第5話 嫁入りの日、私は冷たい屋敷へ厄介払いされるのだと思っていた
縁談は、驚くほど早くまとまった。
いや、まとまったというより、初めから決まっていたものが形を与えられただけなのかもしれない。父が宰相家へ打診をし、その返答が戻るまでに要した時間は、リディアが心の整理をするにはあまりにも短かった。
先方は了承した。
その一言を父から聞かされたとき、リディアは少しも驚かなかった。驚く余裕さえ残っていなかったのだろう。胸の奥で何かがひどく静かに沈んでいくだけで、涙も、怒りも、声にならない悲鳴も、どれ一つ表へは出てこなかった。
王太子妃候補としての未来が断たれてから、まだ十日も経っていない。
それなのに侯爵家の中は、まるで最初からこうなる予定だったかのように慌ただしく動き始めた。仕立屋が呼ばれ、宝飾品が選び直され、侍女たちは持参品の確認に追われ、執事は嫁入り先へ送る調度や書類を整えていく。廊下を行き交う使用人たちの足は忙しなく、家の中には絶えず小さな指示の声が飛び交っていた。
誰も、リディアに「大丈夫ですか」とは聞かなかった。
聞かないのが優しさなのか、あるいは聞いたところで意味がないと思われているのか、そのどちらかだろう。
母は表向き穏やかだった。表情を崩さず、「宰相閣下ほどのお方に望まれるのは幸いなことです」と言い、持参するドレスの色味に意見を出し、侯爵夫人として恥のないよう最終確認を怠らなかった。妹のエレノアだけが何か言いたげに何度も姉の顔を見たが、結局は何も言えず、ただ別れ際に白いレースのハンカチをそっと差し出しただけだった。
――お姉様、これ、持っていて。泣くことなんてないって思うけれど、もしものときに。
そう言って無理に笑った妹の顔を、リディアは何度も思い出した。
泣くことなんてない。
その言葉が優しさから出たものだとわかっている。けれど実際には、リディアはあの日以来、まともに泣けないままだった。
嫁入り当日の朝、空は淡く晴れていた。
春の高い空に薄い雲が刷いたように浮かび、風は穏やかで、庭の若葉がやわらかく揺れている。祝福めいた陽気だと、人は言うかもしれない。だがリディアにとっては、世界があまりに変わらぬ顔をしていることが、かえって残酷に感じられた。
こんな日でも朝は来る。
こんな日でも鳥は鳴き、花は咲く。
自分の人生が大きく形を変えようとしているのに、世界はまるで少しも気にしていない。
「お嬢様、そろそろお支度を」
侍女のマリアに促され、リディアは鏡台の前へ座った。
今日の衣装は、侯爵家で用意された嫁入りの装いだった。純白ではなく、淡い灰青を基調とした絹のドレス。金糸ではなく銀糸で細やかな刺繍が施され、胸元には上品な真珠が連なる。王家へ嫁ぐときのような華やかな色ではなく、落ち着きと格を重んじた色合いだ。相手が王太子ではなく、宰相だからだろう。
髪は半分だけ結い上げられ、残りはゆるやかに背へ流された。宝石は控えめに、だが安くは見えないものを。侯爵家の娘としての品位を保ちつつ、今後は宰相夫人として見られるに相応しい形へと整えられていく。
鏡の中の自分は、相変わらずきれいに見えた。
それが少し憎らしかった。
こんなに整って見えるのに、中身は何も整っていないのだから。
「きっとよくお似合いになります」
マリアが静かに言う。
「そうかしら」
「はい」
それ以上、彼女は余計なことを言わない。
その沈黙がありがたくもあり、少しだけ寂しくもあった。
支度を終えて応接間へ向かうと、父と母が待っていた。どちらも既に礼装で、見送りの体裁を整えている。侯爵家の当主夫妻として、娘の嫁入りを恥なく送り出すための顔だ。
「時間だ」
父が短く告げた。
「はい」
リディアもまた、短く応じる。
母は一歩近づき、娘の襟元を軽く整えた。幼いころなら、そのまま額に口づけの一つもしてくれたかもしれない。けれど今の母は侯爵夫人として、娘に最後の確認をしているだけだった。
「言葉を選びなさい。宰相閣下は賢い方です。軽率なことはすぐ見抜かれます」
「承知しております」
「夫となる方のお気に障ることのないよう」
「はい」
