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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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4/22

第4話 冷徹宰相の名は、涙より先に恐怖を連れてくる

 翌朝、目が覚めた瞬間、リディアはしばらく天井を見つめていた。


 朝だ、と認識するより先に、昨夜の出来事が冷たい水のように胸へ流れ込んでくる。王宮の東の回廊。エドワードの淡々とした声。父の書斎。慰めではなく次の縁談を告げる冷たい現実。


 夢ではなかった。


 当然だ。夢であるはずがない。そうであってほしいと願ったところで、現実はいつだって願いとは無関係に進んでいく。


 寝台の天蓋越しに差し込む朝の光は柔らかかった。春の朝らしい、穏やかな金色だ。鳥の声も聞こえる。侯爵家の庭はよく手入れされており、朝になると花々の香りが窓辺からかすかに流れ込んでくる。


 こんなにも静かな朝なのに、リディアの胸の内だけが重かった。


 眠れなかったわけではない。むしろ、自分でも驚くほどあっさり眠りに落ちた。疲れすぎていたのだろう。体は限界を迎えると、心が拒もうとしても容赦なく眠りへ引きずり込むらしい。


 ただ、その眠りは休息にはならなかった。


 夢の中でさえ、誰かに値踏みされている気がした。王太子に切り捨てられ、父に値札を貼り替えられ、見えない手に押し出されるように次の場所へ向かわされる。そんな息苦しい感覚だけが残っている。


「お嬢様、失礼いたします」


 扉の向こうから侍女の声がした。


 リディアはゆっくりと身を起こし、声を整える。


「ええ、どうぞ」


 入ってきたのは侍女のマリアだった。幼いころからそばにいた古株で、年齢はリディアより少し上だ。必要以上に感情を見せない人だが、そのぶん余計な詮索もしない。今のリディアにとっては、その距離感がありがたかった。


「お目覚めはいかがですか」


「問題ないわ」


 反射的にそう答えてから、リディアは少しだけ自嘲したくなった。問題なら山ほどある。けれどこの家では、そういう意味での“問題”を口にしても何も変わらない。ならば最初から言わないほうが早い。


 マリアは表情を変えずに、洗面の支度を整えていく。銀盆の上には温めた水、柔らかな布、香りの穏やかな石鹸。いつもと同じ朝の支度だ。変わらない手順。変わらない動き。変わらない朝。


 変わってしまったのは、自分だけなのだと思うと、不意に胸が軋んだ。


「昨夜はお疲れでいらっしゃいましたから、本日は遅めでもよろしいかと存じましたが」


 マリアの言葉は控えめだった。


 心配なのか、ただの確認なのか、わからない。けれどそこに余計な憐れみがないことだけはわかった。


「いいえ、いつも通りで構わないわ」


「かしこまりました」


 リディアは寝台を下り、鏡台の前に座った。


 鏡の中の自分は昨夜よりいくらかましに見えた。目元の腫れも、幸いほとんどない。結局まともに泣けなかったのだから当然だろう。


 マリアが髪を梳かし始める。長い金の髪が、櫛の動きに合わせてさらさらと背中に落ちていく。


「本日は、旦那様がお食事のあとにお呼びだそうです」


 櫛を動かしながら、マリアがそう告げた。


 リディアの睫毛がかすかに震えた。


「……そう」


 やはり、昨夜で終わりではなかった。


 父が一晩寝かせて考えを変えるなど、最初から期待していなかった。けれどこうして改めて告げられると、逃げ道が一つずつ塞がれていくようで苦しい。


「先方へ返答する前に、何か申しつけがあるのかしら」


「そこまでは」


「そう」


 短い返答の中に、いくつもの可能性が浮かんでは消える。


 縁談の確認。条件の説明。おそらくはそのどちらもだろう。そして自分の意思を問われることは、おそらくない。


 髪が整えられ、淡い藤色の朝のドレスに着替えさせられるころには、リディアの表情もまた整っていた。昨夜から何度もそうしてきたように、胸の奥の混乱を見えないところへ押し込み、令嬢として相応しい外側だけを形作る。


