第76話 王太子は、花を贈るだけの彼女ではないと知る
慈善舞踏会の準備室は、王宮の西棟に設けられていた。
舞踏会といえば、大広間、楽団、燭台、花、招待客の席次、料理、衣装――そうした華やかなものばかりが表に出る。
けれど実際の準備室は、あまり華やかではない。
長机の上には、小冊子の試し刷り、寄付用途の一覧、花印の図案、鉢植えの候補表、運搬費の見積もり、舞踏会後の配送先一覧が並んでいる。窓辺には、試験的に取り寄せた小さな鉢植えが三つ置かれていた。
冬でも葉を落としにくい白い小花。
香りの弱い薄紫の花。
水やりが少なくても持つ、丈夫な緑葉の鉢。
どれも、舞踏会の会場を圧倒的に飾るには地味だった。
だが、舞踏会のあと施療院や孤児院の窓辺へ置くなら、むしろその地味さがよかった。
「こちらの薄紫の花は、施療院には向かないかもしれません」
セシリアが鉢の前で少し首を傾げた。
今日は、以前より落ち着いた装いだった。淡いクリーム色のドレスに、細いリボン。髪飾りも控えめだ。華やかさがなくなったわけではない。けれど、以前のように“可愛らしく見えるため”の装いではなく、“仕事をしやすい”ことを意識しているように見えた。
「香りは弱いのでは?」
グレイス伯爵夫人が鉢へ顔を近づける。
「今は弱いです。でも暖かい室内に置くと、少し香りが出ます。頭痛のある方には負担になるかもしれません」
「では、施療院ではなく孤児院向きかしら」
「孤児院でも、寝室ではなく玄関や食堂ならよいと思います」
セシリアは、手元の帳面に小さく書き込んだ。
その横で、リディアは小冊子の試し刷りを確認していた。
花印は、想像以上にうまく収まっている。
薪の欄には山茶花。
灯具の欄には星形の花。
外套には綿花。
薬湯には薬草の葉。
修繕には蔦と釘。
橋番の夜食には小麦の穂。
色を抑えたことで、可愛らしすぎず、しかし目に入る。長い説明文を読む前に、用途がわかる。
これは使える。
リディアは心の中でそう思った。
ファーネル侯爵夫人は相変わらず、この案に完全には納得していない。だが表立って反対はできなくなっていた。王妃が「用途別支援の導入として有効」と評価したからだ。
社交界では、風向きが変わるときは早い。
今では数人の夫人が、「花印は柔らかくてよい」「寄付先が選びやすい」と言い始めている。
もちろん、その中には本当に理解した者もいれば、王妃の評価に乗っているだけの者もいるだろう。
それでも構わない。
今は、善意が現場へ届く形になればいい。
「リディア様」
セシリアが声をかけた。
まだその呼び方には、少し遠慮がある。
「この鉢植えですが、舞踏会の当日は会場の窓辺に置き、終了後にそのまま箱へ移せるよう、鉢の下に受け皿を統一したほうがよいと思います。見た目も揃いますし、運ぶ方も扱いやすいので」
「運搬係への負担が減りますね」
「はい。あと、鉢に飾り布を巻く案もあったのですが……」
セシリアは少しだけ眉を下げた。
「布を巻くと、舞踏会では綺麗ですが、届け先で土が乾きにくくなることがあります。見た目より、後で育てやすいほうを優先したいです」
リディアは小さく頷いた。
「その方針で進めましょう。飾り布は不要。受け皿は統一。配送先ごとに、花の種類と世話の手順を書いた札をつけてください」
「はい」
セシリアはすぐに書き留める。
その表情は真剣だった。
以前のリディアなら、セシリアのこうした姿を見て、胸が痛んだかもしれない。
王太子に愛された女性。
自分の代わりに選ばれた女性。
その印象が、どうしても先に立った。
けれど今は、少し違う。
目の前にいるのは、花のことをよく知る担当者だった。
まだ未熟で、時々言葉に迷い、周囲の視線を怖がる。けれど、自分にできることを探し、それを仕事として形にしようとしている人。
その姿を、リディアは不思議な気持ちで見ていた。
「セシリア様」
「はい」
「この鉢植えの候補表、よくできています」
セシリアの手が止まった。
「本当ですか?」
