第11話 「宰相夫人はすぐ壊れる」――そう囁かれるほど、社交界は私の不幸を待っているらしい
東の中庭は、夜になると昼間とはまるで違う表情を見せた。
花壇の輪郭をなぞるように低い灯りが置かれ、白と薄紫の花々だけが、闇の中でひっそりと浮かび上がっている。噴水の水音は小さく、けれど静かな庭にはよく響いた。風は冷たすぎず、頬を撫でるたびに熱の残った胸の内を少しだけ鎮めてくれる。
リディアは回廊の柱にそっと手を置き、深く息を吸った。
夕餉の席で、思っていたよりも食べることができた。
それはほんの小さなことのはずなのに、今日一日の終わりに胸へ残っている感覚は妙に大きい。冷たい食卓だと思っていた。緊張で食べられず、また情けなさで押し潰されるのだと覚悟していた。けれど実際には、皿の上から“無理”だけを静かに取り除かれた。
責められず、見世物にもされず、過剰に労わられもせず。
ただ、ごく自然に。
その自然さが、リディアにはまだ信じがたかった。
「冷えますので、こちらを」
後ろに控えていたエマが、薄いショールを肩へかけてくれる。
「ありがとう」
「お疲れはございませんか」
「少しだけ。でも、外の空気が気持ちいいわ」
そう答えると、エマは一歩だけ下がった。
この“下がり方”にも、リディアはもう何度目かの感心を覚える。付き添いとして必要な距離は保ちつつ、息苦しいほど近くにはいない。侯爵家では侍女たちはもっと細やかに、あるいはもっと監視に近い形で寄り添っていた。だが宰相家の使用人たちは、近すぎず遠すぎず、一定の線を守っている。
それはたぶん、屋敷の主の意向なのだろう。
少し歩いてから、リディアは噴水近くの石の縁へ目を向けた。夜露を受けた花びらが灯りに濡れて見える。昼間よりも、むしろ夜のほうが美しい庭なのかもしれない。
「旦那様は……よくこちらへ?」
ふと思って尋ねると、エマはわずかに考えてから答えた。
「頻繁、というほどではございません。ですが、奥様がお越しになることを見越して、夜でも足元が明るすぎぬよう調整が入りました」
まただ。
リディアは思わず唇を引き結ぶ。
「そのようなことまで」
「旦那様は、必要だと判断されたことは先に整えられますので」
必要。
その言葉はいつも不思議な響きを持っている。
普通なら“必要だから整える”など、ひどく事務的な話のはずだ。けれどアルベルトがそれをするとき、なぜかリディアの心には別の形で触れてくる。優しい、と簡単に名づけるには冷静すぎるのに、結果として傷にはひどくよく効く。
庭を見ながらぼんやりしていると、屋敷の内側から近づいてくる足音があった。使用人の一人らしい若い男が、回廊の入口で一礼する。
「奥様、失礼いたします」
「何かしら」
「ハロルドより、明日のご予定について少々ご相談があるとのことです。お疲れでなければ、このあとお部屋で少しだけお時間をいただければと」
リディアは一瞬、胸の奥が固まるのを感じた。
予定。
その言葉は、いつだって社交や義務を連れてくる。
「……わかったわ」
「ありがとうございます」
男は静かに礼をして去った。
エマがそっと視線を寄越す。
「お部屋へお戻りになりますか」
「ええ」
もう少し庭にいたい気持ちもあった。けれど“予定”という言葉から逃げてはいけない気もした。ここは侯爵家ではないが、それでも宰相夫人となった以上、外へ向けた顔は必要になるだろう。
その事実に思い至ると、胸の奥の静けさが少しだけ崩れる。
社交界。
その言葉を思い浮かべるだけで、喉のあたりが細くなるのはなぜだろう。
王太子妃候補として生きていたころ、リディアはそれを“戦場”とも思わずに立っていた。ただ正しくあれと教えられ、その通りに振る舞うことだけで精一杯だったからだ。だが今となっては、あの場所がいかに他人の不幸を餌にして回る場だったか、痛いほどわかる。
部屋へ戻ると、ほどなくしてハロルドがやって来た。
執事頭はいつもの通り無駄のない一礼をして、ソファ前の卓へ数枚のカードと封書を並べる。
