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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第13話 書庫で初めて知った――この人は私を“飾りの妻”として置くつもりではない

 温室から戻ったあとも、リディアの胸にはどこか落ち着かない熱が残っていた。


 気分が重いときは、ここに来るといい。


 ただそれだけの言葉だった。甘さも飾りもなく、むしろそっけないくらいだったのに、そのそっけなさの奥に、妙に深い許可のようなものがあった。


 座りたければ座れ。見たければ見ろ。


 侯爵家では何かを望む前に、必ず“それが許される理由”を探していた。王太子妃候補として育てられていたころはなおさらだ。好きだから花を見る、疲れたから座る、静かな場所へ逃げたいから温室へ行く――そういう個人的な欲求は、表向きの教養や必要性の陰に隠してしか持てなかった。


 けれどアルベルトは、それを理由なしに許した。


 そのことが、思っていた以上に心へ残っている。


「奥様、お部屋へお戻りになりますか」


 温室を出たところでエマにそう問われ、リディアは一瞬だけ迷った。部屋へ戻って一人になれば、きっとまた考えすぎてしまうだろう。温室の湿った空気の余韻がまだ体に残っていて、このまま閉じた部屋へ戻るのが少し惜しい気もした。


「……書庫は、どこにあるのかしら」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 けれど一度言葉になってしまえば、それは自然な欲求のように思えた。侯爵家でも、王宮でも、リディアにとって最も安心できる場所の一つは本のある部屋だった。言葉は裏切ることもあるが、本は少なくともその場で顔色を窺う必要がない。頁を開けば、誰かの期待ではなく、書かれた内容だけがそこにある。


 エマはすぐに頷いた。


「ご案内いたします」


 屋敷の書庫は、本館の中央よりやや奥まった場所にあった。


 大扉を抜けると、そこは天井の高い、静謐な部屋だった。壁面いっぱいに書棚が並び、上段へは可動式の梯子で届くようになっている。深い色の木材で揃えられた書架は磨き込まれ、窓からの光は薄いカーテンを通して柔らかく落ちていた。机や読書用の長椅子もいくつか置かれているが、いずれも装飾は控えめで、使うための美しさだけがある。


 侯爵家の書庫も決して悪くはなかった。だがここは規模が違う。冊数だけではなく、分類の仕方も、手入れの行き届き方も、ただ集めたという以上の意思が感じられる。


 リディアは思わず息を呑んだ。


「……すごい」


 その呟きに、エマは少しだけ誇らしげな顔になった。


「旦那様が最も手を入れておられる場所の一つでございます」


 やはりそうなのだ、とリディアは思う。


 温室は“なくす理由がないから”残した場所かもしれない。けれど書庫は違う。これは明らかに、あの人自身の意志が濃く表れた部屋だ。


「どのような本が多いの?」


「政務、歴史、法、外交、地誌、言語学……あとは軍務や財政に関するものが主でございます。文学もございますが、数はそれほど多くありません」


 いかにも、という揃い方だった。


 リディアはゆっくりと書棚の間を歩く。革装の背表紙に指を触れれば、どれもよく手入れされているのがわかる。単に高価な蔵書を誇示するためではない。実際に使い込まれ、必要なときすぐ手に取れるよう整えられている。


 その中で一角だけ、外交文書と諸侯名鑑がまとめられた棚が目に留まった。視線が自然と引き寄せられる。王太子妃教育の中で最も長く、最も厳しく叩き込まれた分野の一つだ。各国の王族名、婚姻関係、同盟の推移、過去の紛争、交易路、関税率。興味からというより、生き残るために覚えさせられた知識だった。


 今でも背表紙を見れば、内容の概略が頭に浮かぶ。


「もしお一人でご覧になりたければ、私は外でお待ちいたします」


 エマが気を利かせてそう言う。


 リディアは少し考えてから頷いた。


「お願いしてもいいかしら」


「かしこまりました」


 エマが静かに退室すると、書庫はさらに深い静けさに包まれた。


 リディアは一冊、外交に関する年次記録を棚から抜き取った。かなり厚い本だが、持てないほどではない。近くの机へ運び、そっと頁を開く。羊皮紙特有の匂いと、古いインクの乾いた香りが立ちのぼった。


 頁を追うごとに、不思議と気持ちが落ち着いてくる。


 これは知っている。これも読んだ。これは少し古い編纂だが、こちらの数字の取り方のほうが保守的で信頼できる。そんなふうに、頭の中で自然に整理が始まる。


 王太子の隣に立つために押し込まれた知識のはずなのに、本の前に座っているときだけは、それが少し違う形で息をし始める。責められるためでも試されるためでもなく、ただ理解できるという事実だけが、奇妙な充足感をもたらした。


