第2話 人気のない回廊で、未来はあまりにも簡単に切り捨てられた
夜会が終わるまでの時間は、ひどく長く感じられた。
音楽は絶えず流れ、笑い声は途切れず、広間は最後まで華やかだったというのに、リディアにとってはそのすべてが遠い世界の出来事のようだった。自分もたしかにその場に立ち、挨拶を返し、求められれば言葉を選んで応じ、侯爵令嬢としての体面を保ち続けていたはずなのに、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側で、自分とは別の誰かがそれをこなしているような感覚だった。
東の回廊へ来い。
エドワードがそう告げた瞬間から、彼女の胸の内はその言葉だけで満たされていた。
いや、満たされていたというより、圧し潰されていた、と言ったほうが近い。
何を言われるのだろう。何についての話なのだろう。
考えないようにするほど、悪い予感ばかりが輪郭を持っていく。
近ごろの彼の冷たさを思えば、決して良い話ではあるまい。けれど、もしかしたら自分の思い違いかもしれない。最近の公務で何か大きな負担があって、その余裕のなさがこちらへ向いていただけかもしれない。あるいはセシリアに対する態度も、ただ彼女が無邪気で扱いやすいからであって、それ以上の意味などないのかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥で警鐘のように鳴り続けるものは消えなかった。
何人もの貴婦人に声をかけられた。何人もの若い令息が、社交辞令の微笑みを向けてきた。誰もが今夜も変わらず、未来の王太子妃候補としての彼女へ接した。
「リディア様、少しお疲れではございませんか」
途中、顔見知りの伯爵夫人にそう尋ねられたとき、リディアは自分がいつもより笑みを作れていないことに気づいた。
「そのように見えましたか」
「ほんの少しだけ。今夜は人も多うございますし」
「ありがとうございます。少しだけ気が緩んでしまったようですわ」
淑やかにそう返すと、伯爵夫人は安心したように頷いて去っていった。
気が緩んだ、などと。自分で言っていて、少し可笑しかった。
緩んでいるのではない。むしろ全身が張り詰めて、今にも細く裂けそうだった。
やがて最後の舞曲が終わり、広間に満ちていた熱がゆるやかに収束していく。王族への暇乞いを求める列が生まれ、貴族たちはそれぞれの思惑と余韻を胸に、少しずつ宮殿の外へ流れ始めた。
リディアは王太子の近くへ戻るべきか一瞬迷ったが、結局それはしなかった。
エドワードは既に別の貴族たちに囲まれていたし、何より今の彼に自分から近づくのは、ひどく愚かなことのように思えた。夜会の最中であればまだしも、今はもう“話がある”と言われたあとだ。余計な一言で彼の機嫌を損ねるくらいなら、黙って指定された場所へ向かうほうがいい。
リディアは誰にも気づかれぬよう静かに広間を辞し、東の回廊へ足を向けた。
宮殿の東側は、夜会の華やぎから少し離れた場所にある。大広間の燭火の熱と喧騒が届きにくく、磨かれた石床に靴音だけが硬く返る静かな通路だ。壁に等間隔で置かれた燭台がゆらゆらと炎を揺らし、窓の外には夜の庭園がひっそりと広がっている。今夜は月も細く、黒い庭木の輪郭だけがかろうじて見える程度だった。
リディアは回廊の途中で足を止めた。
まだ彼は来ていない。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
ほんのわずかな猶予。だがその短い時間さえ、彼女にはありがたかった。
窓辺へ寄り、夜気の冷たさを閉ざされた硝子越しに感じる。胸元に手を当てると、鼓動がひどく速いのがわかった。これほど明らかな動揺を抱えたまま人前に立っていたのかと思うと、我ながらよく隠せたものだと感心すらする。
隠すことには慣れている。
不安も、寂しさも、悔しさも。
幼いころからそうしてきた。泣けば叱られた。顔に出せばたしなめられた。未来の妃候補たるもの、感情を露わにしてはならない。感情は判断を鈍らせ、品位を損ない、王家に仕えるにふさわしくない――何度も、何度も聞かされた言葉だった。