「奥様、今後のご参考までに、まずは現在王都で動いております主要な夜会や茶会のお誘いを整理いたしました」
その言い方があまりに事務的で、リディアは逆にほっとした。
同情も、遠慮も、好奇もない。ただ“必要な整理”として差し出されるなら、こちらもまだ受け取りやすい。
だが卓上の封書を目にした瞬間、その気持ちはすぐに冷えた。
社交界からの招待状は、すでにいくつか届いているらしい。
宛名はもう“グランディス公爵家奥方”ではなく、“宰相夫人リディア・グランディス様”となっている。自分の名が、その呼び方で記されていることにまだ慣れない。
「……こんなに早く」
思わず呟くと、ハロルドは静かに答えた。
「奥様のお輿入れは、当然ながら王都でも大きな話題でございますので」
大きな話題。
その婉曲な表現の裏に、どれほどの噂が渦巻いているのか、想像したくなくても想像できた。
王太子に捨てられた侯爵令嬢が、冷徹宰相のもとへ嫁いだ。
それだけで、貴婦人たちには何日分もの茶会の話題になるだろう。
リディアの指先が、無意識に膝の上でこわばる。
それに気づいたのか、ハロルドは一枚のカードだけを少し脇へ避けた。
「ただ、こちらは急ぎお目通しいただく必要がございます」
「どなたから?」
「ファーネル侯爵夫人より。今週末の小規模な夜会へのご招待です」
ファーネル侯爵夫人。
王都でも古くから顔の広い貴婦人で、表向きは人当たりがよい。だがその実、誰よりも社交界の空気に敏く、話題の中心へ必ず手を伸ばしてくる女として知られていた。
リディアはその名を聞いた瞬間、胃のあたりが僅かに重くなるのを感じた。
「……私が、出るべきなのかしら」
問いかける声は、自分でも少し不安が滲んでいるとわかった。
ハロルドは即答しなかった。数拍置いてから、きわめて穏やかに言う。
「旦那様は、“奥様がまだ望まれないうちは無理に出る必要はない”と仰せです」
その言葉に、リディアは小さく息をついた。
やはりあの人は、まずそこを言う。
出るべきかどうかではなく、自分が望むかどうか。
だが同時に、それだけでは済まない現実もある。
「けれど、ずっと避け続けるわけにもいかないでしょう」
リディアがそう言うと、ハロルドは少しだけ目を上げた。
「……はい。いずれは」
その“いずれ”の中に、多くの意味が含まれていることは明らかだった。
宰相夫人として、人前へ出る日は来る。夜会にも、茶会にも、王宮にも。侯爵家の娘である以上、そして今後は宰相家の女主人である以上、社交を完全に断つことは不可能だ。
だが“いつ、どの形で”それを始めるかは、少なくとも今この屋敷では勝手に決められないらしい。
そこがまた、リディアには信じがたかった。
「王都では……もう噂になっているのでしょうね」
半ば覚悟するように問うと、ハロルドは表情を変えずに答えた。
「ええ」
やはり、と思う。
ごまかされないほうがいい。けれど実際に肯定されると、胸の奥が少し冷たくなる。
「どのように、ですか」
尋ねてから、聞かなければよかったかもしれないと少し思った。だがもう遅い。
ハロルドは一瞬だけ逡巡したようだった。おそらく、どこまで言うべきかを測ったのだろう。だが結局、彼は事務的な口調を崩さずに告げた。
「表向きには、“侯爵令嬢が宰相夫人となったことへの驚き”が主でございます」
そこまではいい。
それは当然の反応だろう。
「ですが……それとは別に」
やはり続きがある。
リディアは膝の上で指を組み直した。
「“宰相夫人はすぐ壊れるのではないか”と面白がっている向きもございます」
その言葉は、思ったよりも静かに胸へ落ちた。
痛みというより、冷たい理解として。
ああ、そうだろうな、と。
冷徹宰相に嫁いだ、王太子に捨てられた令嬢。
貴婦人たちが最も好む種類の物語だ。憐れみと好奇心を混ぜ、表面では案じるふりをしながら、内心では“どれほどみじめに壊れるか”を待っている。
リディアはしばらく何も言えなかった。
