第10話 冷たい食卓のはずなのに、彼は私の皿から“無理”だけを静かに取り除いていった
アルベルトが戻ってきたと聞いた瞬間、リディアの胸の奥で何かが小さく跳ねた。
安堵なのか、緊張なのか、自分でも判然としない。けれど少なくとも、午前中からずっと屋敷のあちこちに見えていた“見えない配慮”の主が、ようやく現実の人間としてこの館へ戻ってきたのだと思うと、妙に落ち着かない気持ちになった。
窓の外では、黒塗りの馬車からアルベルトが降りるところまでは見えなかった。ちょうど車寄せの柱が邪魔をして、礼装の裾が一瞬よぎっただけだ。
だが屋敷の空気は、彼が戻ったことを確かに伝えていた。
廊下を行き交う使用人たちの足取りが、わずかに引き締まる。音が増えるわけではない。むしろ逆だ。必要以上の物音が消え、全体の流れが一段整うような感覚があった。侯爵家でも父の機嫌ひとつで空気は変わったが、それとは少し違う。あちらは緊張が表へ噴き出す変化だった。こちらは、見えない線が一本通されるような静かな統制だった。
「奥様、旦那様はまず執務の確認へ向かわれます」
エマが控えめに言う。
「その後、夕餉を奥様とご一緒に取られるご予定です」
夕餉。
その言葉だけで、リディアの喉が少し細くなる。
朝のように一人ではない。昼前の軽食とも違う。今度は、あの人と向かい合って食べるのだ。
しかも、この屋敷の主と。
リディアは無意識に膝の上で指を組んだ。
「……そう」
「何かお支度でご希望があれば」
「いいえ、大丈夫」
そう答えた声が、思ったより平坦でよかったと思う。
けれど心の中は大丈夫ではなかった。
また食べられなかったらどうしよう。
朝の食堂でそうだったように、整った食卓と人の気配を前にした途端、喉が閉じてしまったら。
しかも相手はアルベルトだ。あの鋭い目の前で、自分の弱さをさらすような真似をするのは、ひどく情けない気がした。
だが同時に、彼にはもうかなりの部分を見抜かれている、という奇妙な諦めもあった。
無理に笑うこと。
緊張すると掌へ爪を立てること。
人前で食べることが苦手なこと。
そのどれも、自分が言葉にする前に見抜かれていた。
ならば今さら取り繕っても無駄なのかもしれない。そう思う一方で、それでもやはり“ちゃんとしなければ”という長年の癖は抜けない。
夕方が近づくころ、マーサが衣装を整えに来た。
夜会用ほどではないが、晩餐に相応しい落ち着いたドレス。深い灰青に銀糸が控えめに走る布地は、宰相家の重厚な空気に合っている。髪は昼間より少しだけ整えられ、首筋にかかる後れ毛も丁寧にまとめられた。
鏡の前に座るリディアの顔は、きれいに整っている。
それなのに、心だけが追いつかない。
「奥様」
マーサが髪飾りを留めながら言った。
「もしお疲れが強ければ、無理に多く召し上がる必要はございません」
リディアは鏡越しに彼女を見る。
「……旦那様から?」
「はい」
やはり、と思う。
それでも真正面から改めて言われると、胸の奥がくすぐったいような、困るような、不思議な感覚になる。
「皆さん、本当に旦那様のお言葉をよく守っていらっしゃるのね」
半ば感心し、半ば戸惑いながらそう言うと、マーサはごく淡く目元を和らげた。
「旦那様は、必要なことしか仰いませんので」
それはつまり、必要だと言われたことは必ず守られるということだ。
リディアはそれ以上何も言えなかった。
やがて夕刻の鐘が遠くで鳴り、エマが迎えに来る。
「奥様、よろしいでしょうか」
「ええ」
立ち上がった瞬間、少しだけ足の裏が冷たく感じた。
食堂へ向かう廊下は、昼とはまた違う表情を見せていた。窓の外は薄い藍色へ変わり、壁の灯りが柔らかく石床を照らしている。夜の屋敷はまだ冷たくも見えるが、昨日のような威圧一色ではなく、抑えられた静けさの中に落ち着きもあった。
大食堂ではなく、昼に見た小食堂へ通される。
その瞬間、リディアの胸の奥の緊張がほんの少しだけ和らいだ。
大きすぎる食卓ではない。使用人の数も最小限だ。窓辺のカーテンは半分だけ閉じられ、外の暗さを映さないよう灯りの位置も調整されている。卓上の花も香りの強くない白いものだけだ。
気づけばまた、自分が苦しくなりにくい形へ整えられている。
そのことに気づくたび、落ち着かなさと同時に、少しだけほっとしてしまう。
