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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第84話 泣いた翌朝、灯りは数字になって戻ってきた

 翌朝、リディアはいつもより少し遅く目を覚ました。


 窓の外は、冬らしい薄い光に包まれていた。夜のあいだに雪は降らなかったらしい。庭の木々は濡れておらず、ただ枝先だけが白く冷えている。


 体は重かった。


 舞踏会の疲れが、肩と背中と足に残っている。踊ったからだけではない。立ち、話し、笑い、父と向き合い、妹と手を取り、泣いた。


 泣いた。


 そのことを思い出した瞬間、リディアは寝台の中で少しだけ頬を熱くした。


 馬車の中で泣いた。

 温室でも、少し泣いた。

 そして最後には、アルベルトの手を自分から求めた。


 ――今は、私が望んでいます。


 自分で言った言葉が、朝の静けさの中で妙にはっきり蘇る。


 リディアは布団を少し引き上げ、顔を半分隠した。


 恥ずかしい。


 けれど、後悔はなかった。


 昨夜の涙は、みっともなさではなかった。

 少なくとも今は、そう思えた。


 扉の向こうから、控えめな声がした。


「奥様、お目覚めでしょうか」


「ええ」


 返事をすると、エマが静かに入ってきた。


 いつも通りの穏やかな表情だったが、手には温かい湯と柔らかな布が用意されている。


「おはようございます、奥様」


「おはよう、エマ」


「目元を少し冷やしましょうか」


 あまりにも自然に言われ、リディアは固まった。


「……そんなに?」


「ほんの少しでございます」


「その“ほんの少し”は、優しさで薄めた表現かしら」


「奥様がお望みなら、正確に申し上げます」


「いいえ、ほんの少しでお願いします」


 エマの目元が、わずかに和らいだ。


 冷たい布を目元に当てると、じんわりと気持ちよかった。


「昨夜は、お休みになれましたか」


「ええ。思ったより眠れたわ」


「それはようございました」


 エマは心底ほっとしたように言った。


 リディアは布を押さえたまま、小さく息を吐く。


「泣いたからかもしれないわ」


「泣くのは、体にも心にも必要なことがございます」


「そうね。昨日、少しわかった気がする」


 以前なら、涙は失敗だった。


 王宮で泣くなど論外。

 侯爵家で泣けば、弱さとして扱われる。

 王太子妃候補として涙を見せるなら、それは美しい場面でなければならない。


 けれど昨夜の涙は、誰かに見せるためのものではなかった。


 自分が自分のために流した涙だった。


 それを許されたことが、まだ少し不思議だった。


「旦那様は?」


「すでに執務室にいらっしゃいます。ですが、朝食は奥様がお起きになるまで待つと仰せでした」


 リディアは布を外した。


「待つと?」


「はい」


「お忙しいのに」


「旦那様にとって、奥様が朝食を取られるかどうかも重要なお仕事なのでしょう」


「エマまで、旦那様のようなことを言うのね」


「屋敷の方針でございますので」


 さらりと言われ、リディアは少し笑ってしまった。


 その笑いで、胸の奥の恥ずかしさも少しやわらいだ。


 身支度を終え、小食堂へ向かうと、アルベルトはすでに席に着いていた。


 手元には書類がある。だが、リディアが入るとすぐに閉じた。


「おはようございます」


「ああ」


 いつも通りの短い返事。


 だが、視線はまずリディアの目元へ向いた。


「腫れは引いたな」


 最初の一言がそれだった。


 リディアは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑う。


「おはようの次が、それなのですね」


「重要だ」


「エマにも冷やされました」


「正しい判断だ」


「屋敷中が旦那様の方針で動いています」


「悪いことではない」


 真顔で言われると、反論しづらい。


 リディアは席に座り、用意されたスープを見た。量はいつもより少し控えめだ。昨夜の疲れを考えて、マーサが調整してくれたのだろう。


 この屋敷では、誰かが自分の状態を見ている。


 以前なら、それを怖いと思ったかもしれない。

 今は、少しだけ安心する。


「眠れたか」


「はい。思ったより」


「ならいい」


 短い言葉。


 そのあとに、ほんの少し沈黙が落ちた。


 リディアは匙を取ったが、すぐには口に運べなかった。


 昨夜のことを、どう話せばいいのかわからない。


 泣いたこと。

 手を取ってほしいと言ったこと。

 幸せだと言ったこと。


 全部覚えている。


 たぶん、アルベルトも覚えている。


 けれど彼は、それを朝から持ち出す人ではなかった。


 リディアが食事を始めるのを待ち、ただ静かに自分の茶を飲んでいる。


 その距離が、ありがたくもあり、少しだけもどかしくもあった。


