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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第83話 帰ってから泣くと決めた夜

 慈善舞踏会が終わるころ、大広間の灯りは少しだけ低くなっていた。


 楽団の音も、始まりの頃ほど華やかではない。最後の曲はゆるやかで、客人たちに帰り支度を促すような、余韻を残す旋律だった。


 寄付箱の前には、まだ数人の貴族が残っている。


 薪の山茶花。

 灯具の星形の花。

 外套の綿花。

 薬湯の薬草。

 修繕の蔦と釘。

 橋番の夜食の小麦の穂。


 それぞれの印の前に置かれた封筒は、思っていたよりも多かった。特に橋番の夜食は、予想を超えていた。最初は地味な項目だと思われるかもしれないと懸念していたが、報告の中で「橋番の手が冷え、交代を短縮した」と語られたことが効いたのだろう。


 橋を支える者が倒れれば、橋は渡れない。


 その考えが、少しずつ会場の人々にも届いたのかもしれない。


「宰相夫人」


 慈善局長が、集計用の紙を持って近づいてきた。


 額には少し汗が浮いている。舞踏会の終盤とはいえ、ここからが実務担当者にとっては本番だ。寄付額の確認、用途別分類、封筒の保管、後日の正式記録。華やかな夜の裏側には、いつも紙と数字と人手がある。


