第3話 捨てられた娘に、父は慰めではなく次の値札を貼った
侯爵家の馬車は、来るときよりもずっと揺れて感じられた。
石畳を車輪が渡るたびに、車内の小さな灯りがかすかに揺れる。その明かりが、向かいの座席にもたれたリディアの指先を照らしていた。掌に残った赤い爪痕は、時間が経った今も消えていない。むしろ夜会の熱が引いていくにつれ、じわじわと痛みを主張し始めていた。
痛みがあるほうが、少しだけ楽だった。
胸の奥の空洞ばかりを意識せずに済むからだ。
窓の外は暗い。王都の中心部に近いとはいえ、すでに夜も更けている。通りの家々の窓から漏れる明かりはまばらで、夜会帰りの馬車が時折行き違うほかは、人影もほとんど見えなかった。
リディアは背筋を伸ばしたまま座っていた。
もうドレスの締め付けが少し苦しかった。耳飾りも、首元の宝石も、今夜ばかりはすべてが重い。けれど外す気にはなれなかった。王宮から侯爵家へ戻るまでの短い時間くらいは、まだ“何も変わっていない”顔をしていたかったのかもしれない。
変わってしまったのに。
王太子妃候補としての未来は、たった今、東の回廊で終わったのに。
それでも屋敷に着くまでの間だけは、何ひとつ壊れていないふりをしていたかった。
だが、その猶予ももう尽きようとしていた。
やがて馬車が大きくひとつ揺れ、速度を落とす。見慣れた鉄門の向こうに、侯爵家の屋敷が見えた。深い色の煉瓦造りの館は、夜の中に沈むように静かだったが、玄関前にはまだ数人の使用人が待機している。王宮からの帰りが遅くなることは伝えてあるのだろう。あるいは、侯爵が何かを予感していたのかもしれない。
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
執事の恭しい声に、リディアはいつものように小さく頷いた。
「ただいま戻りました」
自分の声が驚くほど普通だったことに、少しだけ安堵する。
まだ大丈夫だ。
少なくとも、声は震えていない。
だが玄関へ足を踏み入れた瞬間、待ち受けていた空気が違うことに気づいた。
夜会帰りの令嬢を迎える柔らかさではない。屋敷全体がどこか張りつめている。使用人たちの視線もいつもより低く、気配が必要以上に静まり返っていた。
嫌な予感がする。
東の回廊で未来を断たれたばかりだというのに、今度は自分の居場所そのものが冷えていくような感覚があった。
「旦那様が書斎でお待ちです」
執事が言った。
やはり、と思う。
王宮から話が先に届いたのか。それともリディアの顔を見れば何かあったと悟られる程度には、自分はうまく取り繕えていないのか。
いずれにせよ、逃げ道はなかった。
「……着替える前に、ですか」
思わず尋ねると、執事は一瞬だけ目を伏せる。
「はい。至急、と」
リディアは小さく息を吸った。
そう。そうでしょうね。
この家が、まず娘の心身を案じるより先に事情説明を求める場所であることくらい、今さら思い知らされるまでもない。
「わかりました」
彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、書斎へ向かった。
夜の館の廊下はひどく長い。昼間は荘厳に見える絵画も、今はどれも冷たい目でこちらを見下ろしているようだった。幼いころから見慣れた家だというのに、こんなにもよそよそしく感じる夜が来るとは思わなかった。
書斎の前で一度だけ足を止める。
扉の向こうに父がいる。
自分が選ばれなかったと知った父が。
王太子妃候補として育て上げるために、膨大な時間と金と労力を注ぎ込んだ娘が、“役に立たなかった”とわかった父が。
胸の奥がひどく冷えた。