「はい。施療院向き、孤児院向き、会場向き、運搬注意。分類がわかりやすいです」
セシリアは、ぱっと笑いかけて、それから少し恥ずかしそうに笑みを抑えた。
「ありがとうございます。昨夜、少し作り直したのです」
「無理はしていませんか」
リディアが尋ねると、セシリアは一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ目元を和らげた。
「少しだけ。でも、嫌な無理ではありませんでした」
「嫌な無理?」
「はい。以前は、殿下に喜んでいただくために、無理をして明るくしていたことがありました。でも今回は……考えていたら、自然と時間が過ぎてしまって」
そこでセシリアは、はっとしたように口を閉じた。
王太子の話題を出してしまったことに気づいたのだろう。
リディアも、一瞬だけ胸の奥が小さく動いた。
けれど、痛みは以前ほど鋭くなかった。
「それは、よい仕事の疲れですね」
リディアは静かに言った。
セシリアは、少し驚いた顔でリディアを見る。
「……はい」
小さな返事だった。
そのとき、準備室の外が少しざわついた。
扉の向こうで従者の声がする。
次いで、部屋の中にいた女官が姿勢を正した。
「王太子殿下がお見えです」
空気が変わった。
リディアの手も、一瞬だけ止まる。
エドワード。
最近は会議で顔を合わせることも減っていた。王都冬季灯火網の正式会議には出席しなかったし、渡り灯の報告も書面で済んでいる。
避けているのか、距離を取っているのか。
どちらにしても、リディアにはありがたかった。
まだ、完全に平気ではない。
だが今日は仕事の場だ。
彼女は小冊子を机に置き、静かに姿勢を正した。
扉が開き、エドワードが入ってきた。
王太子としての装いは整っている。だが、以前より少し疲れて見えた。顔色が悪いわけではない。けれど、目元に迷いの影がある。
彼は部屋にいる面々へ視線を巡らせ、まずローゼン侯爵夫人とグレイス伯爵夫人に会釈した。
そして、リディアへ。
「宰相夫人」
「殿下」
リディアは礼を取った。
宰相夫人として。
それ以上でも、それ以下でもなく。
エドワードの目が一瞬だけ揺れたが、彼はすぐに視線をセシリアへ移した。
「セシリア。ここにいると聞いた」
「はい、殿下」
セシリアは少し緊張して礼をする。
以前なら、彼女はそこで明るく駆け寄っていたかもしれない。
花飾りを見せたり、少し甘えた声で話したりしたかもしれない。
だが今日は違った。
彼女は帳面を胸に抱えたまま、仕事の席から離れなかった。
エドワードも、それに気づいたようだった。
「舞踏会の花を見ているのか」
彼が尋ねる。
セシリアは一瞬だけ、いつものように「はい、可愛いでしょう?」と言いかけたのかもしれない。
だが、言葉を変えた。
「花ではなく、用途印と現場へ届ける鉢植えの確認です」
エドワードは瞬きをした。
「用途印?」
「はい」
セシリアは机の上の小冊子を手に取った。
「寄付が何に使われるかを示す印です。薪、灯具、外套、薬湯、修繕、橋番の夜食……それぞれに小さな花印をつけました。会場の方々が支援先を選びやすいように」
彼女は少し早口になっていた。
緊張しているのだろう。
リディアは口を挟まなかった。
ここはセシリアが説明する場所だ。
エドワードは、小冊子を受け取った。
山茶花の印、星形の花、綿花、薬草。
それを一つずつ見ていく。
「これは……君が考えたのか」
「はい」
セシリアは小さく頷いた。
「宰相夫人に採用していただきました」
その言い方に、リディアは少し胸が揺れた。
私が採用した。
けれど、考えたのはセシリア。
彼女はそこを間違えなかった。
エドワードは小冊子から顔を上げた。
「よく考えられている」
セシリアの目が、少しだけ見開かれた。
その表情を見て、リディアはふと気づいた。
セシリアは、王太子に褒められ慣れているのだと思っていた。
可愛い、明るい、君らしい。
そうした言葉は、きっと何度ももらっていた。
