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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第80話 慈善舞踏会の夜、父は私を“娘”として呼んだ

 慈善舞踏会の夜、王宮の大広間には、いつもとは少し違う灯りが置かれていた。


 豪奢な黄金の燭台ではない。

 宝石のように輝く硝子飾りでもない。

 天井から吊るされた花綱も、壁一面を埋める大輪の薔薇もない。


 窓辺には、小さな鉢植えが並んでいた。


 冬でも葉を落としにくい白い小花。

 香りの強すぎない薄い花。

 子どもでも世話がしやすい丈夫な緑葉。


 舞踏会の会場として見れば、少し控えめだった。


 けれど、それでよかった。


 あの花々は、今夜だけ客人の目を楽しませるためのものではない。舞踏会が終われば、施療院や孤児院、灯火所の休憩場所へ届けられる。窓辺に置かれ、誰かの夜や朝を、少しだけ明るくする。


 リディアは大広間の入口で、一度だけ足を止めた。


 胸元には、宰相夫人としてふさわしい落ち着いた青銀のドレス。派手すぎない光沢の布地が、灯りを受けて静かに揺れている。髪には、エマが約束通り、控えめにブルースターを挿してくれた。


 空の欠片のような、小さな青い花。


 それを髪に感じるだけで、少しだけ呼吸が整う。


「顔色は悪くない」


 隣でアルベルトが言った。


 挨拶ではない。

 褒め言葉でもない。

 確認だった。


 リディアは少しだけ笑った。


「そこから始まるのですね」


「重要だ」


「はい。大丈夫です。……いえ、大丈夫にする準備はしてきました」


「それでいい」


 彼は短く頷いた。


 その言葉で、足元が少し固くなる。


 大広間には、すでに多くの貴族たちが集まっていた。


 絹の衣擦れ。

 控えめな笑い声。

 楽団が調弦する音。

 銀器が触れ合う澄んだ音。


 いつもの舞踏会なら、話題は誰の衣装が美しいか、誰が誰と踊るか、どの家が王妃に近い席を得たかに向かう。


 もちろん今夜も、そうした視線はある。


 だが、その中に別のものも混じっていた。


 会場の左右には、用途別の寄付箱が並んでいる。


 薪。

 灯具。

 外套。

 薬湯。

 修繕。

 橋番の夜食。


 それぞれの前に、セシリアの描いた花印が置かれていた。山茶花、星形の花、綿花、薬草の葉、蔦と釘、小麦の穂。


 可愛らしい。

 けれど、それだけではない。


 貴族たちは寄付箱の前で足を止め、小冊子を開き、花印と用途説明を見比べている。


「薪は北区の灯火所へ?」

「灯具は東区の橋ですって」

「薬湯なら、寒い夜には必要でしょうね」

「外套もよいわ。橋番の方々が冷えると聞いたもの」


 そんな声が聞こえた。


 リディアは、その声に胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 完璧ではない。

 全員が本当に理解しているわけでもない。

 社交の流行として参加している者もいるだろう。


 それでも、支援の行き先が話題になっている。


 誰の家名が目立つかではなく、何に届くかが少しずつ語られている。


 そのことに、意味があった。


「宰相夫人」


 柔らかな声がして、リディアは振り返った。


 セシリアが立っていた。


 淡い若草色のドレスは、華やかだが、いつもの彼女より少し落ち着いて見えた。胸元には小さな綿花の刺繍。おそらく、外套支援の印に合わせたものだろう。


 可愛らしい。


 けれど今日は、それだけではなかった。


 彼女の手には、小冊子の予備と鉢植え配送先の確認表がある。


「セシリア様。花印、とてもよく見えています」


 リディアが言うと、セシリアは緊張した顔を少し緩めた。


「本当ですか?」


「はい。寄付箱の前で、皆様が用途を確認していました」


「よかった……」


 セシリアは小さく息を吐いた。


「正直、少し怖かったのです。やっぱり地味だと言われるかもしれないと思って」


「地味ではありません。落ち着いています」


「それは、リディア様の褒め言葉ですか?」


「はい」


 二人は、ほんの少し笑った。


 笑いながら、リディアは不思議な気持ちになった。


