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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第93話 成果報告は、ありがとうの代わりではない

 南区支援の成果報告を書く朝、リディアはいつもより長く白紙を見つめていた。


 机の上には、南区第三孤児院から届いた記録が並んでいる。


 窓枠仮補修、三箇所。

 寝室奥の風音、軽減。

 床板補修、一箇所完了、二箇所は後日。

 毛布補修、六枚完了。

 新毛布追加、四枚。

 古毛布の一部保存補修、二枚。

 小物棚設置、食堂壁際。

 棚札、院内運用開始。


 数字としては、ささやかだった。


 大きな橋を架けたわけではない。

 巨大な暖炉を作ったわけでもない。

 王都中が驚くような華やかな慈善ではない。


 けれど、あの孤児院では昨夜、窓の音が少し静かになった。


 古い毛布の角を失わずに眠れた子がいる。


 食堂の棚には、「今日の枝」の札の次に「トムの石」が置かれた。


 それをどう書くか。


 そこが難しかった。


 書きすぎれば、子どもたちの生活を社交界へ差し出してしまう。

 書かなすぎれば、寄付者には何が届いたのかわからない。

 温かくしすぎれば感動の飾りになり、冷たくしすぎればただの修繕記録になる。


 リディアはペンを持ったまま、静かに息を吸った。


「奥様」


 オスカーが控えめに声をかける。


「文頭で迷っておられますか」


「ええ」


 リディアは苦笑した。


「成果報告なのに、ありがとうの代わりに読まれてしまいそうで」


「寄付者側は、多少そう読むでしょうね」


「そうね。でも、そこに寄せすぎたくないの」


 成果報告は必要だ。


 支援が何に変わったか。

 何が足りていて、何が足りていないか。

 どの寄付がどう使われたか。


 それを知らせなければ、次の支援は続かない。


 けれど、成果報告は“ありがとうの代理”ではない。


 子どもたちが礼状を書かない代わりに、大人が感動的な報告を書いて寄付者を満足させる。

 それでは、形を変えて同じ場所へ戻ってしまう。


 リディアは、ようやく一行目を書いた。


 ――南区第三孤児院における初期修繕支援は、子どもたちから感謝を集めるためではなく、冬の生活環境を改善するために行われた。


 少し硬い。


 でも、最初に線を引く必要があった。


 続けて書く。


 ――本報告は、寄付者各位へ支援の用途と結果を知らせ、次に必要な支援を明らかにするためのものである。個々の子どもの氏名、発言、制作物は原則として掲載しない。


 ここまで書いて、リディアはペンを止めた。


 強い。


 けれど、逃げていない。


「読み上げます」


 リディアが言うと、オスカーは頷いた。


「お願いします」


 リディアは文頭を読んだ。


 オスカーはしばらく考え、それから言った。


「よいと思います。ただ、このままだと最初から少し構えさせるかもしれません」


「やはり硬い?」


「硬いというより、読む側によっては叱られているように受け取る可能性があります」


「それは困るわ」


「二段目に、成果を簡潔に入れてはいかがでしょう。線を示した直後に、実際の改善を示す」


「なるほど」


 リディアは少し考え、文を足した。


 ――初回支援により、寝室二室の窓枠仮補修、床板一箇所の補修、毛布六枚の補修、新毛布四枚の追加、小物棚一台の設置が完了した。今後、恒久修繕と追加補修を継続する。


 数字が入ると、報告として落ち着く。


 さらに、補足として短い説明を添える。


 ――窓枠補修により、寝室奥の風音は軽減されたと院長より報告があった。

 ――毛布補修では、子どもの睡眠習慣を損なわないよう、古い布の一部を保存し、新布と合わせて補強した。

 ――小物棚は、子どもたちが院内で拾った枝や葉などを置くために設置された。使用状況は院内に留め、外部向けの制作物提出は求めない。


