第14話 「なぜ謝る?」――その一言で、私の中の“当たり前”が初めて揺らいだ
書庫に一人取り残されたあとも、リディアはしばらく頁をめくることができなかった。
机の上には、先ほどまでアルベルトが押し戻していった新版の外交記録が開かれたまま置かれている。紙面の上には整った文字列が並び、関税率の改定、諸侯間の婚姻、交易路の修正、国境沿いの税収変動――見慣れたはずの情報ばかりだった。
なのに今は、そこに書かれたどの数字よりも、どの注記よりも、たった一つの問いのほうが鮮明に胸へ残っている。
誰にも言われなかったのか。
そして、その少し前に向けられた、もっと短くて鋭い言葉も。
なぜ謝るのかわからん。
リディアはそっと本を閉じた。
ぱたり、と静かな音が書庫に落ちる。
それだけの音なのに、ひどく大きく響いた気がした。
謝る。
それは彼女にとって、呼吸に近い行為だった。
何かを乱したと思ったとき。誰かの手を煩わせたと思ったとき。自分が目立ちすぎたかもしれないと思ったとき。たとえ責められていなくても、先に頭を下げておけば事が荒立たない。相手の不快を最小限にできる。自分が“出過ぎた者”でないと示せる。
そうして生きてきた。
それを今さら、なぜ謝るのかわからない、などと言われても。
リディアは椅子の背へそっと体を預け、目を閉じた。
幼いころの記憶が、断片的に浮かんでは消える。
まだ王太子妃候補として名が挙がる前、侯爵家の食卓で口を滑らせた日のこと。父と来客が話している横で、まだ幼かったリディアが興味のままに歴史書の内容を口にした。正確な知識だったはずだ。だが場に割り込んだこと自体を咎められた。
お前は賢いのではない。出す場所を間違えている。
そう言われた。
礼法の教師には、何度こう言われただろう。
理解しているなら結構。けれど求められる前に見せてはいけません。
答えを知っていても、先に口を開くのは品がありません。
優秀であることと、出過ぎないことは別です。
つまり、知っているだけでは駄目なのだ。
知っていても、それをいつ、どの程度、どんな顔で出すかを誤れば、むしろ疎まれる。
だからリディアは学んだ。
先に出ないこと。尋ねられるまで待つこと。褒められても縮こまること。知っていて当然、できて当然の顔をすること。役に立てたとしても、それを自分の価値のように見せないこと。
そうすれば、少なくとも怒られにくい。
そうすれば、“扱いやすい娘”でいられる。
そう信じてきた。
それなのにアルベルトは、褒めたのだが、と言った。
当然だと思ってきた知識の使い方を、積み重ねがいる、と言った。
そして何より、なぜ謝るのかわからない、と本気で不思議そうに言った。
あの目は責めていたのではない。
本当に、わからないという目だった。
それがリディアには、かえって衝撃だった。
怒られるほうがまだわかりやすい。謝罪を求められるほうが、慣れている。だが“謝る理由がないのに謝ること”を不思議がられる経験など、ほとんど記憶にない。
書庫の扉がそっと叩かれた。
「奥様」
エマの声だ。
リディアはゆっくりと目を開ける。
「どうぞ」
エマは中へ入ると、机の上の閉じられた本と、椅子に座ったまま動かない主の顔を見て、少しだけ表情を改めた。
「お疲れが出ましたか」
「……少しだけ、考え事を」
「左様でございますか」
それ以上は聞かない。
その気配りが、今日は妙にありがたかった。
エマは机の端に新しい茶を置く。湯気の立つ白磁のカップからは、ごく薄い花の香りがした。香りの強いものは避けられている。砂糖壺もあるが、無理に勧められない。
「旦那様は執務へお戻りになられました。奥様には、どうぞご無理のないようにとのことです」
またその言葉だ。
ご無理のないように。
