第79話 それぞれの灯りが、同じ夜へ集まっていく
慈善舞踏会の小冊子が完成したのは、舞踏会を翌日に控えた午後だった。
作業室の机に置かれたそれは、厚すぎず、薄すぎず、手に取ったときに少しだけ重みを感じる程度のものだった。
表紙には、派手な金箔も大きな紋章もない。
淡い青灰色の紙に、白い線で描かれた小さな灯り。
その周囲に、セシリアの花印が控えめに散らされている。
山茶花。
星形の花。
綿花。
薬草の葉。
蔦と釘。
小麦の穂。
どれも目立ちすぎない。けれど、一度意味を知れば忘れにくい。
小冊子の題は、王妃の指示で簡潔に決まった。
王都冬季灯火網 慈善舞踏会案内
その下に、小さく副題が添えられている。
冬薔薇の灯り――支援を、飾りで終わらせないために
ファーネル侯爵夫人がどうしても舞踏会らしい名を残したがったため、リディアは副題として受け入れた。ただし、本文の最初には王妃の言葉が載っている。
――灯りは、見上げるためだけのものではありません。誰かが帰る道を見失わないためにあります。
短い一文だった。
けれど、その一文で小冊子全体の重心が決まった。
リディアは完成品を一冊手に取り、頁をめくった。
北区冬の灯火所。
東区渡り灯。
南区暖房・修繕調査。
西区夜間施療導線調査。
中央区既存施設連携確認。
それぞれの頁には、制度の目的、必要な支援、現場の課題が簡潔にまとめられている。長々しい美談ではなく、数字と状況、そしてほんの少しだけ人の気配がある文面にした。
北区の頁には、火を守る者の交代記録。
東区の頁には、帰路状態の項目。
南区の頁には、古い窓枠と毛布の扱いについての注意。
西区の頁には、まだ調査中であることを明記した。
中央区には、新しい支援を無理に置かず、既存施設の空白を調べると書いた。
何を作ったかだけではない。
何をまだ作らないかも、書かれている。
それが大切だった。
「綺麗ですね」
エマが、そっと呟いた。
リディアは小冊子から顔を上げる。
「綺麗?」
「はい。でも、ただ綺麗なだけではありません」
エマは表紙の灯りを見つめた。
「奥様らしいです」
その言葉に、リディアは少し照れた。
「私らしいのかしら」
「はい。控えめに見えて、譲れないところがございます」
オスカーが横で小さく頷いた。
「かなり譲れないところがありますね」
「オスカー」
「失礼しました。褒めております」
「最近、皆の褒め方が旦那様に似てきています」
「それは屋敷の空気かと」
真面目な顔で返され、リディアは少し笑ってしまった。
笑える。
舞踏会の前日だというのに。
父も来る。
ファーネル侯爵夫人もきっと何かを仕掛けてくる。
王太子も、セシリアも、王妃もいる。
王都の貴族たちが小冊子を手に取り、リディアの仕事を値踏みする。
怖くないわけではない。
それでも、今は笑えた。
怖いまま、準備ができている。
それだけで、以前とはずいぶん違った。
「奥様」
ハロルドが作業室へ入ってきた。
「セシリア様より、鉢植えの最終配置表が届いております」
「ありがとう」
リディアが受け取ると、そこには丁寧な表が添えられていた。
施療院向け。
孤児院向け。
北区灯火所の休憩所向け。
東区施療院の待合室向け。
それぞれに、香り、手入れ、水やりの頻度、運搬時の注意が書かれている。
最後には、小さな文字で追記があった。
――花が負担にならないよう、派手なものは外しました。
――舞踏会では少し地味に見えるかもしれません。
――でも、届け先で長く置けるものを選びました。
リディアは、その一文を見て静かに頷いた。
セシリアもまた、飾りで終わらせないことを選んだのだ。
「セシリア様は、よい仕事をされましたね」
「はい」
オスカーも表を覗き込み、感心したように言った。
「運搬費まで計算に入っています。これは助かります」
「明日、きちんと担当として紹介しましょう」
リディアが言うと、エマが目元を和らげた。
「セシリア様も、お喜びになると思います」
「喜ばせるためだけではないわ。仕事をした人の名を消さないためです」
そう言ってから、リディアは自分の言葉に少し驚いた。
王妃の言葉が、いつの間にか自分の中に根を張っていた。
仕事をした人の名を消さない。