だが今の「よく考えられている」は、それとは違うのだろう。
セシリアは小さく息を吸った。
「ありがとうございます」
声が、少し震えていた。
エドワードも、それに気づいたようだった。
彼は何か言いかけ、少し言葉を探した。
以前なら、軽く笑って「君らしいな」と言ったかもしれない。
だが今日は、違った。
「セシリア」
「はい」
「私は、君の花を見ていたつもりで、君が何を考えて選んでいたのかを見ていなかったのかもしれない」
準備室が静かになった。
リディアは、視線を資料へ落とした。
これは、二人の会話だ。
自分が聞いてよいものか少し迷ったが、部屋を出るほどの場でもない。仕事の場であり、周囲にも人はいる。
セシリアは、帳面を握る手に力を込めた。
「殿下」
「可愛い花だと、私はよく言った」
エドワードは続けた。
「だが、それがどの季節の花で、どの部屋に向くのか、香りが強いのか、誰に負担をかけるのか。そういうことを、君が考えていたかもしれないと……考えもしなかった」
セシリアは、すぐには答えなかった。
その横顔は、少し痛そうだった。
けれど、どこかほっとしたようにも見えた。
「私も」
彼女は小さく言った。
「私も、自分がそこまで考えているとは思っていませんでした。ただ、可愛い花を選んでいるだけだと」
彼女は小冊子の花印へ視線を落とす。
「でも、リディア様に仕事として扱っていただいて……初めて、自分が知っていたことに気づきました」
リディアは、心の中で静かに息を吸った。
仕事として扱う。
その言葉は、自分にも深く響いた。
エドワードはリディアへ視線を向けた。
そこには、感謝と後悔が混じっていた。
「宰相夫人」
「はい」
「セシリアの案を、仕事として扱ってくれたことに感謝する」
その言葉を聞いて、リディアの胸に複雑な波が立った。
感謝されることではない。
そう言いそうになった。
けれど、違う。
これは感謝を受け取る場面かもしれない。
リディアは静かに答えた。
「セシリア様の案が、仕事として有用だったからです」
エドワードは少しだけ目を伏せた。
「そうか」
「はい」
「……そうだな」
彼は小さく頷いた。
セシリアは、そのやり取りを見ていた。
かつてなら、リディアとエドワードが話すだけで不安になったかもしれない。
だが今の彼女は、小冊子を抱えたまま、少しだけ背筋を伸ばしていた。
自分の役割がある。
それが、彼女をその場に立たせているように見えた。
そのとき、ファーネル侯爵夫人が柔らかな声で口を挟んだ。
「殿下、セシリア様の花印は本当に愛らしいのです。きっと舞踏会の場でも、皆様の心を和ませるでしょう」
まただ。
愛らしい。
心を和ませる。
それも間違いではない。
しかし、それだけに戻してはいけない。
セシリアが何か言う前に、エドワードが口を開いた。
「心を和ませるだけではないだろう」
ファーネル夫人の扇が止まった。
エドワードは小冊子を見ながら続ける。
「用途を示す印だ。寄付者に、何を支えるかを選ばせる。これは舞踏会の飾りではなく、支援の導線だと思う」
導線。
その言葉は、王都冬季灯火網の会議で何度も使われた言葉だった。
リディアは、少しだけ驚いた。
エドワードは、ちゃんと報告を読んでいる。
そして今、セシリアの案を“可愛い飾り”ではなく“支援の導線”として見ようとしている。
ファーネル夫人は、すぐに微笑みを戻した。
「まあ、殿下のおっしゃる通りですわ。わたくしも、その意味で申し上げたのです」
「ならよい」
エドワードはそれ以上追及しなかった。
だが、十分だった。
セシリアは、王太子を見つめていた。
その顔には、驚きと、少しの喜びと、まだ信じきれない戸惑いがあった。
エドワードは彼女の視線に気づき、少しだけ声を落とした。
「セシリア。後で、この印の意味をもう少し聞かせてくれ」
「……はい」
彼女の返事は、以前の甘い響きではなかった。
もっと静かで、でも確かなものだった。
打ち合わせが終わると、エドワードはすぐに退出した。
