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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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12/23

第12話 冷たい男のはずなのに、温室だけは私の好きだった季節を覚えているようだった

 翌朝、リディアは少しだけ早く目が覚めた。


 昨日は屋敷の案内と、夜の食卓と、社交界の噂とで心が休まらず、寝つけないかと思っていた。けれど実際には、緊張で張りつめていた糸が深夜になって急に切れたように、気づけば眠りへ落ちていたらしい。


 今朝の空は薄く曇っていた。


 窓辺へ寄ると、庭の木々がやわらかな灰色の光の中で静かに揺れている。晴れた朝よりも色は少ないはずなのに、不思議と落ち着いた。曇天のやわらかな明るさは、何もかもを鮮やかに暴かないでいてくれる気がする。


 リディアは薄い寝衣の上から肩掛けを寄せ、しばらく窓の外を見つめていた。


 社交界では“宰相夫人はすぐ壊れる”と囁かれているらしい。


 昨夜ハロルドから聞かされたその言葉は、眠れば薄れるどころか、朝の静けさの中でいっそう輪郭を増していた。驚きはない。そう言われるだろうと思っていた。けれど実際に言葉として耳にすると、自分が他人の娯楽になっているのだと改めて思い知らされる。


 壊れるのを待たれている。


 みじめに怯えるのを見たがられている。


 そうした悪意が王都のどこかにもう広がっているのに、この屋敷の中はやはり不思議なほど静かだった。


 その静けさが、今のリディアにはありがたくもあり、少しだけ恐ろしくもある。


 こんな場所が本当にあっていいのだろうか、と。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」


 エマの控えめな声が扉越しにした。


「ええ」


 今朝の支度もまた、無駄なく静かに進んだ。湯の温度、髪を梳かす手つき、卓へ置かれる朝の軽い食事。昨夜までのうちに、もうエマたちはリディアが朝は重いものを食べにくいことを把握しているらしく、今日は最初から小さめのパンと薄いスープ、果物だけが用意されていた。


 その自然さに、リディアはもう驚くより先に少しだけ苦笑したくなった。


 先回りされることに、徐々に慣れ始めている自分がいる。


 食事を終えると、エマがいつもの落ち着いた声で尋ねた。


「本日は雨の心配はなさそうですので、もし奥様がお望みでしたら庭か温室をご覧になりますか」


「温室?」


 リディアは顔を上げた。


 庭は既に何度か窓越しに見ている。だが温室があるとは知らなかった。


「はい。北側に小さなものがございます。旦那様はあまり足をお運びにはなりませんが、管理は行き届いております」


 その説明のどこかに、エマ自身は花を好んでいるわけではないのだろうという無色さがあった。ただ奥様が興味を示しそうなものとして、淡々と選択肢へ加えている。


 リディアは少し迷った。


 本当なら、自分の好きなものを“見に行きたい”と即座に言えるべきなのかもしれない。けれどそういう欲求を口にすることに、まだ慣れていない。


 侯爵家では時間の使い道にも意味が求められた。花を見ることは無駄ではないが、優先されるものでもなかった。王太子妃教育の頃はなおさらだ。季節を楽しむことさえ、“趣味のよい話題を作るため”という枠組みで与えられていた気がする。


 ただ好きだから見に行く、という発想が、どこか後ろめたかった。


「……ご迷惑でなければ」


 そう言うと、エマは少しだけ首を傾けた。


「迷惑、でございますか?」


 その返しがあまりにも真っ直ぐで、リディアは一瞬言葉に詰まる。


「いえ……その、手を煩わせてしまうかと」


「奥様をご案内するのが私の務めでございます」


 きっぱりとした返答だった。


 そこにお世辞はなく、ただ事実だけがある。だからこそ、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。


「では、お願いしてもいいかしら」


「かしこまりました」


 温室は、屋敷の北側回廊を抜けた先にあった。


 大きすぎず、小さすぎず。本館の壮麗さに比べれば控えめな造りだが、ガラス張りの屋根と白い骨組みが、曇天の光をやわらかく受け止めている。外から見た印象だけでいえば、この屋敷には少し似つかわしくないほど繊細だった。