この屋敷へ来てから、何度も耳にしている。侯爵家にはなかった言葉。王宮でもほとんど聞かなかった言葉。そこでは無理をするのが当然で、できないのは未熟さの証とされた。
なのにここでは、無理はしなくていい前提で物事が組まれていく。
リディアは茶へ手を伸ばした。
温かい。
喉を通る熱が、ひどくほっとする。
「エマ」
「はい」
呼びかけてから、何をどう聞けばいいのかわからなくなる。けれど聞かずにはいられなかった。
「……私は、そんなにすぐ謝ってしまうのかしら」
エマは少しだけ目を瞬いた。
予想外の問いだったのだろう。それでも彼女はすぐに取り繕わず、言葉を選ぶ時間を置いた。
「旦那様にも、そのように言われましたか」
「ええ」
短く答えると、エマは小さく頷く。
「失礼を承知で申し上げれば、はい」
やはり、そうなのだ。
他人の目から見てもわかるほど、自分はすぐ謝る人間なのだ。
リディアはカップを両手で包んだまま、視線を落とした。
「……そんなに、おかしいことかしら」
「おかしい、というより」
エマは少しだけ柔らかく言い直す。
「奥様は、ご自身が何かをなさったとき、それがよいことであっても悪いことであっても、まず“ご迷惑ではないか”を先に考えておいでのように見えます」
その言葉が、胸へまっすぐ刺さる。
ご迷惑ではないか。
まさにそうだ。
褒められたときでさえ、本当に受け取っていいのかより先に、“相手にそこまで言わせてしまって申し訳ない”が来る。自分が何かを望んだときでさえ、それを言うことで相手の手を煩わせるのではないかと考える。
無意識だった。
少なくとも、ここまで言葉にされるまでは。
「それは……普通ではないの?」
問いかける声が少し頼りなくなる。
エマは一瞬だけ視線を和らげた。
「普通かどうかはわかりません。ただ、この屋敷では、必要なことを必要だと言うのは悪いことではありません」
まただ。
必要なら言っていい。望むなら望んでいい。見たいなら見ろ。座りたいなら座れ。
アルベルトも、使用人たちも、同じ前提の上に立っている。
リディアだけがまだ、その前提に乗れていない。
エマが退室したあと、リディアはしばらく茶を飲みながら考え込んでいた。
もし、あの場で謝らなかったら、どうなっていたのだろう。
アルベルトに知識を評価されて、ただ「ありがとうございます」と言えばよかったのか。あるいは「そう見ていただけて嬉しい」と。そんな返しができる女が、本当にこの世にいるのだろうか。
少なくともリディアには難しい。
褒められると、足元がなくなるような気がするのだ。自分がそこへ乗っていいと思えない。だからすぐ身を縮めて、謝って、なかったことにしたくなる。
それが染みついた生き方だった。
夕刻になって、リディアは温室へ向かった。
昨日アルベルトに、気分が重いときはここへ来るといい、と言われたからだ。そんな理由で本当に来ていいのかまだ半信半疑だったが、少なくとも誰にも咎められはしないはずだった。
ガラス戸を開けると、温室の空気がふわりと迎える。
湿った土の匂いと、やわらかな花の香り。
ブルースターの淡い色は今日も静かで、白い小薔薇の蕾も昨日より少しだけふくらんで見えた。
リディアは奥の腰掛けへ座る。
ここは不思議と落ち着く。温かすぎず、香りも強すぎず、誰かの視線もない。侯爵家にも王宮にもなかった、“ただいていい場所”に近い気がした。
私はなぜ謝るのだろう。
改めてそう考える。
誰かに叱られる前に謝る。相手の不快を最小限にしたい。自分が出過ぎていないと示したい。――それはわかる。
では、なぜ褒められたときまで謝るのか。
その問いだけは、今まで真正面から考えたことがなかった。
褒められると怖いのだ、とようやくリディアは気づく。