 少し前なら、このようにセシリアと会話することなど想像できなかった。彼女を見るたび、胸の奥が痛み、過去の傷が開くようだった。


 今も、何もかも消えたわけではない。


 だが、目の前のセシリアは、王太子に選ばれた相手というだけではない。花印を描き、鉢植えの配送先を確認し、舞踏会を飾りで終わらせないために動いている担当者だった。


「セシリア」


 少し離れた場所から、王太子エドワードが声をかけた。


 セシリアの肩が、ほんのわずかに揺れる。


 エドワードは近づいてくると、リディアとアルベルトにも礼をした。


「宰相夫人。グランディス卿」


「殿下」


 リディアは静かに礼を返した。


 もう、昔のように胸が凍ることはなかった。

 痛みはある。

 けれど、その痛みは自分の足を奪わない。


 エドワードは、小冊子を手にしていた。


「この花印は、思った以上に効果があるようだ。寄付箱の前で迷っていた者が、用途を選んでいた」


「セシリア様の案です」


 リディアは自然に言った。


 セシリアが少し驚いたようにこちらを見る。


 エドワードは頷いた。


「ああ。よい仕事だと思う」


 セシリアは、顔を少し赤くした。


「ありがとうございます、殿下」


 その声は、以前の甘えるような響きではない。


 褒められて嬉しい。

 けれど、それを仕事の評価として受け取ろうとしている。


 そう見えた。


 リディアは静かに視線を外した。


 これは、二人の間に新しく生まれようとしている何かだ。

 自分が入り込むものではない。


 そのとき、大広間の奥が少しざわめいた。


 王妃エレオノーラが入場したのだ。


 会場の空気が一瞬で整う。


 王妃は派手な装いではなかった。深い藍色のドレスに、真珠の飾り。だが、そこに立つだけで誰がこの場の中心なのかわかる。


 リディアは深く礼を取った。


 王妃の視線が、一瞬だけこちらへ向く。


 そして、ほんのわずかに頷いた。


 それだけだった。


 けれど、その一つの頷きで、リディアは今夜の準備が間違っていなかったのだと感じた。


 舞踏会は、王妃の短い挨拶で始まった。


「今宵の灯りは、王宮を飾るためだけにあるのではありません」


 王妃の声が、大広間に響く。


「北区で火を守る者、東区で橋を渡る者、寒い部屋で朝を待つ子ども、施療院へ向かう者。その道を照らすための灯りです」


 誰も喋らない。


 いつもの舞踏会のような浮ついたざわめきが、少しだけ遠のく。


「善意は、美しくあってよい。ですが、美しさの中で行き先を見失ってはなりません。今夜、皆様が差し出す支援が、どこへ届くのか。どうか小冊子を開き、ご自身の目で確かめてください」


 ファーネル侯爵夫人の表情は、遠目には完璧だった。


 だが、リディアにはわかった。


 この挨拶は、夫人の望んでいた華やかな演出とは違う。


 王妃は、舞踏会を完全に“支援の場”として定義した。

 これで、ファーネル侯爵夫人がこの夜を自分の華麗な慈善劇として演出する余地は、かなり狭くなった。


 もちろん、彼女はそれでも諦めないだろう。


 そう思った直後、ファーネル侯爵夫人が優雅に動いた。


 挨拶が終わり、楽団がゆるやかな曲を始めたところで、彼女は数人の夫人を連れて寄付箱の前へ向かう。


 そして、リディアにも聞こえる声で言った。


「では、わたくしは灯具へ。冬薔薇の灯りにふさわしく、橋を照らす灯りを支援いたしましょう」


 声は美しい。


 周囲の視線を集めるのも上手い。


 彼女の手には、小さな封筒。かなり高額な寄付だと見て取れる。


 その場にいた夫人たちが感嘆の声を漏らした。


「さすがファーネル侯爵夫人ですわ」

「灯具支援とは、今夜にぴったりですわね」


 ここで彼女は、灯具支援の象徴として自分を見せようとしている。


 リディアは、それを静かに見ていた。


 悪いことではない。

 灯具に寄付するなら、現場の助けになる。


 だが、彼女がその場を独占し始める前に、リディアは一歩だけ進んだ。


「ファーネル侯爵夫人、ご支援に感謝いたします」


 夫人が微笑む。


「当然のことですわ、宰相夫人」


「灯具支援は、東区渡り灯の雨覆い修正と予備手灯りに充てられます。昨夜の報告では、雨の日に手灯りを低く持つことで、橋の中央で止まった利用者が進めたとありました。ご寄付は、その予備を増やすために使わせていただきます」