「旦那様」


「何だ」


「昨夜は……ありがとうございました」


 言ってしまうと、思ったより声が小さくなった。


 アルベルトはカップを置いた。


「礼を言われることではない」


「そう言われると思いました」


「なら言わなくてもよかったのでは」


「言いたかったのです」


 いつものやり取り。


 けれど今日は、少しだけ違う響きがあった。


 アルベルトは一拍置いて、低く言った。


「なら受け取る」


 リディアは顔を上げた。


「受け取ってくださるのですか」


「ああ。君が言いたいなら」


 胸が、じんわりと温かくなる。


「ありがとうございます」


「二度目だ」


「これは、受け取ってくださったことへのお礼です」


「増えるな」


 思わず笑ってしまった。


 アルベルトの口元も、ほんのわずかに緩んだ。


 それだけで、昨夜のことを彼が困った記憶として閉じていないのだとわかる。


 朝食の途中、ハロルドが控えめに入ってきた。


「旦那様、奥様。慈善局より、昨夜の正式集計第一報が届いております」


 リディアの手が止まる。


 アルベルトはすぐに言った。


「食後でいい」


 ハロルドが一礼する。


「かしこまりました」


 リディアは思わずアルベルトを見る。


「今、確認しなくてよろしいのですか」


「食事中だ」


「でも」


「数字は逃げない。君の食事は逃げる」


「逃げる?」


「冷める」


 あまりにも真面目な顔で言うので、リディアはまた笑いそうになった。


 けれど、確かにそうだ。


 以前なら、正式集計と聞いた瞬間に朝食を中断していただろう。自分の体より、仕事を優先したはずだ。


 今は、止めてくれる人がいる。


 そして、自分でも少し止まれるようになっている。


 リディアはスープを口に運んだ。


「食べてから確認します」


「そうしろ」


 朝食を終えて執務室へ移ると、正式集計の第一報が机に置かれていた。


 オスカーも呼ばれている。昨夜遅くまで動いていたはずなのに、すでに仕事の顔だ。ただし、エマが彼の横にも茶を置いている。屋敷全体で、働きすぎを警戒されるようになっていた。


 リディアは集計表を開いた。


 薪支援。予想額の一・四倍。

 灯具支援。必要額達成。予備手灯り二基追加可能。

 外套支援。橋番、灯火守り、施療院夜間係へ配布可能。

 薬湯支援。目標額未達。追加募集必要。

 修繕支援。大口寄付により南区調査後の初期修繕費に充当可能。

 橋番夜食。想定額の二倍超。


 リディアは、最後の項目で目を止めた。


「橋番夜食が、本当に多いですね」


「小麦の穂の印が効いていると思われます」


 オスカーが言った。


「あと、昨夜の報告の中で橋番の冷えと交代の話が出ました。支える側を支える、という言葉が何人かの夫人の間で使われていたようです」


 支える側を支える。


 リディアはその言葉をゆっくり受け止めた。


 北区で学んだことだ。

 火を守る人が倒れれば、火は続かない。


 それが舞踏会の中で、少しだけ他の人の言葉になっている。


「薬湯が足りませんね」


 リディアは表を見ながら言った。


「はい。華やかさに欠ける項目ですから」


 オスカーの言葉は現実的だった。


「薬湯は必要ですが、寄付者には少し伝わりづらい。薪や灯具、外套は想像しやすいのですが」


「薬湯の頁を、もう少し具体的にしましょう」


 リディアは言った。


「どのような人が必要とするのか。寒い夜に体を温めるだけでなく、咳の子どもや高齢者にも使われること。施療院と灯火所の両方で必要なこと」


「追加小冊子ですね」


「はい。ただし、煽るような書き方はしないでください。可哀想だから寄付を、ではなく、必要だから支援を」


 オスカーが頷く。


「承知しました」


 アルベルトが集計表の下部を指で示した。


「ファーネル侯爵夫人の寄付は灯具へ入っているな」


「はい。予備手灯りと雨覆い修正に」


「名の扱いは」


「用途別記録に、他の支援者と同じ形式で記載されています」


「それでいい」


 アルベルトは短く言った。


 リディアは父の名前も確認した。


 フォルセイン侯爵家。

 薪支援、灯具補修費、外套。


 そこに、後援という文字はない。


 特別な飾りもない。


 ただ、用途別記録の中に、他家と同じように記載されている。


 それを見た瞬間、リディアの胸に静かな実感が湧いた。


 自分の線は、紙の上にも残った。


「フォルセイン侯爵家の記載、このままでお願いします」


「はい」


 オスカーは静かに答えた。


 アルベルトは何も言わなかったが、その沈黙が肯定だった。


 集計を確認していると、セシリアからも手紙が届いた。


 短い報告だった。


 ――鉢植えの一部は、今朝すでに王宮の庭番により移送準備に入りました。施療院向けは香りの弱いもの、孤児院向けは世話が簡単なものに分けています。配送先の札もつけました。

