第15話 王太子はまだ知らない――失ってから価値に気づく男ほど、みっともないものはない
王宮の朝は、侯爵家とも宰相家とも違う種類の騒がしさを持っている。
侍従たちの足音、廊下を滑るように行き交う女官、遠くで鳴る鐘、朝の謁見へ向かう貴族たちの気配。すべてが秩序立ってはいるが、そこには常に“人の思惑”が混じっていた。誰がどの派に近いか、誰が誰へ取り入ろうとしているか、どの笑顔が本心でどの沈黙が牽制か――王宮という場所は、磨き上げられた大理石の上を、そうした目に見えない駆け引きが絶えず行き交っている。
王太子エドワードは、その中心に立つはずの男だった。
だが今朝の彼は、自分が中心にいるという実感を持てずにいた。
「こちらが本日のご決裁分です」
侍従が卓上へ積み上げた書類の束を見て、エドワードは露骨に眉を寄せた。
「多すぎる」
「昨日の外務会議からの持ち越しがございますので」
「なら優先順位をつけろと言っただろう」
苛立ち混じりの声に、侍従は一瞬だけ視線を伏せる。
「失礼いたしました。ですが、いずれも急ぎでして……」
その返答が、余計にエドワードの神経を逆撫でした。
急ぎ。必要。判断。確認。近ごろ周囲の者たちは、そういう言葉ばかりを持ってくる。王太子である自分に向けて、“決めてください”“目を通してください”“この順でよろしいでしょうか”と。
以前から仕事がなかったわけではない。だがあのころは、もっと“整って”いた気がする。
各種の催しの順序も、贈答の選定も、出席者の顔触れも、外交上の些細な無礼にあたる表現も、どこかで既にふるいにかけられた形で彼の前へ来ていた。だから自分は最後の決裁だけしていればいいことが多かった。
その整えられた状態が、近ごろ明らかに減っている。
理由はわかっている。
わかっているのに、認めたくなかった。
「これは何だ」
エドワードは手近な書類を一枚つまみ上げる。
「北方交易路の関税見直し案でございます。先日、西部諸侯より異議が」
「ああ、それか」
彼はそこで言葉を止めた。
以前なら、この類の案件には横に簡単な付記がついていた。背景、影響を受ける家門、どの派閥がどう反応しそうか。表向きの文言ではなく、実際に何が争点なのかを短く整理した紙が添えられていたのだ。
それが今は、ない。
侍従は必要な書類を揃えてはくる。だが“読まなくてはならない量”が急に増えた気がする。
「……付記は?」
思わず尋ねると、侍従はきょとんとした。
「付記、でございますか」
「要点をまとめたものだ」
「今回は、まだ外務局でそこまで整理が進んでおらず」
エドワードは舌打ちしかけて、どうにか押しとどめた。
整理が進んでいないのではない。
以前は誰かが、その“整理”をわざわざ目立たぬ形で整えていたのだ。
その誰かの名を、彼は口にしたくなかった。
だが脳裏には、どうしても浮かぶ。
侯爵令嬢リディア・フォルセイン。
いつも一歩引いた位置で、必要なときにだけ短く助言し、決して自分の手柄のようには見せず、しかし王宮の小さな歪みを水面下で真っ直ぐへ戻していた女。
息が詰まる。
そう思って、切り捨てたはずの女。
「殿下?」
侍従の声で我に返る。
エドワードは書類を乱暴にならない程度の強さで机へ戻した。
「……いや、何でもない。下がれ」
「は」
侍従が一礼して退室すると、部屋には重たい沈黙が落ちた。
エドワードは椅子の背へ体を預け、深く息を吐く。
何でもないわけがない。
近ごろ、あらゆるところで不具合が出ている。大きな失態ではない。だが小さな綻びが積み重なっていく。式典の席順に微妙な不備がある。贈答品の選定に“その家へはそちらよりこちらがよい”という一手が足りない。外務局から上がる文書の要点が、以前ほど整理されていない。
