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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第77話 父から届いた返書は、謝罪ではなく承認でもなかった

 慈善舞踏会の小冊子に、セシリアの花印が正式に採用された翌朝。


 宰相家へ、フォルセイン侯爵家からの返書が届いた。


 その知らせを受けたとき、リディアは作業室で舞踏会当日の寄付箱配置を確認していた。


 薪。

 灯具。

 外套。

 薬湯。

 修繕。

 橋番の夜食。


 用途ごとに分けた寄付箱の前には、セシリアの花印を小さく置く予定になっている。見た目は柔らかいが、役割は明確だ。寄付者が、自分の善意をどこへ届けるか選べるようにするためのものだった。


 その配置図の上へ、ハロルドが銀の盆に載せた封書を差し出した。


「奥様。フォルセイン侯爵家より、お返事でございます」


 その名を聞いた瞬間、リディアの指先が止まった。


 来た。


 ついに、来たのだ。


 父に初めて“いいえ”を書いた手紙。

 私個人の名を、フォルセイン家の名誉のために用いるものではないと書いた手紙。


 その返事。


 エマが、静かにリディアの横へ立った。オスカーも、すぐには何も言わず、手元のペンを置く。


 作業室の空気が、少しだけ変わった。


 リディアは封書を見下ろした。


 見慣れた封蝋。

 侯爵家の紋章。

 父の使う、隙のない厚手の紙。


 昔なら、この封書を前にしただけで体が強張っていただろう。父からの手紙は、褒め言葉であっても命令に近かった。叱責でなくても、期待が重かった。失望を恐れて、読む前から息が浅くなっていた。


