第9話 姿は見えないのに、この屋敷では不思議なほど“守られている”気がした
午後の陽が少し傾きはじめたころ、リディアはエマに伴われて屋敷の中を歩いていた。
宰相家の屋敷は、外から見た印象以上に広かった。侯爵家の館も十分に大きいが、ここは“人が住む家”というより、小さな行政機関のような整い方をしている。居住区と応接区、執務区の境目が明確で、廊下の幅も、扉の造りも、ひとつひとつに意味があるように感じられた。
装飾は抑えられているのに、どこを見ても安っぽさとは無縁だ。壁にかけられた絵画も、置かれた花器も、ただ高価なものを並べたというより、「ここにあるのが当然」と言わんばかりの静かな威厳を持っている。
そして何より、使用人たちの動きが無駄なく美しかった。
誰も慌てない。誰も騒がない。必要なときに必要な場所へ現れ、役目を終えれば音もなく退く。
それは少し息苦しいほどの規律だったが、不思議と冷酷さだけではなかった。少なくとも、今のところリディアに向けられる視線に、露骨な侮りや好奇の色はない。
むしろ、過不足なく丁寧すぎるほど丁寧だ。
「こちらが朝のお食事にも使われる小食堂でございます」
エマが一つ一つ説明していく。
午前中に通された食堂より、やや小ぶりで親密な造りの部屋だった。家族だけで使うのだろう。窓から庭がよく見え、卓の配置も大食堂より落ち着いている。
リディアは少しだけ目を留めた。
「こちらでも、食事を取れるの?」
「はい。旦那様が少人数でお取りになる際はこちらを使われます。奥様もご希望であれば、今後はこちらを主にされてもよろしいかと」
まただ、とリディアは思う。
食事の場一つ取っても、“こうするべき”ではなく“どうしたいか”を先に差し出される。侯爵家ではほとんどなかった感覚だ。
彼女は軽く頷き、さらに廊下を進んだ。
応接間、書庫へ続く前室、季節ごとに調度を替えるという客間。いずれも品があり、整いすぎているほど整っている。なのに、それぞれの部屋にはちゃんと用途に応じた空気の違いがあった。
特に印象に残ったのは、使用人たちの対応だった。
すれ違うたび誰もが正しく礼を取り、しかし必要以上に話しかけてこない。新しく来た女主人に対する遠巻きの好奇心があってもおかしくないのに、それを一切表へ出さない。
普通ならありがたいと思うべきだろう。
けれどリディアは、むしろそれに戸惑っていた。
侯爵家ではもっと空気が露骨だったからだ。父の機嫌、母の沈黙、教育係の失望、使用人たちの気遣い。誰かの感情が必ず屋敷のどこかへ滲んでいた。王宮でもそうだ。言葉にされなくとも、価値を測る視線や、比較する気配は常にあった。
だがこの屋敷では、その“人の感情の濁り”が異様なほど薄い。
それは健全というより、徹底的に統制されている印象だった。
「皆さん……ずいぶんと、落ち着いていらっしゃるのね」
思わずそう漏らすと、エマは少しだけ微笑のようなものを浮かべた。
「旦那様は、屋敷の者に私情を業務へ持ち込むことをお好みになりませんので」
「私情を」
「はい。奥様に限らず、どなたに対しても」
それはつまり、この静けさは偶然ではなく、あの男が作った空気だということだ。
リディアは小さく息をついた。
なるほど、と思う。
あの人ならそうするだろう。人の噂や感情で屋敷の秩序が乱れることを、最も嫌いそうだ。
少し進んだ先で、今度は年配の女中頭らしい女性が待っていた。濃紺の衣に白いエプロンをぴたりと着こなし、髪をきっちりとまとめたその女性は、エマよりさらに隙がない。
「奥様、私は侍女頭のマーサでございます」
深い一礼。
「今後、身の回りのことは私とエマを中心に整えさせていただきます。何かご不便がございましたら、どのようなことでもお申しつけください」
「ありがとうございます、マーサ」
リディアも礼を返す。
その瞬間、マーサの眼差しがほんのわずかだけ和らいだ気がした。だがそれも一瞬で、彼女はすぐに職務的な顔へ戻る。
「奥様のお部屋へ置く茶葉や花の香りについて、ご希望があれば後ほど伺います。強い香りが苦手な方もいらっしゃいますので」
リディアは目を瞬いた。
「……そういうことまで?」
「旦那様より、“奥様が慣れるまでは、刺激の強いものを避けるように”との指示が出ております」
また、アルベルトだ。
香りの強さまで。
食事だけではなく、部屋に置く茶葉や花にまで気を配っているらしい。昨日今日でそんなことまで決める時間があったのだろうかと思うほどだ。
それとも、この屋敷では主人が何か一言告げれば、それだけで使用人たちが必要な配慮を組み立ててしまうのか。
どちらにせよ、リディアはまた少しだけ落ち着かない気持ちになった。
「私は……特別に好みがあるわけではないのだけれど」
そう答えると、マーサは一歩も退かずに言う。
「承知しております。ですが“特にない”と仰る方ほど、我慢しておいでのことが多うございますので」
その言い方に、リディアは息を止めた。
咄嗟にエマのほうを見たが、彼女は表情を変えない。つまりこれは、この屋敷ではある程度共有されている認識なのだろう。
自分は我慢する人間だと。
何も望まないのではなく、望み方を知らないのだと。
ひどく見透かされた気分になって、リディアは胸の内で小さく身構えた。だが不思議なことに、嫌悪より先に来たのは疲労だった。隠しても隠しても、ここでは見抜かれてしまうのか、と。
「では、少しずつお聞きしてまいります」
マーサはそれ以上踏み込まず、きっぱりと話を切り上げた。
そのさじ加減もまた、この屋敷らしかった。
必要なところまで踏み込み、必要以上には追わない。