それはリディア自身の名にも、セシリアの名にも、灯火守りや橋番の名にも繋がっている。
名前は、飾るためだけのものではない。
責任と働きを残すためのものでもある。
その日の夕方、エレノアからの短い返書が届いた。
リディアは作業室ではなく、温室でそれを読んだ。
白百合の封蝋。
少しだけ整ってきた筆跡。
――お姉様。
お返事をいただけるとは思っていましたが、あんなに正直に書いていただけるとは思っていませんでした。
読んで、少し泣きました。
でも、嫌な涙ではありませんでした。
リディアはそこで一度、便箋から目を上げた。
温室の外は、冬の夕闇に沈み始めている。
ガラス越しの庭は静かで、花の葉に薄く光が残っていた。
嫌な涙ではない。
その言葉が、胸に柔らかく触れる。
続きを読んだ。
――北区の火と、東区の橋の話を、もっと聞きたいです。
お姉様が「困りごとの形が違う」と書いてくださったことが、とても心に残りました。
私は今まで、自分の苦しさも、他の人の苦しさも、全部比べてばかりいた気がします。お姉様より苦しいか、苦しくないか。誰のほうが認められているか。
でも、形が違うなら、比べるだけでは見えないのですね。
リディアは、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
エレノアは、ちゃんと読んでくれていた。
姉の言葉としてではなく、一人の人間の言葉として。
――舞踏会には、私も出席します。
父上と母上と一緒です。
少し怖いです。
でも、もしお姉様がよろしければ、少しだけお話ししたいです。
家の話ではなく、北区と東区の話を。
それから、私の好きなものの話も、少しだけ。
エレノア。
リディアは手紙を胸の前でそっと閉じた。
舞踏会で、妹と話す。
父と向き合うことは怖い。
だが、エレノアと話すことには、少し別の緊張があった。
懐かしさと、後悔と、期待。
それらが混じった、まだ名前のつかない気持ち。
温室の扉が静かに開いた。
「ここにいたか」
アルベルトだった。
「はい」
「妹からか」
「はい。短い返事でした」
「悪い内容か」
「いいえ」
リディアは手紙を見下ろす。
「少し、嬉しい内容でした」
「そうか」
アルベルトは近くの椅子へ座った。
最近、彼は温室で座る位置を少しずつ変えている。最初はかなり離れていたのに、今は会話に無理のない距離だ。それでも、近すぎない。
その距離の取り方が、彼らしくて、リディアは少しだけ落ち着く。
「明日、エレノアと話したいと思います」
「そうしろ」
「父とも、話すことになると思います」
「同席する」
即答だった。
リディアは思わず彼を見る。
「まだ何もお願いしていません」
「昨日、必要だと言った」
「覚えていらしたのですね」
「忘れる理由がない」
そういうところだ。
リディアは胸の奥が静かに温かくなる。
自分が怖いと言ったことを、この人は忘れない。
「……ありがとうございます」
「ああ」
短いやり取り。
それだけで、明日へ向かう足元が少し固くなる。
温室の中には、ブルースターの淡い青が咲いていた。
リディアはその花を見ながら、小冊子の表紙を思い出す。
灯り。
花印。
用途別記録。
橋番の手灯り。
北区の火。
エレノアの白百合。
セシリアの花印。
それぞれの灯りが、明日の夜へ集まっていく。
「旦那様」
「何だ」
「明日の舞踏会が、怖いです」
「ああ」
「でも、以前の怖さとは少し違います」
アルベルトは静かにこちらを見る。
リディアは言葉を探した。
「前は、失敗したら自分の価値がなくなる気がしていました。王太子妃候補として、侯爵家の娘として、正しく立てなければならないと」
「今は?」
「今は……守りたいものが多いから怖いのだと思います」
リディアは指先で手紙の端を撫でた。
「北区の火。東区の橋。セシリア様の花印。エレノアの言葉。自分の名前。皆が関わった記録。そういうものを、明日の場で簡単に飾りや噂に変えられたくない」
言いながら、胸の奥に静かな芯ができていく。
「だから怖いです。でも、逃げたい怖さではありません」
アルベルトは、少しだけ目を細めた。
「なら、行ける」
「はい」
「疲れたら言え」
「はい」
「父親と話すときは、一人で抱えるな」
「はい」
「ファーネル侯爵夫人が仕掛けてきたら、記録に戻せ」
