第86話 南区の窓は、毛布より先に冷えていた
南区へ向かう朝、リディアは厚手の外套を選んだ。
王宮へ出るときのような華やかなものではない。裾は歩きやすく、袖口も邪魔にならない。色も目立ちすぎない灰青色で、胸元には小さな留め具だけがある。
鏡の前で襟を整えていると、エマが背後から手袋を差し出した。
「本日は外に出られる時間が長くなります。こちらを」
「ありがとう」
「それから、替えの手袋も馬車に入れております」
「そこまで?」
「南区の建物は、窓枠や壁の隙間を確認されると伺っておりますので。埃や木屑がつくかと」
リディアは思わず鏡越しにエマを見た。
「エマ、もう調査員みたいね」
「奥様のおそばにおりますと、必要になってまいります」
淡々とした声だった。
けれど、その言葉の奥には確かな気遣いがある。
リディアは手袋を受け取り、ゆっくり指を通した。
南区。
王都冬季灯火網の次の調査地。
北区は火だった。
東区は橋だった。
そして南区は、古い建物と孤児院。
舞踏会で集まった修繕支援が、ようやく具体的に動き始める。今日はその第一歩として、南区第三孤児院と、その近くにある古い集合住宅の様子を確認する予定だった。
毛布を配れば済む話ではない。
それは以前、第三孤児院を訪ねたときにリディアが強く感じたことだった。
新しい毛布を与えることは、確かに支援になる。
けれど、窓枠から風が入り続ける部屋では、その毛布も冷えてしまう。古い毛布には、子どもが抱えて眠る安心が宿っている場合もある。ただ古いからと取り上げ、新しいものへ替えればよいわけではない。
南区で見るべきものは、きっと“足りない物”だけではない。
何を残し、何を直し、何を足すか。
そこを間違えれば、善意はまた現場を困らせる。
小食堂へ行くと、アルベルトはすでに席についていた。
手元には南区の地図がある。食事の席に地図。以前なら少し驚いたが、最近はもう慣れてきた。
「おはようございます」
「ああ」
彼はリディアの外套を見て、短く頷いた。
「悪くない」
「外套の評価ですか?」
「現場向きだ」
「ありがとうございます」
褒められたのか、実務確認なのか、少し迷う。
いや、たぶん両方だ。
朝食は軽めだった。温かい粥と、柔らかく焼いたパン。マーサが「外へ出る日は胃に重すぎないほうがよろしいですから」と言っていたらしい。
食事の途中、アルベルトが地図の一角を指で示した。
「南区第三孤児院は、ここだ」
「周辺は、古い住宅が多いのですね」
「ああ。元は職人家族向けの長屋だったが、ここ十年で住む者が変わっている。仕事を失った者、寡婦、子連れの使用人上がり。慈善局の記録も古い」
「だから、まず調査」
「そうだ」
アルベルトは別の紙を取り出した。
「今日は、君、オスカー、慈善局の南区担当官、建物修繕の職人一名。セシリアも来る」
リディアは少し目を見開いた。
「セシリア様も?」
「鉢植えの配送確認を理由に申し出があった。孤児院向けの植物を置く場所を確認したいらしい」
「……仕事ですね」
「ああ」
その短い肯定に、リディアは少しだけ嬉しくなった。
セシリアが、花印だけではなく、その先へ進もうとしている。
ただし、南区は華やかな場所ではない。
孤児院や古い住宅の現実を見て、彼女が何を感じるかはわからない。
「セシリア様は、大丈夫でしょうか」
「それを決めるのは彼女だ」
「そうですね」
「ただし、必要なら止めろ。現場で倒れられると困る」
「旦那様、本当に容赦がありません」
「倒れないのも仕事だ」
この言葉は、もう何度も聞いた。
そして今は、少し笑って受け取れる。
「私も気をつけます」
「そうしろ」
馬車で南区へ向かう道中、リディアは窓の外を見ていた。
王宮や貴族街から離れるにつれ、街の表情は少しずつ変わる。
広い道が細くなり、石畳の隙間に泥が残る。建物の壁は古く、窓の木枠には歪みが見えた。洗濯物が低い軒先に干され、路地では子どもたちが小さな木片を蹴って遊んでいる。
寒い。
馬車の中にいても、南区の風が少し違うことがわかった。
北区のように夜の寒さが人を追い込む場所ではない。
東区のように橋が人を遮る場所でもない。
南区は、生活の中に寒さが入り込んでいる。
窓の隙間、床下、壁の割れ目。
見えにくい場所から、少しずつ。
第三孤児院の前に着くと、すでに慈善局の担当官と職人が待っていた。
