第85話 足りなかった薬湯の頁に、咳をしていた子の名前は書かない
薬湯支援が足りない。
その数字は、翌朝になってもリディアの頭の片隅に残っていた。
舞踏会全体としては、成功と言ってよかった。薪も灯具も外套も、想定以上の支援が集まった。橋番の夜食に至っては、セシリアの小麦の穂の印が効いたのか、初期運用分としては十分すぎるほどだった。
けれど、薬湯だけが足りなかった。
集計表の中では、ただの一項目だ。
目標額未達。
追加募集必要。
そう書かれているだけなら、冷静に対処できる。
だがリディアの中で、それはただの不足額ではなかった。
東区の橋を渡ったミナの咳。
北区の灯火所で、両手を火にかざしながら温かい湯を待つ老人。
施療院で、冷えた体を少しずつ戻すために差し出される湯気。
それらが、数字の向こうに見えてしまう。
だからこそ、扱いを間違えてはいけない。
可哀想な子どもの咳を前面に出せば、寄付は集まるかもしれない。
寒さに震える老人の話を美しく語れば、貴婦人たちは涙を浮かべるかもしれない。
でも、それは違う。
支援を受ける人を、感動の飾りにしない。
舞踏会でセシリアが言ってくれた言葉を、リディアは今もはっきり覚えていた。
作業室の机には、小冊子の追加案が広げられている。
薬湯の頁だけを抜き出し、追加配布できる小さな紙にする予定だった。舞踏会に来た貴族たちへ後日届けるものだ。茶会や個別訪問の際にも使える。
オスカーが、最初の案を読み上げた。
「薬湯支援。対象、北区冬の灯火所、東区施療院、南区孤児院調査後の暖房支援先。用途、夜間冷え込み時の体温回復、軽度の咳、疲労時の補助。必要物資、乾燥薬草、蜂蜜、湯沸かし燃料、保管瓶」
「説明としては正しいです」
リディアは言った。
「でも、少し硬いですね」
「はい。読まれにくいと思います」
オスカーも素直に認めた。
実務としては十分だ。
けれど、寄付を呼びかける紙としては、あまりに帳簿に近い。
リディアは紙面を見つめた。
薬湯。
言葉としては地味だ。
薪や外套のように、見ただけで寒さを防ぐものだとわかりやすいわけでもない。灯具のように、夜を照らす絵にもなりにくい。
しかも薬湯は、病と結びつく。
強く訴えれば、簡単に「哀れな病人」の物語になってしまう。
それは避けたかった。
「セシリア様からの返事は?」
「今朝届いております」
ハロルドが盆の上に封書を載せて入ってきた。
リディアは受け取り、封を切る。
中には、薬草の葉の印を修正した図案が三つ入っていた。
一つ目は、薬草の葉に小さな湯気を添えたもの。
二つ目は、薬草の葉とカップを組み合わせたもの。
三つ目は、葉の根元に小さな丸い実を描き、蜂蜜を連想させる柔らかな印にしたもの。
添えられた手紙には、セシリアらしい丁寧な字が並んでいた。
――薬草の葉だけでは、少し冷たく見えるのかもしれません。
湯気を添えると温かさが出ますが、絵が少し説明的になります。
カップを入れると用途はわかりやすいですが、花印の統一感は弱くなります。
蜂蜜を思わせる実を入れる案は柔らかいですが、薬湯だと気づかれにくいかもしれません。
リディア様の小冊子の言葉と合わせて、どの印がよいか決めたいです。
それから、薬湯の支援について、私は「病の人へ」ではなく「冷えた体を戻すため」と書いたほうがよいと思いました。
病を前に出すと、読む方は心を動かされるかもしれません。でも、飲む方が弱い人のように扱われてしまう気がします。
リディアは、その最後の一文をしばらく見つめた。
飲む方が弱い人のように扱われてしまう。
セシリアは、そこに気づいたのだ。
花を扱う人だからこその感覚なのかもしれない。香りの強い花が施療院で負担になるように、強すぎる言葉も受け取る人を傷つけることがある。
「セシリア様は、よく見ていますね」
リディアが言うと、オスカーが図案を覗き込んだ。
「実務的にも、その視点は重要です。薬湯を“病人向け”に寄せすぎると、灯火所で飲む人が受け取りにくくなるかもしれません」
「ええ。灯火所で飲む薬湯は、病人だけのものではありません。冷えた人、疲れた人、眠る前に体を戻したい人のためのものです」
