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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第81話 読み上げられたのは、誰かの帰り道だった

 大広間の中央に、派手な演台は置かれていなかった。


 それは王妃の指示だった。


 今夜の報告は、誰かを感動させるための芝居ではない。

 舞踏会の余興でもない。

 王都の冬に置かれた小さな灯りが、どこで、誰に、どう届いたのかを知らせるための時間だった。


 だから、演台は低く、飾りも少ない。


 その横に置かれているのは、北区の灯火所で使われた薪の見本と、東区の渡り灯で使われる手灯り。どちらも、宝石のように輝くものではない。手に取れば煤がつきそうな、実用の道具だった。


 リディアは、その手灯りを見た。


 雨の夜、橋番が足元へ向けた灯り。


 ミナが橋の中央で立ち止まり、母親と付き添いの声を聞きながら、もう一歩を踏み出したときの灯り。


 それが今、王宮の大広間に置かれている。


 不思議な光景だった。


「宰相夫人」


 進行役の慈善局長が、静かにリディアへ視線を向けた。


 最初の報告は慈善局長が読み上げる。リディアは補足を求められたときだけ話す予定だった。


 それでも、会場中の視線がこちらへ集まっていることはわかる。


 父の視線。

 ファーネル侯爵夫人の視線。

 セシリアの、緊張した視線。

 エレノアの、不安と期待が混じった視線。

 そして、すぐ隣にいるアルベルトの静かな気配。


 リディアは、胸の前で小冊子をそっと押さえた。


 大丈夫。


 そう言いかけて、心の中で少しだけ言い直す。


 大丈夫にするための準備はしてきた。


 慈善局長が、一枚目の紙を開いた。


「北区冬の灯火所。初期三十日記録の途中報告です」


 大広間のざわめきが、少しずつ静まっていく。


「北区では、寒波による夜間孤立者の増加を受け、冬の灯火所を設置いたしました。目的は、夜間に一時的に身を寄せられる場所を確保し、凍えによる体調悪化を防ぐことです」


 淡々とした声だった。


 美談にしすぎない。

 それがリディアと慈善局で何度も確認した方針だった。


「初夜利用者は二十七名。以後、日によって増減はありますが、寒波の夜には利用者が増える傾向が見られます。必要物資は薪、薬湯、毛布、簡易食。課題として、薪消費量の増加、灯火守りの冷え、夜間記録の負担が確認されています」


 小冊子を開く音が、あちこちで聞こえた。


 貴族たちが、北区の頁を見ている。


 リディアは、ほんの少し息を吐いた。


 読んでいる。

 少なくとも今、彼らは小冊子を開いている。


「灯火守りの体調欄は、宰相夫人の指摘により追加されました」


 そこで慈善局長の視線が、リディアへ向く。


 リディアは一歩だけ進み出た。


「火を守る人が倒れれば、火は続きません。利用者数だけではなく、支える側の消耗も記録しなければ、三十日後には制度そのものが疲れ切ってしまいます」


 短く、必要な分だけ。


 会場の中で、何人かが頷いた。


 リディアはすぐに下がった。


 話しすぎない。

 自分を中心にしすぎない。


 次に、慈善局長は東区の報告へ移った。


「東区渡り灯。こちらは、施療院へ続く生活橋での夜間支援です」


 その瞬間、リディアの胸の奥が少しだけ強く動いた。


 北区の火も大事だ。

 だが東区の橋は、リディアが実際に足を運び、雨の夜の報告を待った場所だった。


「東区では、川霧と雨天時の足元不安により、夜間に施療院へ向かえない者が確認されていました。北区と同じ灯火所を置くのではなく、橋の両側に灯りと橋番を置き、必要時には付き添いを行う形を採用しています」


 大広間の視線が、手灯りへ向かう。


 地味な道具だ。


 けれど、今夜はそれが主役だった。


「初夜は雨。利用者三組。引き返し一名。怪我人なし。帰路確認済み二組、一組は施療院に宿泊し翌朝帰宅。引き返した一名は、翌昼の声かけにより昼間受診を希望」


 少しだけ、会場が動いた。


 引き返した一名。


 その数字に、誰かが小さく首を傾げる。


「引き返した方も記録するのですか?」


 年配の伯爵が尋ねた。


 慈善局長が答える前に、王妃が静かにリディアを見た。


 説明しなさい、という合図だった。


 リディアは、ゆっくり前へ出た。


「はい。引き返した方も記録します」


 声は思ったより落ち着いていた。


「施療院へ到着した方だけを数えれば、支援は成功したように見えます。ですが、橋の手前まで来て戻った方がいるなら、その方にはまだ支援が届いていません」


 伯爵は、少し驚いた顔をした。


「名を聞くのですか?」


「いいえ。名は聞きません。名を聞けば、次から橋へ近づきにくくなる方もいるでしょう。年齢の目安、状況、戻った理由を、無理のない範囲で記録します。記録するのは責めるためではなく、次にどう支えるかを見るためです」