まるで初めて社交界へ出る娘への言葉だ。
慰めではなく、教え諭し。愛情がないわけではないのだろう。ただこの家では、愛情はいつだって義務や体面の形でしか差し出されない。
父は最後に一つだけ言った。
「今度こそ、家の名に泥を塗るな」
その一言は、まっすぐ胸へ刺さった。
今度こそ。
つまり前回は、王太子に選ばれなかったことが“泥”だったのだ。
リディアは何も言わず、ただ一礼した。もう今さら、何かを言っても変わらない。父の中では既に前の縁談は損失として処理され、今は次の取引が始まっているのだろう。
屋敷の前には、宰相家から迎えの馬車が来ていた。
侯爵家のものよりも一回り大きく、無駄のない重厚な造りだ。黒塗りの車体に金ではなく落ち着いた銀の紋章が刻まれ、そのどこにも華美な飾り気はない。見栄を張るための豪奢さではなく、権力そのものが形を取ったような圧があった。
従者たちもまた静かだった。礼は正しく、動作は洗練されている。だが侯爵家の使用人たちよりずっと無駄がなく、どこか軍のような規律を感じさせた。
その馬車を見た瞬間、リディアの胸に小さな恐怖が走る。
この馬車に乗れば、もう戻れない。
当たり前のことなのに、急に現実味を帯びた。
「お嬢様……」
後ろからか細い声がして振り向くと、エレノアが立っていた。いつの間に来たのか、目元が少しだけ赤い。
「エレノア」
「お姉様、どうか……お元気で」
それだけ言うのがやっとらしく、妹は唇をきゅっと結んだ。
リディアは少しだけ目を細める。
本当は抱きしめてやりたかった。ありがとう、と、そんな顔をしないで、と、いくつも言いたかった。けれど父母の前でそれをすることは、この家では“弱さ”として見られる気がして、できなかった。
だから代わりに、妹の両手をそっと取る。
「あなたも元気で。……ハンカチ、ありがとう」
エレノアはそこで初めて、今にも泣きそうな顔で微笑んだ。
「使わなくて済むといいのだけれど」
「ええ」
短い会話だった。
けれどその一言だけが、この家を出る前の最後の救いのように思えた。
リディアは家族へ形式通りの礼を取り、馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる音は、思ったよりも重かった。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を踏む振動が、座席越しに体へ伝わってくる。侯爵家の門が遠ざかっていくのを窓越しに見つめながら、リディアは静かに手を膝の上で重ねた。
泣かなかった。
泣けなかった、のほうが正しいかもしれない。
侯爵家を出ること自体に未練がないわけではなかった。ここには幼いころから積み重ねた時間があり、母の面影が残る部屋があり、妹との些細な記憶があり、庭の白薔薇があった。けれどこの家は同時に、自分を“役に立つ娘”であることしか許さなかった場所でもある。
失う寂しさと、離れられる安堵と、これから向かう先への恐怖。
それらが複雑に絡み合い、胸の内を濁らせていた。
馬車は王都の中心部を抜け、宰相家の屋敷がある区域へ向かう。
その辺りは高位貴族の邸宅が並ぶ静かな一画で、街路は広く、植え込みはきれいに刈り込まれ、警備の目も行き届いている。王宮に近いだけあって、どの屋敷も威厳を帯びていたが、その中でも宰相家の門構えは一目で異質だとわかった。
高い鉄門。広い前庭。左右に伸びる石造りの塀。必要以上に飾られてはいないのに、近づくだけで空気が変わるような圧がある。
門が開き、馬車は長いアプローチを進んだ。
前庭は整いすぎるほど整っていた。花壇の配置も、低木の刈り込みも、砂利の一粒に至るまで乱れがない。美しいというより、完璧に管理されている、という印象が強い。そこには住まう人間の気まぐれや遊びの余地がほとんど見えなかった。
そしてその奥に、屋敷本体が現れる。
大きい。
侯爵家の屋敷も決して小さくはないが、ここは別格だった。横に長く広がる灰白色の石造りの館は、王宮ほどではないにせよ、一つの小さな砦のような威容を持っている。窓は多いのにどこか冷たく見え、柱廊は重厚で、正面階段の先にある大扉はまるで人を選ぶように高かった。