「中間集計をまとめました。正式なものは明朝になりますが、今夜の時点で必要最低額は超えています」


 リディアは一瞬、言葉を失った。


「最低額を、ですか」


「はい。北区の薪補充、東区の灯具修正と外套、橋番夜食。そこまでは確実に賄えます。修繕費も大口寄付が入りましたので、南区の窓枠調査へ回せる見込みです」


 慈善局長の声には、控えめな興奮が混じっていた。


 リディアは集計表を見た。


 数字が並んでいる。


 無機質な数字。


 けれど今夜のリディアには、それが人の顔に見えた。


 寒い夜に薪をくべる灯火守り。

 橋の上で手灯りを持つ橋番。

 外套を羽織って雨を避ける人。

 薬湯を受け取る子ども。

 古い窓枠の隙間風を塞がれる孤児院。


 数字は、ただの数字ではなかった。


「よかった」


 思わず、声が漏れた。


 飾った言葉ではない。

 王宮の場で使うには、少し素朴すぎる言葉だったかもしれない。


 けれど、それしか出てこなかった。


 慈善局長は、ほんの少し笑った。


「ええ。よかったです」


 その隣で、アルベルトが集計表へ目を通す。


「薬湯がまだ弱いな」


「はい。明日以降の追加寄付募集で補います」


「小冊子の残部を茶会に回せ。薬湯の頁に印をつけて送るといい」


「承知しました」


 相変わらず、すぐ次の手を打つ。


 リディアはその横顔を見て、胸が温かくなった。


 舞踏会は成功した。


 そう言いたくなる。


 けれどアルベルトは、成功という言葉に酔わない。

 足りない項目を見る。

 次の補い方を考える。


 それが今は、頼もしかった。


「リディア様」


 セシリアが、小冊子を胸に抱えたまま近づいてきた。


 少し疲れた顔をしている。けれど目は明るかった。


「橋番の夜食が、想定以上だったそうです」


「ええ。小麦の穂の印のおかげもあります」


「本当ですか?」


「寄付箱の前で、あの印を見て足を止める方が多かったと聞きました」


 セシリアは、ぱっと顔を輝かせた。


 だが、すぐにその笑みを少し抑える。


「……嬉しいです」


 その声は、小さかった。


 リディアは微笑む。


「よい仕事でした」


 セシリアの目が潤む。


 彼女は慌てて瞬きをした。


「泣くのは、帰ってからにします」


 どこかで聞いたような言葉だった。


 リディアは思わず小さく笑ってしまった。


「私も、そうする予定です」


「リディア様も?」


「はい」


 二人は、少しだけ見つめ合った。


 過去のすべてが消えたわけではない。


 けれど、同じ夜に、同じ仕事の疲れを抱えて、帰ってから泣くと決めている。


 そのことが、不思議と二人の距離を少しだけ近づけた。


 セシリアは深く礼をした。


「今日は、ありがとうございました。私を担当として扱ってくださって」


「あなたが担当として働いたからです」


「はい」


 セシリアは、今度ははっきり頷いた。


「次も、ちゃんと働きます」


 その言葉は、可愛らしい宣言ではなかった。


 自分の役割を持ち始めた人の言葉だった。


 セシリアが王太子のもとへ戻っていくのを見送りながら、リディアは少しだけ息を吐いた。


 その背中を、エドワードが見ていた。


 彼はセシリアが戻ると、何か短く声をかけた。セシリアは小冊子を開き、花印の頁を見せている。エドワードは真剣にそれを聞いていた。


 以前なら、その光景を見るのは痛かったかもしれない。


 今も、全く痛まないわけではない。


 けれど、痛みの形が違う。


 あそこにいるのは、自分の場所を奪った二人ではない。

 それぞれが未熟さを抱えながら、ようやく相手を見ようとしている二人だった。


 リディアは、その光景から静かに目を離した。


「お姉様」


 今度は、エレノアが来た。


 母セレスティアも一緒だった。


 父の姿は、少し離れた場所にある。誰か別の侯爵と話しているようだったが、意識はこちらへ向いているのがわかった。


 エレノアは小冊子を両手で持っていた。


 表紙の端が、少しだけ折れている。何度も開いたのだろう。


「もうお帰りですか?」


「ええ。少し疲れたから」


 リディアは正直に答えた。


 エレノアは驚いたように目を見開いたあと、少し嬉しそうにした。


「お姉様が、疲れたとおっしゃった」


「変かしら」


「変ではありません。……でも、初めて聞いた気がします」


 その言葉に、リディアは胸が少し痛んだ。


 妹の前でも、疲れたと言えない姉だったのだ。


「これからは、言うようにするわ」


「はい」


 エレノアは頷き、それから少しだけ迷うように視線を落とした。


「お姉様。私も、少し疲れました」


「ええ」


「でも、嫌な疲れではありません」


 リディアは微笑んだ。


