第92話 妹は、姉を冷たい人だと言わせなかった
冷たい宰相夫人。
その言葉は、思っていたより早く社交界の薄い膜の上を滑っていった。
誰かが大声で言ったわけではない。
新聞に載ったわけでもない。
王宮で正式に取り上げられたわけでもない。
それでも、噂というものは水より早く隙間へ入り込む。
慈善婦人会の小会合で、リディアは「感謝文を求めない」方針を通した。成果報告は出す。修繕箇所も、補修枚数も、支援物資も記録する。だが、子どもたちの礼状や絵を制度として求めることはしない。
それは王妃の承認を得た方針だった。
にもかかわらず、噂は違う形を取った。
宰相夫人は、子どもたちの感謝まで管理しようとしている。
寄付者の善意を数字でしか見ない。
あまりに実務的で、慈善の温かさがない。
やはり、昔から言われていた通り、冷たい方なのではないか。
リディアの耳へそれが届いたのは、翌日の午前だった。
直接聞いたのは、ローゼン侯爵夫人からの手紙だった。
――宰相夫人。
昨日の会合後、いくつかの茶会で妙な言い換えが出ております。
あなたの方針を「感謝を禁じた」と語る方がいるようです。
念のためお知らせします。
私はあなたの説明を理解しております。必要であれば、私の茶会でも正しく伝えます。
短いが、心強い手紙だった。
グレイス伯爵夫人からも、似たような知らせが来ていた。
ヴェルナー子爵夫人からは、少し勢いのある手紙が届いた。
――私の周囲にも妙な話が来ましたので、父の商会関係者へは説明済みです。
毛布に商会印を入れないことも、子どもたちに礼状を求めないことも、支援の失礼ではなく支援先への礼儀だと伝えました。
なお父は最初渋りましたが、ベルタが「子どもの毛布を看板にするな」と言ったので黙りました。
その最後の一文で、リディアは少し笑ってしまった。
ベルタらしい。
職人の一言は、時に貴婦人の長い説明より効くのかもしれない。
だが、笑いは長く続かなかった。
噂は痛い。
わかっていても痛い。
冷たい。
その言葉は、何度も聞いてきた。
そして何度聞いても、完全には慣れない。
作業室で手紙を読み終えたリディアは、指先で便箋の端をそっと撫でた。
「奥様」
エマが、いつものように茶を置く。
今日は、少し蜂蜜の香りがした。
「また顔に出ていましたか」
「はい」
「最近、隠せませんね」
「隠す必要のない場所でございますから」
その言葉に、リディアは小さく息を吸った。
隠す必要のない場所。
この作業室は、いつの間にかそうなっていた。
王宮ではない。
侯爵家でもない。
失敗や疲れを隠す必要があった場所ではない。
ここでは、痛いと言ってよい。
「少し、痛いです」
リディアは正直に言った。
「でも、昨日よりは落ち着いています」
「それはようございました」
エマは微笑んだ。
オスカーは、机の向かいで噂の出所を整理していた。
「今のところ、主な発信元はファーネル侯爵夫人の周辺です。ただし、夫人ご本人は明言していません。周囲の方々が“そう受け取った”という形になっています」
「直接言わないのですね」
「はい。いつもの手です」
オスカーが当然のように言うので、リディアは思わず少し笑った。
「あなたもかなり旦那様に似てきました」
「光栄です」
「本当に光栄なの?」
「実務面では」
やはり似ている。
作業室の空気が少しだけ和らいだ。
リディアは手紙をまとめた。
「対応は、どうしましょうか」
「方針文はすでに慈善局から配布されています。追加でこちらから反論文を出すと、噂に反応したように見える恐れがあります」
「では、支持してくださる方々の茶会で正しく伝えていただく?」
「はい。ローゼン侯爵夫人、グレイス伯爵夫人、ヴェルナー子爵夫人には、こちらから簡潔な説明文をお送りし、必要なら使っていただく形がよいかと」
「セシリア様は?」
「花印担当として関わっているため、あまり前面に出すと、王太子殿下との関係で別の噂を呼ぶ可能性があります」
「そうですね」
リディアは頷いた。
セシリアは自分の仕事を持ち始めた。
だからこそ、余計な噂に巻き込みすぎたくない。
それでも、彼女が昨日の会合でそばにいてくれたことは、リディアの支えになっていた。
そのとき、ハロルドが入ってきた。
「奥様。フォルセイン侯爵家より、お手紙でございます」
リディアの胸が、一拍遅れて鳴った。
父からか。
そう思ったが、封蝋を見て少し力が抜けた。
白百合。
エレノアからだった。
リディアは封を切り、便箋を開いた。
――お姉様。
今朝、母上のお茶の席で、お姉様のことが話題になりました。
南区の子どもたちに感謝文を書かせないのは冷たい、という話でした。
私は、最初は何も言えませんでした。
けれど、どうしても苦しくなって、少しだけ口を挟みました。
リディアの指が止まった。
エレノアが。
あの父の家で、社交の場で。
続きを読んだ。
――私は、「お姉様は感謝を禁じたのではなく、求めないことにしたのだと思います」と言いました。
皆様は少し驚いていました。
私も、自分で驚きました。
でも、東区の引き返した方の話を思い出したのです。
できなかったことを責めるために記録するのではない。次にどう支えるかを見るために記録する。
それと同じで、ありがとうを書けない子を責めないために、求めないのだと思いました。
合っていますか?
リディアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
合っている。
とても。
エレノアは、自分の言葉で理解してくれた。
姉が言ったことを丸暗記したのではない。
東区の話と南区の方針を、自分の中でつなげて考えた。
それが、何より嬉しかった。
さらに続きがあった。
――父上は、その場では何もおっしゃいませんでした。
でも、あとで私に「余計なことを言うな」とは言いませんでした。
ただ、「誰から聞いた」と尋ねられました。
私は「お姉様の手紙と、舞踏会の小冊子からです」と答えました。
父上は少し黙っていました。
私は怖かったです。
でも、言えました。
リディアは、思わず目を閉じた。
言えました。
その言葉が、自分の胸にも響く。
エレノアもまた、父の前で自分の言葉を持とうとしている。
まだ小さい。
まだ怖い。
でも、確かに一歩だった。
最後には、少しだけ妹らしい言葉が添えられていた。
――お姉様。
私は、お姉様が冷たい人だとは思いません。
冷たいと言われることを怖がりながら、それでも子どもたちのために線を引いている人だと思います。
もしそれを冷たいと言う人がいるなら、私は、その冷たさは冬の窓を塞ぐ木の板みたいなものだと思います。
見た目は硬くても、風を防ぐために必要なものです。
変な例えでしょうか。
エレノア。
リディアは、手紙を胸の前でそっと閉じた。
目元が少し熱い。
泣くほどではない。
けれど、深く届いた。
「奥様」
エマが声をかける。
「泣きそうでございますか」
「少し。でも、今日は大丈夫」
「冷やす布はご用意できます」
「まだいいわ」
リディアは微笑んだ。
オスカーが少し遠慮がちに尋ねる。
「エレノア様から、よい内容でしたか」
「ええ。とても」
リディアは手紙の一文をそっと読み返した。
冬の窓を塞ぐ木の板。
見た目は硬くても、風を防ぐために必要なもの。
「妹は、よい例えをしますね」
オスカーが少し首を傾げる。
「妹君も、奥様に似てこられたのでは」
「それは……嬉しいような、少し不安なような」
「よい意味です」
リディアは、手紙を大切に畳んだ。
すぐに返事を書きたい気持ちがあったが、その前にアルベルトにも見せたかった。
これは姉妹の私信だ。
本来なら見せなくてもいい。
けれど、この手紙はエレノアの成長を一緒に喜びたいと思った。
執務室へ行くと、アルベルトは王宮からの書類に目を通していた。
リディアの顔を見ると、彼はすぐに書類を閉じた。
「冷たい噂の件か」
「それもありますが、エレノアから手紙が来ました」
「妹から」
「はい。読んでいただいても?」
アルベルトは一瞬だけリディアを見る。
「いいのか」
「はい。今回は、読んでほしいのです」
彼は黙って手紙を受け取った。
読み進めるうち、表情はほとんど変わらなかった。けれど最後の例えのところで、わずかに目元が動いた。
「悪くない」
読み終えて、彼は言った。
リディアは少し笑う。
「かなりいい、ですか」
「かなりいい」
今度は迷いなく返ってきた。
リディアの胸が温かくなる。
「エレノアが、自分の言葉で言ったのです」
「ああ」
「父上の前でも、怖かったけれど言えたと」
「大きいな」
「はい」
アルベルトは手紙を返した。
「妹は、君の仕事を自分の中で理解し始めている」
「そう思います」
「なら、今後フォルセイン家の中にも別の見方ができる」
リディアは少し考えた。
父を変えるのは難しい。
母も、長く家の空気の中にいた。
けれどエレノアが自分の言葉を持てば、家の中の空気は少しずつ変わるかもしれない。
すぐではない。
それでも。
「私は、妹を利用したくありません」
リディアは静かに言った。
「父上への対抗のために、エレノアを前へ出したくはありません」
「当然だ」
アルベルトはすぐに答えた。
「妹は駒ではない」
「はい」
「だが、彼女が自分で言葉を持つなら、それは止める必要もない」
「そうですね」
リディアは手紙を胸に抱えた。
守ることと、閉じ込めることは違う。
エレノアを守りたい。
けれど、彼女が言いたいことまで奪いたくはない。
その線も、きっと大切だ。
「冷たいと言われて、痛かったか」
アルベルトが尋ねた。
「はい」
リディアは正直に頷いた。
「でも、エレノアの手紙で少し温まりました」
「そうか」
「それから、旦那様の言葉も」
「私の?」
「線があるだけだ、と」
アルベルトは少しだけ視線を外した。
「事実だ」
「はい。事実でも、嬉しかったです」
「……そうか」
その反応に、リディアは少しだけ笑みをこぼした。
午後、リディアはエレノアへ返事を書いた。
――エレノア。
手紙を読みました。
あなたが自分の言葉で話したことを、とても嬉しく思います。
怖かったでしょう。
それでも言えたのですね。
私は、そのことを誇らしく思います。
書きながら、胸が少し熱くなる。
誇らしい。