そして、その少し後ろにセシリアの姿があった。
淡い色の外套を着ているが、いつもより飾りは少ない。髪も動きやすいようにまとめている。手には小さな帳面と、植物の配置表らしき紙。
彼女はリディアを見ると、少し緊張した顔で礼をした。
「リディア様。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。寒くはありませんか」
「大丈夫です。手袋も二枚持ってきました」
言ってから、セシリアは少し照れたように笑った。
「エマさんに教えていただきました」
リディアは思わずエマを振り返った。
エマは何も知らない顔で控えている。
屋敷の気遣いは、いつの間にか外へも広がっているらしい。
孤児院の院長は、年配の女性だった。
痩せているが背筋が伸び、目は鋭い。名をマリベルという。
彼女はリディアたちを迎えると、丁寧に礼をしたが、媚びるような態度はなかった。
「お越しいただきありがとうございます。ですが、最初に申し上げます」
開口一番、マリベル院長はそう言った。
「子どもたちを並べて、可哀想な姿を見せるつもりはありません」
リディアは、胸の奥で静かに息を吸った。
「その必要はありません」
すぐに答える。
「本日は、建物の状態と必要な支援を確認しに参りました。子どもたちを見せ物にするためではありません」
院長の目が、わずかに和らいだ。
「それを聞いて安心しました。以前、別の慈善会の方々が来たとき、子どもたちに古い服を着せたまま並ばせたいと言われまして」
セシリアの表情が、はっきり曇った。
リディアは静かに言った。
「今後、この事業ではそうしたことを求めません」
「なら、どうぞ」
院長は扉を開けた。
中へ入った瞬間、リディアは思った。
寒い。
外よりはましだ。
けれど、屋内としては寒い。
廊下の奥から、わずかな風が流れてくる。窓は閉まっているはずなのに、どこかで空気が動いている。
職人がすぐに壁際へ行き、手をかざした。
「窓枠だけじゃありませんね。壁の継ぎ目にも隙間があります」
院長が頷く。
「雨の日はそこから湿気が入ります」
「床板は?」
「食堂の一部が浮いています。小さい子がつまずくので、椅子を置いて塞いでいます」
リディアは、オスカーへ視線を向ける。
彼はすぐ記録を取っていた。
窓枠。壁の継ぎ目。床板。湿気。転倒防止。
火鉢の位置。薪の保管場所。毛布の数。
セシリアは、窓辺に置かれていた古い花瓶を見つめていた。
中には、乾いた小枝が数本挿してあるだけだ。
「これは……」
セシリアが呟くと、院長が少しだけ苦笑した。
「花を飾る余裕はありませんので。子どもたちが拾ってきた枝です」
「捨てないのですか」
「捨てると怒ります。あれは宝物だそうで」
セシリアは、しばらくその小枝を見ていた。
そして、帳面に何かを書き込む。
「鉢植えは、ここには置かないほうがよいかもしれません」
リディアは少し驚いた。
「置かない?」
「窓辺が寒すぎます。植物も弱りますし、子どもたちが“世話をしなければ”と負担に感じるかもしれません。食堂の暖かい場所に、小さなものを一つだけ。あとは……」
セシリアは小枝の花瓶を見た。
「子どもたちが拾ってきた枝や葉を飾れるような、小さな棚があったほうがよいかもしれません。花を贈るより、拾ったものを大切にできる場所を作るほうが、この孤児院には合っている気がします」
院長が、驚いたようにセシリアを見た。
リディアも、少し胸を打たれた。
鉢植えを置きに来たはずのセシリアが、置かない判断をした。
花を飾る人ではなく、その場所に何が必要かを見る人として。
「よいと思います」
リディアは言った。
「鉢植えの配送先を変更しましょう。この孤児院には、花棚の修繕支援として記録します」
オスカーがすぐに書き込む。
セシリアは少しほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「あなたの判断です」
リディアが言うと、セシリアは小さく頷いた。
次に案内されたのは、子どもたちの寝室だった。
そこにはいくつもの寝台が並び、毛布が重ねられている。新しいものもあれば、古く擦り切れたものもある。
慈善局の担当官が言った。
「こちらは、舞踏会の寄付で新しい毛布を入れる予定でしたね」
院長の顔が少し硬くなる。