だからリディアは泣かない令嬢になった。
泣きたいときに俯く方法を覚えた。傷ついたときに微笑む方法を覚えた。言い返したいときに沈黙を選ぶ方法を覚えた。
それが正しいと信じて。
そうしなければ、この場所へは立てないのだと信じて。
「待たせたな」
背後からの声に、リディアは反射的に背筋を伸ばした。
振り返ると、そこにはエドワードがいた。
夜会用の正装のまま、まだ広間の光をわずかにまとっているような姿だった。端正な顔立ちも、濃紺の礼装も、王家の血を示す金糸の刺繍も、何一つ変わっていない。けれど今の彼は、リディアの記憶の中のどの姿よりも遠く感じられた。
「いいえ。私も今、参ったところです」
嘘だったが、そう答えるしかない。
エドワードは短く頷き、回廊の壁にもたれるでもなく、ただ数歩の距離を保ったまま彼女を見た。
その視線に、温度はなかった。
むしろ何かを決めてきた者の、冷たい硬さがあった。
リディアの指先が、裾の陰でわずかに震える。
「殿下、お話とは……」
先に口を開いたのはリディアだった。この沈黙に耐えきれなかった、というのもある。だが本当は、彼の口から何かが告げられる前に、少しでも心の準備をしたかったのかもしれない。
エドワードは一瞬だけ眉間に皺を寄せた。
「単刀直入に言う」
「はい」
「私は、君との縁談をこれ以上進めるつもりはない」
その言葉は、驚くほど静かに落ちた。
けれど静かだったからこそ、回廊の冷えた空気の中で、やけに鮮明に響いた。
リディアは一瞬、意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。だがそれが自分に向けられた現実の言葉として、うまく胸に入ってこない。
「……それは」
掠れそうになった声を、どうにか整える。
「婚約の、お話でしょうか」
「正式な婚約前でよかったと思っている」
エドワードの返答は容赦がなかった。
「君をこれ以上、私の妃候補として扱うつもりはない」
そこでようやく、理解が追いついた。
終わるのだ。
これまでのすべてが。
王太子妃候補として積み重ねてきた年月も、父や教師たちの期待も、自分なりに必死に守ってきた立場も、その一言であまりにもあっさりと切り捨てられたのだ。
だがリディアは俯かなかった。
俯けば涙が落ちるかもしれないと思ったからではない。そうしてはならないと、体が勝手に判断したからだ。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
我ながら、よくこの声を出せたと思う。
エドワードは少しだけ目を逸らした。そこに後ろめたさがあったのか、それとも面倒を感じただけなのか、リディアには判別できない。
「君といると息が詰まる」
その一言で、胸の奥の何かがひび割れた。
だが彼は止まらない。
「何もかもが正しすぎる。隙がなく、感情が見えず、いつも同じ顔で、同じように返す。君は優秀なのだろう。妃として必要なものも備えているのだろう。だが私には耐えられない」
リディアは指先をぎゅっと握りしめた。
言い返せる言葉が、なかった。
正しすぎる。隙がない。感情が見えない。
どれも、これまで“そうあるべき”として教えられてきたことばかりだったから。
泣かず、取り乱さず、取り乱しそうなときほど静かに。誰に対しても平等に微笑み、王家に恥をかかせないこと。それが妃候補としての理想だと信じて生きてきた。
それなのに今、彼はそれを理由に自分を切り捨てるのだ。
「私は……」
唇が震える。
「そのように在るよう、努めてまいりました」
「それが問題なのだ」
エドワードは苛立ったように言った。
「努めていることしか伝わってこない。君のそばにいると、私は常に正しさを突きつけられている気分になる」
ひどい言葉だった。
けれど彼自身は、それをひどいとも思っていない顔をしている。