 リディアはそこで、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。


 言えた。


 トムの石も、今日の枝も書かない。

 けれど、棚が何のためにあるかは残す。


「この形なら、伝わると思います」


 オスカーが言った。


「ありがとうの代わりではなく、次の支援のための報告になります」


「そうね」


 リディアは頷いた。


「成果報告は、次の灯りの地図なのかもしれません」


 オスカーがペンを止めた。


「それ、表現として入れますか?」


「入れません」


 リディアは即答した。


 オスカーが少し笑った。


「では、心に留めておきます」


「ええ。そうして」


 午前のうちに、成果報告の草案はまとまった。


 アルベルトへ見せると、彼は黙って最後まで読み、少しだけ頷いた。


「よく分けている」


「分けている?」


「報告するものと、守るものをだ」


 リディアは、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


「そこを一番迷いました」


「迷った跡がある。悪くない」


「かなりいい、では?」


 少し期待して言うと、アルベルトは真顔で返した。


「かなりいい」


 リディアは、思わず言葉に詰まった。


 自分で求めておいて、いざ言われると慣れない。


 アルベルトの口元が、ほんのわずかに動いた。


「自分で聞いただろう」


「はい。でも、まだ慣れません」


「慣れろ」


「努力します」


 そう答えながら、リディアは報告書の最後に目を落とした。


 ――今後必要な支援。

 恒久窓枠修繕。床板補修継続。薬湯支援追加。毛布補修用具の継続供給。世話係への補修手順共有。


 まだ終わっていない。


 むしろ、始まったばかりだ。


「午後の茶会で、この報告を使います」


 リディアが言うと、アルベルトは少し目を細めた。


「ファーネル侯爵夫人も来るのか」


「はい」


「なら、必ず数字に戻せ」


「感情や演出で絡め取ろうとする相手には、記録が効く」


 リディアが先に言うと、アルベルトは一瞬黙った。


「覚えているならいい」


「旦那様の言葉は、実用的なので」


「褒めているのか」


「はい」


「そうか」


 また少しだけ視線を外す。


 リディアは、その横顔に小さく笑みをこぼした。


 午後、王宮の小サロンで南区支援の成果報告茶会が開かれた。


 茶会とは名ばかりで、内容はかなり実務的だった。出席者は、王妃付きの女官、慈善局担当官、ローゼン侯爵夫人、グレイス伯爵夫人、ヴェルナー子爵夫人、数名の寄付者、セシリア、そしてファーネル侯爵夫人。


 エレノアも、母セレスティアとともに端の席にいた。


 父グラントの姿はない。


 それに少しだけ安堵しつつ、リディアは妹と目が合うと小さく頷いた。


 エレノアは緊張した顔で、それでもまっすぐ頷き返してくれた。


 報告が始まると、リディアはまず文頭を読み上げた。


「本報告は、寄付者各位へ支援の用途と結果を知らせ、次に必要な支援を明らかにするためのものです。個々の子どもの氏名、発言、制作物は原則として掲載いたしません」


 少しだけ空気が硬くなる。


 予想通りだった。


 けれど、続ける。


「初回支援により、寝室二室の窓枠仮補修、床板一箇所の補修、毛布六枚の補修、新毛布四枚の追加、小物棚一台の設置が完了しました」


 数字が出ると、数名の夫人が小冊子を見た。


 ヴェルナー子爵夫人がすぐ頷く。


「毛布補修については、私からも補足してよろしいかしら」


「お願いいたします」


 リディアが促すと、夫人は立ち上がった。


「最初、私は全員分の新しい毛布を用意するつもりでした。でも現場で、古い毛布の一部を残す必要があると知りました。新しい毛布は暖かい。けれど、子どもによっては、いつもの手触りがなければ眠れないことがあります。今回は、使えるものは補修し、必要な分だけ新しく足しました」


