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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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7/23

第7話 翌朝、冷たいはずの屋敷で、私のためだけの温かいスープが運ばれてきた

宰相家で迎える最初の朝は、驚くほど静かだった。


 目を覚ましたとき、リディアはしばらく寝台の天蓋を見つめていた。侯爵家の自室とは違う、少しだけ深い青を織り込んだ布地。窓辺にかかるカーテンの色も、壁の装飾も、すべてがまだ目に馴染まない。


 ここはもうフォルセイン侯爵家ではない。


 その事実を、寝起きの鈍い頭がゆっくりと理解していく。


 昨夜のことを思い返せば、今でも不思議な気持ちになった。初夜に告げられたのは、夫の権利でも命令でもなく、「君が望まぬ限り、私は君に触れない」という言葉だった。無理に笑う必要はない、とも言われた。


 あまりに予想外すぎて、まだ現実味が薄い。


 もっと冷たく扱われるものだと思っていた。侯爵家から厄介払いのように差し出された女に対して、宰相が丁寧に気を配る理由などないと思っていた。なのに、あの男はそうしなかった。


 それが救いなのか、あるいは別の形の観察や計算なのか、まだわからない。


 わからないまま、朝が来た。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」


 控えめなノックのあと、若い女の声が聞こえた。


 リディアは身を起こし、喉を整える。


「ええ」


 入ってきたのは、昨日は顔を合わせなかった侍女だった。栗色の髪をきっちりとまとめ、年の頃はリディアより少し上だろうか。礼を取る所作に無駄がなく、視線も落ち着いている。侯爵家の侍女たちより、どこか引き締まった空気があった。


「おはようございます。私、本日より奥様づきとなりますエマと申します」


「……リディアです」


 と言いかけて、もうそれは違うのだと気づく。ここでは誰もが彼女を“奥様”と呼ぶのだろう。


「よろしくお願いします、エマ」


「はい、奥様」


 その呼び方が、まだくすぐったいような、落ち着かないような気持ちを連れてくる。


 エマは湯と洗面の支度を整えながら、必要最低限のことだけを告げた。


「本日の朝餉は、旦那様は既にお済ませになっております。奥様はご無理のない時間にお召し上がりいただくようにとのことです」


「……そう」


 リディアは小さく瞬きをした。


 “ご無理のない時間に”。


 奇妙な言い回しだと思った。朝食とは決まった時間に皆で取るものではないのか。少なくとも侯爵家ではそうだった。食卓へ遅れれば注意されるし、体調が悪くとも最低限は顔を出すのが当然だった。


 だがここでは違うらしい。


 それとも、初日だからの配慮だろうか。


 エマはそれ以上余計な説明を加えない。主の不慣れさを見て取りながらも、必要以上に親しげにはならず、ただ求められた仕事を正確にこなしていく。


 その距離感は、リディアにとってありがたかった。


 昨夜からずっと緊張が続いている。そんな中で、やたらに気を遣われたり、哀れまれたりするのは耐えられそうになかった。


 支度を済ませ、淡い灰紫の朝のドレスへ着替える。嫁入りの翌朝としては控えめな装いだが、宰相家の雰囲気にはよく合っているように思えた。


 鏡の中の自分は、やはり整っていた。


 泣いた形跡もなく、顔色も悪くはない。むしろ静かで落ち着いて見えるくらいだ。


 この顔で、胸の内の不安まで隠せているならいいのだが、とリディアは思う。


 もっとも、あのアルベルトにはそんな表面など簡単に見抜かれそうな気もした。


 エマに案内されて食堂へ向かう。


 昨夜通った玄関ホールや廊下は、朝の光の中で見ると少しだけ印象が違った。冷たさは変わらない。けれど夜に感じた威圧的な暗さは薄れ、代わりに“よく整えられた秩序”のようなものが際立って見える。


 窓は磨き上げられ、床には塵一つない。行き交う使用人は皆静かで、必要な言葉だけを交わし、無駄な私語をしない。


 この屋敷には、全体を貫く一つの規律がある。


 それはたぶん、アルベルト・グランディスという男そのものなのだろう。


 食堂は広かったが、朝の時間だからか灯りは控えめで、窓からの自然光が主になっていた。長い卓の一角にだけ食器が整えられており、リディアはそこへ案内される。


 目の前に並べられた朝食は、侯爵家と比べても見劣りしないどころか、むしろ上等だった。


 焼きたての小ぶりなパン。香草を添えた卵料理。薄切りの果物。白いチーズ。温かな紅茶。


 どれも見た目には申し分ない。


 けれどその整いすぎた美しさに、リディアの胸はむしろ少しだけ重くなった。


 こういう食卓が苦手だと、自分でもわかっている。


 人前で食べることに、昔から妙な緊張があった。王太子妃候補として食事作法を厳しく叩き込まれてからは、なおさらだ。口を開ける角度、ナイフを置く位置、咀嚼の速さ、飲み込む間。見られていると思うだけで喉が細くなり、何を口に入れても味がしなくなる。


