第6話 初夜に告げられたのは、夫の権利ではなく「怯えなくていい」という言葉だった
リディアは、しばらく言葉を失っていた。
ここでは無理に笑う必要はない。
ただそれだけの一言が、思いのほか深く胸に落ちたからだ。
無理に笑う。
そんなふうに、自分の笑みを言い当てられたことがこれまであっただろうか。王宮でも、侯爵家でも、社交界でも、誰もがリディアの微笑を“よくできた淑女の顔”として受け取った。あるいは“冷たく隙のない顔”と評した。けれど、その裏に無理があることを、わざわざ口にした人はいない。
初対面の、しかも最も冷酷だと噂される男が、それを見抜いた。
その事実が恐ろしいような、ひどく落ち着かないような、説明のつかない心地悪さを伴っていた。
「……お言葉の意味を、伺ってもよろしいでしょうか」
ようやくそれだけを絞り出すと、アルベルトは椅子の背に深くもたれもせず、まっすぐこちらを見たまま答えた。
「そのままの意味だ」
声音は変わらず低い。冷たいというより、無駄を削ぎ落とした硬質さがある。
「君はここへ来てからずっと、“正しい侯爵令嬢”として振る舞おうとしている。それが悪いと言うつもりはない。だが、少なくともこの部屋では必要ない」
リディアは目を伏せそうになるのをこらえた。
見抜かれている。
どこまで見抜かれているのかわからない。そのことがひどく落ち着かなかった。
「私は……当然の務めかと」
「当然?」
アルベルトの眉が、ごくわずかに動く。
「誰にとっての」
短い問いだった。
だがリディアには答えが見つからなかった。
誰にとっての当然なのだろう。
父にとって。家にとって。王太子妃候補として育てられてきた自分にとって。そういう答えはいくらでも浮かぶ。けれど“自分自身にとって”と問われれば、何一つ言えない。
リディアは無意識に指先へ力を入れていた。
その手へ、アルベルトの視線がもう一度落ちる。
「まず、手を離せ」
低い声で言われ、リディアははっとした。
掌に爪が食い込んでいた。あまりに無意識だったせいで、自分でも気づいていなかった。慌てて指をほどくと、薄く赤い痕が残っている。
「申し訳ございません」
条件反射のように出た謝罪だった。
その瞬間、アルベルトの口元がほんのわずかに硬くなる。
「……やはりすぐ謝るのか」
呟くような声音。
リディアはどう答えればいいのかわからない。
謝るのは悪いことだろうか。何かを乱したと感じたとき、まず頭を下げる。それはもう呼吸のように染みついている。けれど、この男はそれを好ましく思っていないらしい。
「失礼をいたしましたので」
「君が緊張していること自体は失礼ではない」
即座に返ってきた言葉に、リディアは思わず顔を上げた。
アルベルトは相変わらず感情の読みにくい顔をしている。
「この状況で緊張しないほうが不自然だ。違うか」
それはたしかに、その通りだった。
王太子に捨てられ、家の都合で早々に嫁ぎ先を決められ、噂ばかりが先行する男の屋敷へやってきた。緊張するなというほうが無理だ。
けれどそんな“当たり前”を、こうして認められるとは思わなかった。
「……はい」
リディアは小さく頷くことしかできない。
アルベルトはそこで初めて、少しだけ息を吐いた。
「茶を」
彼が短く命じると、控えていたらしい使用人が音もなく現れ、二人の前に茶器を置いた。リディアはその気配に少し驚く。気づかぬほど静かに控えていたことにも、アルベルトの一言だけで完璧に動くことにも。
湯気の立つ茶からは、強すぎない香りが漂った。柑橘と花の中間のような、どこか落ち着く香りだ。
「飲め」
また短い命令。
だがその口調は先ほどの「座れ」と同じで、突き放すというよりは“そうしたほうがいい”と判断したことをそのまま告げているだけに聞こえる。
リディアは慎重にカップへ手を伸ばした。
細かな震えを見られたくなくて、なるべく指先に力を込める。けれど持ち上げた瞬間、自分が思っていた以上に手が冷えていることに気づいた。温かな磁器の感触が、指先にじんわり染みる。
一口含む。
熱すぎない。香りも穏やかで、喉を通るときに少しだけ肩の力が抜けるようだった。
「……おいしいです」
思わず漏らすと、アルベルトは頷きもしなかったが、否定もしなかった。
「強い酒を出されると思っていたか」
不意にそう言われ、リディアは目を瞬いた。
「いえ……そのようなことは」
「顔に書いてある」
アルベルトは平然と言う。
また見抜かれた。
リディアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。恥ずかしさと、居心地の悪さと、自分がこの人の前でひどく透明になってしまっているような感覚が混ざる。
「噂ほどではない、と申し上げるべきでしょうか」