それでもリディアはいつものように、扉を二度ノックする。
「リディアです」
「入れ」
返ってきた声は、低く短かった。
許しを得て中へ入ると、書斎には蝋燭が多めに灯されていた。夜更けの執務にも慣れた空間だ。壁一面の書棚、重厚な机、窓辺の濃色のカーテン、磨き込まれた床。どれも変わらない。
変わっていたのは、机の向こうに座る父――フォルセイン侯爵の表情だけだった。
父はまだ夜会用の礼装を脱いでいない。おそらく、彼もまた王宮から戻ったばかりなのだろう。だがその顔には疲れよりも苛立ちが濃く刻まれていた。
「座れ」
労わりのない声で命じられる。
リディアは机の前の椅子へ静かに腰を下ろした。
父はしばらく彼女を見ていた。その視線には心配も憐れみもなく、何か値踏みをするような冷たさだけがある。
「王太子殿下から使いが来た」
やはり、と思った。
それでも胸の奥がひゅっと縮む。
「そう、ですか」
「そう、ですか、ではない」
父の声が低くなる。
「どういうことだ」
問い詰める響きに、リディアは一瞬だけ唇を噛みしめた。
どういうことだ、と言われても。自分が尋ねたいくらいだった。どうしてあれほど簡単に切り捨てられねばならなかったのか。何が足りなかったのか。どこで間違えたのか。
けれど父が求めているのは、傷ついた娘の心情ではない。報告だ。責任の所在だ。損失の大きさだ。
「殿下は……私との縁談を、これ以上進めるつもりはないと」
言葉にした瞬間、事実が改めて胸を裂いた。
「理由は」
間髪入れず、父が問う。
リディアは視線を少し下げた。
「私といると息が詰まる、と。正しすぎて、隙がなく、感情が見えない。愛のない結婚は望まれないと……そのように」
父は鼻に皺を寄せた。
「ふざけた話だな」
その言葉に、リディアは一瞬だけ顔を上げる。
もしかしたら。
ほんのわずかでも、自分のために怒ってくれるのだろうか。
そう思ってしまった自分が、愚かだった。
「ここまで育て上げておいて、今さら感情が見えないだと? 王家は何を考えている」
怒りは確かにあった。だがその怒りの矛先は、娘を傷つけたことそのものには向いていない。
“ここまで育て上げておいて”。
“王家は何を考えている”。
すべては投資と回収の話だった。
娘の尊厳ではなく、家の損得の話。
そのことがわかると、リディアの胸の内で何かがさらに静かになっていく。
「申し訳、ございません」
ほとんど反射のようにその言葉が口をついた。
父の眉がぴくりと動く。
「お前が謝ってどうなる」
「……」
「いや、違うな。むしろ謝るべきなのはお前か」
リディアは息を止めた。
「私がどれだけの手間をかけて、お前をあの地位へ押し上げたと思っている。礼法、教育係、衣装、王宮での立ち回り。すべて侯爵家の威信を賭けて整えてきた。それが、この結果だ」
低く抑えられている分だけ、その言葉は鋭かった。
ひとつひとつが、淡々と胸へ突き刺さる。
リディアは膝の上で両手を重ねた。指先が冷たい。
「私が、至りませんでした」
「その“至らなさ”が何かと聞いている」
父は机を指先で軽く叩いた。
「殿下が他の女に心を移した兆しは前からあったはずだ。なぜ繋ぎ止められなかった」
その瞬間、リディアの中で時間が止まったように感じた。
繋ぎ止める。
その言葉のあまりの露骨さに、一瞬何も言えなくなる。
父は本気でそう言っているのだ。王太子の気持ちが離れたことそれ自体ではなく、それを防げなかった娘の技量不足を責めている。
「私は……」
喉がひどく乾いていた。
「殿下のお心を、私の力でどうこうできるとは……」
「できる女はできる」
父は冷たく言い切った。