 周囲の夫人たちが、小冊子を見た。


 灯具の花印。

 星形の花。


 そこに、雨覆い修正、予備手灯り、と書いてある。


 ファーネル侯爵夫人の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。


 リディアは名誉を奪ってはいない。

 むしろ感謝している。


 ただ、その寄付が何に使われるかを明確にした。


 夫人自身の美しい姿ではなく、橋の上の手灯りへ話を戻した。


 アルベルトの言葉が、頭の中に蘇る。


 ――感情や演出で絡め取ろうとする相手には、記録が効く。


 記録に戻す。


 それだけで、場の流れが変わった。


「まあ、雨の日にも役立つのですね」


 グレイス伯爵夫人が声を上げる。


「それなら、私も少し灯具へ回しましょう。外套だけの予定でしたけれど」


「では、私は橋番の夜食に」


 別の夫人が小麦の穂の印を見て言った。


「寒い夜に食事がなければ、橋番の方々もお辛いでしょうから」


 ファーネル夫人の演出は、完全には失敗していない。

 彼女の寄付をきっかけに、寄付は増えた。


 だが、中心は彼女の名誉ではなく用途へ移った。


 リディアは、静かに息を吐いた。


「よく戻した」


 隣でアルベルトが低く言った。


 リディアは小さく答える。


「記録に戻しました」


「上出来だ」


 その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。


 だが、そこで安心するには早かった。


 会場の反対側に、フォルセイン侯爵家の姿が見えた。


 父グラント。

 母セレスティア。

 そして、エレノア。


 リディアの手が、わずかに止まった。


 グラントは、いつも通りだった。


 隙のない礼装。整えられた髪。表情には感情を出さず、しかし自分が侯爵家当主であることを一歩ごとに示すような佇まい。


 母セレスティアは、少しだけ緊張した顔をしている。


 そしてエレノアは、白百合を思わせる淡いドレスを着ていた。リディアと目が合うと、ほんの少しだけ不安そうに微笑む。


 リディアは、その微笑みに小さく頷き返した。


 すると、エレノアの顔が少しだけ明るくなった。


 だが、先に近づいてきたのは父だった。


「リディア」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が静かに冷えた。


 父は、自分を“宰相夫人”ではなく、名前で呼んだ。


 娘として。


 この場で。


 リディアは、一度だけ息を整えた。


 隣にアルベルトがいる。


 それだけで、逃げ道ではなく、立つための支えがある。


「フォルセイン侯爵」


 リディアは礼を取った。


 父の目が、わずかに細くなる。


 娘が父を、家名で呼んだ。


 それは礼を欠いたものではない。

 むしろ、公の場では正しい。


 だが、父が望んだ距離とは違う。


「ずいぶんと、立派な会になったようだな」


 グラントは言った。


「皆様のご協力のおかげです」


「フォルセイン家の寄付も、役に立つならよい」


「はい。灯具補修費、橋番外套、北区の薪補充に充てさせていただきます」


 リディアは、意識して用途を答えた。


 家名ではなく、使い道。


 父の眉がほんの少しだけ動いた。


「……相変わらず、実務的だ」


 その言葉には、褒め言葉と批判が混じっている。


 以前なら、その曖昧さにリディアは傷ついた。

 褒められたのか、責められたのか、わからなくて心が揺れた。


 だが今は、少し違う。


「ありがとうございます」


 リディアは静かに返した。


「実務として届くことを、今夜は何より大切にしております」


 父の表情が固まった。


 皮肉を、皮肉として受け取らない。

 そのまま仕事の言葉へ戻す。


 それもまた、線だった。


「リディア」


 父の声が少し低くなる。


「少し、話せるか」


 来た。


 リディアは喉の奥がわずかに詰まるのを感じた。


 怖い。


 そう思った。


 だが、その怖さはもう隠さなくていい。


 彼女は隣のアルベルトを一度だけ見た。


 アルベルトは、静かに頷く。


 私はここにいる。


 そう言われた気がした。


「はい。ただし、こちらは公の場ですので、短くお願いいたします」


 父の目が細くなった。


「娘と父が話すだけだ」


「今の私は、宰相夫人としてこの場におります」


 リディアは声を荒げなかった。


 けれど、言葉はまっすぐだった。


「私的な話は、別の場を設ける必要があります」


 周囲にいた何人かが、さりげなく視線を逸らした。


 聞いていないふりをしている。

 しかし、聞いている。


 父もそれを理解している。


 だからこそ、彼は強く出られない。


「……ずいぶん、変わったな」


 グラントは低く言った。


 リディアは胸の奥に、少しだけ痛みを感じた。


 変わった。