 気づけばかなり集中していたらしい。


「その版は三年前のものだ」


 不意に低い声が落ちてきて、リディアは小さく息を呑んだ。


 顔を上げると、いつの間にかアルベルトが机の向こう側に立っていた。


 気配を感じなかった。


 それが悔しいような、いかにもこの人らしいような気持ちになる。


「……失礼いたしました」


 思わず本を閉じかけると、アルベルトが片手を軽く上げた。


「そのままでいい」


 リディアの手が止まる。


「見ていたのですか」


「少しな」


 少し、と言いながら、その目はどう考えても“少し”以上に見ていた人のものだった。リディアがどの棚へ向かい、どの本を選び、どの頁で手を止めたかまで把握していそうな静かな視線。


「それは三年前の版だが、関税率の見直し前なので今の情勢を読むには少し古い」


 そう言いながら、彼はすぐ隣の棚から別の一冊を抜き取った。


 より新しい装丁。表題も似ているが、補遺の形式が違う。


「こちらのほうが今は使いやすい」


 机へ置かれたそれを、リディアは思わず見比べる。


「……新版が入っていたのですね」


「当然だ」


 短い返答。


 だがその当然さが、この人の書庫なのだとよくわかる。必要な知識は更新され、古いものも価値があれば残される。全部が生きた資料なのだ。


 リディアは恐る恐る新版を開いた。


 頁立ての仕方も、索引の細かさも、たしかにこちらのほうが実務に向いている。ざっと目を通しただけで、それがわかる。


「すごい……」


 また同じ言葉が出てしまった。


 アルベルトは椅子を引き、自分も向かいへ腰を下ろす。その動作があまりにも自然で、リディアはまた少しだけ緊張した。夫婦として同席しているというより、面接か試問のような落ち着かなさがある。


「君は、外交文書の読み方を知っているな」


 問われて、リディアは姿勢を正した。


「基本的なものは、王太子妃教育で」


「基本的、か」


 アルベルトは本へ視線を落としたまま言う。


「今、君は北方交易の附記で手を止めた。そこは数字の修正だけでなく、諸侯間の婚姻関係が流通経路に与える影響を追記した箇所だ。そこまで気づけるなら、“基本的”では済まないだろう」


 胸の奥がひやりとした。


 見られていた。


 どこを読んでいたかだけではない。何に着目したかまで。


 リディアは咄嗟に言葉を探す。


「……いえ、ただ以前の版との違いが気になって」


「違いに気づく時点で十分だ」


 あっさりと返される。


 その返答の軽さに、逆に困ってしまう。


 褒められているのだろうか。評価されているのだろうか。だがそんなふうに受け取るのは思い上がりかもしれない。


 そう迷っているうちに、口から出たのは、やはり馴染みすぎた言葉だった。


「出過ぎた真似をいたしました」


 言った瞬間、自分でも嫌になる。


 まただ。


 別に叱られてもいないのに、先に頭を下げる。


 するとアルベルトが、昨夜や今朝よりもはっきりと眉を寄せた。


「なぜそうなる」


「……勝手に専門の本へ触れましたので」


「君はこの屋敷の女主人だ。書庫にある本を開くことのどこが勝手だ」


 理屈はその通りだった。


 だがリディアの胸の内は、理屈だけで動いてはいない。侯爵家でも王宮でも、彼女は“与えられた範囲の中で正しく振る舞う”ことしか許されてこなかった。自分から何かを選ぶこと、まして興味を示すことは、常に“出過ぎ”と隣り合わせだったのだ。


「私は……」


 うまく言葉にならない。


 するとアルベルトは、少しだけ間を置いてから、前より低くも柔らかな声で言った。


「褒めたのだが」


 リディアは息を止めた。


 褒めた。


 その言葉が、妙に遠く聞こえる。


「え……」


 自分でも間の抜けた声だと思う。だがそれほど予想していなかった。


「君は内容を理解したうえで、どこが変わったかを見ていた。上滑りではなく、頭に入っている読み方だ。褒める理由としては十分だろう」


 リディアはしばらく何も言えなかった。


 褒められた。


 それも、容姿でも礼儀でもなく、知識の使い方を。


 王太子妃教育では、知識はあって当然だった。できれば褒められるものではなく、できなければ責められるもの。だから“理解していたこと”そのものを褒められる経験が、ほとんど記憶にない。


「私は……当然のことを」


 ようやくそう返すと、アルベルトは静かに首を振った。


「当然に見えることほど、積み重ねがいる」


 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。


 積み重ね。


 それは確かに、あった。


 眠い目をこすりながら覚えた諸侯の系譜。間違えるたびに叩き込まれた条約名。何度も書き写した交易表。意味もわからぬまま覚えさせられた時期もあった。けれど、いつしか数字と数字の間や、婚姻関係の裏にある政治の流れが見えるようになっていた。