 彼女の言葉は、以前よりずっと落ち着いていた。


 寄付者として、自分が変わったことを隠さない。


 それが、説得力になっていた。


 グレイス伯爵夫人が言った。


「新しく配るだけではなく、繕う支援ということですわね」


「ええ」


 ヴェルナー子爵夫人は頷いた。


「繕う手は目立ちません。でも、子どもが眠れるなら、そのほうがよいのだと学びました」


 リディアは、その言葉を聞いて胸が温かくなった。


 自分が感じたことを、別の人が自分の言葉で語っている。


 灯りが渡っていくようだった。


 その時、ファーネル侯爵夫人が微笑みながら口を開いた。


「素晴らしいことですわ。ですが、やはり実際に使っている子どもたちの喜びが少しでも伝われば、さらに多くの方が支援に参加できるのではありませんこと?」


 やはり来た。


 リディアは心の中で静かに息を整える。


「子どもたちの生活が改善したことは、院長および慈善局の確認により報告いたします」


「もちろん、それは理解しておりますわ。ただ、数字だけでは伝わらない温かさもありますでしょう?」


「はい」


 リディアは頷いた。


「ですから、報告には生活の変化を記します。ただし、子ども個人の言葉を取り上げて外へ出すことはしません」


「それでは、少し寂しい報告になりませんか?」


「寂しいと感じる方もいるかもしれません」


 リディアは、ファーネル夫人をまっすぐ見た。


「ですが、寂しさを埋めるために、子どもの言葉を借りることはしません」


 サロンが静かになった。


 リディアは続けた。


「成果報告は、ありがとうの代わりではありません。支援がどう使われたかを伝え、次に何が必要かを示すためのものです」


 言えた。


 胸の奥で、何かが静かに定まる。


「感謝を知りたいお気持ちは理解します。ですが、支援を受ける側の言葉を、支援を続けるための燃料にしてはいけないと思います」


 ファーネル夫人の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


 そこへ、エレノアが小さく手を上げた。


 リディアは驚いて妹を見る。


 エレノアの顔は緊張で白い。


 だが、手は下げなかった。


 王妃付き女官が促す。


「どうぞ」


 エレノアは立ち上がった。


「私は、南区支援に直接関わったわけではありません」


 声は少し震えていた。


「でも、舞踏会の小冊子と、東区の渡り灯の報告を読みました。私は……できなかった人も記録するという考えに、救われた気がしました」


 サロンの視線が、若い侯爵令嬢へ集まる。


 エレノアは一瞬怯えたように見えたが、続けた。


「もし、ありがとうを書けた子だけが外へ出されるなら、書けない子は見えなくなります。何を書けばいいかわからない子もいると思います。嬉しくても、言葉にできない子もいると思います」