期待されるからではない。期待はむしろ慣れている。そうではなく、褒められた瞬間に、自分がそこへ立つ資格などないと感じてしまうのだ。受け取った途端に、どこかで“思い上がった娘”になる気がして、慌てて身を縮める。
その習い性が、自分をどれだけ固くしてきたのか。
温室のガラスに、夕暮れの薄明かりが映る。
リディアはそっと目を閉じた。
「……褒められても、謝らなくていい」
自分で小さく言ってみる。
ぎこちない。
まるで他人の言葉を借りているみたいだ。
そのとき、入口のほうで扉の開く小さな音がした。
気配だけで誰かわかった。
アルベルトだ。
リディアは慌てて立ち上がろうとしたが、彼の低い声が先に届く。
「そのままでいい」
また、その言い方だ。
命令のようでいて、不思議と圧しつけがましくない。
アルベルトは温室の中へ入り、まっすぐ彼女の前まで来た。今日は執務のあとらしく、上着のままではあるが首元の硬さが少し緩んで見える。それでもやはり、冷たい輪郭は崩れない。
「顔色が悪いわけではないな」
第一声がそれだった。
体調の確認。
それがこの人らしいと思う。
「ええ……大丈夫です」
「ならいい」
短いやり取り。
だがリディアは、ここで終わらせてはいけない気がした。
さっきから胸に刺さったままの問いを、そのまま持ち帰れば、また夜まで考え込んでしまうだろう。
この人に聞いてしまっていいのかはわからない。けれど聞かずにいられなかった。
「旦那様」
「何だ」
「昼のことなのですが」
アルベルトが少しだけ眉を動かす。
続きを促しているのだとわかり、リディアは息を整えた。
「……私は、褒められると、どう返していいのかわからなくなります」
言ってしまった。
声にした瞬間、恥ずかしさで胸が熱くなる。こんなことを口にするのは、あまりに子どもじみている気もした。
だがアルベルトは笑わなかった。
ただ、静かに彼女を見ている。
「だから、たぶん……謝ってしまうのです」
そこまで言って、ようやく顔を上げる。
アルベルトの表情は変わらない。
けれどその目には、いつもの観察とは少し違う、思考するような静けさがあった。
「褒められると困るのか」
問われて、リディアは小さく頷く。
「……受け取ってはいけない気がして」
「なぜ」
「思い上がりになる気がするから」
アルベルトは少しだけ目を細めた。
「誰にそう教えられた」
その問いに、リディアは答えられなかった。
誰に、と言われれば困る。父かもしれない。教師たちかもしれない。王宮の空気そのものかもしれない。誰か一人ではなく、長い時間をかけて少しずつ刷り込まれた感覚だった。
「……はっきりとは」
「そうか」
アルベルトはそれ以上追及しなかった。
代わりに、温室の奥の花へ視線を向けてから、低く言う。
「なら今、覚えろ」
リディアは瞬きをする。
「褒めたときは、受け取ればいい」
あまりにも簡潔な答えだった。
「だが」
「だが、ではない」
遮られる。
しかし不思議と、その遮り方に嫌な圧はなかった。
「理解したこと、気づいたこと、考えたこと。そういうものに価値があるから褒めた。そこへ君が勝手に罰を足す必要はない」
リディアはしばらく声を失った。
価値がある。
その言葉が、ひどく重い。
「……そんなふうに言われたことが、ありません」
ようやく出た本音だった。
それは弱音に近かったかもしれない。けれどアルベルトはそれを否定しなかった。
「なら、これから慣れればいい」
その一言は、優しいと呼ぶにはあまりにあっさりしていた。
けれど妙に温室の空気と馴染んで、リディアの胸へ静かに落ちる。
これから慣れればいい。
できなければ駄目、ではなく。
今までそうではなかったからと切り捨てるのでもなく。
ただ、これから慣れればいい、と。
その言葉に、リディアの中の“当たり前”が、ほんの少し音を立てて揺らいだ。




