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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第1話 捨てられる予感は、いつだって夜会の光の中で始まる

 夜会の広間は、今宵も完璧だった。


 磨き抜かれた白大理石の床は、無数の燭台の光を映して淡く輝き、天井近くに吊るされた大きな硝子のシャンデリアは、星を砕いて撒いたような眩しさを放っている。壁際には季節の花が惜しげもなく飾られ、楽団が奏でる弦の音は、空気に溶けるように滑らかだった。


 王都の華やかさを象徴するような、その夜会。


 侯爵令嬢リディア・フォルセインは、いつものように王太子エドワードの隣に立っていた。


 淡い銀青のドレス。胸元を飾るのは侯爵家の古い宝石。結い上げた髪は乱れ一つなく、首筋の角度、扇の持ち方、微笑の深さ、どれを取っても“未来の妃候補”として相応しいよう整えられている。


 そう見えるよう、整えてきた。


 幼いころからずっと。


「リディア様、本日もお美しいですわ」


 笑みを浮かべて近づいてきたのは、子爵夫人だった。赤い羽根飾りのついた扇を口元に当てながら、彼女は恭しく礼を取る。


 リディアはゆるやかに目元を和らげた。


「ありがとうございます、子爵夫人。今宵のお召し物も、とてもよくお似合いですわ」


「まあ、お上手」


 夫人は嬉しそうに笑う。だがその目は、一瞬だけリディアの隣――エドワードへ向けられた。


 この夜会に集う者たちの視線は、たいていそうだった。


 彼女自身を見ているようでいて、その実、王太子の隣に立つ女として彼女を測っている。侯爵令嬢リディアとしてではなく、未来の王太子妃候補として相応しいかどうかを。


 それに慣れるまで、長くかかった。


 いや、本当は今でも慣れてはいないのかもしれない。ただ、慣れたように見せることが上手くなっただけだ。


「今宵は西の辺境伯家のご子息も参じておられるとか。殿下のお人柄に惹かれて、ぜひお近づきになりたいと」


 子爵夫人が世間話のように言う。


 リディアはすぐさま微笑を保ったまま応じた。


「殿下は多くの方々に慕われていらっしゃいますもの。心強いことですわ」


 こういう返答をすべきだと、体が覚えている。驕らず、下がりすぎず、相手を立てながら王家への敬意も滲ませる。褒められれば謙遜し、探りを入れられれば受け流し、どの貴族に対しても温度差を出さない。


 それが、王太子の隣に立つ女に求められる振る舞いだった。


 子爵夫人は満足げに頷き、次の会話相手を探すように去っていった。


 ようやく一息つけるかと思ったそのとき、隣から低く抑えた声が落ちた。


「君は、本当に誰に対しても同じ顔をするな」


 エドワードだった。


 リディアはわずかに目を伏せる。


「それが私の務めかと」


「務め、か」


 彼は鼻で笑うように小さく息を吐いた。


 その声音に、リディアの胸がかすかに強張る。


 ここ数か月、エドワードは以前よりも彼女に冷たかった。


 もともと多弁な人ではない。だが昔は、少なくとも必要な会話はあった。式典の前に確認を求めることもあれば、夜会での相手貴族について意見を聞かれることもあった。ごくわずかとはいえ、彼の隣に立つ自分の存在が“使われている”実感くらいはあったのだ。


 けれど最近は、そのわずかなやり取りさえ減っていた。


 何かを尋ねれば短く返される。意見を求められることもない。目を合わせても、どこか煩わしそうに逸らされる。


 何かがずれている。


 そう感じ始めてから、リディアは以前にも増して失敗を恐れるようになった。笑みの角度はこれでいいのか。言葉遣いは固すぎないか。沈黙の長さは適切か。彼の機嫌を損ねるようなことをしてはいないか。


 考えれば考えるほど、正解は遠ざかっていく気がした。


「殿下、お加減でも優れませんか」


 慎重に問うと、エドワードは彼女を見ずにグラスを傾けた。


「別に」


「でしたらよろしいのですが」


「君にはそう見えたのか」


 突き放すような言葉だった。


 責める意図があるのか、ただ苛立っているだけなのか、それも読み取れない。


 リディアは一瞬だけ喉の奥がひりつくのを感じたが、微笑は崩さなかった。


「もしお疲れなら、少し人の少ない場所へ移られますか。今でしたら東側の回廊は――」


「結構だ」


 言い終える前に遮られる。


 リディアは唇の内側をそっと噛んだ。


 何を言っても駄目だ。そういう夜があることは知っている。エドワードは気難しい人ではあるが、近ごろはその気難しさが自分にだけ向けられているような気がしてならなかった。