「それは、よかった」


 セレスティアが、そこで静かに口を開いた。


「リディア」


 母に名前を呼ばれるのは、久しぶりのような気がした。


 幼い頃は何度も呼ばれたはずなのに、いつからか母の声も侯爵夫人としての距離を帯びるようになっていた。


「今夜は……よく立っていましたね」


 褒め言葉だった。


 けれど、父の手紙の“認める”とは違う温度があった。


 リディアは少しだけ目を伏せる。


「ありがとうございます」


「あなたが、あのように話せるようになったことを……私は、嬉しく思います」


 セレスティアの声は微かに震えていた。


「同時に、もっと早く、あなたが苦しかったことを見られたらよかったとも思います」


 リディアは息を止めた。


 母が、そんなことを言うとは思わなかった。


 謝罪と言えるほど整った言葉ではない。

 でも、後悔があった。


 リディアはすぐには答えられなかった。


 母との間にも、まだ多くの言葉が足りない。


 けれど今夜、すべてを解く必要はない。


「母上」


 リディアは静かに言った。


「私も、まだうまく話せません」


「ええ」


「でも、また改めてお話ししたいです。家のことではなく……私たち自身のことを」


 セレスティアの目に、光が滲んだ。


「ええ。ぜひ」


 エレノアが、母の隣で小さく頷いている。


 その三人の間に、まだぎこちない空気があった。


 でも、それは悪いものではなかった。


 長い間閉じていた窓が、少しだけ開いたような空気だった。


 リディアは二人に礼をし、アルベルトとともに大広間を出た。


 廊下に出ると、王宮の空気は急に冷たく感じられた。


 大広間の熱、香水、灯り、音楽。

 それらから離れた途端、体の疲れがどっと押し寄せてくる。


 リディアは一歩、足を止めた。


「限界か」


 アルベルトが言った。


 問いというより、確認に近かった。


「……少し」


「馬車を近くへ回させる」


「歩けます」


「歩けることと、歩くべきかは別だ」


 出た。


 いつもの言い方。


 リディアは疲れているのに、少し笑ってしまった。


「では、お願いします」


 アルベルトはすぐ従者へ合図した。


 その間、リディアは壁際に置かれた椅子へ座る。


 王宮の廊下で座ることに、以前なら抵抗があった。

 人目がある。

 見苦しい。

 疲れていると知られたくない。


 そう思っただろう。


 今も少しだけ気になる。


 けれど、それ以上に足が疲れていた。


 座る。


 それでよかった。


「成長したな」


 アルベルトが言った。


 リディアは見上げる。


「座っただけで?」


「ああ」


「子どもの成長を見守るような言い方です」


「似たようなものだ」


「旦那様」


「無理をしないことを覚えるのは、大きな進歩だ」


 あまりにも真面目に言われ、返す言葉がなくなった。


 リディアは、小さく息を吐いた。


「……はい。進歩です」


「よし」


「褒め方が独特です」


「褒めている」


「わかっています」


 そう答えられるようになったことも、たぶん進歩だった。


 馬車が回されると、アルベルトはいつものように手を差し出した。


 リディアは、その手を取る前に一度だけ大広間の方を振り返った。


 遠くから、まだ音楽が微かに聞こえる。


 今夜、あの場所でいくつものことがあった。


 ファーネル侯爵夫人の仕掛けを、記録へ戻した。

 セシリアが人を飾りにしないと言った。

 父に、自分の名を家の功績へ変えられないと告げた。

 妹と手を取った。

 母と、少しだけ話せた。

 アルベルトと踊った。


 どれも大きすぎて、まだ胸の中で整理できていない。


 帰ってから泣く。


 そう決めていた。


 リディアはアルベルトの手を取った。


 馬車に乗り込むと、扉が閉まり、大広間の音が遠ざかっていく。


 王宮の灯りが窓の外を流れた。


 馬車がゆっくり動き始める。


 リディアは座席に身を預けた途端、思っていた以上に力が抜けるのを感じた。


 膝の上で両手を重ねる。


 指先は、少し冷えていた。


「寒いか」


「少しだけ」


 アルベルトはすぐ膝掛けを取った。


 手渡される前に、リディアは小さく言った。


「ありがとうございます」


「まだ渡していない」


「渡してくださると思ったので」


 アルベルトは一瞬黙った。


 それから、膝掛けを差し出す。


「よく見ているな」


「旦那様も、私をよく見ています」


「そうだな」


 否定しない。


 そのことが、今は少し嬉しい。


 膝掛けを広げると、体が少し温まった。


 馬車の中は静かだった。


 外の車輪の音。

 馬の蹄。

 遠ざかる王宮。