 昨夜、橋番の夜食への寄付が多かったと聞きました。小麦の穂の印を使ってよかったです。

 ただ、薬湯が少ないとのことなので、薬草の葉の印を少し見直して、次回の案内で目に留まりやすくできないか考えます。


 リディアは読み終えて、思わず微笑んだ。


「セシリア様も、次の改善を考えているようです」


「働くようになったな」


 アルベルトが言った。


「旦那様、その言い方では」


「褒めている」


「わかっていますが、もう少し」


「役割を持った人間は強い」


 その言葉に、リディアは静かに頷いた。


 セシリアは、もう花を贈るだけの人ではない。

 花を役割に変え、印を改善し、現場へ残すことを考える人になりつつある。


 それは小さな変化ではなかった。


「返信を書きます。薬湯の印についても相談したいので」


「午後にしろ」


 アルベルトが即座に言う。


「なぜですか」


「朝から集計を見た。次は休憩だ」


「まだ疲れているように見えますか」


「見える」


 迷いがない。


 リディアは反論しようとして、やめた。


「……では、午前中は短く休みます」


「短く?」


「長く休むと、午後の仕事が」


「一刻は休め」


「一刻も?」


「最低だ」


 オスカーが横で真剣に頷いた。


「奥様、私もそのほうがよいと思います」


「オスカーまで」


「昨夜の奥様は、相当お疲れでしたので」


 エマも、当然のように茶器を片づけながら言う。


「温室の長椅子に膝掛けを用意しております」


 すでに準備されていた。


 リディアは完全に囲まれていることを悟った。


「皆、手際がよすぎます」


「奥様が逃げる前に整えるのが肝要ですので」


 エマの穏やかな声に、アルベルトが短く頷いた。


 リディアは少しだけ悔しく、けれど嬉しくもあった。


「わかりました。休みます」


 温室へ行くと、長椅子には柔らかな膝掛けが置かれていた。


 ブルースターは、昨夜と同じように静かに咲いている。朝の光を受けると、夜とは違う淡さがあった。


 リディアは長椅子に座り、膝掛けをかけた。


 何もしない時間。


 少し前なら、それが苦手だった。


 けれど今日は、ただ疲れていた。


 目を閉じると、昨夜の場面がゆっくり浮かぶ。


 王妃の挨拶。

 ファーネル夫人の笑み。

 セシリアの声。

 エレノアの手。

 父の沈黙。

 母の目元。

 アルベルトと踊った曲。

 馬車の中でこぼれた涙。

 温室で幸せだと言った自分。


 恥ずかしい。


 でも、消したい記憶ではない。


 それが嬉しかった。


 しばらくして、温室の扉が静かに開いた。


「眠っているか」


 アルベルトの声。


 リディアは目を開けた。


「眠ってはいません」


「休めと言った」


「横にはなっています」


「屁理屈を覚えたな」


「旦那様に似たのかもしれません」


 言ったあと、少し自分で驚いた。


 こんな軽口が自然に出るようになるなんて。


 アルベルトも一瞬だけ黙った。


「それは問題だな」


「問題なのですか」


「私に似る必要はない」


「でも、少し似ていると言われると……嫌ではありません」


 言ってから、頬が熱くなった。


 アルベルトは視線を外した。


「そうか」


 この反応にも、少しずつ慣れてきた。

 いや、慣れたというより、好きになり始めているのかもしれない。


 その言葉は、まだ胸の奥に留めた。


 アルベルトは少し離れた椅子に座った。


「正式集計は悪くない」


「はい」


「だが、これからが面倒だ」


「わかっています」


「寄付が集まったことで、参加したがる者も増える。名前を出したがる者も、主導権を握りたがる者も出る」


「ファーネル侯爵夫人だけではない、ということですね」


「ああ」


 リディアは天井のガラス越しに空を見た。


 舞踏会が終われば、一段落すると思っていた。

 けれど実際には、灯りが広がるほど次の問題が出てくる。


 支援の名誉。

 用途の奪い合い。

 地区ごとの優先順位。

 財務の制限。

 現場の疲労。


「やることが、増えますね」


「増える」


「でも、以前ほど怖くはありません」


 リディアは静かに言った。


「昨日、たくさんの人が関わっているのを見ました。私一人ではないと、ちゃんと見えました」


 アルベルトは頷いた。


「それが見えれば、潰れにくい」


「旦那様も、いますし」


 言ってしまった。


