第78話 妹から届いた手紙は、家の言葉ではなかった
エレノアからの手紙が届いたのは、翌日の昼前だった。
その日は朝から、宰相家の中に少しだけ慌ただしい空気があった。慈善舞踏会の小冊子の最終校正、東区渡り灯の三夜目報告、北区灯火所の薪補充記録、そしてフォルセイン侯爵家からの寄付受け入れ処理。
どれも小さくはない。
けれど、リディアの胸の奥でいちばん静かに重く残っていたのは、父の手紙に書かれていた一文だった。
――エレノアがお前に手紙を書きたいと言っている。
妹が、自分に何を書くのか。
それがわからなかった。
幼い頃、エレノアはリディアの後ろをついて歩いていた。けれど成長するにつれて、少しずつ距離が開いた。リディアは王太子妃候補として厳しく育てられ、エレノアはその姉と比べられるようになった。
完璧な姉。
未熟な妹。
その構図が、いつから家の中に置かれていたのか、リディアにはよくわからない。だが気づいたときには、エレノアはリディアへ素直に甘えなくなっていた。
嫌われていたのかもしれない。
羨まれていたのかもしれない。
あるいは、リディア自身が妹を見る余裕を失っていただけなのかもしれない。
考えれば、胸の奥が少し痛んだ。
その手紙は、父のものとは違っていた。
封筒は上質だが、どこか緊張した筆跡で宛名が書かれている。封蝋も侯爵家の紋章ではなく、エレノア個人が使っている小さな白百合の印だった。
リディアはそれを見ただけで、少し息を止めた。
家の手紙ではない。
妹の手紙だ。
「奥様、お読みになりますか」
エマが静かに尋ねた。
リディアは小さく頷いた。
「ええ。今、読みます」
作業室の机の上で封を切る。
便箋を開くと、少し震えたような文字が並んでいた。
――お姉様。
突然のお手紙をお許しください。
何から書けばいいのかわからず、何度も書き直しました。きっと変な文章になっていると思います。けれど、父上に整えていただいた文ではなく、私の言葉で書きたいと思いました。
その最初の一文で、リディアは胸を突かれた。
父に整えてもらった文ではなく、私の言葉で。
エレノアもまた、そこに線を引こうとしている。
リディアは続きを読んだ。
――お姉様が宰相家へ嫁がれてから、王都ではお姉様のお名前をよく聞くようになりました。北区の灯火所、東区の渡り灯、冬季灯火網。私は最初、それを聞くたびに少し苦しくなりました。
やはりお姉様はすごい。
私は何もできない。
そう思ったからです。
でも、最近は少し違います。お姉様がすごいから苦しいのではなく、私はお姉様のことを何も知らなかったから苦しかったのだと気づきました。
リディアは、便箋を持つ指に少し力を込めた。
何も知らなかった。
その言葉は、自分にも返ってくる気がした。
自分も、エレノアのことをどれだけ知っていただろう。
妹が何を怖がり、何に傷つき、何を望んでいたのか。
姉として、ちゃんと見たことがあっただろうか。
――私は、お姉様を羨ましいと思っていました。
父上に認められていて、王太子殿下の隣に立つ方で、どんな場でも間違えない方だと。
でも本当は、お姉様が間違えないように、どれほど息を詰めていたのかを見ていませんでした。
お姉様が王太子殿下とのことで傷ついていたときも、私は声をかけられませんでした。どう言えばいいかわからなかったのです。少しだけ、ざまあみろと思ってしまった自分もいました。
こんなことを書いたら、嫌われるかもしれません。
でも、書かなければいけないと思いました。
そこでリディアは、静かに目を閉じた。
ざまあみろ。
その言葉は、綺麗ではない。
けれど、綺麗ではないからこそ、妹の本音だった。
完璧な姉が傷つく姿を見て、胸のどこかでそう思ってしまった。
その未熟さを、エレノアは隠さず書いてきた。
痛い。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
リディアは、あの家の中でエレノアがどんなふうに比べられてきたかを思った。
リディアの影に置かれた妹。
姉の成功を喜ばなければならない立場。
それでも心の奥では、自分も見てほしかった少女。
その妹が、今こうして汚い感情まで自分の言葉で書いてきている。
それは、勇気のいることだった。
リディアは続きを読んだ。
――でも今は、お姉様に謝りたいです。
何もできなかったことも、何も知らなかったことも、勝手に羨んでいたことも。
そして、できれば知りたいです。
お姉様が今、何をしているのか。
灯火所や渡り灯が、どういうものなのか。