 それは、彼女が最も得意とすることだった。


 そしておそらく、それこそが彼女を昨夜捨てた理由でもあるのだろう。


 その皮肉を思うと、ほんの少しだけ笑いそうになる。もちろん笑えない。けれど心の奥では、もう何が正しくて何が間違っていたのか、わからなくなり始めていた。


 朝食は小食なリディアに合わせ、いつも通り控えめに用意されていた。焼いた白パン、卵料理、薄いスープ、果物。侯爵家の朝としては質素なほうだが、それでも今の彼女には多く感じる。


 食堂には父も母も妹もいなかった。


 父は執務だろう。母はこの時間まだ起きてこないことも多い。妹はまだ学びの時間に入る前かもしれない。


 誰もいない食卓に一人で座ると、不思議と少しだけ息がしやすくなった。


 リディアはスープに匙を入れる。


 温かい。優しい味だ。けれど喉を通る頃には何の味もしなくなっている。


 昨夜、父から告げられた名前が何度も脳裏をよぎる。


 アルベルト・グランディス。


 宰相。


 その名は王都の貴族なら知らぬ者がない。


 若くして今の地位に上りつめた、異例の男。家柄だけでなく、明らかに自身の能力で王宮の中枢へ食い込んだ人物。敵対者は必ず失脚するとまで言われ、彼に逆らって無事でいられた貴族のほうが少ない、とも囁かれている。


 冷酷。容赦がない。情を持たぬ怪物。


 社交界ではそんな噂ばかりが先に立つ。


 リディア自身、宰相を遠目に見たことは何度かある。王宮の式典、舞踏会、あるいは政務に関する公の場で。いつも黒や濃紺の服を隙なく着こなし、誰と話していても微笑みは薄く、背筋は真っ直ぐで、視線はまるで人の内側を測るように冷たい。


 整った顔立ちは確かに目を引いた。若い令嬢の間では、怖いくせに見目だけは良すぎると半ば冗談めかして囁かれていたほどだ。


 だが、あくまでそれは遠くから眺める分には、の話だ。


 あの男の屋敷へ嫁ぐ。


 そう考えるだけで、胸の奥にひやりとしたものが広がっていく。


 もし王太子に捨てられた直後でなければ、まだもう少し違う受け止め方もできたのだろうか。


 いや、違う。


 たとえ何もなくても、あの男は恐ろしい。


 少なくとも、愛される未来など欠片も想像できない相手だった。


 食事を終えた頃、執事が迎えに来た。


「旦那様が応接間でお待ちです」


 応接間。


 書斎ではないところを見ると、少なくとも昨夜ほどの怒気をぶつけるつもりはないのかもしれない。あるいは、もっと冷静に“話を進める”ために、執務の場を避けたのか。


 どちらにせよ、楽にはならない。


 リディアは静かに立ち上がり、執事のあとに続いた。


 応接間には朝の光がよく入っていた。高い窓から差す陽光が、淡い青の壁紙と金の装飾を柔らかく照らしている。ここは客人を迎えるための部屋で、格式はあるが書斎ほど重苦しくはない。


 だが、机の代わりに低い卓を挟んで座る父の姿を見た瞬間、その僅かなやわらかさも意味を失った。


 父は既に茶を飲み終えていたらしく、カップをソーサーへ戻すところだった。


「来たか。座れ」


 昨日と同じ命令口調。


 リディアは従った。


 向かい合って座ると、父は前置きなく切り出した。


「先方へ打診する」


 やはり、と思った。


 それでも真正面から言われると、胸の内が一気に冷える。


「宰相閣下へ、でございますか」


「ああ」


 父は当然のことのように頷く。


「昨夜も言った通り、お前にはもう感傷に浸っている猶予はない。王太子妃候補から外れた以上、次の縁談を一刻も早くまとめる必要がある」


 その言葉に、リディアは膝の上で手を重ねた。


「ですが、宰相閣下ほどのお立場の方が、今の私を望まれるでしょうか」


 それは反論ではなく、ほとんど確認に近かった。自分の価値を低く言うつもりではない。ただ純粋に、昨夜捨てられたばかりの娘に、あの男が本当に関心を示す理由がわからなかったのだ。


 父は鼻で笑うでもなく、淡々と答える。


「望むかどうかは向こうが決める。だが、悪い話ではない」


「……そうでしょうか」


「お前は何もわかっていないな」


 父は少しだけ身を乗り出した。


「アルベルト・グランディスは今や王国の実権を握る男だ。王太子に次ぐどころか、実際にはそれ以上の影響力を持つ。王家との縁は逃したが、宰相家へ入るなら家格としても十分釣り合う。むしろ表向きには“格落ち”に見えないだけ救いがある」