 侯爵家でも一人のときはまだましだったが、こうして“誰かに世話をされながら食べる”場では途端に駄目になる。


「どうぞお召し上がりくださいませ」


 エマが一歩下がって言う。


 見られているわけではない。実際、彼女は必要以上に視線を向けてこない。なのに、それでもリディアの指先は僅かに冷えた。


「……ありがとう」


 まずは紅茶へ手を伸ばす。


 香りはよい。だが一口飲んでも、やはり胸のつかえが取れない。


 パンを少しだけちぎる。口へ運ぶ。咀嚼する。飲み込む。


 うまくいかない。


 喉の奥で何かが拒むように細くなる。たった一口なのに、それだけで精一杯だった。


 リディアは何食わぬ顔でナイフを置き、今度は果物へ手を伸ばしてみる。だが同じだった。味はわかる。食べられないわけではない。けれど、食事をしているというより、試験を受けているような息苦しさが胸にまとわりつく。


「奥様、お加減が優れませんか」


 エマの声はあくまで穏やかだった。


 リディアは咄嗟に首を振る。


「いいえ、大丈夫です」


 そう答えた瞬間、自分でもひどく薄い嘘だと思った。


 大丈夫な顔をして、大丈夫な声で返す。それが染みつきすぎていて、今さら本当に苦しいなどと言い出せない。


「失礼いたします」


 別の使用人が音もなく近づき、卓上の皿に視線を落とす。ほとんど手がついていないことは、誰の目にも明らかだろう。


 リディアはひどく居たたまれなくなった。


 宰相家へ嫁いだ初日の朝から、まともに朝食も取れない女。やはり面倒な女と思われるだろうか。侯爵家から押しつけられた厄介な嫁だと、使用人たちの間でひそかに顔をしかめられるのではないか。


 そんなことまで考えてしまう自分が嫌になる。


「……申し訳ありません、少し緊張してしまって」


 気づけばそう口にしていた。


 するとエマは一瞬だけ沈黙し、それから落ち着いた声で言った。


「左様でございますか」


 責める色はない。だが慰める色もない。その中間の、きわめて職務的な受け止め方だった。


 それがかえって今はありがたい。


 リディアはもう少しだけ頑張ろうとした。パンをひとかけ、スープを一匙でも、と思ったのだ。だが置かれていたスープ皿へ手を伸ばす前に、食堂の外から別の気配が近づいてきた。


 ハロルドだった。


「奥様」


 執事頭はいつもの無駄のない礼を取る。


「旦那様よりお言伝てがございます」


 リディアの指先がぴくりと動く。


 アルベルトから。


 何を、だろう。初日の朝食もまともに取れないことが、もうあちらへ伝わったのだろうか。胸がひやりとした。


「……なんでしょうか」


「お食事が進まぬようでしたら、こちらはお下げし、奥様のお部屋へ別のものをご用意するように、と」


 リディアは言葉を失った。


 部屋へ、別のものを。


「え……」


 思わず間の抜けた声が漏れる。


 ハロルドは表情一つ変えない。


「旦那様は今朝、奥様が大人数での食卓や整いすぎた膳を前にすると召し上がれなくなる可能性を懸念されておりました」


 その言葉が、静かに、しかし強く胸を打った。


 リディアはしばらく意味を理解できなかった。


 どうして。


 どうして、そんなことを。


 昨夜少し話しただけだ。自分が食事を苦手としているとは一言も言っていない。なのに、あの男は今朝のこの状況を見越していたのだろうか。


「旦那様が……そのように?」


「はい」


 ハロルドは淡々と続ける。


「奥様が望まれるなら、今後の朝餉はしばらく私室か、より小さな居室でお取りいただいて構わないとも」


 リディアの胸の奥で、何かが強く揺れた。


 それは安堵に近い。いや、安堵だけではない。驚きと戸惑いと、うまく名づけられない熱のようなものが混ざっている。


 気づかれていた。


 無理をしていることも、食べられないことも、それを表向きの体裁で隠そうとしていることも。


 そしてそのうえで、“無理にこの場で食べろ”ではなく、“別の形に変えよう”と言われた。


 そんなことは、これまで一度もなかった。


 侯爵家では体調が悪かろうと席へ着くのが当然だったし、王宮の教育では“どんな場でも美しく食べること”を求められた。食べられないなら努力不足、緊張するなら鍛錬が足りない、それだけの話だった。