私はまだ、難しい帳簿も慈善局のこともわかりません。けれど、家の中で噂として聞くのではなく、お姉様の言葉で知りたいです。
もし迷惑でなければ、いつかお返事をいただけますか。
妹としてではなく、まず一人の人間として、お姉様に手紙を書きました。
エレノア・フォルセイン。
最後まで読んだあと、リディアはしばらく動けなかった。
父の手紙とは違う。
これは、命令ではない。
釘を刺すものでもない。
家名を背負わせるものでもない。
不器用で、少し痛くて、綺麗ではないところまで含んだ手紙だった。
でも、たしかに妹の言葉だった。
「奥様」
エマの声が、柔らかく聞こえた。
「大丈夫でございますか」
リディアは、少しだけ笑った。
「大丈夫……では、ないかもしれないけれど」
言い直す。
「でも、嫌な痛みではありません」
オスカーが静かに頷いた。
「お返事を?」
「書きます」
リディアは迷わず答えた。
それから、少しだけ息を吸った。
「でも、すぐには書けないかもしれません。ちゃんと考えたいの」
「それがよろしいかと」
エマが言った。
その日の午後、リディアはエレノアの手紙を持って、アルベルトの執務室へ向かった。
扉の前で声をかける。
「入ってもよろしいでしょうか」
「入れ」
アルベルトは机の前にいた。リディアの表情を見るなり、手元の書類を閉じる。
「妹からか」
「はい」
「読んだのか」
「読みました」
「気分は」
その問いが、いつもと同じで少しだけ安心する。
リディアは椅子に座り、手紙を両手で持った。
「痛いです。でも、逃げたい痛みではありません」
アルベルトは静かに頷いた。
「見せるか」
「はい。読んでいただけますか」
「ああ」
アルベルトは手紙を受け取り、黙って読んだ。
読み終えるまで、彼の表情はほとんど動かなかった。だが、最後の一文に目を落としたとき、少しだけ視線がやわらかくなったように見えた。
「悪くない手紙だ」
彼は短く言った。
リディアは少しだけ目を瞬いた。
「旦那様の“悪くない”は、かなり褒めていますね」
「そうだな」
否定しない。
リディアはそのことに、少しだけ胸が温かくなる。
「妹は、私を羨んでいたと書いていました」
「ああ」
「ざまあみろと思ったこともあると」
「ああ」
「私は、それを読んで……怒れませんでした」
「怒る必要はない」
「でも、傷つかなかったわけでもありません」
「それでいい」
アルベルトは手紙を机へ置いた。
「その手紙は、君を利用していない。自分の醜さも含めて差し出している」
「醜さ」
「人間ならある」
リディアは便箋を見つめた。
エレノアの中にあった嫉妬。
自分の中にあった怒り。
セシリアの中にあった不安。
王太子の中にあった逃げ。
父の中にある支配欲。
人には、綺麗ではないものがある。
それを隠して整えた言葉ばかりより、エレノアの手紙はずっと人間らしかった。
「私は、妹に何を書けばよいのでしょう」
リディアは呟いた。
アルベルトはすぐには答えなかった。
少し考えてから言う。
「姉として書く前に、人として書けばいい」
エレノアと同じように。
その言葉で、胸の奥の迷いが少し形を得た。
「私は、完璧な姉ではありませんでした」
「ああ」
「妹が比べられていたことにも、気づかないふりをしていたのかもしれません」
「そうかもしれない」
慰めない。
けれど責めもしない。
その距離が、今はありがたかった。
「なら、それを書けばいい」
アルベルトは言った。
「君が知らなかったこと。今なら少しわかること。知りたいと思っていること」
「灯火所のことも?」
「彼女が知りたいと書いている」
「難しい説明にならないようにしなければ」
「相手に合わせて書けばいい。君ならできる」
その言葉に、リディアは少しだけ視線を上げた。
「旦那様は、私が書けると思われるのですね」
「思う」
「なぜ」
「君は、橋を怖がる子どもに伝わる言葉を探した。妹への手紙も同じだろう」
胸が静かに震えた。
同じ。
そうかもしれない。
相手に届く言葉を探すこと。
相手を上から見下ろさず、しかし自分の線も失わずに書くこと。
それは、制度を作るときにも、手紙を書くときにも必要なのだ。
「書いてみます」
リディアは言った。
作業室へ戻ると、机の上の書類を少し脇へ寄せた。
今日は寄付箱配置の確認も、小冊子の最終校正もある。東区の報告も届く。だが、リディアはまず妹への返事を書くことにした。
これは後回しにしたくなかった。
便箋を用意し、ペンを取る。
最初の一行で迷う。