「新しいものは必要です。ですが、全部を入れ替えるのは待っていただきたいのです」
リディアは頷いた。
「以前も、そう伺いました」
「子どもによっては、古い毛布を手放せません。匂いがあるから眠れる子もいます。見た目は悪いかもしれませんが……」
「見た目で判断しません」
リディアははっきり言った。
院長の表情が、少しだけほどける。
「ありがとうございます」
職人が窓枠を確認し、顔をしかめた。
「これは毛布より先に窓ですね。隙間風が入りすぎる。内側に簡易の二重板をつけるだけでも違います」
リディアは窓に近づいた。
手袋越しでも、冷気がわかる。
南区の窓は、毛布より先に冷えていた。
その言葉が、自然と胸に浮かんだ。
「では、優先順位は窓枠修繕」
リディアは言った。
「毛布は不足分だけ追加。古い毛布は、子どもが望む限り残す。洗濯と補修支援をつけましょう」
慈善局担当官が少し驚いた顔をした。
「古い毛布の補修ですか」
「はい。新しいものを配るだけが支援ではありません」
リディアは寝台の上の古い毛布を見た。
擦り切れた端が、何度も握られて丸まっている。
「誰かが安心して眠るために必要なものなら、直して使える形にすることも支援です」
院長は、何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
その姿を見て、リディアは胸が少し痛んだ。
きっと、何度も説明してきたのだろう。
古いものを捨てないでほしい。
見た目ではなく、子どもの安心を見てほしい。
だが、慈善の場では新しいものを配るほうがわかりやすい。
寄付者も満足しやすい。
写真映えする。
噂にもなる。
しかし、子どもの眠りは、そこにはない。
リディアは記録票に目を落とした。
ここでも、名前は書かない。
どの子がどの毛布を手放せないかは、院長と世話係が知っていればいい。小冊子に載せる必要はない。
ただし、支援項目としては残す。
古毛布補修。
窓枠修繕。
簡易二重板。
床板補修。
拾った枝や葉を飾る棚。
それらは、どれも派手ではない。
けれど、この孤児院には必要だった。
調査の途中で、子どもたちの声が聞こえてきた。
廊下の向こうで、小さな足音が止まる。
リディアが振り返ると、半開きの扉から二人の子どもがこちらを見ていた。一人は六歳ほどの男の子、もう一人は少し年上の女の子だ。
院長が軽く眉を上げる。
「こら、覗かないの」
子どもたちは慌てて隠れようとしたが、リディアはしゃがんで目線を低くした。
「こんにちは」
二人は、扉の陰から少しだけ顔を出した。
「お客さん?」
男の子が尋ねる。
「ええ。でも、今日はあなたたちを見に来たのではなく、窓や床を見に来ました」
「窓?」
「寒いところを直すために」
男の子はきょとんとし、それから寝室の方を指さした。
「あっちの窓、夜になると鳴るよ」
「鳴る?」
「ぴゅうって」
女の子が補足する。
「風が入るの。院長先生が布を詰めてくれるけど、朝には落ちてる」
職人がすぐにメモを取る。
「寝室奥の窓ですね。後で見ます」
リディアは子どもたちへ微笑んだ。
「教えてくれてありがとう」
女の子は少し迷ってから、リディアの髪のブルースターを見た。
「その花、本物?」
「ええ」
「青い花、珍しい」
「好き?」
「うん。でも、ここは寒いから枯れちゃうかも」
その言葉に、セシリアがふっと表情を和らげた。
「枯れにくい場所を探すのも、花の仕事なの」
女の子はセシリアを見る。
「お姉さん、花の人?」
セシリアは一瞬だけ驚き、それから小さく笑った。
「そうね。今日は花の人として来ました」
「じゃあ、枝の棚も作って」
「え?」
「拾った枝、置くところがないの。窓に置くと落ちる」
セシリアは、真剣な顔で頷いた。
「作れるように、お願いしてみます」
子どもは満足したように頷き、男の子と一緒に走って行った。
院長が少し慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません。勝手に」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「大切なことを聞けました」
セシリアは、帳面に“枝の棚”と大きく書き込んでいた。
その字を見て、リディアは思った。
南区の支援は、きっとこの棚から始まる。