「男が何を欲し、何に飽きるかを見抜き、必要なら顔色を変え、言葉を選び、相手の機嫌を掌で転がす。それも貴婦人の技量だ。王太子妃となるなら当然身につけるべきものだった」
リディアは目を伏せた。
そうだったのだろうか。
自分は“正しくあること”ばかり教え込まれた。感情を抑え、品位を守り、隙を見せず、常に整っていること。父も教師たちも、ずっとそう言ってきたではないか。
それなのに今になって、もっと男の心を読み、愛らしく振る舞い、繋ぎ止めておくべきだったと責められる。
では、自分は最初から何を教わってきたのだろう。
何が正解だったのだろう。
「申し訳、ありません……」
また謝罪が零れる。
それ以外の言葉を知らないわけではない。けれどこの場でそれ以外を口にする術を、彼女は持っていなかった。
父は苛立たしげに椅子にもたれた。
「もういい」
その一言で、リディアは自分が切り捨てられたのだと理解した。
娘としてではなく、失敗した駒として。
「幸い、正式な婚約前で表向きはどうとでもなる。問題はここからだ」
父の声の調子が変わる。
怒りから計算へ。
それはリディアにとって、さらに慣れた父の顔だった。
「王太子妃候補の立場は失ったが、お前にはまだ外見も名も教育もある。傷は浅いうちに次の手を打てばいい」
次の手。
その言葉に、リディアはかすかに眉を寄せた。
胸の内がざらつく。
嫌な予感がした。今夜これ以上、聞きたくないことがまだあるのだと、なぜか本能が察していた。
「……次の手、とは」
父は机の上の封書を指先で弾いた。
「宰相閣下だ」
何を言われたのかわからず、リディアは一瞬瞬きを忘れた。
「アルベルト・グランディス閣下が、以前から縁談に難色を示していなかったのは知っているな」
知っているも何も、そんな話は初耳だった。
だがリディアが黙っていると、父はそれを理解しているものとして続ける。
「王太子妃候補から外れた以上、今のお前に残された価値を最も高く買うのはあの男だ。年齢も地位も申し分ない。むしろ王太子より現実的なくらいだ」
リディアは血の気が引くのを感じた。
宰相アルベルト・グランディス。
王国の政務をその手で回し、敵対する貴族をことごとく沈めてきたと噂される冷徹な男。若くして異例の地位に就き、今や王すら彼を無視できない。美貌と権力を持ちながら、情を知らぬ怪物とも言われている人物。
社交界ではその名を聞くだけで空気が変わる。恐れられ、敬われ、誰も本心を読めない男。
その男へ、自分を?
つい先ほど王太子に捨てられたばかりなのに、今度は休む間もなく次の値札をつけられるのか。
「お待ちください、お父様」
今夜初めて、リディアの声にわずかな切迫が滲んだ。
「宰相閣下との縁談など、あまりに急です。私はまだ……」
「まだ何だ」
冷たい一言で遮られる。
「傷ついているとでも言いたいのか」
リディアは口を閉ざした。
言ったところで意味がないと、父の顔が告げていた。
「感傷に浸っている場合ではない。王太子との話が消えた以上、侯爵家の立場は微妙になる。わかるな? お前一人の失敗で済む話ではない」
失敗。
その言葉が重く沈む。
王太子に選ばれなかったことは、やはりこの家にとって“失敗”なのだ。
誰かの気まぐれや移り気に振り回されて傷ついた娘、ではなく、期待に応えられなかった失敗作。
リディアは膝の上の手をぎゅっと握った。爪がまた食い込む。痛い。けれどその痛みがなければ、今にも何かが壊れてしまいそうだった。
「ですが、宰相閣下は……」
言いかけて止まる。
何と言うつもりだったのか、自分でもわからない。怖い、と? 噂が恐ろしい、と? 今の自分にはとても新たな縁談に臨む余裕がない、と?