エレノアへ。
妹へ。
親愛なるエレノア。
どれも少し違う気がした。
リディアは少し考え、こう書いた。
――エレノア。
あなたの手紙を読みました。
まず、父上の言葉ではなく、あなた自身の言葉で書いてくれたことを嬉しく思います。
そこまで書いて、一度手を止める。
嬉しい。
その言葉は本当だった。
リディアは続きを書いた。
――あなたが私を羨んでいたこと、私が傷ついたときに少しだけ安堵したこと。それを書かれたとき、胸は痛みました。
でも、怒りより先に、私はあなたの正直さに驚きました。
私もまた、あなたのことをちゃんと見ていなかったのだと思います。あなたが私と比べられて苦しかったことに、気づいていたのに、向き合わなかったのかもしれません。
姉として、完璧ではありませんでした。
書きながら、胸が少し痛む。
でも、手は止まらなかった。
――私は王太子妃候補として、ずっと正しくあろうとしていました。けれどその正しさは、私を守ってくれるものではありませんでした。
宰相家へ来てから、私は少しずつ、嫌なことを嫌だと言うこと、疲れたら休むこと、怒ってもよいことを覚えています。
まだ上手ではありません。
けれど、少しずつです。
アルベルトに言われた言葉を、そのまま書くのは少し恥ずかしかった。
だが、それは今のリディアにとって大切な変化だった。
――北区の冬の灯火所は、寒い夜に行く場所がない人のための火です。
東区の渡り灯は、施療院へ向かう橋を怖がる人のための灯りと声です。
どちらも同じ火ではありません。困りごとの形が違うからです。
私は今、その違いを見る仕事をしています。
もしあなたが知りたいなら、また書きます。難しい帳簿の話ではなく、私が見た人の話として。
そこでリディアは、少し迷った。
妹に何を求めるか。
返事をくれたら嬉しい。
でも、無理に近づきすぎるのは怖い。
彼女は最後に、慎重に書いた。
――私たちは、姉妹としてあまり話してきませんでした。
すぐに何もかもわかり合えるとは思いません。
でも、あなたが一人の人間として書いてくれたなら、私も一人の人間として返事をしたいと思います。
次の手紙では、あなたのことも聞かせてください。
何が好きで、何が苦手で、何を怖いと思うのか。
姉としてではなく、まずあなたを知りたいです。
リディア。
署名を書いたあと、リディアは長く息を吐いた。
手紙は長くなりすぎたかもしれない。
少し正直すぎたかもしれない。
でも、これでいいと思った。
オスカーに見せる必要はない。
アルベルトに確認してもらう必要もない。
これは、姉妹の私信だ。
リディアは封をし、エレノアの白百合の封蝋に合わせるように、宰相家の正式紋ではなく、自分の小さな封印を使った。
ブルースターを簡略化した、小さな印。
以前なら、そんな私的な封印を使うことすら思いつかなかった。
ハロルドへ手紙を託すとき、リディアは少しだけ胸が軽くなっていることに気づいた。
「こちらを、エレノア・フォルセインへ。できれば、直接本人へ届くように」
「かしこまりました」
ハロルドは深く一礼した。
手紙が運ばれていく。
それを見送ったあと、リディアは机の上の寄付箱配置図へ戻った。
仕事はまだある。
けれど、不思議と手がよく動いた。
夕方、アルベルトが作業室へ来た。
「返事は書いたか」
「はい」
「見せるか」
リディアは少しだけ笑った。
「見せません」
アルベルトは一瞬、目を瞬いた。
それから、静かに頷いた。
「そうか」
「姉妹の私信ですから」
少し緊張しながら言うと、彼の口元がほんのわずかに緩んだ。
「いい判断だ」
その一言で、リディアの胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。君が決めたことだ」
「それでも、言いたかったので」
「……そうか」
最近、このやり取りにも少し慣れてきた。
夜、温室でブルースターを見ながら、リディアはエレノアの手紙を思い返した。
家の言葉ではなかった。
父の整えた言葉でも、侯爵家の面目を守る言葉でもない。
妹が、自分の中にある綺麗ではないものまで差し出した手紙だった。
それに返事を書けたことが、リディアには少し嬉しかった。
フォルセイン侯爵家との線は、まだ難しい。
父と舞踏会で向き合う日も近い。
でも、その家の中にも、父とは違う言葉を持とうとしている人がいる。
エレノア。
妹。
リディアは、ようやくその名を、家の役割ではなく一人の少女として思い浮かべることができた気がした。