 中へ入った瞬間、空気が変わる。


 ほんのり温かく、湿り気を含んだ匂い。土の気配、若葉の匂い、花が咲く前の青い香り。それらが混ざって、胸の奥へ静かに染み込んでくる。


 リディアは思わず足を止めた。


 好きだ、と思った。


 考える前に、そう感じた。


 侯爵家の庭にも花はあった。けれど温室はもっと違う。外の季節から少しだけ切り離された、育てられる植物たちの小さな世界。ガラス越しの光と湿った空気の中では、どこか時間の流れまで遅くなる。


「……きれい」


 小さく漏れた声は、たぶん自分でも驚くほど素直だった。


 エマは少しだけ微笑む。


「お気に召しましたか」


「ええ。とても」


 温室の中には白い花が多かった。百合に似た細い花、鈴のように俯く花、小ぶりの薔薇、薄紫の蘭。色を氾濫させるのではなく、抑えた色味でまとめられているのに、少しも寂しくない。むしろ品よく整えられていて、見ているだけで呼吸が深くなる。


 リディアはゆっくりと歩き始めた。


 鉢植えの配置や棚の高さにも無理がない。香りの強い花は入り口から遠ざけられ、繊細なものほど目線に近い位置へ置かれているように見える。


 この温室を整えた人は、花をただ飾りとして見ているわけではない。


 そんな気がした。


「こちらは、以前からあったの?」


「はい。もともとは先代の奥様が好まれていたそうです」


 エマの答えに、リディアは少しだけ意外そうに瞬く。


「では、旦那様のご趣味ではないのね」


「……旦那様は、必要なものしか残されません」


 その言い方が少し気になった。


「必要なものしか?」


「使われず、意味もなく、ただ手がかかるだけのものはお嫌いです」


 いかにもアルベルトらしいと思う。


 ならばなぜ、この温室は残されているのだろう。


 屋敷の主自身が好まないのなら、閉じてしまってもよかったはずだ。だがここはきちんと手入れされ、花々は丁寧に育てられている。


 リディアは白い小さな薔薇の前で立ち止まった。まだ咲ききらぬ蕾がいくつもつき、葉の艶もよい。


「旦那様は、ここを閉じなかったのね」


 独り言のように言うと、エマは少しだけ考えてから答えた。


「亡くなられた先代奥様のものだから、という理由もあるかと」


「それだけ?」


「……それだけでは、ないかもしれません」


 曖昧な返しだった。


 エマがどこまで知っていて、どこから先を推測で語っているのかはわからない。だが少なくとも、アルベルトがこの温室を不要と切り捨てなかった理由は一つではないらしい。


 温室の奥には、小さな腰掛けが置かれていた。磨かれた木製で、座面には薄い布張りのクッションがある。誰かがここで花を眺めることを前提にした場所だ。


 リディアはそこへ近づき、そっと指で背をなぞった。


 ほこり一つない。


 最近まで誰かが座っていたのではないかと思うほどきれいだ。


「この椅子も?」


「毎日、手入れが入っております」


「誰も使わないのに?」


 そう尋ねると、エマはごく自然に言った。


「旦那様が“いつでも座れる状態にしておけ”と」


 リディアは振り返った。


「旦那様が?」


「はい」


 その一言だけで、胸の奥がまたざわめいた。


 花を好まないはずの男が、誰も座らぬかもしれない椅子を、いつでも座れるよう整えさせる。


 その理由がわからない。


 あるいは、理由は一つではないのだろう。先代奥様のため。屋敷の形を守るため。何かの記憶のため。そしてもしかしたら――これからここを必要とする誰かのため。


 そこまで考えて、リディアは慌ててその想像を打ち消した。


 自意識過剰だ。


 ここへ来てまだ日が浅いのに、自分のためなどと思うほうがおかしい。


 だがそう思っても、心の奥では小さな熱が残った。


 温室の最も奥、光の柔らかい場所に、淡い青紫の花が並んでいた。花弁の先が少し丸く、朝靄のような色をしている。リディアはそれを見た瞬間、懐かしさに似たものを覚えた。


「この花……」


「ブルースターにございます」


 エマが言う。


「昔からお好きでいらしたのですか」


 問われて、リディアははっとした。


「どうしてそう思うの?」


「奥様が最初に目を留められましたので」


 たしかにそうだった。


 無意識だった。けれどこの花の色を見ると、なぜか胸がゆるむ。侯爵家の庭にも少しだけ植えられていて、幼いころ、亡き母が“空の欠片みたいでしょう”と笑ったことを思い出す。