リディアは思わず笑ってしまった。
「記録に戻すのですか」
「感情や演出で絡め取ろうとする相手には、記録が効く」
「旦那様らしい助言です」
「有効だ」
「はい。覚えておきます」
アルベルトは少しだけ満足げに頷いた。
その横顔を見て、リディアはまた胸が小さく揺れるのを感じた。
怖さの中に、この温かさがある。
それが不思議だった。
舞踏会の前夜に、もっと張り詰めていると思っていた。
眠れず、食べられず、ただ明日の失敗だけを恐れていると思っていた。
けれど今、自分は怖いと言える。
同席してほしいと言える。
必要なら疲れたと言えばいいと知っている。
それだけで、明日は少し違う夜になる。
「旦那様」
「何だ」
「もし明日、私が言葉に詰まったら」
「私が間に入る」
「もし、父に冷たいと言われたら」
「事実でないなら否定する」
「もし、ファーネル侯爵夫人に場を奪われそうになったら」
「君が記録に戻す。必要なら私が数字を出す」
あまりに即答が続くので、リディアは少し笑ってしまった。
「準備がよすぎます」
「想定できる危険は潰す」
「それは、仕事ですか」
「半分は」
リディアは、その残り半分を尋ねようとして、やめた。
聞かなくても、少しわかる気がしたからだ。
この人は、リディアの仕事を守ろうとしている。
そして、リディア自身も守ろうとしている。
その二つを分けすぎず、混ぜすぎず、静かに隣に置いてくれる。
「では、残り半分もありがとうございます」
リディアがそう言うと、アルベルトはわずかに目を逸らした。
「礼を言うことではない」
「言いたかったのです」
「……そうか」
もう何度も繰り返したやり取り。
けれど、リディアはそのたびに少しだけ嬉しくなる。
夜が深まる前に、リディアは自室へ戻った。
机の上には、舞踏会で使う小冊子が一冊置かれている。確認用に持ち帰ったものだ。
エマがそれを見て、少しだけ目を細めた。
「奥様、今夜はもう書類をご覧にならない約束では」
「これは小冊子です」
「書類に近いものでございます」
「……少しだけ」
「少しだけでしたら」
エマは譲ったが、明らかに見張る気配を残していた。
リディアは笑みをこぼし、小冊子を開いた。
表紙。
王妃の言葉。
北区。
東区。
南区。
西区。
中央区。
用途別支援。
花印。
鉢植え配送先。
頁をめくるたび、いろいろな人の顔が浮かんだ。
北区の灯火守り。
東区のミナ。
クラウス医師。
ローゼン侯爵夫人。
グレイス伯爵夫人。
セシリア。
エレノア。
アルベルト。
そして、自分。
この小冊子は、リディア一人のものではない。
だからこそ、明日は一人で立つ必要はない。
リディアは小冊子を閉じた。
「エマ」
「はい」
「明日は、少しだけ髪飾りにブルースターを入れてもらえますか」
エマの顔が、ふっと柔らかくなった。
「もちろんでございます」
「派手すぎないように」
「奥様らしく」
「それは難しくない?」
「いいえ。よく存じておりますので」
その言葉に、リディアは胸が温かくなった。
自分らしく。
以前なら、その言葉が怖かった。
自分らしさなど、どこにあるのかわからなかったからだ。
正しい娘、正しい妃候補、正しい妻。そういう形ばかりを選んできた。
でも今は、少しだけわかる。
譲れない線を持つこと。
怖くても言葉にすること。
記録を残すこと。
人の帰り道を見ること。
そして、誰かの手を必要だと言えること。
それが、今のリディアらしさなのかもしれない。
灯りを消して寝台に入ると、胸はまだ少しざわついていた。
明日が怖い。
だが、今夜は眠れそうだった。
北区では、火が灯っている。
東区では、橋の上で手灯りが揺れている。
王宮では、鉢植えが静かに並べられ、小冊子が束ねられている。
フォルセイン侯爵家では、エレノアが明日のことを考えているかもしれない。
セシリアも、花印の清書を見返しているかもしれない。
アルベルトは、きっとまだ執務室で危険の想定をしている。
それぞれの灯りが、同じ夜へ集まっていく。
明日、その灯りがどんなふうに揺れるのかは、まだわからない。
けれどリディアは、布団の中で小さく息を吐き、そっと目を閉じた。
逃げるためではなく、明日立つために。
今夜は眠ろうと思った。