 言葉にしながら、リディアはあの女性の短い記録を思い出した。


 今日はやめる。


 その一言の中にも、理由がある。


 伯爵は、ゆっくり頷いた。


「なるほど。来た者だけを見ていては、足りぬのですな」


「はい」


 リディアは静かに答えた。


「灯りは、すでに渡れた人のためだけではありません。まだ渡れない人のためにも置くものだと思います」


 言ったあと、大広間の空気が少しだけ変わった。


 誰かが息を呑む音がした。


 それが誰なのかはわからない。


 けれど、リディアは自分の言葉が、会場のどこかへ届いたことを感じた。


 慈善局長が報告を続ける。


「また、東区では“帰路状態”の項目を追加しました。施療院到着をもって支援終了とせず、帰宅済み、宿泊判断、付き添い帰宅、翌朝確認、再診対象を印で記録します」


 今度は、グレイス伯爵夫人が小冊子を開きながら言った。


「この頁、とてもわかりやすいですわ。帰れたかどうかまで見るのですね」


「はい」


 リディアは頷いた。


「救われたのは、施療院へ向かう道だけではありません。帰り道もです」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に少しだけ熱が戻る。


 自分自身にも言っている気がした。


 帰り道。


 王宮から宰相家へ。

 父の言葉から自分の線へ。

 過去から現在へ。


 人には、帰る道が必要なのだ。


 会場の隅で、エレノアが小冊子を胸に抱いているのが見えた。


 彼女は、泣きそうな顔をしていた。


 リディアは、ほんの少しだけ視線を和らげた。


 しかし次の瞬間、ファーネル侯爵夫人が柔らかな声を上げた。


「本当に素晴らしいお話ですわ」


 大広間の空気が、少しだけ甘くなる。


 夫人はいつもの完璧な笑みを浮かべ、手にしていた扇を閉じた。


「橋を渡れた少女、帰り道まで照らされた母子。なんて胸を打つのでしょう。できることなら、そのような方々を今夜ここへお招きし、直接感謝の言葉を聞かせていただけたら、皆様の善意もさらに深まったことでしょうに」


 来た。


 リディアの指先が、小冊子の角に触れる。


 支援を受ける人を、感動の場へ連れてくる提案。


 すでに会議で退けたはずのものを、夫人は舞踏会の空気の中で、もう一度甘く差し出してきた。


 何人かの貴族が、確かに、と頷きかける。


 美しい話としては、わかりやすい。


 救われた子どもが花束を持って感謝する。

 貴族たちは涙し、寄付箱へ手を伸ばす。


 よくある慈善劇だ。


 だからこそ危うい。


 リディアが口を開く前に、セシリアが一歩前へ出た。


「ファーネル侯爵夫人」


 声は大きくなかった。


 けれど、はっきりしていた。


 リディアは思わず彼女を見る。


 セシリアの顔は緊張していた。だが、逃げてはいなかった。


「花印を作るとき、リディア様と決めたことがあります。支援を受ける方を、飾りにしないことです」


 ファーネル夫人の目が、わずかに細くなる。


「まあ、セシリア様。わたくしは飾りだなんて」


「はい。そういうつもりではないとわかっています」


 セシリアは、そこで一度息を吸った。


「でも、つもりがなくても、そう見えてしまうことがあります。花も同じです。綺麗だからといって、どこにでも置けばいいわけではありません。香りが強ければ、施療院では負担になることもあります」