リディアは三つの印を並べた。
「湯気を添えた葉がよいと思います。温かさが伝わる。でも、カップを大きく入れすぎないほうがよいですね。薬草の葉の印としての統一感は残したいので」
「では、一つ目を採用して、湯気の線を少し細くしますか」
「はい」
リディアは手元の紙に、追加案の最初の一文を書いた。
――薬湯は、病を飾るためのものではありません。
寒い夜に冷えた体を戻し、次の朝へ向かう力を少し支えるものです。
書いてから、少し強すぎるかと思った。
だが、消さなかった。
オスカーが読み、静かに頷いた。
「奥様らしい文です」
「硬すぎない?」
「硬さではなく、線があります」
線。
最近、その言葉を聞くたび、リディアは少しだけ背筋が伸びる。
これは守るための線だ。
支援を受ける人を飾りにしない。
薬湯を、哀れみの道具にしない。
必要なものとして、正しく届ける。
「次に、具体的な使い道を」
リディアは続けて書いた。
――北区では、灯火所へ来た人が眠る前に体を温めるために。
東区では、雨の橋を渡って施療院へ来た人の冷えを戻すために。
南区では、暖房修繕が終わるまでの間、子どもたちの夜の冷えを和らげるために。
薬湯は、火や外套ほど目立ちません。
けれど、冷えた体の内側へ届く灯りです。
最後の一文を書いた瞬間、リディアはペンを止めた。
冷えた体の内側へ届く灯り。
少し詩的すぎるだろうか。
ファーネル侯爵夫人なら、この言葉を美しく利用しようとするかもしれない。
けれど、薬湯の意味を伝えるには悪くない気もした。
オスカーは紙面を見て、少し考えた。
「よいと思います。ただし、その後に必要量と用途をすぐ載せましょう。美しい文だけで終わらせないために」
「そうですね」
リディアは頷いた。
美しい言葉のあとには、必ず用途を書く。
それが、今の自分たちのやり方だった。
午前の終わり頃、アルベルトが作業室へ入ってきた。
彼は薬湯の追加案を読み、すぐに言った。
「悪くない」
「旦那様の“悪くない”は、今日はどの程度ですか」
「かなりいい」
リディアは思わず顔を上げた。
アルベルトは平然としている。
「……珍しく、はっきりおっしゃいましたね」
「必要だろう」
「必要?」
「君が迷っていた顔をしていた」
本当に、よく見ている。
リディアは少しだけ頬が熱くなった。
「少し詩的すぎるかと思いました」
「その直後に用途と必要量がある。問題ない」
「そうですか」
「ああ。薬湯は地味だ。多少、言葉で温度をつけたほうがいい」
温度をつける。
その表現が、リディアの胸に残った。
「旦那様も、そういう言い方をなさるのですね」
「何がだ」
「温度をつける、なんて」
「事実だ」
「はい」
また、事実。
けれど少しだけ柔らかい事実だった。
アルベルトは図案を見た。
「セシリアの修正か」
「はい。薬草の葉に湯気を添える案にしようかと」
「わかりやすい」
「セシリア様は、薬湯を“病の人へ”ではなく“冷えた体を戻すため”と書いたほうがよいと」
「成長したな」
「また、上からです」
「評価だ」
「褒めているのですね」
「ああ」
リディアは小さく笑った。
「セシリア様に伝えます。旦那様が褒めていたと」
「言い方を変えろ」
「どのように?」
「宰相閣下も実務上有効と評価していた、と」
「結局、旦那様らしいです」
アルベルトは少しだけ視線を外した。
その顔に、リディアはまた胸がふっと温かくなる。
午後、リディアはセシリアを宰相家へ招いた。
王宮で話してもよかったが、今回は小冊子の文面を落ち着いて詰めたかった。それに、セシリアが宰相家へ来るのは初めてだった。
少し前なら考えられないことだった。
王太子のそばにいた令嬢を、自分の屋敷へ招く。
しかも仕事の相談のために。
けれど今は、不思議とそれほど怖くなかった。
もちろん緊張はある。
だが、それは過去の傷だけではなく、仕事の相手を迎える緊張だった。
セシリアは、エマに案内されて作業室へ入ってきた。