 救い。


 それが誰にとっての救いなのかは、言うまでもなかった。


 侯爵家にとって、だ。


 リディアにとってではない。


「それに」


 父は卓の上の封書へ指を置いた。


「年齢もいい。若すぎず、分別があり、家門もしっかりしている。少なくとも、王太子のように感情だけで物を決める愚は犯すまい」


 そこには確かに、エドワードへの不満が滲んでいた。


 だがそれでも父は、娘が王太子にどう切り捨てられたかより、その結果どのように損失を埋めるかにしか興味がない。


 リディアはゆっくりと息を吐いた。


「お父様は、宰相閣下のお人柄をご存じなのですか」


「人柄?」


 父が眉を動かす。


「人柄がどうした」


「……恐れられている方だと、皆、申しております」


 言いながら、自分でも情けないと思った。こんな遠回しな言い方しかできないことが。怖いです、と、その一言が言えないことが。


 だが父はやはり意に介さない。


「恐れられていて何が悪い。国政に携わる男が、舐められていては務まらん」


「ですが、冷酷だとも……」


「甘い男がお前の望みか?」


 ぴしゃりと切り返され、リディアは口を閉ざした。


「勘違いするな。結婚は菓子ではない。優しいとか、愛らしいとか、そういう寝言で選べる立場か」


 その言葉の端々に、昨夜王太子へ向けた怒りとは別種の侮蔑が混じっている気がした。


 リディアは目を伏せる。


 結婚は菓子ではない。


 その通りだ。そんなことは自分でもわかっている。そもそも彼女は最初から、愛で相手を選べる立場にいなかった。王太子妃候補として育てられた時点で、未来は自分のものではなくなっていたのだ。


 それでも――。


 ほんの少しだけでも、話を聞く猶予や、心を整える時間を与えられてもいいのではないか。そんな弱い願いを抱いた自分が、どこかにまだいた。


「私は……」


 ようやく出た声は、思ったよりも小さかった。


「昨夜のことを、まだうまく整理できておりません」


 これが限界だった。


 情けないほど弱い訴え。けれど今のリディアには、それが精一杯だった。


 父はしばらく彼女を見た。


 その視線の中に、同情はやはりなかった。


「整理できようができまいが、現実は待たん」


 冷たく告げられる。


「お前が立ち止まっている間にも、噂は広がる。王太子妃候補から外れた娘に対して、社交界がいつまで好意的でいてくれると思う。今ならまだ、王太子の気まぐれで終わらせられる。だが時間が経てば、“選ばれなかった女”という印象だけが残る」


 リディアははっとした。


 それは事実だった。


 昨夜のことは、まだ表向きには大きく広まっていないかもしれない。だが王宮という場所は、秘密が秘密のまま終わることなどほとんどない。誰かの視線、誰かの侍女、誰かの噂話。それらが折り重なれば、やがて事実よりも先に“印象”だけが一人歩きする。


 王太子に見捨てられた女。


 愛されなかった女。


 そういう烙印は、一度押されれば消えない。


 父はその前に、次の肩書きを与えたいのだ。


 宰相夫人候補、という新しい名を。


 そう考えると、父の判断は侯爵家の当主としては理に適っていた。あまりにも理に適いすぎていて、娘の心がそこに置き去りであることが、かえって鮮明になるほどに。


「……先方が、お受けになるとは限りません」


 リディアは最後の抵抗のように言った。


 父はそこで初めて、ほんの少しだけ意味ありげに目を細めた。


「以前、宰相閣下はお前に完全な無関心ではなかった」


 その言葉に、リディアは息を止めた。


「どういう、意味でしょうか」


「そのままの意味だ。王宮の場で何度か、お前に視線を向けておられた」


 リディアは瞬きをした。


 そんなこと、あっただろうか。


 王宮の場でアルベルトと視線が合った記憶は確かにある。だがあれは誰にでも向けるような、冷静な観察の目だと思っていた。あるいは自分の立場上、たまたまこちらを見ただけだと。