卓の一方には既にアルベルトがいた。
昼間の執務服から着替えたのだろう、黒に近い濃紺の上着に銀の飾りを最小限だけ配した姿は、やはり無駄がない。椅子に座っていてさえ背筋は真っ直ぐで、ただそこにいるだけで空気が締まる。
リディアが入ると、彼はすぐに立ち上がった。
「来たか」
「お待たせいたしました」
礼を取ると、アルベルトは一瞬だけ彼女を見た。その視線は相変わらず鋭いが、昨日初めて向けられたときほど身を切る感じはない。いや、鋭さは変わらないのに、そこに無用な圧がないのだ。
「座れ」
また短い言葉。
けれどやはり、それは命令というより、ただ“そうしたほうがよい”という事実の提示に近い。
リディアが席につくと、すぐに最初の皿が運ばれた。
白い皿にごく少量の前菜。彩りは美しいが、量は決して多くない。続いて温かなスープ。主菜も小さめに切り分けられている。
明らかに、最初から“全部食べなくてよい”ことを前提に整えられた食事だった。
リディアは視線を落としたまま、小さく息を吸う。
そこまでされると、自分がどれほど扱いにくい女として見られているのかと恥ずかしくなる一方で、ありがたさもまた否定できない。
「朝は少しは食べられたようだな」
不意にアルベルトが言った。
リディアは顔を上げる。
「……はい。スープを」
「そうか」
それだけで終わる。
余計に褒めもせず、責めもせず、ただ確認して受け取るだけ。
その温度が今はありがたかった。
「屋敷はどうだった」
「とても……整っていて、驚きました」
無難すぎる答えだと自分でも思ったが、他にどう言えばよいかわからない。
だがアルベルトは特に気にした様子もなく、ワインではなく水へ手を伸ばした。
「慣れるまで時間はかかるだろう」
「そのように言っていただけると、助かります」
そう返した瞬間、リディアは自分の皿へ視線を戻す。
食べなければ。
せめて少しは。
前菜へフォークを入れ、小さく切って口へ運ぶ。味はよい。だがやはり、向かいに人がいるというだけで喉が細くなる。侯爵家の家族と囲む食卓とも、王宮の大勢の前での食事ともまた違う緊張だった。
相手がアルベルトだから、というのもある。
見抜かれてしまいそうで、どこかで身構えてしまう。
そしてその予感は、たぶん間違っていなかった。
リディアが二口目で僅かに手を止めたとき、アルベルトは何も言わず、近くに控えていた従者へほんの小さな視線を送った。
次の瞬間、リディアの前に置かれていた温かなパン皿が下げられ、代わりに一口大の柔らかなパンが二つだけ載った小皿が置かれる。
驚いて顔を上げると、アルベルトは自分の皿へ視線を落としたまま言った。
「その大きさでは、君には荷が重いだろう」
まるで天気の話でもするような口調だった。
羞恥が頬を熱くする。
見られていた。やはり、わかっていたのだ。大きいままのパンを前にすると、それだけで食べる気力が削がれることを。
「申し訳ございません……」
思わずそう口にすると、アルベルトの手がぴたりと止まる。
次いで、ほんの少しだけ低くなった声が返ってきた。
「謝るな」
リディアは息を呑む。
「だが」
「食べづらいものを食べづらいまま出しているほうが悪い」
きっぱりと言い切られた。
その理屈に、リディアはしばらく何も言えなかった。
自分が悪いのではなく、食べづらい形が悪い。だから変える。それだけの話だと。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
彼女にとってはずっと逆だった。食べられない自分が悪い。人前でうまく振る舞えない自分が悪い。努力が足りない自分が悪い。
なのにこの人は、“形を変えればいい”と当然のように言う。
リディアは何とか小さく頷いた。
「……はい」
それ以上の言葉は出てこない。
食事は静かに進んだ。
静か、といっても気まずいわけではない。アルベルトは無理に会話を広げようとせず、必要なときだけ短く話しかける。屋敷で困ったことはないか、部屋の灯りは強すぎないか、侍女たちの対応で気になることはなかったか。どれも尋問のように鋭くはないのに、答えにくいほど表面的でもない。
その絶妙な距離に、リディアは何度も戸惑った。
冷たい男だと思っていた。感情など持たない怪物のような人だと、噂を信じていた。