リディアは無意識に息を浅くした。
ここが、これから自分の住む場所。
そう思った瞬間、逃げ出したいような気持ちが喉元まで込み上げる。
冷たい。
ただ一言で表せば、それだった。
華やかさも、温かさも、家庭らしい気配も感じられない。国家の中枢にいる男の屋敷なのだから当然なのかもしれない。だがリディアには、それがひどく恐ろしく見えた。
この屋敷に入ったら、私は完全に誰かのものになる。
そんな感覚が、理屈ではなく肌でわかった。
馬車が玄関前で止まる。
扉が外から開かれた。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
低く落ち着いた声でそう言ったのは、年配の執事だった。姿勢のいい、痩せた男で、髪には白いものが混じっている。礼の角度も完璧で、表情は厳しいほど無駄がない。
奥様。
その呼び方に、リディアはわずかに目を瞬かせた。
まだ実感のない言葉だった。妻になる。宰相の。あの男の。
「……お迎えいただき、ありがとうございます」
どうにかそれだけ返すと、執事は静かに頷いた。
「私はこの屋敷の執事頭、ハロルドと申します。旦那様より、奥様を最上の礼をもってお迎えするよう仰せつかっております」
最上の礼。
言葉は丁重だったが、それがかえって緊張を煽る。使用人の一人一人まで、あの人の命令で正確に動いているのだとわかるからだ。
リディアが馬車を降りると、左右に並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。
その動きに寸分の乱れもない。
誰もがよく訓練され、よく抑えられている。好奇心も、侮りも、哀れみも、表には一切出ていない。ただ新しい女主人を迎えるための完璧な礼だけがある。
それがかえって、リディアには息苦しかった。
誰も本音を見せない。
いや、本音を見せることを許されない屋敷なのだろう。
ハロルドに導かれ、玄関の大扉をくぐる。
中へ入った瞬間、外よりもひんやりした空気が肌を撫でた。広い玄関ホールは高い天井を持ち、磨かれた黒白の石床が光を返している。壁には高価な絵画や彫刻が控えめに置かれていたが、どれも趣味の誇示というよりは“必要な格”として存在しているように見えた。
屋敷の中までもが、冷徹だった。
リディアは無意識に指先を握る。
こんな場所で、自分はやっていけるのだろうか。
いや、やっていけるかどうかではない。やらなければならないのだ。
父に言われた通り、今度こそ失敗は許されない。
ハロルドは奥へ進みながら、必要最低限の説明を口にする。
「旦那様は間もなくこちらへ。先に応接室でお待ちいただきます」
「……はい」
旦那様。
それはつまり、アルベルト・グランディス本人だ。
ここへ来るまで、彼とは何度か形式的な書面のやり取りがあっただけだった。そこに甘い言葉などあるはずもなく、必要事項を簡潔に記した文面だけ。拒絶も優しさも感じさせない、まるで契約書のようなやり取りだった。
それでも、直接会うのは今日が初めてではない。
王宮で遠目に何度か見ている。だが“夫になる男”として向き合うのは初めてだ。
胸の鼓動が速くなる。
怖い。
あの人はどんな顔で現れるのだろう。自分をどう見るのだろう。王太子に捨てられた女としてか、侯爵家から差し出された政略の駒としてか。それとも、もっと何の感情もないまま、“妻”という役職を与えられた人間としてだけ扱うのだろうか。
応接室へ通される。
そこは広すぎず狭すぎず、客を迎えるために整えられた部屋だった。深い緑の壁、重厚な調度、磨かれたテーブル。窓辺には切り花が活けられているが、その花の色さえどこか抑えられている。
「どうぞこちらへ」
ハロルドに促され、リディアは長椅子へ腰を下ろした。
背筋を伸ばす。
膝の上で手を組む。
呼吸を整える。
やれることはそれしかない。
けれど室内の静けさが、かえって緊張を募らせた。遠くで時計の針が鳴る音さえ聞こえるようだ。
自分はきっと、厄介払いされたのだ。