窓枠や床板と同じくらい、子どもたちが拾ったものを置ける場所も大事なのだ。
調査を終えた頃には、外の空は薄く曇っていた。
孤児院の玄関で、マリベル院長がリディアたちを見送る。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。正式な修繕案は、職人と慈善局でまとめてからお送りします」
「子どもたちを並ばせずに済んだことに、まず感謝します」
その言葉に、リディアは胸が少し重くなった。
感謝されるべきことではないはずだ。
けれど、この人はそれを何度も守ってきたのだろう。
「今後も、それは求めません」
リディアは言った。
「必要なのは、子どもたちの姿を見せることではなく、建物と暮らしの状態を正しく見ることです」
院長は、静かに頷いた。
馬車へ戻る途中、セシリアがぽつりと言った。
「私、花を置くことしか考えていませんでした」
リディアは隣を歩きながら、彼女を見る。
「でも、置かない判断をしました」
「はい。でも……少し怖かったです。せっかく持っていくはずだった鉢植えを、置かないと言うのは」
「よい判断でした」
リディアは言った。
「その場所に合わない支援をしないことも、仕事です」
セシリアは、何かを受け取るようにゆっくり頷いた。
「花の人として、今日は少しだけ役に立てたでしょうか」
「ええ。枝の棚は、あなたが気づいた支援です」
セシリアは目を伏せた。
嬉しそうで、少し泣きそうだった。
「では、泣くのは帰ってからにします」
「それは私の周りで流行っているのですか?」
リディアが言うと、セシリアは小さく笑った。
「たぶん、リディア様発です」
二人は馬車の前で少しだけ笑った。
宰相家へ戻ると、アルベルトが執務室で報告を待っていた。
リディアは、南区第三孤児院の優先項目を読み上げた。
「窓枠修繕、簡易二重板、床板補修、毛布不足分の追加、古毛布の補修、枝や葉を飾る棚」
アルベルトは最後の項目で少しだけ眉を動かした。
「枝や葉を飾る棚?」
「はい。子どもたちが拾ってきたものを置く場所です」
「誰の案だ」
「セシリア様と、子どもたちです」
アルベルトは少し考え、頷いた。
「悪くない」
「旦那様の“悪くない”が出ました」
「必要な場所を作る支援だ。高額ではないが、意味はある」
「はい」
「小冊子には載せるな」
リディアは少し驚いた。
「なぜそう思われますか」
「感動話にされる」
即答だった。
リディアは静かに頷いた。
「私もそう思いました。正式記録には残します。でも、次の寄付呼びかけでは窓枠と床板を中心にします」
「それでいい」
セシリアの名も、枝の棚の仕事として記録には残す。
けれど、子どもたちの言葉を感動の飾りにはしない。
ここでも線が必要だった。
その夜、リディアは温室で今日の記録を読み返していた。
南区の窓は、毛布より先に冷えていた。
その一文を、調査記録の冒頭に書いた。
詩的すぎるかもしれない。
だが、そのあとには具体的な修繕項目と費用を書く。
美しい言葉だけで終わらせない。
それが、今の彼女のやり方だった。
アルベルトが温室へ来て、リディアの手元を見た。
「休むと言ったはずだ」
「これは今日の記録を少しだけ」
「少しだけ、は信用しない」
「……では、ここで終わります」
リディアは素直に紙を閉じた。
アルベルトが少しだけ意外そうにする。
「本当に終わるのか」
「成長しましたので」
「そうだったな」
彼の口元が、ほんのわずかに緩む。
リディアはその顔を見て、胸の奥がまた静かに温かくなった。
「旦那様」
「何だ」
「南区は、火でも橋でもありませんでした」
「ああ」
「でも、確かに灯りが必要な場所でした。窓の隙間を塞ぐことも、床板を直すことも、子どもが拾った枝を置く棚も……どれも、冬を越すための灯りになるのですね」
アルベルトは静かに聞いていた。
「そういう灯りを、見落とさないようにしたいです」
「見落とさないためには、休め」
「そこで戻りますか」
「疲れると見落とす」
真顔だった。
リディアは少し笑い、膝の上で手を重ねた。
「はい。休みます」
外は寒い。
北区では火が灯り、東区では橋の上に手灯りが揺れ、南区では窓の隙間からまだ冷たい風が入っている。
けれど、もう見えている。
なら、次は直せる。
リディアはそう思いながら、温かい茶を一口飲んだ。