妹に対して、こんな気持ちを持てる日が来るとは思わなかった。
――あなたの理解は合っています。
私は、感謝を禁じたいのではありません。ありがとうを書けない子、書きたくない子、何を書けばいいかわからない子を責めないために、制度として求めないことにしました。
支援の成果は報告します。けれど、子どもたちの心を報告書の一部にはしません。
そこで少し手を止める。
言葉を選び、続きを書いた。
――冬の窓を塞ぐ木の板、という例えは、とてもよいと思いました。
硬く見えるものが、風を防ぐこともある。
私も、そのような線を引ける人になりたいです。
でも、硬くなりすぎて中の空気まで閉じ込めないよう、気をつけます。
あなたがまた気づいたことがあれば、教えてください。
リディア。
封をして、ブルースターの小さな印を押す。
手紙を出したあと、リディアは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
妹と、言葉が続いている。
それだけで、家の記憶が少し変わり始めている気がした。
その日の夕方、フォルセイン侯爵家から、もう一通の封書が届いた。
今度は白百合ではない。
侯爵家の正式な封蝋。
父からだった。
リディアは、一瞬だけ手を止めた。
エマもオスカーも、何も言わない。
リディアは封書を見つめ、静かに息を吸った。
「ここで読みます」
封を切る。
父の筆跡は相変わらず整っていた。
――リディア。
南区支援に関する方針について、エレノアから話を聞いた。
子どもたちに礼状を求めぬという判断は、社交上の反発を招くだろう。
慈善は、施す側の感情も扱わねば続かぬ。
その点を忘れるな。
リディアはそこで一度、息を整えた。
父らしい。
忠告だ。
だが、前より少しだけ文面が違う気がした。
続きを読んだ。
――ただし、礼状を求めることが子どもたちの負担になるという考えは、理解できなくもない。
お前がその線を引くなら、線を引いた後の報告を怠るな。
寄付者を黙らせるのではなく、納得させるだけの記録を出せ。
フォルセイン家からの寄付についても、成果報告を待つ。
リディアは目を見開いた。
理解できなくもない。
父が、そう書いている。
全面的な賛同ではない。
相変わらず厳しい。
寄付者側の感情も忘れるな、と釘を刺している。
けれど、以前とは違う。
否定だけではなかった。
リディアは、便箋をそっと置いた。
「父上が……少しだけ、理解できなくもないと」
オスカーが眉を上げた。
「それは、大きな前進では」
「はい」
リディアは静かに頷いた。
「とても小さいけれど、大きいです」
エレノアが家の中で話したからかもしれない。
父が、娘たちの変化を完全には無視できなくなっているのかもしれない。
もちろん、油断はできない。
父は父だ。
けれど、完全に閉じた扉ではないのかもしれない。
夜、温室でリディアはその二通の手紙を並べていた。
エレノアの白百合。
父の侯爵家の紋。
同じ家から来た手紙なのに、温度が違う。
だが、その二つが同じ日に届いたことに、意味がある気がした。
アルベルトが後から来て、父の手紙を読んだ。
「譲歩ではないが、硬直でもないな」
「はい」
「妹の言葉が効いたかもしれない」
「そう思います」
「だが、妹を前に出すな」
「わかっています」
「彼女が自分で立つ分には止めるな」
「はい」
リディアは小さく頷いた。
同じことを、自分も考えていた。
「旦那様」
「何だ」
「今日は、冷たいと言われて少し痛かったです。でも、冷たいと言われても守りたいものがあるのだと、前よりはっきり思えました」
「ああ」
「それに、私を冷たいと言わせない人たちもいるのですね」
エレノア。
ローゼン侯爵夫人。
グレイス伯爵夫人。
ヴェルナー子爵夫人。
セシリア。
エマ。
オスカー。
アルベルト。
リディアは一人ではなかった。
「君自身も、そう思っているか」
アルベルトが尋ねた。
「冷たいだけではないと?」
「はい」
リディアは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「私は、冷たいところもあると思います。線を引くとき、迷っても最後は切ることがあります」
「ああ」
「でも、それは誰かを切り捨てるためではなく、守るためでありたいです」
「なら、それでいい」
アルベルトは短く言った。
「温かいだけでは、冬の窓は塞げない」
エレノアの手紙と繋がるような言葉だった。
リディアは、思わず微笑む。
「旦那様も、よい例えをなさいますね」
「妹君のものだ」
「でも、使い方が旦那様らしいです」
「そうか」
彼は少しだけ視線を外した。
その横顔を見て、リディアの胸は静かに温かくなった。
冷たいと言われた日。
けれど、その夜の温室は不思議と温かかった。
誰かが自分の線を理解してくれている。
それだけで、人はこんなにも立ち直れるのだと、リディアは初めて知った気がした。