 楽団が曲を変えた。


 軽やかな舞曲に広間の空気が少しだけ華やぐ。貴族たちが思い思いに視線を交わし、ダンスの相手を誘う気配が広がる中、広間の向こうでひときわ明るい笑い声が上がった。


 その声を、リディアは知っている。


 伯爵令嬢セシリア・ルーヴェン。


 春の花をそのまま人の形にしたような、華やかで愛らしい少女だ。栗色の髪をふわりと巻き、よく笑い、よく拗ね、よく周囲を振り回す。淑女教育の教師たちは顔をしかめるが、年若い貴公子たちは皆、彼女の奔放さを“愛嬌”として歓迎した。


 そしてエドワードもまた、その一人だった。


 リディアは自分でも気づかぬほど浅く息を吸った。


 エドワードの視線が、その声のほうへ向いたのがわかったからだ。


 たったそれだけのこと。


 だが、リディアにはそれが胸に刺さる。


 セシリアは友人たちに囲まれながら、何か面白いことでもあったのか、頬を紅潮させて笑っていた。笑うたびに耳元の真珠飾りが揺れ、その無邪気な表情は確かに人目を惹く。


 隣で、エドワードの空気がわずかに和らいだ。


 その変化を、リディアは見逃せなかった。


 自分と話すときの刺々しさが、彼女を見るときだけふっとほどける。その事実に気づいてしまうのは、何度目だろう。


「……殿下」


 呼びかけようとして、やめた。


 今、何を言えばいいのかわからない。


 何を言っても、彼の視線はあちらへ向いたままな気がした。


 広間では、貴婦人たちの囁きが花びらのように散っている。


「やはり、殿下はセシリア様のようなお可愛らしい方がお好きなのかしら」


「まあ、でもリディア様はあまりに完璧すぎますもの」


「近寄りがたさはございますわね」


「未来の妃としては申し分ないのでしょうけれど……」


 直接聞こえるはずのない位置からの囁きであっても、長年こうした場に立っていれば、不思議と気配でわかる。


 リディアは扇を持つ指に力を込めた。


 近寄りがたい。冷たい。完璧すぎる。


 そう言われることには慣れている。


 いや、本当は慣れていない。ただ、それを聞いても傷つかない顔を作る術を覚えただけだ。


 可愛げがない、とも。


 愛らしくない、とも。


 何度言われても、どう直せばいいのかわからない。笑いすぎれば軽薄だと叱られ、感情を見せれば品位がないと咎められてきた。静かにしていれば冷たいと言われ、整っていれば近寄りがたいと言われる。


 では、どうすればよかったのだろう。


 そんな問いを、この場で考えること自体が間違いなのに。


 広間中央ではダンスが始まっていた。エドワードはまだ動かない。リディアもまた、誘われればいつでも応じられるよう立っている。


 だがそのとき、セシリアが友人たちの輪からふわりと抜け出した。軽やかな足取りのまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。


 嫌な予感がした。


 そういう感覚は、たいてい当たる。


「殿下!」


 鈴を転がすような声でセシリアが呼ぶ。周囲の空気が一瞬、彼女を中心に明るく弾んだ。


 エドワードの表情もまた、はっきりと変わった。


「セシリア」


「まあ、お名前を呼んでくださった。嬉しい」


 彼女はそう言ってころころ笑う。その笑いに作為はないように見える。だからこそ厄介だ、とリディアは思った。


「先ほど、西方からいらした伯爵様が、どうしても殿下にご挨拶したいと仰っていたのです。でも、わたくしではうまくお伝えできなくて……」


「どこの伯爵だ?」


「ええと、クロード伯だったかしら。あ、でも違ったかもしれません。息子様が軍務で大変ご立派で――」


 曖昧だ。普通なら眉をひそめられてもおかしくない。けれどエドワードは苛立つどころか、半ば苦笑に近い顔をした。


「君はいつも要点が足りないな」


「ごめんなさい。でも、殿下ならわかってくださると思って」


 無邪気な返し。


 そのやり取りに、周囲の何人かが微笑ましげな目を向けているのが見えた。


 リディアはそこへ一歩、自然に入るべきか迷った。王太子の予定管理や来客整理は、これまで彼女が担ってきた役割だ。ならば今も、セシリアの曖昧な情報を補い、殿下の動きやすいよう段取りを整えるべきだろう。