それは決して、自分の周囲が急に無能になったということではない。
ただ、以前は見えないところで誰かが埋めていた穴が、今はそのまま残っているだけだ。
その事実を認めるのが、ひどく不愉快だった。
リディアが有能だった、などと。
いや、正確には有能だったことは知っていた。知っていたが、それは“妃候補として当然の水準”の範囲だと思っていたのだ。座学も礼法も、王太子妃になるならできて当然。そういう程度の認識だった。
だが実際には違ったのかもしれない。
今になって、その当然と思っていたものが、どれほど手間と注意で支えられていたかが見え始めている。
だからこそ、苛立つ。
彼女がいなくなって不便を感じている自分にも。
いなくなって初めて価値を測り直している自分にも。
そのとき、扉の外から明るい声がした。
「殿下、お時間よろしい?」
ノックを待つより先に扉が半分開き、伯爵令嬢セシリアが顔を覗かせる。春をそのまま人の形にしたような、という表現がまさに似合う娘だ。今日も淡い桃色のドレスに身を包み、髪には小さな花飾りが散らされている。
エドワードは反射的に表情を整えた。
「どうした」
「まあ、怖いお顔。朝からそんなに難しい書類?」
彼女は軽い足取りで近づいてきて、机の上の紙束を覗き込む。普通なら咎められてもおかしくない距離感だが、エドワードは以前ほどそれを微笑ましく受け流せなくなっていた。
「見てもわからんだろう」
「わからないわ。でも、殿下が難しい顔をしているのはわかるもの」
そう言ってくすりと笑う。
かつてなら、その無邪気さに救われた気がした。リディアのような隙のなさとは違う、わかりやすい感情の揺れが心地よかった。
だが今朝は、その笑顔を前にしても、胸の内にじわつく苛立ちが消えなかった。
「何か用があるなら言え」
少し硬い声音になったのか、セシリアがわずかに瞬いた。
「……午後の庭園散策のことよ。ご一緒くださると仰っていたでしょう?」
ああ、そんな約束をしていたか、とエドワードは思う。
以前の彼なら、こういう誘いこそが“生きた心”だと感じていたはずだ。書類や議論に埋もれるより、こうして軽やかに笑う女と陽の下を歩くほうが、自分にはふさわしいと。
だが今は、その軽やかさがひどく現実離れして見えた。
「後にしろ。今は忙しい」
「少しだけでも?」
「後にしろと言った」
きっぱり言うと、セシリアは唇を尖らせた。
「そんな言い方、なさらなくても」
その顔には不満が見えやすく出る。以前はそれも愛らしいと思った。けれど今、エドワードは不意に別の顔を思い出していた。
何を言われても、傷ついても、顔色一つ変えまいとする女。
そのくせ、指先だけはきつく握られていたこと。
回廊で最後まで礼を失わなかったこと。
そして自分が、そんな彼女へ向かって「物わかりがよくて助かる」と言ったこと。
思い出した瞬間、妙な苦さが喉へ上がる。
セシリアはそんなエドワードの沈黙を別の意味に受け取ったらしい。
「……殿下、もしかしてまだ、あの方のことを気にしていらっしゃるの?」
その問いに、エドワードは顔を上げた。
「あの方?」
「リディア様よ」
名を出された瞬間、胸の内の苛立ちが少し別の熱を帯びる。
「なぜそうなる」
「だって最近、皆そう言うもの。殿下、前よりずっと難しいお顔をしてるって」
皆そう言う。
その言葉が気に障る。
王宮とは本当に、人の表情一つ見逃さない場所だ。
「関係ない」
「本当に?」
セシリアは探るように首を傾げた。
「宰相様のところへお嫁に行かれてから、なんだか皆、あの方の噂ばかりですのよ。可哀想だとか、案外すぐ戻ってくるのではとか、逆に宰相様が大事になさるのではとか」
その言葉の一つ一つが、エドワードの神経を細く引っかいた。
戻ってくる?
大事にする?
そんな馬鹿な、とすぐには切り捨てられない自分がいることが、また不愉快だった。
「好き勝手なことを」
吐き捨てるように言うと、セシリアは少し目を見開いた。
「まあ。でも、わたくしはそうは思わないわ」
「何がだ」
「宰相様が、ああいう“冷たい女”をお好きとは思えないもの」
その瞬間、エドワードの中で何かが引っかかった。
冷たい女。
たしかに自分もそう思っていた。可愛げがなく、感情が見えず、正しすぎて息が詰まる。そう言って切り捨てたのは自分だ。
だが今、その言葉を他人が口にすると、ひどく雑に聞こえる。
冷たいのではない。
そう言いかけて、エドワードは自分で驚いた。
では何なのか。
感情がなかったわけではない。見せなかっただけだ。いや、見せられなかったのかもしれない。あの回廊で、最後まで表情を崩さなかった彼女の指先は、確かに震えていた。
そこまで思い至って、エドワードはますます機嫌が悪くなる。
なぜ今さらそんなことを考えなければならない。
「……その話は終わりだ」
低く言うと、セシリアは明らかに不満そうだったが、それ以上は食い下がらなかった。
「わかったわ。でも、午後のお約束は忘れないでくださいませね」
そう言い残して、彼女は部屋を出ていく。
甘い香水の残り香だけが、しばらく部屋に漂った。
一人になると、エドワードは机上の紙束へ視線を戻した。だが頭はもう書類へ向かっていない。
冷たい女。
ああ、そうだったのかもしれない。だがその冷たさが、実は“よく整えられすぎた表面”だったのだとしたら。自分はそこだけ見て、本当に価値のあるものを見落としていたのだろうか。
ふと、先日の夜会の光景が蘇る。
宰相家へ嫁いだばかりのリディアを、遠くから見た。あのとき彼女は以前より少しだけ、柔らかい空気をまとっていた気がする。笑ったわけではない。はっきり表情が変わったわけでもない。だが何かが、違った。
自分の隣にいたころには見たことのない静けさだった。
それがなぜか、ひどく気に障ったのだ。
自分の手元にあったころは、あそこまで柔らかくはなかった。
あれは宰相のもとに行ったからなのか。それとも、単に自分から離れたからなのか。
どちらにせよ、不愉快だ。
不愉快で、落ち着かない。
そのとき、再び侍従が入ってきた。
「殿下、午後の外務会議ですが――」
「後にしろ」
思わず強い声で遮ると、侍従が驚いて動きを止めた。
エドワードは舌打ちしたい衝動を飲み込み、額へ手を当てる。
「……いや、今でいい。要点だけ言え」
「は、はい」
侍従は慌てて文書を開く。だが彼の説明は以前より回りくどく感じた。必要な情報は入っているのに、何が肝なのかがすぐ見えない。
そしてまた思ってしまう。
以前なら、リディアが短く整理していたのではないかと。
彼女は表に出しゃばらなかったが、裏で実に多くのことを整えていたのではないかと。
そう考えるほど、腹立たしさは増した。
なぜ今さら気づく。
なぜ失ってから数え直す。
自分は愚かか。
いや、違う。誰だって手元にあるものの価値など、当たり前に見えていれば鈍るものだ。そう自分へ言い訳しかけて、エドワードはすぐにその醜さにも気づく。
失ってから価値に気づく男ほど、みっともないものはない。
そのみっともなさを、今まさに自分がなぞり始めている。
侍従の声が遠くなる。
机の上の文字も、頭に入ってこない。
リディアは今、何をしているのだろう。
宰相家の屋敷で、あの冷たい男と向かい合っているのだろうか。怯えているのか、それとも意外にも落ち着いているのか。食事はきちんと取れているのか。誰かが、あの女の手の震えに気づいているのか。
そんなことを考えている自分に、エドワードは内心で吐き気を覚えた。
もう遅いのだ。
自分で切り捨てたのだから。
それなのに、心のどこかではまだ、あの女が完全に自分の視界から消えていない。
その事実が、王太子としてではなく、一人の男としてあまりにもみっともなく思えた。