淡い若草色の外出着。手には図案帳。少し緊張した顔で、けれどきちんと礼をした。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「来てくださってありがとうございます。こちらへ」
リディアは机の上に薬湯の追加案を広げた。
セシリアは椅子に座る前に、部屋を少しだけ見回した。
「ここが、リディア様のお仕事部屋なのですね」
「はい。正確には、皆の仕事部屋ですが」
書類棚。地図。記録票。小冊子。花印の試し刷り。
華やかなものは少ない。
セシリアは、目を輝かせるわけでも、退屈そうにするわけでもなく、静かに言った。
「思っていたより、温かい部屋です」
リディアは少し驚いた。
「温かい?」
「はい。紙ばかりなのに」
セシリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「変な言い方ですね」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「嬉しいです」
作業室が温かいと言われるとは思わなかった。
でも、そう見えたのなら嬉しかった。
この部屋には、北区の火も、東区の橋も、南区の窓も、そしてセシリアの花印もある。紙ばかりだが、それぞれが誰かの夜へ繋がっている。
温かい部屋。
そう言われても、少し不思議ではないのかもしれない。
二人は薬湯の頁を確認した。
セシリアは、リディアの書いた一文を何度も読んだ。
「冷えた体の内側へ届く灯り……とても好きです」
「詩的すぎませんか」
「いいえ。でも、その下に必要量があるから、飾りの言葉だけになっていません」
セシリアは指先で紙面をなぞる。
「リディア様の言葉は、綺麗でも逃げませんね」
その言葉に、リディアは少し胸を突かれた。
「逃げない?」
「はい。綺麗な言葉って、ときどき何も見ないために使われる気がします。大変ですね、可哀想ですね、感動しますね、と言って、それで終わってしまうような」
セシリアは少しだけ目を伏せた。
「私も、そういう言葉を使っていたと思います」
「私もです」
リディアは静かに言った。
セシリアが顔を上げる。
「私も、王宮で正しい言葉を使って、見ないようにしていたことがありました。自分の苦しさも、誰かの苦しさも」
少しの沈黙が落ちた。
二人の間に、過去の影が通り過ぎる。
けれど、それは以前のように鋭く二人を切り裂くものではなかった。
セシリアは、小さく頷いた。
「では、この頁は逃げない言葉にしましょう」
「はい」
二人で、薬湯の印を決めた。
薬草の葉に、細い湯気を三本。
色は淡い緑と薄い灰。
目立ちすぎず、しかし温かさが伝わるように。
説明文には、個人名を出さない。
ミナの名も出さない。
誰かの咳を物語にしない。
ただ、必要な場面を具体的に書く。
――雨の夜、橋を渡ってきた人へ。
――灯火所で体を温める人へ。
――修繕を待つ部屋で、冷えを抱える人へ。
そこまで決めたとき、セシリアがふと尋ねた。
「リディア様は、どうして個人のお名前を出さないのですか」
リディアは少しだけ考えた。
「名前を出せば、読む人は覚えやすいでしょう。ミナという女の子が咳をしていた、と書けば、きっと心を動かす人もいます」
「はい」
「でも、ミナは寄付を集めるための名前ではありません」
リディアは静かに言った。
「彼女は、橋を渡った一人の子です。私たちは彼女の咳から必要な支援を学びました。でも、彼女の名前を社交界の感動のために使うべきではないと思います」
セシリアは、しばらく黙っていた。
それから、深く頷いた。
「名前を守るのですね」
「はい」
「リディア様も、ご自分の名前を守っていらっしゃいますものね」
不意にそう言われ、リディアは息を止めた。
セシリアは慌てたように手を振る。
「すみません。踏み込みすぎました」
「いいえ」
リディアはゆっくり息を吐いた。
「その通りです」
自分の名を、家の功績に変えさせない。
支援を受ける人の名を、感動の飾りにしない。
同じ線だった。
「名前は、大切です」
リディアは言った。