 そう判断して口を開く。


「殿下、もしクロード伯爵家のご子息のことでしたら、今夜は第二控え室の奥で西方貴族の方々が集まっておられます。そちらへ――」


「君に聞いていない」


 ぴしゃりと言われた。


 リディアは言葉を止めた。


 エドワードはようやく彼女を見た。その目にあるのは、はっきりした苛立ちだった。


「何でもかんでも口を挟まないでくれ」


「……失礼いたしました」


 反射的に頭を下げる。


 周囲にいた何人かが気まずそうに目を逸らした。セシリアは困ったように「まあ」と小さく声を漏らしたが、その顔にどこまで本気の戸惑いがあるのかはわからない。


 リディアは静かに扇を閉じる。


 恥をかかされた。


 そう認識するまでに、少し時間がかかった。


 頬が熱い。けれどそれを表に出してはいけない。未来の妃候補が、夜会の最中に感情を露わにするなどあってはならない。


「それでは、私は少し下がっております」


 そう告げて離れようとしたときだった。


「待て」


 エドワードの声に、リディアは足を止める。


 胸の奥が、ひどく嫌な音を立てた。


 なぜだろう。


 ただ呼び止められただけなのに、背筋を冷たいものが這う。


 エドワードは一拍置いてから、グラスを侍従に渡した。目は相変わらず、どこか不機嫌なまま。


「今夜、話がある」


 その一言で、広間の光が少しだけ遠のいた気がした。


 リディアは瞬きをする。


「……お話、でございますか」


「ああ」


 短い返答。


 セシリアがきょとんとした顔で二人を見比べる気配がある。周囲の貴族たちも、何かを察したのか、こちらへ向ける視線をわずかに細くした。


 リディアは心の中で姿勢を正した。


 話がある。


 それが良い知らせでないことくらい、わかる。


 最近の冷たさ。目を逸らされる回数。セシリアを見るときだけ柔らぐ表情。自分が口を挟むたびに滲む苛立ち。積み重なった小さな違和感が、今、ひとつの形になろうとしている。


 それでも彼女は、表情を崩さない。


「かしこまりました。いつでも」


「夜会が終わったら、東の回廊へ来い」


「はい、殿下」


 礼を取る。


 それで会話は終わりだった。


 エドワードはすでにリディアではなく、別の来客へ視線を向けている。セシリアはそんな彼の袖口に、親しげに何か囁きかけていた。


 広間ではまた新しい曲が始まった。明るい旋律が響き、笑い声が重なり、誰かの香水の甘い香りが風に乗る。


 夜会は何一つ乱れていない。


 乱れているのは、自分の胸の内だけだ。


 リディアは静かにその場を離れた。王太子の隣から一歩下がっただけで、急に空気が冷たく感じる。


 柱の陰に身を寄せても、うまく息が吸えなかった。


 話がある。


 ただそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに怖いのだろう。


 頭の中で、これまでの年月が一瞬で駆け抜ける。


 王太子妃候補としての教育。父の期待。教師たちの厳しい声。笑いすぎるな、泣くな、間違えるな、品位を失うな、王家に恥をかかせるな。どれほど必死に覚えてきただろう。どれほど間違えないよう努めてきただろう。


 それでも足りなかったのか。


 それでもまだ、何かを失敗していたのか。


 胸の奥で、幼いころから閉じ込めてきた弱音が、今夜だけは扉を叩いてくる。


 ――怖い。


 けれど口には出せない。


 そんな言葉を許される立場ではないと、ずっと教え込まれてきたから。


 リディアはゆっくりと背筋を伸ばした。


 大丈夫。


 まだ何も決まったわけではない。


 話を聞くだけだ。きっと何かの確認かもしれない。自分が早まって不安になる必要はない。そう自分に言い聞かせる。


 だがその慰めが、薄い硝子のように頼りないことを、彼女自身が一番よく知っていた。


 広間の向こうでは、エドワードが笑っていた。


 少なくとも、リディアにはそう見えた。


 その隣で、セシリアが春のように明るく笑う。


 眩しい光の中、その光景だけがやけにはっきり見えてしまって、リディアはそっと目を伏せた。


 今夜、何かが終わる。


 そんな予感だけが、胸の底で静かに、けれど確かに形を持ちはじめていた。

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