 リディアは、胸が詰まりそうになった。


 エレノア。


 あなたは、そこまで考えてくれたの。


「だから、成果報告で十分だと思います」


 エレノアは、ぎゅっと小冊子を握った。


「その子たちが眠れたなら、それは報告でわかります。ありがとうを言えたかどうかで、支援が届いたかを測らなくてもよいと思います」


 言い終えたあと、彼女は深く礼をして座った。


 サロンは静まり返っていた。


 セレスティアが、娘の隣で目を伏せている。


 その目元は少し潤んでいた。


 リディアも、すぐには言葉が出なかった。


 だが、ここで姉として感情に飲まれてはいけない。


 彼女は宰相夫人として頷いた。


「エレノア様、ありがとうございます。今おっしゃった視点も、今後の方針に反映いたします」


 妹として抱きしめたい気持ちは、今は胸の奥にしまう。


 公の場では、彼女の発言を一人の令嬢の意見として扱う。


 それが、エレノアの言葉を子ども扱いしないことだと思った。


 ローゼン侯爵夫人が静かに口を開いた。


「よい意見ですわ。書ける子だけが見える、というのは確かに問題です」


 グレイス伯爵夫人も頷く。


「成果報告は成果報告として、十分に読み応えがあります。私はこの形式に賛成です」


 ファーネル侯爵夫人は、ゆっくり扇を閉じた。


「若い方の感性は、時に鋭いものですわね」


 その声には、まだ何か含みがあった。


 けれど、もう流れは変わっていた。


 報告茶会の後半では、次に必要な支援について話し合われた。


 薬湯支援。

 窓枠の恒久修繕費。

 床板補修の追加。

 毛布補修用具の継続供給。


 具体的な項目に戻ると、寄付者たちも自然に考え始めた。


「薬湯が足りないのなら、蜂蜜を出せる商家を知っています」

「窓枠なら、夫の領地に腕のよい職人がいます」

「床板は急いだほうがよいのでは?」


 感動の話ではなく、次の手へ。


 それが、成果報告の本来の役割だった。


 茶会が終わると、エレノアがそっと近づいてきた。


 顔はまだ少し赤い。


「お姉様」


「エレノア」


「私、出過ぎたでしょうか」


「いいえ」


 リディアは静かに答えた。


「とてもよい意見でした」


 エレノアの目が潤む。


「本当ですか」


「本当です」


「怖かったです」


「ええ」


 リディアは、少しだけ声を柔らかくした。


「でも、言えたのね」


 エレノアは小さく頷いた。


「言えました」


 その言葉に、リディアは微笑んだ。


 本当は手を取りたかった。


 でも、ここはまだ王宮の小サロンだ。


 代わりに、彼女はそっと言った。


「あとで、手紙を書きます」


「はい」


 エレノアは嬉しそうに頷いた。


 宰相家へ戻ると、アルベルトが執務室で報告を待っていた。


 リディアが茶会の内容を伝え、エレノアの発言も話すと、彼は少しだけ目を細めた。


「妹君は伸びるな」


「伸びる?」


「自分の言葉を持ち始めている」


「はい」


 リディアは誇らしくなった。


「今日は、とても頑張っていました」


「君は?」


「私も……言えました」


「何を」


「成果報告は、ありがとうの代わりではないと」


 アルベルトは静かに頷いた。


「いい言葉だ」


「小冊子には?」


「入れてもいい」


 予想外の返答だった。


 リディアは目を瞬く。


「入れても?」


「ああ。今後の原則として必要だ」


 リディアは少し考えた。


 成果報告は、ありがとうの代わりではない。


 強い。


 けれど、この言葉もまた線になる。


「では、原則文に加えます」


「そうしろ」


 アルベルトは、少しだけ間を置いた。


「今日は疲れただろう」


「はい」


「休め」


「報告書を」


「明日だ」


「でも」


「明日だ」


 声は静かだが、譲る気はまったくない。


 リディアは少しだけ笑ってしまった。


「わかりました。明日にします」


「成長したな」


「最近、それをよく言われます」


「事実だ」


「はい」


 温室へ行くと、リディアはブルースターの前でしばらく座っていた。


 今日の茶会。


 ファーネル侯爵夫人の微笑み。

 ヴェルナー子爵夫人の補足。

 エレノアの震える声。

 そして、自分の言葉。


 成果報告は、ありがとうの代わりではない。


 その言葉は、きっと今後も必要になる。


 支援が大きくなればなるほど、人は成果を欲しがる。

 数字だけでは足りず、物語を欲しがる。

 涙や笑顔や感謝を欲しがる。


 でも、支援を受ける人の心は、報告書に差し出すものではない。


 リディアはその線を、これからも守りたいと思った。


 たとえ冷たいと言われても。


 温室の扉が開き、アルベルトが入ってくる。


「泣いていないな」


「今日は泣きません」


「そうか」


「でも、少し胸がいっぱいです」


「茶を飲め」


「はい」


 もう、その助言にも慣れてきた。


 リディアは茶を一口飲み、ほっと息を吐いた。


「旦那様」


「何だ」


「エレノアが、今日は本当に頑張りました」


「ああ」


「私は、妹を誇らしいと思いました」


「いいことだ」


「はい」


 リディアはブルースターを見た。


 誰かの成長を、比べるためではなく喜べる。


 それもまた、自分にとって新しいことだった。


 成果報告は、ありがとうの代わりではない。


 そして、誰かの言葉は、誰かの所有物でもない。


 エレノアは今日、自分の言葉を自分のものとして立たせた。


 そのことが、リディアには何より眩しかった。

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