ただ自分の感じた窮屈さを、率直に告げているだけ。そういう顔だ。
リディアは苦しくなった。
もしここで感情を露わにして詰ることができたなら、どれほど楽だっただろう。では、どうすればよかったのですか、と。正しく在れと教えたのはあなた方でしょう、と。そう叫べたなら。
けれどできない。
そんなことをする自分を、彼女は持っていない。
「……私に、至らぬ点がございましたのなら」
「そういうところだ」
また遮られる。
エドワードは深く息を吐き、決定的な一線を引くように言った。
「君は、最後までそうして謝るのだな」
その言葉が、何より堪えた。
謝ることしかできない女だと、そう言われた気がしたからだ。
リディアは視線を落とさないよう必死に耐えた。ここで伏せれば負けるような気がしたし、何より彼に涙を見せたくなかった。
「私は、愛のない結婚などしたくない」
エドワードの声は冷静だった。
「もっと、自然に心が動く相手を選びたい。私が笑えば笑い、怒れば顔を曇らせ、喜びも悲しみもわかりやすく寄せてくるような女を」
その“ような女”が誰を指しているのか、聞くまでもなかった。
広間で彼が見ていた笑顔が脳裏によみがえる。
春の花のような、あの明るい伯爵令嬢。
「セシリア様、でしょうか」
気づけば、リディアはそう口にしていた。
エドワードは一瞬だけ黙った。
否定はしなかった。
それで十分だった。
「……そうだとして、何か問題があるか」
問題があるか。
あまりにも無造作な問いに、リディアは一瞬、何も感じられなくなった。
問題だらけだ。
侯爵家と王家の関係も、今後の社交界での立場も、自分がこれまで費やしてきた時間も努力も、すべてがこの一夜で無意味になる。彼にとっては“心が動く相手を選びたい”の一言で済むことでも、そのあとに地に落ちる女がいるのだ。
けれどその言葉すら、口には出せない。
「……いいえ」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「殿下のお心がそうお決まりなら、私に申し上げることはございません」
それを聞いたエドワードは、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
まるで、話が思ったより容易く済みそうだと安堵したように。
その事実が、もう一度リディアを傷つける。
「物わかりがよくて助かる」
彼はそう言った。
物わかりがよくて、助かる。
その言葉で、これまでの関係の何もかもが凝縮された気がした。
そうだ。彼にとって自分は、ずっとそういう存在だったのだ。
面倒を起こさず、機嫌を損ねず、求められる役割をきちんと果たし、切り捨てるときも都合がいい女。
リディアの胸の内で、冷たいものが静かに広がっていく。
「侯爵家には私から話を通す」
エドワードは続ける。
「正式な婚約前だ。表向きはどうとでもなる。君も余計なことは言わないでくれ」
「余計なこと、ですか」
「揉め事にするなという意味だ」
リディアは彼を見つめた。
ああ、この人は本当に何もわかっていないのだ、と。
自分を傷つけている自覚すら薄い。自分にとっては“窮屈な相手を遠ざける選択”でしかなくても、相手の女にとっては人生そのものを折られるような話なのだと、考えもしない。
「承知いたしました」
礼を取るように、少しだけ顎を引く。
他に何が言えただろう。
ここで泣き崩れて縋れば、惨めなだけだ。怒鳴れば、最後の最後まで品位を失った女として記憶されるだけだ。
ならばせめて、終わる瞬間くらいは静かに終わりたかった。
そのときだった。
回廊の少し離れた向こうから、明るい声が響いた。
「殿下? こちらにいらしたの?」
セシリアだった。
彼女は広間からこちらを探してきたらしく、回廊の入口で足を止めている。状況を察したのか察していないのか、どちらともつかぬ顔で二人を見た。
「まあ……お話中でしたのね。ごめんなさい」
口では謝っているが、その声音はひどく軽い。
エドワードはリディアの前で見せていた冷たい表情を、わずかに和らげた。