「表に出すべき名前もあります。仕事をした人の名前は、消してはいけない。でも、守るために出さない名前もあります」
セシリアは、静かにその言葉を聞いていた。
「難しいですね」
「はい。とても」
「でも、リディア様はそれを見ようとしている」
「まだ、間違えるかもしれません」
「そのときは、直せばよいのですよね」
セシリアがそう言った。
リディアは少し驚き、そして微笑んだ。
「ええ。直せばいいのです」
誰かの言葉が、別の人の口から返ってくる。
それは、不思議なことだった。
自分が少しずつ覚えたことが、セシリアにも渡っている。
そしてセシリアの花の知識が、リディアの小冊子を支えている。
そうやって、灯りは少しずつ広がるのかもしれない。
夕方、セシリアが帰ったあと、リディアは完成した薬湯の追加案をアルベルトへ見せた。
彼は静かに読み、最後に頷いた。
「通せ」
「このままで?」
「ああ」
「財務は」
「必要量が明記されている。問題ない」
「貴婦人たちは読んでくださるでしょうか」
「読む者は読む。読まない者には、花印が効く」
「セシリア様の印ですね」
「ああ」
アルベルトは紙面を机に置いた。
「名前を出さない判断もいい」
リディアは顔を上げた。
「そこまでおわかりに?」
「ミナのことを書きたい誘惑はあっただろう」
見抜かれていた。
リディアは小さく頷く。
「はい。でも、書きませんでした」
「正しい」
その一言で、胸の奥が静かに落ち着いた。
「名前を守るために出さないこともある、とセシリア様に話しました」
「そうか」
「仕事をした人の名前を消さないことと、支援を受ける人の名前を守ること。どちらも必要なのですね」
「そこがわかったなら、次の段階に進める」
「次の段階?」
リディアが尋ねると、アルベルトは別の書類を取り出した。
「南区の調査日程だ」
また次が来た。
リディアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑ってしまった。
「旦那様、本当に余韻を長くは持たせませんね」
「余韻で窓は直らない」
「その通りです」
だが、嫌ではなかった。
薬湯の頁ができた。
次は南区の窓。
灯りは、止まらない。
ただし、休みながら進める。
そのことも、今のリディアは少しだけ覚えている。
「南区の前に、今日はもう休め」
アルベルトが言った。
リディアは書類へ伸ばしかけた手を止めた。
「まだ何も」
「見ようとした」
「……顔に出ましたか」
「手に出た」
リディアは自分の手を見た。
確かに、書類へ向かっていた。
「今日は、薬湯の追加案を仕上げた。十分だ」
「はい」
素直に頷く。
すると、アルベルトが少しだけ目を細めた。
「素直だな」
「成長しましたので」
リディアが少しだけ得意げに言うと、アルベルトは一瞬黙った。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「そうだな」
その顔を見て、リディアの胸はまた少しだけ跳ねた。
温室へ向かう途中、エマが温かい茶を用意してくれた。
薬湯ではなく、香りの柔らかな茶。
リディアはカップを受け取りながら、ふと思った。
薬湯の頁には、ミナの名前を書かなかった。
けれど、リディアの中には、その子の咳が残っている。
名前を守ることと、忘れないことは違う。
忘れない。
でも、晒さない。
その線を、これからも大切にしなければならない。
温室では、ブルースターが静かに咲いていた。
リディアは長椅子に座り、茶を飲んだ。
外はもう暗い。
北区では今夜も火が灯る。
東区の橋には手灯りが置かれる。
そして近いうちに、薬湯の追加支援がそこへ届く。
湯気は、灯りほど目立たない。
けれど、冷えた体の内側へ届く。
それはたぶん、人の言葉も同じなのだ。
誰かの名前を守る言葉。
誰かの仕事を消さない言葉。
誰かに休めと言う言葉。
誰かの手を取っていいか尋ねる言葉。
目立たなくても、内側へ届くものがある。
リディアは、そっとカップを包んだ。
薬湯の不足は、まだ解決していない。
でも、次に届けるための頁はできた。
それは小さな前進だった。