 会場が静かになった。


 セシリアは続ける。


「人も、同じだと思います。感謝の言葉を聞きたいからといって、その人をここへ立たせることが、本当にその人のためになるとは限りません」


 リディアは、胸の奥が静かに震えるのを感じた。


 セシリアが言った。


 あのセシリアが。


 花を飾りにする側だった彼女が、今、人を飾りにしないと言っている。


 ファーネル夫人の笑みは少し硬かった。


「セシリア様は、本当にお優しいのね」


「優しいかはわかりません」


 セシリアは小さく首を振った。


「でも、私は今夜、花を役割の印として置いています。人を感動の印にしたくはありません」


 その言葉に、グレイス伯爵夫人がそっと頷いた。


「私も、その意見に賛成ですわ」


 ローゼン侯爵夫人も続く。


「現場報告は、ここにありますもの。小冊子と記録で十分です」


 場の流れが変わった。


 ファーネル夫人は、すぐに笑みを戻した。


「もちろんですわ。わたくしも、無理にとは申しておりませんのよ。ただ、善意が深まればと思っただけです」


「善意は、用途を選ぶことで十分に深まります」


 王妃の声だった。


 短い一言。


 それで話は終わった。


 ファーネル夫人は深く礼をした。


「王妃陛下のおっしゃる通りでございます」


 リディアは、セシリアを見た。


 セシリアは少しだけ顔色を失っていたが、立っていた。


 リディアは彼女へ、小さく頷く。


 ありがとう。


 声にはしなかった。


 けれど、セシリアはそれに気づいたようだった。


 彼女はほんの少しだけ微笑んだ。


 報告は、その後も続いた。


 南区の孤児院調査。

 古い窓枠。

 新しい毛布だけではなく、子どもたちが慣れた毛布を残す必要があること。

 西区の夜道調査が未完了であること。

 中央区では既存施設が多いため、新設より連携を優先すること。


 聞く者によって、関心は違った。


 財務に詳しい者は、予算項目を見た。

 婦人会の者は、寄付用途を見た。

 若い令嬢たちは、花印や鉢植えの配送先を見た。

 一部の老貴族は、王妃の表情を見て、この事業が一時の流行では終わらないことを悟ったようだった。


 リディアは、その全てを見ながら立っていた。


 以前なら、視線を浴びるだけで苦しかった。


 今も怖さはある。

 だが、視線の中にも種類があるとわかる。


 値踏みする視線。

 疑う視線。

 学ぼうとする視線。

 助けようとする視線。


 すべて同じではない。


 それを見分けられるようになっただけで、息が少ししやすかった。


 報告が終わり、楽団の曲が少し明るいものへ変わった。


 舞踏会らしい時間が戻ってくる。


 だが、寄付箱の前には先ほどより多くの人が集まっていた。


「薬湯へ」

「私は橋番の夜食に」

「窓枠修繕は、どの印でしたか?」

「蔦と釘ですわ」

「なるほど、これは覚えやすい」


 リディアはその様子を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


「疲れたか」


 アルベルトが隣で言った。


「少し」


「休むか」


「まだ、もう少し」


 そう答えたあと、リディアはすぐに付け加えた。


「でも、疲れたら言います」


 アルベルトは短く頷いた。


「それでいい」


 そのとき、エレノアが近づいてきた。


 父と母から少し離れ、一人で。


 白百合のようなドレスが、灯りの下で淡く光っている。


「お姉様」


 声は緊張していた。


 けれど、逃げてはいない。


「エレノア」


 リディアは、今度は妹の名をそのまま呼んだ。


 エレノアの目が少し潤む。


「報告、とても……すごかったです」


「ありがとう」


「すごい、だけでは足りないですね。ごめんなさい。うまく言えなくて」


「うまく言わなくていいわ」


 リディアがそう言うと、エレノアは驚いたように顔を上げた。


「あなたの言葉で聞きたいから」


 エレノアは、唇をきゅっと結んだ。


 それから、ゆっくり言った。


「私は、東区の引き返した方の話が残りました」


「引き返した方?」


「はい。渡れた人だけでなく、渡れなかった人を記録するというところです」


 エレノアは小冊子を胸に抱えた。


「私、ずっと……できた人だけが見られるのだと思っていました。できなかったら、記録にも残らない。家の中でも、社交でも、そう思っていました」


 リディアは、静かに聞いていた。


「でも、渡れなかった人も記録するなら……できなかったことも、次の支えになるのですね」


 その言葉に、リディアの胸が熱くなった。


 エレノアは、ちゃんと自分のこととして受け取っている。


 北区でも東区でもない。

