


「エレノアも、そう書いていました」


「それがいい」


 アルベルトは頷いた。


「期待しすぎると、相手の変化を自分の救いにしてしまう」


「はい」


「だが、変化があったなら見ておけばいい」


「見なかったことにはしない」


「そうだ」


 リディアは、エレノアの言葉がアルベルトの言葉と重なるのを感じた。


 慎重に見る。


 期待しすぎず、切り捨てすぎず。


 それはとても難しい。


 けれど、今の自分なら、少しずつできるかもしれない。


「旦那様」


「何だ」


「私は、父上を敵としてだけ見たくないのだと思います」


 言ってから、胸の奥が少し震えた。


 父に傷つけられた。

 家名のために使われそうになった。

 言葉を奪われてきた。


 それは事実だ。


 けれど、それだけで父を閉じ込めてしまえば、自分もまた楽になる一方で何かを見落とすのかもしれない。


「ただし」


 アルベルトがすぐに言った。


「線は戻すな」


 リディアは顔を上げ、少し笑った。


「はい。そこは戻しません」


「それならいい」


「旦那様は、本当に私の足元を見てくださいますね」


「転びそうになるからな」


「否定できません」


「今は以前ほどではない」


「それは褒めていますか」


「褒めている」


 リディアは小さく笑った。


 そのやり取りだけで、胸の緊張が少しほどける。


 午後、王宮慈善局から正式な返答が届いた。


 南区支援の成果報告文に、「成果報告は、ありがとうの代わりではない」という一文を冬季灯火網全体の原則として加えることが承認された。


 同時に、支援者向けの新しい報告様式も作られることになった。


 項目は三つ。


 何に使われたか。

 何が改善したか。

 次に何が必要か。


 リディアはその様式を見て、静かに頷いた。


 これなら、寄付者にもわかりやすい。


 感謝文ではなく、次の支援へ繋がる報告になる。


「これは使えますね」


 オスカーが言った。


「はい」


 リディアは書類の端を整えた。


「北区、東区、南区すべてに適用しましょう」


「西区調査にも、最初からこの様式を使えます」


「西区……」


 リディアは、王都地図の西側を見る。


 次の地域。


 まだ制度名もついていない。

 夜間施療導線の調査だけが決まっている。


 北区の火。

 東区の橋。

 南区の窓と毛布。


 そして、西区。


 また新しい困りごとの形を見ることになる。


 少しだけ緊張した。


 だが、以前のように怖さだけではなかった。


 今は、見るための道具が増えている。


 成果報告の様式。

 感謝を徴収しない原則。

 残す、直す、新しくする分類。

 名前を出すものと守るものの線。


 それらはすべて、これまでの現場から生まれたものだった。


 リディア一人の考えではない。


 だから、次へ持っていける。


 夕方、エレノアへの返事を書いた。


 ――エレノア。

 手紙を読みました。

 父上の前で自分の言葉を置いて待てたこと、本当に大きな一歩だと思います。

 叱られなかったことを、すぐに希望に変えすぎなくていい。

 でも、見なかったことにしなくてもいい。

 あなたが書いてくれた通りだと思います。


 リディアは少し手を止めた。


 父について、何を書くべきか。


 慎重に言葉を選ぶ。


 ――父上を変えようと、あなたが一人で頑張る必要はありません。

 父上の考えは父上のものです。

 でも、あなたの言葉はあなたのものです。

 その言葉を置けたことを、私は嬉しく思います。

 そして、誇らしく思います。


 誇らしく思います。


 また書いた。


 だが、今回は迷わなかった。


 最後に、少し姉らしいことも添えた。


 ――疲れた日は、温かいお茶を飲んで早く休んでください。

 私も、最近ようやく休むことを覚え始めました。

 お互い、少しずつ練習しましょう。

 リディア。


 封をして、ブルースターの印を押す。


 その小さな印を見て、リディアはふと思った。


 白百合とブルースター。


 妹と姉の手紙に、それぞれ違う花が咲いている。


 同じ家の中にいても、違う花でいい。


 そんな当たり前のことを、ようやく受け取れるようになった気がした。


 夜、温室へ行くと、アルベルトが先にいた。


 珍しい。


 彼はブルースターの前に立ち、花を見ていた。


「旦那様が先にいらっしゃるなんて」


「今日は少し早く終わった」


「本当に?」


「少しだけだ」


「無理やり終わらせたのでは」


「君に言われたくはない」


 リディアは笑ってしまった。


 たしかに。


 彼女は長椅子に座り、エマが置いてくれた茶を手に取った。


 温かい。


 今日は泣くほどではない。


 けれど、胸の奥には静かな波がある。


「エレノアの手紙が、とても嬉しかったです」


「ああ」


「父上の変化を期待しすぎないようにしようと思います。でも、見なかったことにもしたくありません」


「それでいい」


「旦那様は、父上のことをどう見ていますか」


 尋ねてから、少しだけ緊張した。


 アルベルトはすぐには答えなかった。


 少し考え、言う。


「フォルセイン侯爵は、家を守ることに慣れすぎている」


「はい」


「人を家の一部として見る癖がある」


 リディアは胸が少し痛んだ。


 だが、その通りだった。


「だが、全く話が通じない男ではない。通じるまでに時間がかかるだけだ」


「時間」


「ああ。こちらが線を引き続ける必要がある」


「線を」


「一度通った線も、放置すれば押し戻される」


 厳しい言葉だった。


 けれど、現実だった。


 父は一度理解しかけたからといって、すぐに変わるわけではない。

 また家名の論理へ戻ることもあるだろう。

 リディアを娘として扱い、エレノアを幼い妹として押さえようとすることもあるかもしれない。


 だから線は引き続ける。


 怒りではなく、継続として。


「わかりました」


 リディアは頷いた。


「線は戻しません」


「いい」


「でも、父上が問い返したことは、覚えておきます」


「それもいい」


 リディアは、少しだけ笑った。


「旦那様は、今日は両方いいと言ってくださるのですね」


「どちらも必要だからな」


「はい」


 温室の灯りが静かに揺れる。


 リディアは茶を飲みながら、今日一日のことを思い返した。


 エレノアの手紙。

 父が叱らなかったこと。

 成果報告の新様式。

 西区の地図。

 アルベルトの言葉。


 物語はまだ続く。


 冬もまだ長い。


 けれど、少しずつ道具が増えている。


 火を守るための記録。

 橋を渡るための灯り。

 窓を塞ぐための板。

 古い毛布を繕う手。

 感謝を徴収しない原則。

 そして、自分の言葉を置いて待つ勇気。


 それらはすべて、リディアの中にも灯っていた。


「旦那様」


「何だ」


「今日は泣きません」


「先に言ったな」


「はい。確認される前に」


「学習したな」


「旦那様も、受け取るのが早くなりました」


「それは君のせいだろう」


 またその言い方。


 リディアは、胸が温かくなって笑った。


「なら、少し嬉しいです」


 アルベルトは視線を外した。


「……そうか」


 その横顔は、相変わらず少し不器用だった。


 けれど、リディアにはもう、その不器用さも温かく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