 今も怖い。


 それは変わらない。


 けれど、今のリディアは一人ではなかった。


 自分が怖がっていることを、もう隠さなくてもいい。

 手紙をすぐに開かなければならないとも思わなくていい。


 アルベルトは、届いた瞬間に読む必要はないと言ってくれた。


 リディアは一度、封書から手を離した。


「旦那様は?」


「執務室にいらっしゃいます」


 ハロルドが答える。


 リディアは少しだけ考えた。


 自分で開くべきか。

 アルベルトの前で開くべきか。

 それとも、時間を置くべきか。


 胸の奥には、すぐに読んでしまいたい気持ちと、少し先延ばしにしたい気持ちが同時にあった。


 だが、先延ばしにすれば不安が長く続く。

 自分の体調は悪くない。

 ここにはエマもオスカーもいる。


 そして何より、今のリディアは、父の言葉にすべてを奪われるほど弱い場所にはいない。


「ここで読みます」


 リディアは言った。


 エマが小さく頷く。


「かしこまりました」


 封を切る音が、やけに大きく聞こえた。


 便箋を開く。


 父の筆跡は、相変わらず整っていた。


 ――リディア。

 返書は受け取った。

 まず、冬の灯火所および渡り灯に対するフォルセイン侯爵家からの寄付については、そちらの方針に従い、用途別記録で構わない。

 薪、灯具、橋番外套、薬湯、修繕費のいずれに充てるかは、王宮慈善局の判断に委ねる。

 後援名として事業全体へ掲げる必要はない。


 そこまで読んで、リディアは少しだけ息を止めた。


 受け入れている。


 父が、自分の条件を受け入れている。


 だが、胸がすぐに軽くなったわけではなかった。


 文面は丁寧だ。

 しかし、父の手紙はここで終わるはずがない。


 リディアは続きを読んだ。


 ――ただし、お前の返書には、娘としてやや行き過ぎた表現が見られた。

 個人の名を家名のために用いないという考えは、実務上の線引きとしては理解できる。だが貴族に生まれた以上、個人と家は完全には切り離せない。

 お前が今、宰相夫人として評価されている背景には、フォルセイン家で受けた教育がある。その事実を忘れてはならない。

 もっとも、王妃陛下と宰相閣下のもとで務めを果たしていることは、父として認める。

 今後も軽率な言動を慎み、家名に恥じぬよう励むこと。


 リディアはそこで、手紙を一度机に置いた。


 胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に広がる。


 怒られた。


 直接的ではない。

 声を荒らしたわけでもない。

 だが、父らしい手紙だった。


 承認の形を取りながら、釘を刺す。

 条件は受け入れながら、娘としての立場を思い出させる。

 評価はしながら、最終的には「家名に恥じぬよう」と締める。


 そこに、リディア自身への謝罪はなかった。

 彼女がどれほど勇気を出して線を引いたのかへの理解もなかった。


 けれど、以前のように崩れはしなかった。


 父は、父のままだ。


 それだけのことだった。


「奥様」


 オスカーが慎重に声をかける。


「続きを?」


「ええ」


 リディアはもう一度、便箋を手に取った。


 ――なお、エレノアがお前に手紙を書きたいと言っている。

 姉妹の私信については差し止めるつもりはない。

 必要であれば、返事をしてやるとよい。

 慈善舞踏会には、フォルセイン侯爵家として出席する予定である。

 その場で改めて話す機会を持ちたい。


 最後に父の署名。


 リディアは、すべて読み終えた。


 しばらく、何も言わなかった。


 エレノアが手紙を書きたいと言っている。


 その一文だけが、父の硬い文面の中で少しだけ違う温度を持っていた。


 妹。


 かつて、家の中で自分と比べられる側だった少女。

 自分を完璧な姉として見て、少し距離を置いていた少女。


 そのエレノアが、自分に手紙を。


 リディアは便箋をそっと畳んだ。


「父は、条件を受け入れました」


 静かに言う。


 オスカーが少し目を見開いた。


「後援名なしで?」


「はい。用途別記録で構わないと」


「それは、大きいですね」


「ええ」


 だが、喜びだけではない。


 父は受け入れた。

 しかし同時に、リディアの線を完全には認めていない。


 個人と家は切り離せない。

 教育の事実を忘れるな。

 家名に恥じるな。


 その言葉は、以前ならリディアを簡単に押し戻しただろう。


 でも今は、違う。


 父の言葉は父の考えだ。

 それは受け取れる。

 けれど、自分のすべてにはしない。


「旦那様にお見せします」


 リディアは立ち上がった。


 執務室へ行くと、アルベルトはすでにこちらを待っていたようだった。


 ハロルドが知らせたのだろう。机の上には余計な書類が少なく、リディアが座る椅子も少し引かれていた。


 そういうところに、少しだけ胸が温かくなる。


「読んだか」


「はい」


「座れ」


 リディアは席につき、手紙を渡した。


 アルベルトは黙って読む。


 父の文面を最後まで読み終えたあと、彼はほんの少しだけ眉を寄せた。


「いかにもフォルセイン侯爵らしい」


「そうですね」


「寄付条件は受け入れた。だが、娘への支配は手放していない」


 あまりにも的確で、リディアは小さく息を吐いた。


「はい。そう感じました」


「傷ついたか」


 すぐにそれを聞く。


 リディアは少し考えた。


「少し」


 正直に答える。


「でも、思ったより平気です」


「平気と言って自分を騙していないか」


「……少しだけ、胸は痛いです」


「それでいい」


「よいのですか」


「痛いものを痛いと言えている」


 その言葉に、リディアは胸の奥が少しほどけるのを感じた。


 アルベルトは手紙を机に置いた。


「この返書は、謝罪ではない」


「はい」


「承認でもない」


「……はい」


「だが、実務上は君の線を通した」


 リディアは、父の手紙を見た。


 たしかにそうだ。


 父は心から納得していない。

 娘の独立を祝っているわけでもない。

 だが、事業全体へフォルセイン家の名を掲げることはできないと認めた。


 それは、リディアが引いた線の結果だった。


「なら、一つ勝ったと思っていい」


 アルベルトが言った。


 リディアは目を瞬いた。


「勝った?」


「ああ」


「父に?」


「父親に、ではない。君を家名へ戻そうとする圧に対してだ」


 その言い方に、リディアは手紙を見つめ直した。


 勝ち。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 けれど確かに、これはひとつの結果だった。


 父はリディアの名を、フォルセイン家の後援看板として使えなかった。

 寄付は受ける。

 だが用途別記録に入る。

 他家と同じように。


 怖かった線は、ちゃんと機能した。


「……少し、誇ってもいいでしょうか」


 リディアが尋ねると、アルベルトは迷わず答えた。


「いい」


 その即答に、胸が温かくなる。


「でも、父は舞踏会で話したいと」


「来るだろうな」


「怖いです」


「だろうな」


「また、そうやって」


「嘘を言っても仕方がない」


 それはいつもの答えだった。


 だが、続きがあった。


「ただし、今回は君一人で会う必要はない」


 リディアは顔を上げた。


「旦那様も?」


「必要なら同席する」


「父は、それを嫌がると思います」


「嫌がるだろう」


「……旦那様」


「相手が嫌がる線なら、機能している」


 以前も聞いた言葉だった。


 リディアは思わず、小さく笑ってしまった。


「旦那様は、本当にそれをよくおっしゃいますね」


「事実だからな」


 そのまま少し沈黙が落ちた。


 だが、重くはなかった。


 リディアは手紙の最後の一文を思い出す。


「エレノアが、私に手紙を書きたいそうです」


「妹か」


「はい」


「読みたいのか」


「……はい」


 それは素直な気持ちだった。


 少し怖い。

 でも、読みたい。


 彼女が自分に何を言いたいのか、知りたい。


「なら、来たら読め」


「返事は」


「君が書きたければ書けばいい」


「父を通さずに?」


「姉妹の私信だろう」


 あまりにも当然のように言われ、リディアは少しだけ驚いた。


 姉妹の私信。


 それは当たり前のことのはずなのに、リディアにとっては少し新鮮だった。


 家の中では、すべてが父の管理下にあるように思っていた。

 妹との関係でさえ、家の空気や比較の中で歪んでいた。


 でも、手紙なら。


 もしかすると、初めて姉妹として言葉を交わせるのかもしれない。


 その日、リディアは父への返事をすぐには書かなかった。


 必要な実務返答は、オスカーと相談し、慈善局を通じて寄付の受け入れ処理を進めることにした。フォルセイン侯爵家からの寄付は、用途別記録に入り、舞踏会の小冊子にも他家と同じ形式で記載される。