 なのにあの男は、初めから“無理な形なら変えればいい”という判断をしたのだ。


「……部屋へ、お願いしてもよろしいのでしょうか」


 気づけばそう尋ねていた。


 それが許されることなのか、まだ半信半疑だった。


「もちろんでございます」


 ハロルドは一切迷わず答えた。


「奥様が少しでも召し上がれる形が優先であると、旦那様より仰せつかっております」


 その一言で、リディアはもう食堂に座っていられなくなった。


 恥ずかしさではない。胸の奥が妙に熱くなって、今ここで誰かに見られたら何かが顔に出てしまいそうだったからだ。


「……ありがとうございます」


 声が少し掠れた。


 エマがすぐに椅子を引き、ハロルドは一歩脇へ退く。その動きには依然として無駄がないのに、先ほどまで感じていた息苦しさは不思議と少し和らいでいた。


 部屋へ戻る道すがら、リディアは何度も昨夜のアルベルトの顔を思い出した。


 無理に笑う必要はない。


 君が望まぬ限り、私は触れない。


 そして今朝は、食堂で食べられないかもしれないから部屋へ別のものを用意しろ、と。


 どうしてそんなふうに先回りするのだろう。


 優しい、という言葉で片づけるには、あの男はやはり冷たすぎる。言い方も不器用だし、笑顔を見せるわけでもない。なのに結果として与えられるものだけが、妙に自分の弱いところへ正確に届いてくる。


 それが怖かった。


 同時に、少しだけ救われてもいた。


 私室に戻ると、ほどなくして新しい朝食が運ばれてきた。


 大きな銀盆ではなく、少し小ぶりな木のトレイに載せられて。白い器に注がれた温かなスープ。柔らかく煮た野菜と細かく裂いた鶏肉が入っていて、香りは穏やかだ。横には小さな丸パンが一つ、そして蜂蜜を落とした薄い茶。


 あまりに“食べやすそう”で、リディアはしばらくそれを見つめた。


「こちらを」


 エマが静かに卓へ置く。


「料理長が、奥様にはまず温かくて喉を通りやすいものをと」


「……料理長が?」


「はい。旦那様からそうご指示があったそうです」


 またその名だ。


 アルベルト。


 結局、この配慮のすべては彼から始まっている。


 リディアは椅子へ座り、ゆっくりと匙を取った。


 一口、運ぶ。


 温かい。


 優しい味だった。塩気は強すぎず、けれど薄すぎもしない。冷えた胸の内にじんわりと染みていくようで、気づけば二口、三口と続けていた。


 食べられる。


 その事実が、思いのほか大きかった。


 食堂では喉が拒んでいたのに、この部屋でなら、温かいスープなら、ちゃんと食べられる。


 それを見越して用意されたのだと思うと、再び胸の奥がざわめく。


「……奥様」


 エマが控えめに声をかける。


 リディアは顔を上げた。


「何かしら」


「旦那様は、本日昼過ぎまで執務に入られるそうです。屋敷の中でご覧になりたい場所があれば、私かハロルドへお申しつけくださいとのことでした」


 それは“放っておく”ではなく、“必要なときには手を貸す”という距離の取り方だった。


 近すぎず、だが遠すぎもしない。


 リディアはもう一口スープを飲み、それから小さく息を吐いた。


「……そう。わかりました」


 それだけしか言えない。


 けれど、ほんの少しだけ声が柔らかくなった気がした。


 結局、スープは半分以上飲めた。パンもひとかけらなら口にできた。侯爵家の食堂で食べていた頃の自分を思えば、それは驚くほどの進歩だった。


 食後、窓辺に立つ。


 宰相家の庭は侯爵家のそれよりもずっと広く、整い方も厳格だった。花壇はあるが、装飾のためというより構図の一部として置かれているように見える。どこにも無駄がない。


 それでも陽の光の中で見ると、昨夜感じた“冷たいだけの屋敷”とは少し違って見えた。


 冷たいのではなく、温度を表に出さないだけなのかもしれない。


 そんな考えがふと浮かんで、リディアは自分でも驚いた。


 まだ一日も経っていないのに、そんなふうに思うのは早すぎる。相手がどんな人間か、何を考えているか、自分はまだほとんど知らないのだから。


 けれど少なくとも一つだけは確かだった。


 この屋敷で最初に与えられたものは、侮りでも命令でもなく、温かいスープだった。


 それが今のリディアには、思いのほか大きなことのように思えた。

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