ふとそんな言葉が胸をよぎる。
王太子に捨てられ、侯爵家にとっては扱いに困る娘になり、それを“悪くない条件”で引き取ったのが宰相家。誰もそうは言わないだろうが、形としてはそういうことだ。
ならば彼にとって自分は何なのだろう。
慰めも、愛情も、期待すらない相手を、宰相は何のために受け入れたのか。
答えは一つしか浮かばない。
政略だ。
家格。立場。侯爵家との結びつき。王家との微妙な距離感。そのための“妻”でしかない。
そう思えば、怖がる必要などないのかもしれない。愛されることを求めなければ、失望することもないのだから。
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
部屋の外で足音が止まる。
ノックは一度だけ、簡潔に。
そして扉が開いた。
リディアは反射的に立ち上がった。
入ってきた男を見た瞬間、部屋の空気が一段冷えたように思えた。
背が高い。王宮で見たとき以上に、実際のほうが威圧感があった。黒に近い濃紺の礼装は一切の隙なく着こなされ、銀糸の刺繍がわずかに光を拾う。整った顔立ちは確かに美しかったが、その美しさは人を安心させる類のものではない。むしろ氷の刃のように端正で、近づけば切れそうな冷たさがあった。
髪は夜の色に近く、瞳は深い灰青。
その目がまっすぐこちらを捉える。
王宮で遠目に見ていたときよりずっと鋭い。人の表情の裏まで見抜くような視線だった。
アルベルト・グランディス。
宰相。
これから夫となる男。
リディアは礼を取った。
「……本日は、お迎えいただき、ありがとうございます。リディア・フォルセインにございます」
用意していた言葉は滑らかに出た。これだけは失敗できない、と体が知っている。
アルベルトは数歩部屋の中へ入り、彼女を見つめたまま低い声で言った。
「アルベルト・グランディスだ。よく来た」
声もまた、想像通り低く、落ち着いていた。
感情の起伏は薄い。歓迎しているのか、ただ儀礼として口にしたのか、そこからは読み取れない。
だが次の瞬間、彼の視線がほんのわずかに動いた。
リディアの手元へ。
気づけば彼女は、自分でも無意識のうちに指先を強く握りしめていた。緊張するといつもそうなる。王宮でも、父の前でも、痛みで意識を繋ぎ止めるように掌へ爪を立てる癖がある。
その癖を、初対面の相手にいきなり見抜かれたことに気づいて、胸が跳ねた。
アルベルトはそれ以上何も言わなかった。
ただわずかに眉を寄せ、短く告げる。
「座れ」
命令口調だった。
けれど、不思議と父のそれとは違って聞こえた。
威圧のためというより、立ったまま震えている自分を見かねての一言だったのではないか――そんな考えが一瞬よぎる。だがすぐにそれを打ち消した。考えすぎだ。冷徹宰相にそんな気遣いを期待するほうがおかしい。
「……失礼いたします」
リディアは再び腰を下ろした。
アルベルトも向かいの席へ座る。
その動作一つにも無駄がない。
室内に短い沈黙が落ちた。
リディアは呼吸を整えようとしたが、うまくいかなかった。近くで見ると、彼の存在感は予想以上だった。声を荒げられたわけでもないのに、圧だけで息が詰まるようだ。
この人の妻になる。
その現実が、いまようやく本当の形を持って迫ってきた。
アルベルトはしばらく彼女を見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「まず言っておく」
低い声。
リディアの背筋が自然と強張る。
「ここでは無理に笑う必要はない」
思ってもみなかった言葉に、彼女は目を見開いた。
一瞬、自分が何を言われたのかわからなかった。
無理に笑う必要はない。
そんなことを、この場で、この男が口にするとは想像もしていなかったからだ。
だがその意味を問い返すより先に、リディアの胸の奥では別の感情がざわめいていた。
どうして、この人は初対面でそんなことを言うのだろう。
自分が笑っていたのが“無理に”だと、見抜いたのだろうか。
恐怖と困惑が入り混じり、リディアはただ硬く瞬きをすることしかできなかった。