驚きはない。むしろ当然だと思う。
けれど、あまりにも当然すぎて、少しだけ可笑しくなった。
私の不幸を、そんなにも待たれているのだ。
侯爵家では役に立つ娘としてしか見られず、王太子には息が詰まると切り捨てられ、社交界では“どれだけ早く壊れるか”を期待される。
では、自分が壊れずに済む場所など、本当にどこかにあるのだろうか。
そのとき、不意に昨夜のアルベルトの声が蘇る。
――君が望まぬ限り、私は君に触れない。
――ここでは怯えなくていい。
――君を泣かせた連中のことは、いずれ私が清算する。
あの言葉を、どう受け取っていいのかまだわからない。
けれど少なくとも、この屋敷の外で何が囁かれようと、内側で自分がすぐに“壊れる”ような扱いを受けてはいない。それだけは確かだった。
「……旦那様は、その噂をご存じなの?」
問いかけると、ハロルドは頷く。
「もちろんでございます」
そして一拍置いて、続けた。
「ですから、奥様をむやみに人前へ出すつもりはないのだと拝察しております」
リディアは顔を上げた。
それはつまり、社交界の悪意も好奇も、アルベルトは把握したうえで今の自分を外へ晒していない、ということだ。
やはり、見えていないところで守られている。
その感覚がまた、胸の奥で静かに広がる。
「……そう」
それだけしか言えない。
もっと気の利いた返答があるはずなのに、喉のあたりが詰まって出てこなかった。
ハロルドはそれ以上言葉を重ねず、カードと封書の中から必要なものだけを残して下げようとする。だがリディアはふと、一枚の封書へ目を留めた。
白地に金の縁取り。差出人の名は見えないが、封蝋の紋章には見覚えがある。
「それは……」
「王宮からのものにございます」
リディアの胸が、微かに強張る。
王宮。
まだ王太子と向き合う覚悟などできていないのに。
「中身は、来週の定例晩餐会の案内です。宰相閣下には当然ご出席義務がございますが、奥様についてはまだご返答を保留しております」
リディアはゆっくりと息を吐いた。
逃げられない場所が、すぐそこまで来ている。
王宮。貴族たちの視線。囁き。王太子。おそらくセシリアもいるだろう。自分を捨てた相手と、今の自分の立場を見比べる者たち。そうしたものすべての前へ、いずれ出なければならない。
想像するだけで胃のあたりが冷たくなる。
「旦那様が戻られたら、まずはこちらについて奥様のご意向を伺うようにと仰せつかっております」
ハロルドのその言葉に、リディアは小さく目を見開いた。
まただ。
やはり最初に問われるのは、自分の意向なのだ。
もちろん最終的には政治や義務の話になるのだろう。だがその前に、“どうしたいか”を聞かれること自体が、彼女にはまだひどく不思議だった。
「……わかりました」
「では、失礼いたします」
ハロルドが去ったあと、部屋には静けさが戻る。
エマもまた、何も言わずに茶を差し替えただけで下がっていった。
一人になったリディアは、卓の上に残された王宮からの封書を見つめた。
社交界は自分がすぐ壊れると思っている。
王宮はきっと、自分を“宰相夫人”として値踏みするだろう。
侯爵家はおそらく、うまくやっているかどうかしか気にしていない。
それなのに、この屋敷にいると不思議なほど息ができる。
アルベルト本人と向き合うのは怖い。見抜かれすぎることも、先回りされることも、まだ落ち着かない。けれど、外の悪意を知った今となっては、この屋敷の静けさがどれほど特別か、少しだけわかる気がした。
守られている。
それも、華やかな庇護ではなく、ただ静かに、当たり前のことのように。
リディアは封書から視線を外し、窓の外へ目を向けた。
夜の庭は、今日もひっそりと咲いている。
社交界がどれだけ自分の不幸を待とうと、この屋敷の中ではまだ、壊れなくていいのかもしれない。
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚きながら。




