第8話 人前では食べられないことに、初めて“理由”を与えられた
温かなスープを飲み終えたあとも、リディアはしばらく窓辺から動けなかった。
器の底に残ったわずかな湯気はもう消えかけている。けれど胸の奥には、あのやわらかな温度がまだ残っていた。食堂では喉が拒んだのに、この部屋では半分以上も口にできた。それだけでも十分に驚くべきことだったのに、さらにその状況を“見越して”準備されていたという事実が、じわじわと心の内側を揺らしていた。
どうして、そこまでわかったのだろう。
昨夜、自分は食事について一言も話していない。食堂へ降りる前に、苦手だと伝えたわけでもない。ただ昨夜の短いやり取りの中で、緊張して指先を握りしめ、息を詰め、必死に“正しい顔”を保っていただけだ。
それだけで、あの人はここまで読んだのだろうか。
リディアは両手を胸の前で軽く組んだ。
考えれば考えるほど落ち着かなくなる。優しさと断じるには、まだ自分はあの男を知らない。けれど“ただの義務”にしては、あまりに細やかだった。
そのとき、控えめなノックが響いた。
「奥様、失礼いたします」
エマだった。
「どうぞ」
入ってきた彼女は、先ほどより少しだけ表情が和らいで見えた。いや、和らいだというより、リディアがようやく少し食べられたことに安堵しているのかもしれない。
「お口に合いましたでしょうか」
「ええ……とても。あの、料理長にお礼を伝えてもらえるかしら」
「かしこまりました」
エマはそう答え、それから一拍置いた。
「旦那様から、奥様のお加減が落ち着いたようであれば、屋敷の中をご案内するよう仰せつかっております」
また、旦那様から。
アルベルトはどうやら、自分が今どの程度まで耐えられるかをかなり細かく考えているらしい。朝食の件だけでも十分落ち着かないのに、次は屋敷案内まで“落ち着いたようであれば”という条件付きで整えられている。
まるで、こちらの呼吸を見ながら距離を測ってくるようだ。
「……お願いしてもいいかしら」
ずっと部屋の中で一人でいるのも、かえって考えが沈みそうだった。少し歩けば気が紛れるかもしれない。
「もちろんです」
エマは一礼し、リディアに合わせてゆっくりと歩き出した。
廊下へ出ると、宰相家の昼前の空気は相変わらず静謐だった。使用人たちは必要な持ち場で淡々と働き、誰一人として私語を交わさないわけではないが、声量も内容もきわめて抑えられている。侯爵家にも規律はあったが、ここはそれ以上だった。張りつめているわけではない。けれど、屋敷全体に一本の見えない線が通っていて、誰もそれを踏み越えないようにしている印象がある。
「皆さん、とても静かなのね」
ぽつりと漏らすと、エマは少しだけ目を伏せて答えた。
「旦那様は、無駄を好まれませんので」
それは確かに、あの人らしい言葉だと思った。
無駄を好まない。感情も、言葉も、動きも、必要以上のものは削ぎ落とす。その結果として、この屋敷もこんなふうに整っているのだろう。
だが同時に、今朝の朝食のように“必要な配慮”だけは抜かりなく置かれる。そのことが余計に不思議だった。
まず案内されたのは、応接室や小会議室、客用の書斎などだった。どの部屋も上質で、趣味が悪いほどの豪奢さはない。美しいが、見せびらかすためではなく機能として整えられた空間ばかりだ。絵画も、装飾品も、高価なのは一目でわかるのに、どこか実務的な秩序の中に収まっている。
「旦那様は、お客様に見せるための派手なお部屋は好まれません」
エマが説明する。
「必要な格は保ちながら、落ち着いて話ができることを優先なさいます」
「そう……」
リディアは小さく頷いた。
なんとなく、わかる気がした。昨夜話した応接室も、冷たいほど整ってはいたが、無意味な華美さはなかった。あの男にとって、部屋は自分を飾るためのものではなく、役割を果たすための器なのだろう。
廊下を曲がり、次に案内されたのは小さな談話室だった。食堂よりはずっとこぢんまりとしていて、壁の色も淡く、窓辺には外光を取り込むための軽いレースが掛けられている。長椅子の布地もやわらかい色合いで、屋敷の中では珍しく、どこか“人がくつろぐため”の空気があった。
リディアは思わず立ち止まる。
「ここは……?」
「奥様がご希望でしたら、今後こちらでお食事をお取りいただいても構わないとのことです」
エマの声は相変わらず穏やかだったが、その言葉にリディアはまた胸を揺らされた。
「ここで……?」
「はい。ご家族や来客と同席される必要のないお食事であれば、こちらか私室で、と」
整いすぎた大食堂ではなく、こうした小さな部屋で。
リディアは視線を室内へ巡らせた。二人か三人が向かい合っても圧迫感のない卓。窓辺の明るさ。必要以上に見張られている気がしない距離感。たしかにここなら、少しは息がしやすいかもしれない。
けれど同時に、それが“自分のためにあらかじめ用意されていた”らしいことに気づき、さらに落ち着かなくなる。
「……旦那様は、最初からここを?」
「今朝、奥様のお食事が進まぬようならこちらも使うようにと」
エマはそこで少しだけ言葉を選ぶようにした。
「旦那様は、人前で召し上がることが苦手な方が時折いらっしゃるとご存じです」
その一言に、リディアはゆっくりと息を呑んだ。
苦手な方。
食べられない、ではなく、苦手。怠慢でも、失格でも、矯正すべき欠陥でもなく、“苦手なことの一つ”として扱われている。
それが信じられなかった。
侯爵家でも、王宮でも、リディアの食の細さや人前での食べづらさは、長らく“美徳”だと思われていた。少量を上品に口にする様子は淑女らしいとされ、むしろ褒められることすらあった。
だが実際には違う。
食べられないのだ。緊張すると喉が閉じる。視線を感じると、一口飲み込むたびに失敗していないか気になって苦しくなる。
本当はずっと苦しかったのに、それを“上品”の一言で片づけられてきた。
あるいは、食べる量が少なすぎると注意されたこともある。そのたびに“努力不足”と見なされ、次はもっときちんと、と言われて終わった。
誰も、その理由を訊かなかった。
「どうして……」
小さく漏れた声に、エマが視線を上げる。
「奥様?」
リディアは自分が何を言おうとしているのか、途中でわからなくなった。
どうして、そんなふうに考えるのですか。どうして、私ができないことを“責めるべき欠点”ではなく“形を変えればいいもの”として扱えるのですか。
けれど、それをエマへ向けて問うのは違う気がした。
「……なんでもないわ」
結局そう言って微笑もうとした瞬間、また自分が“無意識に笑おうとしている”ことに気づく。
その小さな動きを、エマは見逃さなかったらしい。だが昨夜のアルベルトのように言葉にはしなかった。代わりに、ごく自然な声で言った。
「もしよろしければ、少しだけお座りになりますか」
促されるまま、リディアは談話室の長椅子へ腰を下ろした。
窓から入る光が、膝の上に柔らかく落ちる。
エマは少し離れた位置に控えたまま、必要以上に近づいてこない。その距離もまた、不思議と心地よかった。
「侯爵家では……」
リディアは自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「食事は、きちんと席について、決まった時間に、決まった形で取るものでした」
「そうでございましょうね」
「王宮の教育でも、どんな場でも美しく食べるように、と。できないのは鍛錬不足だと言われました」
そこまで言ってから、リディアははっとする。
何を話しているのだろう。こんなこと、使用人に話すべきことではない。ましてやまだ会って間もない侍女に。
けれどエマは驚いた様子もなく、ただ静かに受け止めていた。
「奥様は、頑張ってこられたのですね」
その言葉に、リディアは目を見開いた。
頑張ってきた。
そんな言葉を食事に関して向けられたのは初めてだった。
できて当然、できなければ足りない、そればかりだったのに。
「……頑張ることしか、できなかったのかもしれないわ」
気づけばそんな言葉が零れていた。
エマはすぐには答えなかった。
リディアの中でも、その言葉は半ば独り言のようなものだった。王太子妃候補として、侯爵家の娘として、失敗しないために努力し続けること。笑う角度を整え、泣くのを我慢し、喉が閉じても美しく見えるように振る舞うこと。
それしか知らなかった。
だから王太子には“正しすぎて息が詰まる”と切り捨てられ、父には“男を繋ぎ止める技量が足りない”と責められた。
何をしても、結局は足りなかったのだ。
「旦那様は」
エマが静かに口を開いた。
「できないことを叱る前に、なぜできないのかをお考えになる方です」
その一言が、胸に深く落ちた。
なぜできないのか。
そんなふうに考える人が本当にいるのだろうか。
できないのなら努力が足りない。怠慢だ。未熟だ。そう言われることには慣れている。だが、その“できない”の手前に理由を探す人など、リディアの人生にはほとんどいなかった。
「……使用人の皆さんにも、そうなの?」
「はい」
エマはためらわず答える。
「厳しい方ではあります。ですが、理不尽ではありません。理由があることを、理由も聞かずに咎めることはなさいません」
理不尽ではない。
その言葉が妙に印象に残る。
優しい、ではないのだ。甘い、でもない。理不尽ではない。
冷たいけれど、筋は通す。厳しいけれど、理由は見る。
それがアルベルト・グランディスという人間の輪郭なのだろうか。
リディアは膝の上で手を軽く重ねた。
掌に爪を立てるのを、今日は何度も止められている気がする。実際に言葉で止めたのはアルベルトだけだが、スープも、談話室も、こうして“理由を持って扱われる”ことそのものが、無意識の緊張をほどいていくのかもしれない。
「旦那様は、今もお仕事を?」
ふとそう尋ねると、エマは頷いた。
「はい。午前は執務室で、昼前には二件ほど面会がございます」
その言い方には、誇張も愚痴もない。ただ事実だけがある。
リディアは少しだけ視線を窓の外へ逸らした。
あの人は今、この屋敷のどこかで働いているのだろう。膨大な書類と向き合い、人と会い、王国を動かすような話をしている。その合間に、新しく来た妻が朝食を食べられなかった場合のことまで手を回していた。
その落差が、やはり不思議でならない。
「奥様」
エマがやや控えめに声をかける。
「少しお疲れでしょうか」
「いいえ……でも、少しだけ、考えすぎてしまって」
正直にそう言うと、エマは小さく一礼した。
「でしたら、このあとはご無理なさらず。午後に改めて、温室や庭の一部をご覧になりますか」
「温室があるの?」
「はい。大きくはございませんが、旦那様は花を長持ちさせるための環境には気を配られますので」
また少し意外な情報だった。
花を好むのかどうかはわからない。だが少なくとも、そこに目を配る程度には無関心ではないらしい。
リディアはほんの少しだけ、知らない屋敷の中に“見てみたいもの”を見つけた気がした。
「……ええ。あとで、お願いできるかしら」
「もちろんです」
エマはそう答えた。
その穏やかな応答に、リディアは初めて、ほんの少しだけ肩から力が抜けるのを感じた。
まだ何もわからない。宰相家にも、アルベルトにも、自分がこの先どうなっていくのかにも。
けれど今、はっきりとわかったことが一つだけある。
自分が人前では食べられないことに、この屋敷では初めて“理由”が与えられたのだ。
それは小さなことかもしれない。
だがリディアにとっては、人生で初めて、自分の苦しさが“見えないわがまま”ではなく“説明のつくもの”として扱われた瞬間だった。
そのことが、胸の奥のどこかを静かに温めていた。