「いや、もう終わる」
その変化が、リディアにはあまりにも鮮明だった。
自分に向けられる硬さと、彼女に向けられる柔らかさ。
もう比べるまでもない。勝ち負けの話ですらない。ただ最初から、置かれている位置が違ったのだ。
セシリアは困ったように、けれどどこか無邪気に首を傾げる。
「リディア様、大丈夫? 少しお顔の色が……」
心配しているようでいて、その実どれだけ無神経な言葉か、彼女は気づいていないのだろう。
リディアは微笑んだ。
自分でも驚くほど、いつも通りに。
「ありがとうございます。少し夜風に当たっていただけですわ」
「そうでしたの。今夜は冷えますものね」
セシリアはすぐに納得したように頷いた。
その無邪気さを、リディアは責める気にはなれなかった。責めたところで何も戻らないし、彼女がこの場に立っていること自体が、もうすべての答えだったからだ。
エドワードは一度だけリディアを見た。
「では、これで」
別れの言葉はそれだけだった。
長年の積み重ねを断ち切るには、あまりにも短い。
彼はセシリアのほうへ歩き出す。彼女もまた、自然な仕草でその隣に並んだ。二人の背中は並んで回廊の向こうへ消えていく。
リディアはその場から動けなかった。
足が床に縫い留められたようだった。
静かになった回廊で、燭台の火だけが小さく揺れている。
耳の奥ではまだ、彼の言葉が何度も反芻されていた。
君といると息が詰まる。
愛のない結婚などしたくない。
もっと自然に心が動く相手を選びたい。
物わかりがよくて助かる。
どの言葉も鋭いのに、不思議なほど泣けなかった。
泣きたいのに、泣き方を忘れてしまったようだった。
リディアはゆっくりと手を開いた。爪が食い込んでいたらしく、薄く赤い痕が掌に残っている。その痕だけが、今の出来事が夢ではないことを教えていた。
終わった。
自分が長い時間をかけて築いてきたはずの未来は、今、終わったのだ。
なのに世界は何一つ変わらない顔をしている。燭火は揺れ、窓の外の夜は静かで、遠くではまだ夜会の名残の笑い声がかすかに聞こえる。
これほど大きなことが起きたのに、何も止まりはしない。
そのことが、かえって残酷だった。
しばらくして、ようやくリディアは一歩を踏み出した。
回廊を戻る足取りは、自分のものではないように重い。それでも歩かなければならない。ここで立ち尽くしていても、誰かが救いに来るわけではないのだから。
侯爵家へ戻れば、父が待っている。
この話がどう伝わるのか。何を言われるのか。考えるだけで胃の奥がきりきりと痛んだ。
役に立てなかった娘。
選ばれなかった女。
そんな言葉が、まだ告げられてもいないのに、先に胸を刺し始める。
それでもリディアは背筋を伸ばした。
泣くのは屋敷へ戻ってからでも遅くはない――いや、たとえ屋敷へ戻っても泣けないかもしれないが、それでも今ここで崩れるわけにはいかなかった。
王宮の長い廊下を歩きながら、彼女は初めて思う。
もしかしたら私は、最初から誰にも愛されるようには作られていなかったのではないか、と。
正しくあるように。役に立つように。間違えないように。
そうして削られ整えられた先に残ったのは、王太子に“息が詰まる”と切り捨てられる女だった。
だったら、これまでの努力は何だったのだろう。
どれほど徹夜で礼法を覚え、どれほど痛む足で舞踏を繰り返し、どれほど飲み込みたくない言葉を飲み込んできたと思っているのだろう。
喉の奥が熱くなる。
今度こそ泣くのかと思った。けれど涙は落ちなかった。
代わりに、胸の奥に小さな空洞だけが生まれた。
そこに風が吹き込むように、寒かった。
宮殿の出口へ向かう途中、磨かれた窓硝子に自分の姿が映る。銀青のドレスを纏い、髪一つ乱れていない、完璧な侯爵令嬢。未来の妃候補として相応しい外見のまま、たった今捨てられた女。
その矛盾があまりにも滑稽で、リディアはかすかに笑いそうになった。
笑えるはずがないのに。
夜の王宮は広い。
けれど今の彼女には、戻る先がどこにもないように思えた。