どれを口にしても、父にとっては無価値な言い分だろう。
案の定、父は淡々と言った。
「感情で家は動かん」
その一言で、すべてが終わる。
「お前はもう子どもではない。自分がフォルセイン侯爵家の娘である以上、個人の気持ちより家の益を優先するのは当然だ」
当然。
その当然の中で生きてきたはずなのに、今夜ばかりはその言葉がひどく遠く、残酷に聞こえた。
「明日にも先方へ返答する」
父はそう言って封書を手に取る。
「拒む余地はないと思え」
「……」
「せいぜい今度は失敗するな」
それが、父から娘への慰めの代わりだった。
リディアはしばらく何も言えなかった。
今夜だけで、二度捨てられた気がした。
一度は東の回廊で、未来を。
もう一度はこの書斎で、娘であることを。
けれど泣けない。
泣く場所ではない。泣いてどうなる。そう思うより早く、体が勝手に感情を封じ込めてしまう。
やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「……承知、いたしました」
それが唯一、言える言葉だった。
父は頷きもせず、すでに別の書類へ視線を落としている。用は済んだということだ。娘の心が今どのように折れかけているかなど、彼にとってはもはや関係がない。
リディアは一礼し、静かに書斎を後にした。
扉を閉めた瞬間、背中の力が少しだけ抜ける。だが足元は不思議なほどしっかりしていた。崩れることすら許されないと、どこかでまだ思っているのかもしれない。
廊下は静かだった。
使用人たちは遠巻きに気配を消している。誰も近寄ってこない。誰も何も尋ねない。それは侯爵家に仕える者として当然の分別なのだろうが、今夜のリディアにはその静けさがひどく堪えた。
自室へ向かう途中、壁に掛けられた鏡の前を通る。
ふと足が止まった。
鏡の中の自分は、相変わらず整っていた。髪も、化粧も、ドレスも、何ひとつ乱れていない。完璧な侯爵令嬢のまま、王太子に捨てられ、父に次の縁談を命じられた女。
あまりにも滑稽で、ひどく哀れだった。
それでも彼女は鏡に手を触れなかった。
触れたら何かが決壊してしまいそうだったから。
ようやく部屋へ辿り着き、扉が閉まる。外の世界から切り離された途端、静寂が押し寄せた。
侍女はまだ来ていない。呼び鈴を鳴らせば着替えの手伝いに来るだろう。だが今は誰の顔も見たくなかった。
リディアはゆっくりと窓辺まで歩き、重いカーテンを少しだけ開けた。
夜の庭は暗い。
遠くにある噴水の輪郭がかろうじて見えるだけで、花壇の色さえ判別できない。
こんな夜だっただろうか、と彼女は思う。
今まで何度もこの窓から庭を見たはずなのに、今夜ほど世界が色を失って見えたことはない。
王太子に捨てられた。
父は怒り、嘆くより先に次の縁談を決めた。
宰相アルベルト・グランディス。
その名を思い浮かべるだけで、胸の奥が小さく震えた。
冷徹な男。情を持たぬ怪物。政治のためなら誰でも切る男。
そんな噂ばかりが浮かぶ。
もう愛されることを期待していたわけではない。少なくとも、王太子の件でそれは充分に思い知らされた。けれどだからといって、こんなにすぐ次の場所へ押し込まれるように差し出されるとは思っていなかった。
私は物なのだろうか、とふと思う。
家のために整えられ、価値をつけられ、より有利な相手へと回される物。
そう考えると、心のどこかがじわじわと冷え切っていく。
そのとき、ようやく目の奥が熱くなった。
泣けるのだろうか、と一瞬思う。
だが落ちた涙はほんの一粒だけで、それも頬を伝う前に指先で拭われてしまった。
泣き方さえ、上手くできない。
リディアは静かに目を閉じた。
今夜で終わったものが多すぎて、何から考えればいいのかわからない。王太子との未来も、自分が抱いていたかすかな希望も、父との間にまだ残っていた“娘として見てもらえるかもしれない”という期待も、すべてが崩れた。
残ったのは、次の縁談だけ。
休む暇もなく、心を追い立てる新しい名前だけ。
しばらくして、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。侍女だろう。
「お嬢様、お着替えを……」
リディアは目を開ける。
もう泣いている暇はない。泣けたとしても、だ。
「ええ、お願い」
そう答えた自分の声は、驚くほどいつも通りだった。
今夜もまた、彼女は壊れた顔を見せない。
ただ胸の内に、誰にも見えない小さな破片を増やしただけだった。