 リディアは窓の外を見ていたが、夜景が少し滲んで見えた。


 ああ、来る。


 そう思った。


 泣くのは帰ってからにするつもりだった。


 でも、馬車の中はもう、半分帰り道だった。


「リディア」


 アルベルトの声がした。


 リディアは答えようとして、声が出なかった。


 涙が、一粒落ちた。


 思っていたより熱かった。


「すみません」


 反射的に言ってしまう。


「謝るな」


 すぐに返ってくる。


 いつもの声。


 その声を聞いた瞬間、また涙が出た。


 止まらなかった。


 嗚咽を上げるほどではない。

 けれど、静かに、次々とこぼれてくる。


 リディアはハンカチを出そうとしたが、手が少しもたついた。


 アルベルトが自分のハンカチを差し出す。


 触れずに。

 ただ、取れる位置へ。


 リディアはそれを受け取った。


「……ありがとうございます」


「ああ」


 馬車の中で、リディアは泣いた。


 理由は一つではなかった。


 舞踏会が終わった安堵。

 寄付が届いた喜び。

 父に言えた怖さの残り。

 エレノアの手の温度。

 母の後悔を含んだ声。

 セシリアの成長。

 王太子を見ても崩れなかった自分。

 アルベルトと踊ったときの胸の温かさ。


 全部が混じって、涙になっていた。


「何の涙かわかりません」


 リディアは、ハンカチを目元に当てたまま言った。


「分けなくていい」


 アルベルトは低く答えた。


「今夜は、多すぎた」


「はい」


「多すぎたものは、整理する前にこぼれる」


 その言い方が、やはり彼らしくて。


 リディアは泣きながら、少しだけ笑ってしまった。


「旦那様は、涙まで実務的に扱われますね」


「他に扱い方を知らない」


「でも、安心します」


「ならいい」


 馬車の中の灯りが、小さく揺れる。


 リディアは深く息を吸った。


 少しずつ、涙の勢いが落ち着いていく。


「父上に言えました」


「ああ」


「怖かったです」


「ああ」


「でも、言えました」


「ああ」


「エレノアとも、話せました」


「ああ」


「母上とも、少し」


「ああ」


「セシリア様にも、ありがとうと言えました」


「ああ」


「旦那様と……踊れました」


 そこだけ、少し声が小さくなった。


 アルベルトは黙った。


 リディアはハンカチを握りしめ、顔を上げる。


「嬉しかったです」


 言ってしまった。


 涙のあとだからか、いつもより素直に言葉が出た。


 アルベルトの表情が、わずかに揺れる。


「そうか」


 低い声。


 それだけなのに、胸がまた熱くなる。


「はい」


 リディアは小さく頷いた。


「見せつけるためではなく、私が息をするためだと言ってくださったことも」


「事実だ」


「はい」


「君は、今夜ずっと息をしていた」


 その言葉で、また涙が出そうになった。


 リディアは慌ててハンカチで押さえる。


「もう泣き止んだと思ったのに」


「まだ途中だったのだろう」


「本当に、涙まで」


「実務的か」


「はい」


 少し笑う。


 泣いて、笑う。


 そんなふうに感情が行ったり来たりする自分を、以前ならみっともないと思ったかもしれない。


 けれど今は、ただ疲れているのだと思えた。


 それに、安心しているのだとも。


「旦那様」


「何だ」


「帰ったら、少しだけそばにいてくださいますか」


 舞踏会の控え席でも言ったこと。


 けれど、もう一度言いたかった。


 アルベルトは、迷わなかった。


「君が望むなら」


「望みます」


 今度は、前より少しだけはっきり言えた。


 アルベルトは黙って頷いた。


 それだけで、リディアの胸は落ち着いていく。


 宰相家へ着くころには、涙はだいぶ収まっていた。


 だが、目元はきっと赤い。


 馬車の扉が開くと、エマが玄関ホールで待っていた。


 リディアの顔を見るなり、何も聞かずに柔らかい布を差し出した。


「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま戻りました」


 声は少し掠れていた。


 エマは気づいているはずなのに、何も言わない。


「温かいお茶を、温室へお持ちいたしますか。それともお部屋へ?」


 リディアはアルベルトを見た。


 彼は、答えを急かさない。


「……温室へ」


 リディアは言った。


「少しだけ、ブルースターを見たいです」


「かしこまりました」


 温室は夜の湿った匂いがした。


 ガラス越しに見える庭は暗く、外の世界は静かだった。大広間の音楽も、香水も、人々の視線も、ここにはない。


 ブルースターだけが、淡い灯りの中で小さく咲いていた。


 リディアは椅子に座り、深く息を吐いた。