どうにか言うと、アルベルトの目がわずかに細まった。
「噂、か」
「……失礼でしたら」
「構わん。どうせ碌なものではない」
淡々とした口調だった。
自嘲とも違う。ただ事実確認のように言う。
「冷酷、容赦がない、情を持たぬ怪物。だいたいその辺りだろう」
自分から言われると否定しづらい。リディアは返答に詰まったが、それ自体が答えになってしまったらしい。アルベルトはごくわずかに肩を竦める。
「安心しろ。少なくとも、初日から君を食い殺すつもりはない」
あまりにも真顔で言われたので、リディアは一瞬本気で受け取ってしまった。
次いで、それが冗談――いや、冗談というには乾きすぎているが、少なくとも彼なりの皮肉めいた言い回しだと気づき、どう反応すべきかわからなくなる。
「……は」
笑うべきなのだろうか。
けれど無理に笑う必要はないと、つい先ほど言われたばかりだ。
結局、中途半端に息をこぼしただけのような音になった。
アルベルトはその不器用な反応を見ても、特に気を悪くした様子はなかった。
むしろ彼はそのまま本題へ入るように言った。
「先に確認しておくべきことがある」
リディアの背筋が自然と伸びる。
確認。
やはりそうだ。優しい言葉があったからといって、ここが政略の場であることに変わりはない。これから夫婦としての役割、屋敷での立ち位置、守るべき礼儀、そうしたものを告げられるのだろう。
あるいは――初夜のことも。
そう思った瞬間、手元の茶の温かさとは逆に、背筋を冷たいものが走った。
アルベルトはその変化も見逃さなかったらしい。ほんのわずかに視線を落とし、再びリディアの顔へ戻す。
「君はこの婚姻を望んでいないな」
あまりに真っ直ぐな言葉に、リディアは息を止めた。
望んでいない。
その通りだった。
けれど、それをこの場で認めてよいものだろうか。父に命じられ、家のために来た以上、少なくとも表面上は“喜んでお受けします”という顔をしていなければならないはずだ。
それなのに、この男は最初からそこを剥がしてくる。
「……私の意思が、どれほど意味を持つのか」
慎重に選んだ言葉だった。
肯定でも否定でもなく、事実の形へ逃がしたつもりだった。だがアルベルトは容赦しない。
「意味はある」
断言。
リディアは小さく目を見開く。
「少なくとも、私にとってはある」
その一言が、妙に重く落ちた。
言葉の内容以上に、“私にとっては”という限定が印象に残る。父でも王太子でもなく、この男自身の意思として言っているのだとわかるから。
「君の家がどう考えたかは知らん。だが、私が知りたいのは君自身の認識だ。ここへ来ることを強いられたのか」
強いられた。
リディアは少しだけ俯いた。
父に命じられた。拒む余地はなかった。家のためだと言われた。それは事実だ。
けれど、そう言ってしまっていいのだろうか。今この場で侯爵家の内情を売るような真似をするのは、娘として不誠実ではないのか。そう思う自分もまだいる。
しばし沈黙したあと、リディアは絞るように答えた。
「……拒むことは、できませんでした」
それが精一杯だった。
アルベルトはしばらく黙っていた。
怒るでもなく、慰めるでもなく、ただその言葉を受け取っているような沈黙。
やがて彼は低く言う。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その短い返答の中に何か重いものが沈んでいる気がして、リディアは顔を上げられなかった。
「では、次だ」
彼の声は少しだけ硬くなった。
「私は君へ夫の権利を主張しない」
リディアはゆっくりと目を瞬かせる。
意味を理解するのに、一拍かかった。
夫の権利。
つまり、初夜のことだ。
血の気が一気に引いていくような感覚の中、アルベルトは少しも曖昧にせず続けた。
「君が望まぬ限り、私は君に触れない」
部屋の空気が止まったように感じた。
リディアは思わず顔を上げる。
そこにあるのはやはり、感情の読みにくい男の顔だけだ。優しげな微笑みも、わざとらしい気遣いもない。ただ事実を述べるように、淡々とその約束を口にしている。
「……どうして」
気づけば、そう問い返していた。
どうしてそんなことを言うのか。
政略結婚なら、なおさら、夫婦としての形を整えることが先ではないのか。跡継ぎのこともあるだろうし、侯爵家も宰相家も、そうした“当然”を前提にこの婚姻を進めたはずだ。
それなのに、なぜ。
アルベルトはしばらくリディアを見つめていたが、やがて言った。
「怯えている女を抱く趣味はない」
あまりにも率直な物言いに、リディアは一瞬言葉を失う。
頬が熱くなるのは羞恥のせいか、驚きのせいか、自分でもわからなかった。
「それに」
アルベルトは続ける。
「私が欲しいのは、従順に命じられるままの人形ではない」