「……ええ、たぶん。小さいころ、母が好きだった花なの」


 そう口にしてから、少しだけ驚く。


 自分から“好き”を語ったことにも、その理由まで添えたことにも。


 エマはそれ以上何も追わず、ただ静かに頷いた。


 そのとき、温室の外側の回廊から足音がした。


 使用人の規則正しい足音ではない。もう少し重みがあり、無駄がなく、しかし急いでもいない。リディアの心臓が小さく跳ねる。


 振り返る前に、エマが一礼した。


「旦那様」


 やはり、と思う間もなく、ガラス戸の向こうにアルベルトの姿が現れた。


 昼の執務から戻った直後らしく、今日も濃い色の上着をきっちりと着こなし、白い手袋だけを片手に持っている。温室の湿った空気の中にあっても、その人だけはやはり冷えた輪郭を崩さない。


 けれど彼は中へ入ってきてすぐ、温室全体を軽く見回し、その視線をリディアへ止めた。


「ここにいたか」


 低い声。


 いつも通りの短い言い方なのに、不思議と咎められている感じはしない。


「……失礼でしたでしょうか」


 そう返した自分に、リディアは内心で少しだけ苦笑した。すぐそう聞いてしまうのだから、我ながら長年の癖は根深い。


 案の定、アルベルトは眉をわずかに寄せる。


「なぜそうなる」


「いえ、その……ご趣味ではない場所だと聞いたので」


「私の趣味ではないな」


 きっぱりと言う。


 だが続けて、彼は温室の奥の花々へ目を向けた。


「だが、なくす理由もない」


 その一言が、温室の空気に不思議とよく合った。


 なくす理由もない。


 好きだから守る、という熱っぽい言葉ではない。けれど、不要だから捨てる、でもない。その中間に、この男らしい妙な誠実さがある気がした。


 アルベルトはリディアの近くまで来ると、彼女の視線の先にあったブルースターへ目をやった。


「それが気に入ったか」


 リディアは少しだけ頬を熱くしながら頷く。


「……ええ。母が好きだった花で」


「そうか」


 アルベルトはそれ以上、亡き母のことを詮索しなかった。ただ花を一度見て、それから温室の奥に置かれた腰掛けへ視線を向ける。


「気分が重いときは、ここに来るといい」


 唐突な言葉だった。


 リディアは目を瞬く。


「よろしいのですか」


「誰の許可が要る」


 それもまた、いかにも彼らしい返しだった。


「ここは君が入って困る場所ではない。座りたければ座れ。見たければ見ろ」


 まるで、それが当然のことのように告げられる。


 リディアの胸の奥で、何かがゆっくりとほどけた。


 侯爵家では、どこに入るにも、どこで休むにも、そこに“相応しい理由”が必要だった気がする。だがこの男は、花を見たいなら見ればいい、座りたいなら座ればいい、とだけ言う。


 そんな自由の渡し方があるのだと、リディアはまだうまく理解できない。


「……ありがとうございます」


 小さくそう言うと、アルベルトは少しだけ彼女を見た。


「礼を言うほどのことではない」


 そう言いながらも、彼の視線は一瞬だけブルースターの並ぶ棚へ戻った。


 そのわずかな間に、リディアはふと思う。


 この温室は、ただ“なくす理由がない”から残されたのだろうか。


 それだけではない気がする。少なくとも、この花々はひどく丁寧に守られている。冷たい男のはずなのに、この場所だけは季節の移ろいを細やかに覚えているようだ。


 そして、その温室へ自分が来ることも、なぜか最初から想定されていたように思えてならなかった。

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