「……それだけで」


「それだけでもない」


 父は続ける。


「先方から露骨な打診があったわけではない。だが、お前が王太子妃候補でなくなった場合に限り、話の余地があると受け取れる動きはあった」


 リディアは言葉を失った。


 まるで、自分の未来がとっくにいくつかの可能性へ切り分けられ、そのどれに転んでも貴族たちが拾えるように並べられていたかのようだ。


 王太子に選ばれれば王家へ。


 外れれば宰相家へ。


 そこにあるのは娘の人生ではなく、駒の配置図だけ。


 喉の奥がひどく苦くなる。


「……では、お父様は以前から」


「備えは必要だ」


 父の返答は容赦がない。


「万一を考えるのは当主の役目だ」


 そう。


 きっとその通りなのだろう。


 だが自分にとっては“万一”ではなかった。実際に切られ、実際に痛み、実際にもう一つの道へ押し込まれようとしている。父の理性は正しいのかもしれない。けれど正しいだけで、こんなにも残酷なのだ。


 リディアは視線を下ろした。


 膝の上の手が冷たい。震えてはいない。むしろ不気味なくらい静かだった。


「……もし、先方が受けられた場合」


 自分でも驚くほど事務的な声が出た。


「私は、すぐに嫁ぐことになるのでしょうか」


「話がまとまれば早いほうがいい」


 父は一切迷わない。


「無駄に長引かせるほど、お前にも家にも利はない」


 利。


 またその言葉だ。


 けれどもう、そのたびに傷ついている余力すらない気がした。


 リディアは静かに瞬きをし、ゆっくりと顔を上げた。


「……承知いたしました」


 父はそれで話がまとまったと思ったらしい。椅子にもたれ、ようやく少しだけ声の硬さを緩めた。


「理解が早くて助かる」


 その一言に、昨夜エドワードに言われた台詞が重なる。


 物わかりがよくて助かる。


 理解が早くて助かる。


 男たちは皆、自分が黙って受け入れることを“扱いやすさ”として受け取るのだろうか。


 胸の奥で小さく何かが痛んだ。


 だが父はもう、それ以上娘にかける言葉を持たないようだった。


「お前はしばらく余計な外出を控えろ。王宮から正式な話が出るまで、下手に姿を見せないほうがいい」


「はい」


「宰相閣下への返答は私がする」


「はい」


「感情を顔に出すな。今さらだが、お前の価値はそこにある」


 リディアは一瞬だけ目を伏せた。


「……はい、お父様」


 その返答で、面談は終わった。


 父は次の書類へ手を伸ばしている。もう娘ではなく、片づいた案件の一つに過ぎないのだろう。


 リディアは立ち上がり、一礼して応接間を出た。


 扉が閉まる。


 廊下に出た途端、呼吸が少しだけ浅くなった。


 外には誰もいない。朝の屋敷は静かで、遠くから家政婦たちの動く気配がかすかに届く程度だ。


 リディアはゆっくりと歩き出した。


 どこへ向かうのか、自分でもわからない。ただすぐには自室へ戻りたくなかった。部屋へ戻れば、一人になりすぎる気がしたからだ。


 自然と足が向いたのは、二階の東側にある小さな回廊だった。そこからは中庭が見下ろせる。幼いころ、勉強の合間にこっそり立ち止まっては、庭師が花を手入れするのを見ていた場所だ。


 今朝の中庭には、白い春薔薇が咲き始めていた。


 まだ満開ではない。けれど朝の光を受けた花びらはやわらかく、どこか儚い。風が吹くたびに、細い枝がかすかに揺れる。


 リディアは窓辺に立ち、じっとそれを見つめた。


 花は何も知らない。


 王太子の気まぐれも、父の計算も、宰相の名にまつわる恐ろしい噂も。朝になれば咲き、夕べには閉じる。その繰り返しの中にいるだけだ。


 その無心さが少しだけ羨ましかった。


 そのとき、不意に昔の記憶がよみがえった。


 まだ十にもならないころ、礼法の教師に叱責された帰り道だった。泣くまいと必死に唇を噛んでいた自分に、亡き母がそっと言ったのだ。


 ――泣きたいときは、お花を見なさい。花は黙って咲いているけれど、黙っていても美しいでしょう。


 母はそう言って笑った。


 それが慰めだったのか、ただの気まぐれな言葉だったのか、今となってはわからない。


 けれどその記憶を思い出した途端、リディアの胸の奥がじわりと熱くなった。


 花を見ても、今の自分は美しくはなれない。


 ただ、静かに立っていることしかできない。


 それでも、ここにいる間だけは誰にも見られないで済む。


 宰相アルベルト・グランディス。


 その名を心の中でそっと繰り返す。


 冷徹な男。


 恐ろしい男。


 権力を握る怪物。


 そんな噂ばかりが先に浮かび、そのどれもが否定できない。


 あの人の妻になるかもしれない。


 その現実はまだ遠く、けれど確実にこちらへ近づいてくる。


 王太子のように気まぐれに切り捨てられることはないのかもしれない。父が言う通り、情ではなく理で動く男なら、少なくとも“可愛げがないから不要”などとは言わないだろう。