その一言に、リディアの胸がわずかに痛んだ。
人形。
まるで、自分がこれまでそうであったことを知っているかのような言い方だったからだ。
王太子妃候補として育てられ、家の都合で嫁がされ、拒めず、ただ黙って椅子に座っている今の自分は、たしかに人形と変わらないかもしれない。
「君がこの屋敷でどう在るかは、少しずつ決めればいい。急ぐ必要はない」
アルベルトの声音は相変わらず低いままだったが、先ほどよりわずかに柔らかく聞こえたのは気のせいだろうか。
リディアは自分の胸の内が、恐怖だけではなく別の戸惑いで満ちていくのを感じた。
この人は何を考えているのだろう。
冷酷な怪物のように振る舞うわけでもない。かといって、優しい夫を演じる気もない。ただひどく率直に、自分の線引きを示してくる。
それがかえって難しかった。
王太子のように感情で切り捨てる相手ならまだ理解しやすい。父のように損得だけで動く相手もわかりやすい。けれどこの男は、そのどちらとも違う場所から言葉を投げてくる。
「……私は」
何か言わなければと思った。
だが続きが出てこない。
ありがとうございます、と言うのも違う気がした。受け入れます、と言うのも違う。何より、自分がこの言葉に救われかけていること自体が怖かった。
たった数分話しただけの男に、そんなふうに心を揺らされるなど、あまりに浅ましい気がしたからだ。
「無理に何か答えなくていい」
アルベルトが先に言った。
「今の君は、考えるだけで精一杯だろう」
図星だった。
図星すぎて、リディアはもう何も返せない。
「部屋は整えてある。困ることがあればハロルドか侍女頭へ言え。屋敷内での必要なことは明日以降、少しずつ教えさせる」
彼は立ち上がった。
会話は終わりらしい。
あまりにも淡々とした流れに、リディアは少し遅れて立ち上がる。
するとアルベルトは扉のほうへ歩きかけて、ふと足を止めた。
「もう一つ」
振り返らずに言う。
「君を泣かせた連中のことは、いずれ私が清算する」
リディアは息を呑んだ。
意味がわからない。
いや、言葉の意味はわかる。だが、なぜこの人がそんなことを言うのかがわからない。
「それは……」
問い返そうとしたが、アルベルトはそこでようやく振り返り、真っ直ぐ彼女を見た。
「今は気にするな」
低く、それだけ告げる。
その目に浮かんでいたのが怒りだったのか、ただの決意だったのか、リディアには判断できなかった。
けれど少なくとも、王太子に捨てられ、父に差し出された自分の過去を、この男は“なかったこと”にはしないのだとわかった。
そのことが、なぜか妙に胸に残る。
アルベルトはそれ以上何も言わず、扉を開けて部屋を出ていった。
静寂が戻る。
リディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
初夜だというのに、寝台へ連れていかれることもなく、抱かれることもなく、ただ“君が望まぬ限り触れない”と告げられた。
歓迎の甘言もなければ、妻への期待を並べ立てることもない。
その代わりに、怯えなくていい、と。
無理に笑わなくていい、と。
どう受け取ればいいのかわからなかった。
優しさ、と呼ぶにはあまりに不器用で、温かさを感じるには相手が冷たすぎる。けれど少なくとも、侯爵家で恐れていたような“厄介払いされた女をさらに冷たく押し込める”扱いではないらしい。
それだけで安堵してしまいそうになる自分が、少し怖かった。
やがてハロルドが再び現れ、リディアを新しい私室へ案内した。
広い部屋だった。寝台も調度も上質で、窓辺にはやわらかな色の花が飾られている。冷たい屋敷の中で、この部屋だけはわずかに女主人のための穏やかさが与えられているように見えた。
「必要なものがあれば何なりと」
ハロルドはそう告げて下がる。
一人きりになった途端、リディアはようやく深く息を吐いた。
緊張が解けたというより、張りつめすぎていたものが一瞬だけ緩んだ感じだった。
彼女はゆっくりと寝台へ腰を下ろす。
指先を見れば、また掌に薄い爪痕が残っている。
手を離せ。
そう言われたときの声が蘇る。
なぜだか、その一言ばかりが耳に残っていた。
窓の外はもう夜だった。知らない庭、知らない空気、知らない屋敷。そして、まだ何を考えているのかわからない夫。
これからどうなるのだろう。
不安は消えていない。恐怖もまだある。けれど今日この屋敷へ来る前に思い描いていた“ただただ冷たく突き放される未来”とは、少しだけ違った。
それが良いことなのか、悪いことなのかも、まだわからない。
ただ一つだけ確かなのは、今夜、この婚姻はリディアが想像していた形では始まらなかったということだ。
そしてその予想外が、彼女の心をひどく落ち着かなくさせていた。