 特別な後援名はない。


 それで十分だった。


 午後、慈善舞踏会の準備室へ行くと、セシリアが花印の清書をしていた。


 彼女はリディアの顔を見るなり、少しだけ心配そうに眉を下げた。


「リディア様、何かありましたか?」


 その問いに、リディアは少し驚いた。


「顔に出ていましたか」


「少しだけ。お疲れのように見えました」


 最近、皆が自分の顔を見る。


 アルベルトも、エマも、オスカーも、セシリアまでも。


 以前なら、隠せていたはずの揺れが、今は少しずつ表に出るようになっているのかもしれない。


「父から返書が来ました」


 リディアは静かに答えた。


 セシリアは筆を置いた。


「……大丈夫ですか」


 その問いは、思ったより真剣だった。


 リディアは少し考え、頷いた。


「大丈夫です。でも、少し疲れました」


「それは、大丈夫ではないのでは」


 セシリアが小さく言う。


 その言い方が、どこかアルベルトやエマに似ていて、リディアは思わず笑ってしまった。


「最近、皆にそう言われます」


「それは、皆様がリディア様を見ていらっしゃるからでは」


 何気ない言葉だったのだろう。


 けれど、リディアの胸には静かに届いた。


 見ている。


 見られている。


 かつて、それが怖かった。

 評価され、値踏みされ、失敗を探されているように感じた。


 でも今は、少し違う。


 心配して見てくれる人がいる。

 仕事の様子を見てくれる人がいる。

 体調の変化に気づいてくれる人がいる。


 それは、怖いばかりではなかった。


「ありがとうございます、セシリア様」


「いえ。私こそ……あの、無理はなさらないでください」


「あなたも」


 リディアが返すと、セシリアは少しだけ目を丸くした。


「私も?」


「はい。昨夜も図案を直していたのではありませんか」


「どうして」


「目元に少し疲れが」


 セシリアは慌てて目元へ手を当てた。


 その仕草があまりに素直で、リディアはまた少し笑ってしまった。


「今夜は早めに休んでください。花印の清書は、明日の午前でも間に合います」


「でも」


「間に合います」


 少し強めに言うと、セシリアは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「リディア様、宰相閣下に似てきましたね」


 リディアは完全に言葉を失った。


 その話を、昨日も誰かに言われた気がする。


「……そんなに?」


「はい。とても優しいのに、逃げ道を塞ぐところが」


「それは褒め言葉ですか」


「はい」


 セシリアは真面目に頷いた。


 リディアは少しだけ困ったが、不思議と嫌ではなかった。


 夕方、宰相家へ戻ると、エレノアからの手紙はまだ届いていなかった。


 代わりに、慈善局からフォルセイン侯爵家の寄付受け入れ処理に関する確認書が届いていた。


 用途は、東区渡り灯の灯具補修費と橋番外套、北区灯火所の薪補充。


 リディアはその配分表を見て、少しだけ胸が静かになるのを感じた。


 父の寄付が、家名ではなく物資になっていく。


 灯具の補修に。

 橋番の外套に。

 薪に。


 そうなれば、それはもう父の支配ではない。


 現場へ届く支援だ。


 リディアはその書類に承認印を押した。


 小さな音が、作業室に響く。


 オスカーが言った。


「これで正式に処理できます」


「お願いします」


 夜、温室へ行くと、アルベルトは少し遅れてやって来た。


「フォルセインの寄付処理を見た」


「はい。用途別に入りました」


「いい配分だ」


「ありがとうございます」


「君は」


 アルベルトはそこで一度言葉を切った。


「今日一日、よく崩れなかったな」


 リディアは少しだけ目を瞬いた。


「崩れて見えませんでしたか」


「見えた」


「では、なぜ」


「崩れながら立っていた」


 その言い方に、胸の奥がじんとした。


 強かったとは言わない。

 平気だったとも言わない。


 崩れながら立っていた。


 たぶん、それが一番近い。


「……はい」


 リディアは静かに頷いた。


「少し、崩れていました」


「ああ」


「でも、倒れませんでした」


「ああ」


「父の手紙は、謝罪でも承認でもありませんでした」


「そうだな」


「でも、私の線は通りました」


「そうだ」


 その一言一言が、リディアの中にある揺れを少しずつ整えていく。


「旦那様」


「何だ」


「舞踏会で父と会うのが怖いです」


「同席する」


「まだお願いしていません」


「必要だろう」


「……はい」


 リディアは少しだけ笑った。


「必要です」


 素直に言えた。


 アルベルトは短く頷く。


「なら、そうする」


 それだけ。


 けれど、十分だった。


 リディアはブルースターの花を見た。


 父から届いた返書は、謝罪ではなかった。

 承認でもなかった。


 けれど、それでも一つの線が通った。


 少し前なら、父の言葉一つで自分の足元が崩れていたかもしれない。

 でも今は違う。


 揺れても、立てる。

 怖いと言える。

 必要なら、隣にいてほしいと頼める。


 それだけで、今のリディアには大きな前進だった。

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