 けれどそれは、愛されないまま一生を終えることと何が違うのだろう。


 ぞくりとした。


 知らない未来への恐怖は、昨夜味わった痛みとは別の質を持っている。


 王太子に捨てられた痛みは鋭く、一瞬で心を裂いた。だが宰相のもとへ嫁ぐ未来は、もっと静かに、ゆっくりと体温を奪う冬のようだった。


 リディアはそっと窓辺に手を置いた。


 硝子はひんやりと冷たい。


 その冷たさが、不思議と少し心地よかった。


 しばらくして、背後から足音がした。侍女の誰かだろうかと思ったが、聞こえた声は妹のものだった。


「お姉様?」


 振り返ると、妹のエレノアが立っていた。薄桃色のドレスに身を包み、まだ少女らしさの残る顔に戸惑いを浮かべている。彼女はリディアより三つ年下で、家の中ではどちらかといえば明るく愛嬌のある娘として育てられてきた。


「こんなところにいらしたのね」


「……少し、花を見ていたの」


 エレノアは一歩近づいてきて、姉の顔をそっと窺う。


 その目には、昨夜父が見せなかったものがあった。純粋な不安と、尋ねていいのかわからない躊躇い。


「昨夜……何かあったの?」


 やはり屋敷の中にも、すでに気配は伝わっているのだろう。


 リディアは少しだけ笑みを作った。


「大したことではないわ」


「そんなふうには見えないもの」


 エレノアは珍しく食い下がった。


「お父様も朝から怖い顔をなさっていたし、使用人たちもみんな変だし……お姉様、泣いたの?」


 その問いに、リディアは一瞬答えられなかった。


 泣いたのだろうか。


 涙はほとんど流れていない。けれど胸の中では、確かに何かがずっと泣き続けている気がした。


「泣いていないわ」


 結局、そう答える。


 それは半分は本当で、半分は嘘だった。


 エレノアは納得していない顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。姉が何かを隠しているとき、無理に暴こうとしても無駄だと知っているのだろう。


 代わりに、窓の外へ目を向ける。


「薔薇、咲いてきたのね」


「ええ」


「お姉様、昔から白い薔薇がお好きだったわね」


 その何気ない言葉に、リディアは少しだけ目を細めた。


「覚えていたの」


「もちろんよ。お姉様は何でもちゃんとしていて、あまり好き嫌いを口にしないから、そういうのは逆によく覚えてるの」


 無邪気な言葉だった。


 けれどリディアはその一言に、ほんの少しだけ救われた気がした。


 自分にも“好き”があったのだと、誰かが覚えていてくれたことが、思ったよりも胸に沁みる。


「……ありがとう」


 小さくそう言うと、エレノアは驚いたように目を丸くした。姉がこんなふうに素直に礼を言うのは珍しいのだろう。


「どういたしまして?」


 疑問符のついた返事が少しおかしくて、リディアはほんのわずかに、本当にわずかだけ口元を緩めた。


 その一瞬の緩みを、自分でさえ不思議に思う。


 胸の痛みは消えない。宰相の名への恐怖も薄れない。けれどそれでも、世界がすべて冷えきってしまったわけではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。


 ただし、それはあくまで一瞬のことだった。


 すぐに現実が追いついてくる。


 父は先方へ打診する。宰相が受ければ、話は進む。そうなれば、もう引き返せない。


 リディアは再び庭の白薔薇へ視線を向けた。


 花は静かに咲いている。


 自分もまた、静かに立っているしかないのだろうか。


 それとも、これから向かう先には、まだ知らない何かが待っているのだろうか。


 わからない。


 ただ一つ確かなのは、昨夜で終わったはずの自分の未来が、今度は別の恐怖をまとって、容赦なく動き出してしまったということだけだった。

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