廊下をさらに進むと、窓から中庭が見える場所へ出た。侯爵家の庭より整然としているが、季節の花もきちんと植えられている。白と紫の花が風に揺れ、その奥には低い噴水があった。
リディアは自然に足を止めた。
花を見ると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「お好きですか」
いつの間にか横に来ていたエマが、小さく尋ねる。
「ええ……たぶん」
たぶん、という言い方に自分でも少し驚く。
好きなものを好きだと言い切ることに、まだ慣れていないのだと気づくからだ。
「こちらのお庭は旦那様が大きく変えさせたことはございません。前のご当主の頃からの形を、必要な分だけ整えているそうです」
「そうなの」
「はい。目立つことを好まれませんので」
目立つことを好まない。
確かに、と思う。
王宮で見るアルベルトも、王太子のように人の視線を集めて輝く類の男ではなかった。いるだけで目を引くのに、本人はそれを利用しようとしない。むしろ必要以上の装飾や賑やかさを嫌っているように見えた。
庭にもその気質が表れているのかもしれない。
しばらく中庭を見ていると、背後から別の使用人がやって来てエマへ何事かを小声で告げた。エマは頷き、リディアへ向き直る。
「奥様、旦那様はまだ執務中でございます。お戻りが少し遅れるそうです」
「そう……」
不思議な安堵と、ほんの少しの落胆が同時に胸を掠めた。
自分でもその両方に戸惑う。
まだ夫とまともに顔を合わせるのは緊張する。何を考えているかわからないし、視線だけで中身まで見抜かれてしまいそうで落ち着かない。
その一方で、今朝からずっと感じている“屋敷全体に張られた見えない配慮”の出どころが彼だとわかっているせいか、姿を見ないままなのも妙に心に引っかかった。
これほど屋敷じゅうに彼の意思が行き届いているのに、本人だけがいない。
それが少し、不思議だった。
「旦那様は、いつもお忙しいの?」
リディアが尋ねると、エマは当然のことのように答える。
「はい。ですが、奥様へのことは先に指示を残しておいでです」
その言葉に、また胸の奥がざわめく。
先に指示を残す。
それはつまり、顔を合わせられない時間があっても、こちらが困らないようにしているということだ。
侯爵家では父の不在はただの不在だった。王宮でも、王太子が別のことに心を向けていれば、こちらは待たされるだけだった。だがこの屋敷では、主の不在そのものが“誰かを放置すること”には繋がっていない。
見えないのに、守られている。
そんな奇妙な感覚が、朝からずっと続いていた。
案内が終わるころには、リディアもさすがに少し疲れていた。広い屋敷を歩き回ったせいだけではない。新しい場所、新しい人々、新しい空気。そのすべてが、まだ彼女の神経を細く張らせている。
「少しお休みになられますか」
エマが気づいたように言う。
「……そうね。少しだけ」
私室へ戻る道すがら、若い下働きらしい少女と廊下ですれ違った。少女は慌てて礼を取り、その拍子に手にしていたリネンを少し落としかける。侯爵家なら、その小さな粗相だけで上司からきつく叱られてもおかしくない。
リディアが反射的に身を引くと、少女は青ざめた。
「も、申し訳ございません、奥様」
だが次の瞬間、近くにいた年配の従者が低く静かな声で言った。
「落ち着きなさい。奥様の前です」
叱責というより、整えるような声だった。少女はすぐに呼吸を整え、もう一度きちんと礼を取り直す。
「失礼いたしました」
「大丈夫よ」
リディアがそう返すと、従者も少女も、必要以上に恐縮せずに静かに下がっていった。
そのやり取りを見て、彼女はまた思う。
この屋敷では、人を怯えさせて従わせるというより、“乱れを整える”ことが優先されているのかもしれない。
もちろん、厳しさがないわけではない。むしろ厳しさそのものは侯爵家より強い可能性すらある。けれどその厳しさは感情的なものではなく、秩序のために使われている。
アルベルトという男が、そういう支配の仕方をする人間なのだろう。
自室へ戻ると、マーサが既にソファ横の小卓へ新しい茶器を整えていた。
「奥様、お疲れが出る頃かと思い、少しだけ軽いお茶を」
湯気の立つ茶は香りが穏やかで、横には小さく焼いた焼き菓子が二つだけ添えられている。
二つだけ。
その数に、リディアはまた小さく息を止めた。
多すぎない。頑張れば食べられる量。朝と同じだ。必要以上に勧めず、だが空腹のままにもさせないための配分。
「……ありがとう」
「お気に召せばよろしいのですが」
マーサはそれ以上何も言わない。
リディアはソファへ腰を下ろし、茶を口にした。少しだけ緊張がほどける。焼き菓子にも手を伸ばしてみる。ひと口サイズで、重たくない。
こうして何度も繰り返されると、もう偶然ではないと認めざるをえなかった。
この屋敷では、自分は“ただ置かれた妻”としてではなく、“無理をしがちな人間”として扱われている。
それが良いのか悪いのか、まだ結論は出せない。
けれど少なくとも、苦しくはなかった。
そのとき、窓の外に馬車が滑り込む音がした。
中庭に面した車寄せへ、黒塗りの馬車が一台止まるのが見える。
リディアの指先が、カップの縁でぴたりと止まった。
あれはたぶん――。
「旦那様がお戻りです」
エマの声が、静かにそう告げた。
胸が、少しだけ速く打つ。
姿は見えないのに不思議なほど“守られている”と感じていたその人が、今、ようやくこの屋敷へ戻ってきた。
そのことに安堵してしまった自分を、リディアはまだうまく理解できなかった。