 自分でも驚くほど自然に。


 アルベルトの視線が、リディアへ向く。


 温室の空気が少しだけ止まった。


 リディアは、逃げなかった。


「……はい。旦那様も、いてくださいます」


 もう一度、少しだけ言い直す。


 アルベルトは長く黙った。


 そして、低く答える。


「いる」


 それだけだった。


 けれど、その一言はとても重かった。


 リディアは膝掛けの端を握り、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


「ありがとうございます」


「それは、礼を言うことではない」


「また言われると思いました」


「なら」


「でも、言いたかったのです」


 アルベルトは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……受け取る」


 昨日と同じ言葉。


 リディアは小さく笑った。


 受け取ってくれた。


 自分の言葉を。


 以前は、言葉にしても届かない気がしていた。

 今は、届く人がいる。


 そのことが、何より安心だった。


 午後になって、リディアはセシリアへの返事を書いた。


 薬湯の印を少し目立たせる案。

 薬草の葉だけでは伝わりづらいなら、小さな湯気の線を添える案。

 ただし、可哀想さを煽る表現にはしないこと。

 施療院長にも確認を取ること。


 オスカーはその横で追加小冊子の構成を始め、エマは二人が長く座りすぎないよう、きっちり時間を見ていた。


 夕方には、エレノアからも短い手紙が届いた。


 ――昨夜は、手を取ってくださってありがとうございました。

 今日は少し目が腫れました。母上に冷やしていただきました。

 お姉様も、目を冷やしましたか?


 リディアはそれを読んで、思わず笑ってしまった。


 すぐに返事を書いた。


 ――冷やしました。エマに見つかりました。

 泣いた翌朝は、姉妹で似た顔をしていたかもしれませんね。


 その短い返事を書くだけで、胸が温かくなる。


 姉妹らしい手紙。


 それが少しずつ始まっている。


 夜、リディアは再び温室へ行った。


 今度は、泣くためではない。

 ただ一日を終えるために。


 アルベルトも後から来た。


「今日は泣かないのか」


 第一声がそれだった。


 リディアは思わず振り返る。


「旦那様」


「確認だ」


「確認することですか」


「昨日、帰ってから泣くと決めていただろう」


「今日は決めていません」


「ならいい」


 真面目な顔だった。


 リディアは笑いをこらえきれなかった。


 声を立てて笑うほどではない。

 でも、確かに笑った。


 アルベルトは少しだけ目を細める。


「何だ」


「旦那様は、本当に……涙まで予定で管理されるのですね」


「管理しているわけではない。把握している」


「なおさらです」


 笑いながら、リディアは胸の奥が軽くなっていることに気づいた。


 泣いた翌朝、灯りは数字になって戻ってきた。


 数字は、次の仕事を連れてきた。

 足りないものも見えた。

 面倒なことも増える。


 けれど、リディアはもうその数字を一人で抱え込まなくていい。


 支える人がいる。

 止める人がいる。

 笑わせてくれる人がいる。

 手紙をくれる妹がいる。

 花印を直すセシリアがいる。

 現場には、火を守る人と橋に立つ人がいる。


 その全てが、今のリディアの周りにある灯りだった。


「旦那様」


「何だ」


「今日は、泣かずに眠れそうです」


「それはいい」


「でも、少しだけ手を取っていただいても?」


 アルベルトは一瞬だけ黙った。


 だが、驚きは昨日ほどではなかった。


 彼はゆっくり手を差し出す。


「君が望むなら」


「望みます」


 リディアは、その手を取った。


 昨夜より少しだけ、迷わずに。


 温室の灯りが静かに揺れる。


 ブルースターの青が、夜の中で淡く浮かんでいた。


 リディアはその花を見ながら、明日からまた始まる仕事のことを考えた。


 薬湯の追加支援。

 鉢植えの配送。

 南区の修繕調査。

 父との次の対話。

 エレノアとの手紙。

 セシリアとの連携。


 やることは多い。


 けれど今夜は、少しだけ休める。


 そう思えることが、今の彼女には何より大きな成果だった。

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