 それを“努力”と呼んでよかったのだろうかと、これまで考えたこともなかった。


 ただ、生き延びるために必死だっただけだから。


 だがアルベルトは、それを“当然”で片づけなかった。


「なぜ謝るのかわからん」


 彼は本へ目を落としたまま続ける。


「褒められて、まず身を縮める必要はない」


 リディアは膝の上で手を握った。


 どう返せばよいのかわからない。


 ありがとうございます、と言うのが正しいのかもしれない。けれどその言葉を口にした瞬間、何かがこぼれてしまいそうな気がして怖かった。


 そんな彼女を見てか見ずか、アルベルトは机上の新版を指で軽く叩いた。


「ついでに聞くが」


「はい」


「北方交易の補記で、君はどこが最も変化したと思った」


 問いかけられた瞬間、リディアの頭は自然に動いた。


「交易路そのものではなく、婚姻に伴う関税免除の扱いです」


 言葉が出る。


「表向きは修正ですが、実際には西部諸侯への牽制が主かと。北方伯家と隣国の傍系王族の縁組が決まったことで、北側の流れを王家が直接押さえにくくなっているので、婚姻による減免を一度整理して“誰に利益が落ちるか”を再計算したのではないでしょうか」


 言い終えてから、はっとした。


 つい、答えてしまった。


 これではまるで、自分から議論に加わろうとしているようではないか。


「……あの、これは、私見にすぎませんので」


 慌ててつけ足すと、アルベルトは初めてほんのわずかに口元を動かした。笑った、と言えるほどではない。けれど確かに、冷たいだけの顔に微かな変化が走った。


「私見で十分だ」


 そう言って、彼は机の端に置かれた別の文書を一枚引き寄せる。


「実際、その見方に近い」


 リディアは目を見開いた。


「……本当に?」


「だから褒めている」


 淡々とした返答。


 なのに、その淡々さのせいでかえって信じがたい。


 自分の考えが、宰相の見立てと近い。


 そんなことがありえるのだろうか。


 リディアの胸の内に、戸惑いとともに小さな震えが広がる。それは恐怖ではない。もっと別の、名前をつけにくい感情だ。たとえば、長く閉じた部屋へ初めて風が通るような。


 自分には、こうして考える力があるのだと。


 誰かの隣で黙って整っているためだけではなく、知識を繋いで意味を見つけることができるのだと。


 それを、目の前の男がごく当然のように認めている。


「……そんなふうに言っていただけるとは、思いませんでした」


 ようやくそう言うと、アルベルトは少しだけ視線を上げた。


「誰にも言われなかったのか」


 その問いはひどく静かだった。


 だが静かだからこそ、逃げ場がない。


 リディアは答えに詰まる。


 言われなかった、と思う。少なくとも、記憶にはない。役に立って当然、覚えていて当然、できて当然。そう扱われてきた。できなければ責められ、できても褒められはしない。それが自分の知っている世界だった。


「……たぶん」


 それだけ絞り出すと、アルベルトは何も言わなかった。


 けれどその沈黙は、どうしようもなく重かった。


 やがて彼は立ち上がる。


「必要なら、この書庫は好きに使え」


 また許される。


 温室に続いて、今度は書庫を。


 見たいなら見ろ。座りたいなら座れ。使いたいなら使え。


 そんなふうに場所を開かれるたび、リディアの中で少しずつ何かが揺らいでいく。


「……私は、いてもいいのですか」


 気づけばそう尋ねていた。


 アルベルトは一瞬だけ眉を動かす。


「ここは私の書庫だが、君を締め出す理由はない」


「でも、私は」


 王太子のために学んだ知識だ。侯爵家に仕込まれた道具だ。それを、この屋敷で使っていいのだろうか。そういう意味が込められていたのだが、アルベルトは短く言った。


「君は“でも”が多いな」


 その言い方は少し呆れたようで、けれど突き放してはいなかった。


「ここで本を読むことに、誰の許可が必要だ」


 また同じだ。


 温室でもそうだった。


 誰の許可が要る。


 その言葉が、この人の中では揺るがない前提なのだろう。


 リディアはそれ以上何も言えなくなり、ただ小さく頭を下げるしかなかった。


「……ありがとうございます」


「礼より先に、本を閉じるな」


 そう言って、アルベルトは机の上の新版を軽く押し戻す。


「途中だっただろう」


 その一言に、リディアは思わず本へ目を落とした。


 たしかに、途中だった。


 まだ読みたい。続きを知りたい。そう思っている。


 そんな気持ちを、自分が今この場で抱いていることに気づく。


 そしてその気持ちを、隠さなくていいのだと、目の前の男は言外に示している。


 アルベルトはそれ以上何も言わず、静かに書庫を出ていった。


 残されたリディアはしばらく動けなかった。


 書庫の静けさの中で、自分の鼓動だけがやけにはっきり聞こえる。


 飾りの妻として置かれるのだと思っていた。


 温室を見てもいい、食べやすい形に変える、という程度なら、まだ“気まぐれな配慮”として片づけることもできたかもしれない。


 けれど今、彼は自分の知識を見て、考え方を聞き、そのうえで評価した。


 それはもう、飾りではない。


 少なくともこの人は、自分を“ただ置いておけばよい女”として見ていない。


 そのことが、胸の奥で静かに、しかし確かに波紋を広げていた。

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