 父が言うと、それはまるで責める言葉のように聞こえる。


 だが、変わったのは事実だ。


「はい」


 リディアは答えた。


「変わりました」


 グラントがわずかに息を呑んだ。


 否定も弁解もしない娘を、彼はおそらく予想していなかったのだろう。


「ですが、フォルセイン家で学んだことを忘れたわけではありません。記録の取り方、儀礼、社交での言葉の選び方。それらは今も私の中にあります」


 父の表情が少し和らぎかけた。


 だが、リディアは続けた。


「ただ、それを家名のためだけに使うのではなく、今は王都の冬を越すために使っています」


 沈黙が落ちた。


 グラントは何も言わなかった。


 その横で、セレスティアが目を伏せる。

 エレノアは、リディアをじっと見ていた。


「父上」


 リディアは、公の場でありながら、初めて少しだけ私的な呼び方を戻した。


 グラントの目が動く。


「私は、フォルセイン家を否定したいわけではありません」


 声が少し震えそうになった。


 だが、持ちこたえる。


「でも、私の名を、私の意思なしに家の功績へ変えられることは、もう受け入れられません」


 言った。


 ついに、父の前で。


 リディアの手は、少し冷えていた。


 だが、爪は立てていない。


 傷を作る前に、言えた。


 グラントは、長くリディアを見ていた。


 怒り。

 困惑。

 父としての威厳。

 当主としての計算。


 それらが、彼の表情の奥で複雑に動いているのがわかった。


 しかし彼が口を開く前に、アルベルトが静かに言った。


「フォルセイン侯爵」


 声は低く、よく通った。


「貴家の寄付は、正式に用途別記録へ入ります。王妃陛下にも報告済みです。今夜の場で、それ以上の扱いを求める必要はないはずです」


 父の視線がアルベルトへ移る。


「グランディス卿。私は娘と話している」


「宰相夫人と、王都冬季灯火網に関する寄付の話をしているように聞こえました」


 容赦がなかった。


 リディアは、少しだけ胸の奥で苦笑しそうになる。


 アルベルトらしい。


 父は、しばらく黙った。


 やがて、薄く笑う。


「なるほど。宰相家では、娘もずいぶん守られているらしい」


「守られることは、恥ではありません」


 リディアが言った。


 父の目が、再びこちらを向く。


「そして、守られているからこそ、私は自分の言葉で立てるようになりました」


 その言葉は、父だけではなく自分自身にも向けたものだった。


 守られることは弱さではない。


 守られたから、言える。

 支えがあるから、立てる。

 ひとりで耐えることだけが強さではない。


 グラントは、何かを言おうとしてやめた。


 その沈黙を破ったのは、エレノアだった。


「お姉様」


 小さな声。


 けれど、確かに届いた。


 リディアは妹を見る。


 エレノアは緊張した顔で一歩前へ出た。


「あとで……北区と東区のお話を、聞かせていただけますか」


 場の空気が、少し変わった。


 父との緊張の中に、妹のまっすぐな声が入ってきた。


 リディアは、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。


「ええ」


 静かに答える。


「私も、あなたの好きなものの話を聞きたいです」


 エレノアの目が潤んだ。


 セレスティアが、そっと視線を伏せる。


 グラントは何も言わなかった。


 だが、その沈黙は、先ほどとは少し違っていた。


 父の言葉だけで、この場が決まるわけではない。

 それを、リディアだけでなく、エレノアも示したのだ。


 そこへ、舞踏会の司会役が小冊子朗読の開始を告げた。


 王妃の言葉に続き、北区、東区の短い報告が読み上げられる時間だった。


 リディアは、父へ静かに礼をした。


「失礼いたします。これより報告の時間ですので」


 グラントは、まだ何か言いたげだった。


 だが、止めなかった。


 リディアはアルベルトとともに、会場中央へ向かった。


 背後に、父と母と妹の気配を感じる。


 ファーネル侯爵夫人の視線も。

 セシリアの緊張した視線も。

 王太子の静かな視線も。


 すべてが、同じ夜に集まっていた。


 舞踏会の華やかな灯りの下で、報告が始まる。


 北区の火。

 東区の橋。

 南区の窓。

 西区の夜道。

 中央区の空白。


 それぞれの灯りが、今夜、王宮に集まっている。


 だがリディアはもう、その中心に一人で立っているとは思わなかった。


 隣にはアルベルトがいる。

 少し離れてセシリアがいる。

 会場の端にはエレノアがいる。

 そして、現場で火を守り、橋に立ち、記録を書いている人々がいる。


 だから、立てる。


 リディアは小冊子を胸に抱き、静かに前を向いた。


 今夜はまだ始まったばかりだった。

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