 アルベルトは少し離れた椅子に座る。


 近すぎない。

 けれど、そばにいる。


 その距離が、今夜はとてもありがたかった。


 エマが茶を置き、静かに下がる。


 温室には二人だけになった。


「泣き足りないか」


 アルベルトが尋ねた。


 あまりにも真面目だったので、リディアは少し笑ってしまった。


「もう少しだけ」


「そうか」


「でも、今は泣くより……少し、話したいです」


「聞く」


 その一言。


 リディアはカップを両手で包んだ。


「今夜、私は何度も怖かったです。でも、そのたびに……誰かがいました」


 アルベルトは黙っている。


「セシリア様が立ってくれました。エレノアが声をかけてくれました。母上も、少しだけ言葉をくれました。旦那様は、ずっと隣にいてくださいました」


「ああ」


「私は、ずっと一人で正しく立たなければいけないと思っていました」


 リディアはブルースターを見る。


「でも、今夜は違いました。一人で立つのではなく、いろいろな人の灯りを借りて立っていた気がします」


「それでいい」


「いいのですね」


「人は一人で制度を作れない。一人で夜を越すことも難しい」


 アルベルトの言葉は静かだった。


「君が見てきたことだ」


「はい」


 北区の火。

 東区の橋。

 橋番。

 灯火守り。

 施療院。

 寄付箱。

 花印。

 小冊子。


 どれも一人ではできなかった。


 リディア自身も、同じなのだ。


「旦那様」


「何だ」


「私は、今夜少しだけ……幸せでした」


 言葉にした瞬間、胸が震えた。


 幸せ。


 その言葉は、今まであまり使ってこなかった。


 王太子妃候補として認められることは、幸福のはずだった。

 侯爵家の期待に応えることも、幸福だと思わなければならなかった。

 正しくあることが、幸せに繋がると教えられてきた。


 けれど今夜感じたものは、それとは違った。


 怖くて、疲れて、泣いてしまった。

 それでも、幸せだった。


 自分の言葉で立てたこと。

 妹の手を取れたこと。

 誰かの仕事が認められたこと。

 そして、帰る場所があったこと。


 アルベルトは、長く黙っていた。


 やがて、低く言う。


「そうか」


 声が少し掠れていたように聞こえた。


 リディアは彼を見る。


 アルベルトは視線を外していた。


 その顔に、また胸が揺れる。


「旦那様」


「何だ」


「今、困っていらっしゃいますか」


「……少し」


「なぜですか」


「君が幸せだと言ったからだ」


 リディアは息を止めた。


 アルベルトは、ゆっくりこちらを見る。


「それを聞いて、私が思っていた以上に安堵した」


 言葉は静かだった。


 けれど、その奥に深いものがあった。


 リディアは胸が熱くなる。


「私は……旦那様のそばに来てから、少しずつ息ができるようになりました」


「ああ」


「今日、それが本当なのだと思いました」


 アルベルトは何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は何より雄弁だった。


 リディアは少し迷ったあと、手を差し出した。


 自分から。


 そっと。


「手を、取っていただけますか」


 アルベルトの目が、わずかに揺れた。


 彼はすぐには動かなかった。


 いつものように、リディアが本当に望んでいるのかを見ている。


 リディアは逃げなかった。


「今は、私が望んでいます」


 そう言うと、アルベルトはゆっくり手を伸ばした。


 リディアの手を包む。


 舞踏会のときと同じ手。


 けれど今は、誰も見ていない。


 見せつけるためではない。

 正しさを証明するためでもない。

 ただ、今ここにいることを確かめるための手だった。


「温かいです」


 リディアが小さく言うと、アルベルトは短く答えた。


「君の手は冷えている」


「また実務的です」


「事実だ」


「でも、安心します」


「ならいい」


 温室の灯りが、静かに揺れた。


 リディアはもう泣いていなかった。


 けれど、胸の奥はまだ少し熱い。


 その熱を、今夜は無理に冷まさなくてもいいと思った。


 舞踏会は終わった。


 でも、灯りは続いていく。


 北区にも。

 東区にも。

 セシリアの花印にも。

 エレノアとの手紙にも。

 そして、自分の中にも。


 リディアはアルベルトの手をそっと握り返した。


 帰ってから泣くと決めた夜。


 彼女はちゃんと泣いて、そして泣き終えたあと、幸せだと言えた。


 それは、リディアにとって何より大きな変化だった。

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