なのに実際に向き合うと、この人はひどく“現実的”に相手を見ている。無理をしているなら無理を取り除く。困るなら形を変える。必要なら先回りする。
それは甘やかしではない。慰めとも少し違う。ただ、相手を機能させるために最も合理的な方法を選んでいるように見える。
けれどその合理性が、なぜかリディアの心には優しさに近いものとして触れてくるのだ。
主菜が運ばれたとき、リディアはまた少しだけ固まった。
肉料理だった。香りは穏やかで、ソースも重すぎない。けれど肉は彼女にとって、ただでさえ人前で食べにくいものの一つだ。
ナイフを入れる角度、切る力、口へ運ぶときの間。頭の中で昔の注意が一斉に蘇る。
するとアルベルトはそれを見て、また視線だけで合図した。
すぐさま従者が近づき、リディアの皿を一度下げる。代わりに戻ってきた皿の上では、肉は最初から小さく切り分けられていた。
リディアはもう隠しようもなく目を見開いた。
「……そんな」
「冷める前に食べろ」
アルベルトは平然としている。
だがその平然さが、かえってリディアの心を揺らした。大げさに気遣っている様子もない。あくまで必要だからそうしただけ、という顔だ。
だからこそ、余計に胸へ響く。
皿から“無理”だけが静かに取り除かれていく。
誰にも責められないまま。
誰にも見苦しいと思われないように、さりげなく。
そんな扱いを受けたことが、これまで一度もなかった。
「……ありがとうございます」
今度の礼は、先ほどより少しだけ素直に出た。
アルベルトは食事の手を止めないまま、短く言う。
「礼は、食べられてからでいい」
その一言に、リディアは思わず口元を引き結んだ。
笑いそうになったのだと、自分で気づいて少し驚く。
もちろん大きく笑ったわけではない。ただ、ほんのわずか、頬の力が抜けただけ。
それでもそれを自覚した瞬間、胸の内に小さな波紋が広がった。
この人の前で、私は今、笑いかけたのだろうか。
無理に作るものではなく、自然に。
そのことが妙に落ち着かなくて、リディアは慌てて皿へ視線を戻した。
結局、夕餉は全部は食べられなかった。
だが朝や昼よりずっと多く口へ運べた。前菜も半分以上、スープはほとんど、主菜もいくらか。自分としては十分すぎるくらいだ。
食後に出された薄い茶を飲みながら、リディアはふと気づく。
今、自分は食事の終わりに罪悪感でいっぱいになっていない。
侯爵家でなら、食べ残したこと自体が失敗だった。王宮ならなおさらだ。だがここでは、無理に食べられなかったことを咎められもせず、ただ“今日はこれくらい食べられた”という事実だけが残っている。
それがどれほど異様なことか、リディアは今さらのように思い知った。
アルベルトが立ち上がる。
「今日はこれでいい」
その言葉に、リディアも席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「部屋へ戻るか?」
尋ねられて、リディアは少し迷った。
疲れているのは確かだ。けれど今すぐこの空気を終わらせてしまうのが、なぜだか少し惜しいような気もした。
自分でもその感情の正体がわからない。
「……少しだけ、庭を見てもよろしいでしょうか」
口にしてから、こんなことを聞く必要があったのかと不安になる。だがアルベルトは意外そうな顔一つせず、ただ頷いた。
「東の中庭なら、今は灯りも穏やかだ」
それは許可というより、“君にはそちらがいいだろう”という判断のように聞こえた。
「ありがとうございます」
「エマをつけさせる」
また先回りだ。
リディアは小さく頭を下げた。
食堂を出て廊下へ出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。エマがすぐ後ろについてくる。だが今夜のリディアは、昨日この屋敷へ来たときほど冷たさばかりは感じなかった。
もちろん不安はある。まだ何もわからない。夫である男の真意も、この婚姻の先も。
それでも今、胸に残っているのは、温かなスープや細かく切られた肉よりもっと不思議な感覚だった。
あの人は、私の皿から“無理”だけを取り除いた。
そしてそれを、特別なことのようには扱わなかった。
まるで最初から、そうするのが当然であるかのように。
その当然が、リディアにはまだひどく眩しく思えた。