 自分の苦しさに重ねて読んでいる。


「そうね」


 リディアは答えた。


「できなかったことを責めるためではなく、次にどう支えるかを見るために残すのだと思う」


「私も……そういうふうに、自分のことを見られるようになりたいです」


 エレノアの声は小さかった。


 リディアは、手を伸ばしたくなった。


 けれど、一瞬だけ止まる。


 触れていいのか。

 この場で、妹はそれを望むのか。


 迷ったあと、リディアは静かに尋ねた。


「手を取ってもいい?」


 エレノアの目が、大きく開いた。


 それから、泣きそうに笑った。


「はい」


 リディアは、妹の手をそっと取った。


 細い手だった。


 幼い頃、何度も繋いだはずなのに、久しぶりすぎて少しぎこちない。


「私も、あなたのことをまだよく知らないわ」


 リディアは言った。


「だから、少しずつ教えて」


「はい」


「私のことも、少しずつ話すから」


「……はい」


 エレノアの手が、ほんの少しだけ握り返してきた。


 その温度に、リディアは胸が詰まりそうになった。


 離れた場所で、父グラントがこちらを見ていた。


 その表情は読みにくい。

 苛立ちか、困惑か、あるいは別の何かか。


 けれど今、リディアは父の視線だけで妹の手を離そうとは思わなかった。


 しばらくして、エレノアは少し恥ずかしそうに手を離した。


「また、あとでお話しできますか」


「ええ」


「今度は……私の好きなものの話も」


「楽しみにしているわ」


 エレノアは小さく礼をして、母のもとへ戻っていった。


 リディアはその背を見送る。


 すると、アルベルトが静かに言った。


「よかったな」


 短い言葉。


 けれど、その声はとても柔らかかった。


「はい」


 リディアは小さく頷いた。


「よかったです」


 その直後、グラントが再びこちらへ歩み寄ってきた。


 今度は、先ほどより少し表情が硬い。


「リディア」


 父の声。


 また、娘として呼ぶ声。


 けれどリディアは、もう先ほどほど冷えなかった。


「父上」


 彼女は静かに答えた。


 グラントは一瞬、言葉に詰まったように見えた。


 父上と呼ばれたことで、逆に公私の線がはっきりしたのかもしれない。


「エレノアと、何を話した」


「東区の記録についてです」


「……あの子には難しい話だ」


 リディアは首を横に振った。


「いいえ。エレノアは、自分の言葉で受け取っていました」


 父の眉が寄る。


「あの子を、妙な方向へ引っ張るな」


 その言葉に、リディアの胸の奥で小さな火が灯った。


 怒りだった。


 でも、もう扱える怒りだった。


「父上」


 リディアは静かに言った。


「人が自分の言葉を持つことは、妙な方向ではありません」


 グラントの目が鋭くなる。


「リディア」


「私も、エレノアも、父上の言葉だけで生きているわけではありません」


 言った。


 会場の喧騒の中で、声は大きくない。


 けれど、父には届いた。


 グラントは、しばらく黙った。


 アルベルトも口を挟まない。


 リディア自身が引いた線を、見守っている。


「……宰相家に嫁いで、ずいぶん言うようになった」


「はい」


 リディアは頷いた。


「言えるようになりました」


 その返答に、父は完全に黙った。


 否定しない。

 怯えない。

 謝らない。


 それだけで、父の言葉は以前ほど力を持たなくなる。


 グラントは何か言いかけたが、王妃の視線がこちらへ向いたことに気づいたのだろう。口を閉じた。


「……後で改めて話す」


「必要であれば」


 リディアは礼をした。


 父は背を向けた。


 その背中は、以前より少しだけ遠く見えた。


 リディアは、深く息を吐いた。


 手は少し冷えている。

 でも震えてはいない。


「傷を作る前に言えたな」


 アルベルトが言った。


 リディアは彼を見る。


「はい」


 小さく笑う。


「言えました」


「ならいい」


 大広間では、舞踏会の音楽が続いている。


 寄付箱には少しずつ封筒が入れられていく。

 花印の前で人が足を止める。

 鉢植えの配送先を読む令嬢がいる。

 セシリアが説明をしている。

 エレノアが小冊子を母に見せている。

 父は遠くで何かを考えている。


 そしてリディアは、アルベルトの隣に立っていた。


 今夜はまだ終わっていない。


 けれど、リディアは確かに思った。


 この夜の灯りは、ただ王宮を飾っているだけではない。


 誰かが自分の言葉を持つためにも、静かに灯っているのだと。

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