王太子として別の予定があるのだろう。
彼が部屋を出たあと、準備室にはしばらく不思議な余韻が残った。
セシリアは、自分の帳面を見つめたまま黙っていた。
リディアは、そっと声をかける。
「セシリア様」
「はい」
「大丈夫ですか」
セシリアは顔を上げる。
その目元は、少し赤かった。
「大丈夫……です。たぶん」
彼女は小さく笑った。
「殿下に、可愛いではなく、よく考えられていると言われたのは初めてかもしれません」
その言葉に、リディアは胸が少し痛んだ。
可愛い。
それは人を喜ばせる言葉にもなる。
けれど、それだけで閉じ込める言葉にもなる。
リディアが“正しい”に閉じ込められていたように、セシリアは“可愛い”に閉じ込められていたのかもしれない。
「よい案でしたから」
リディアは言った。
「殿下も、それを見られたのだと思います」
「……そうなら、嬉しいです」
セシリアは、小冊子を胸に抱いた。
「私、もう少し頑張ります。花のことだけでも、ちゃんと仕事にしたいです」
「花のことだけ、ではありません」
リディアは静かに首を振った。
「花のことを、仕事にするのです」
セシリアは、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷く。
「はい」
その返事は、まっすぐだった。
宰相家へ戻る馬車の中で、リディアは今日の出来事を思い返していた。
エドワードがセシリアを見る目が、少し変わった。
リディアを見る目も、かつてとは違っていた。
過去が消えたわけではない。
彼がリディアを傷つけた事実も、セシリアが不安のためにリディアを冷たい人だと思い込んでいた事実も、消えない。
でも、人は少しずつ見方を変えることができるのかもしれない。
リディアも、変わった。
セシリアも、変わろうとしている。
エドワードも、遅すぎるほど遅くても、何かを見直し始めている。
その全てを、簡単に許しや感動でまとめるつもりはなかった。
けれど、今日の準備室で一つだけ確かだったことがある。
セシリアは、花を贈るだけの彼女ではなかった。
それを王太子が初めて見た。
そのことは、きっと彼女にとって大きな一歩になる。
宰相家へ戻ると、アルベルトが執務室で待っていた。
リディアが報告すると、彼は黙って聞いた。
「王太子が、セシリア様の案を支援の導線だと言いました」
そう告げると、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「報告を読んではいるようだな」
「はい」
「なら、王太子としては前進だ」
その言い方があまりにも実務的で、リディアは少しだけ笑った。
「旦那様は、やはり厳しいですね」
「事実だ」
「でも、今日はセシリア様にとって大切な日だったと思います」
「君にとっては?」
不意に問われ、リディアは少し言葉に詰まった。
「私に?」
「ああ」
リディアは考えた。
胸は少し痛んだ。
でも、ひどく苦しいわけではなかった。
むしろ、セシリアが仕事として認められる場に立ち会えたことに、静かな安心があった。
「私にとっても……たぶん、大切な日でした」
「そうか」
「セシリア様を、過去の痛みだけで見なくてもいいのだと、少し思えました」
アルベルトは黙って聞いている。
「許すとか、仲良くなるとか、そういうことはまだわかりません。でも、彼女の仕事は見られる。そう思えました」
「それで十分だ」
短い言葉だった。
だが、リディアには十分だった。
「旦那様」
「何だ」
「私は、少しずつ人を見るのが怖くなくなっている気がします」
「人を見る?」
「はい。父も、殿下も、セシリア様も、ファーネル侯爵夫人も……以前は、見るだけで傷つく気がしていました。でも今は、その人が何をしているか、何を望んでいるか、少しずつ分けて見られるようになっています」
アルベルトは静かに頷いた。
「それは強くなっているということだ」
「強く」
「ああ」
「……私が?」
「君が」
あまりにも迷いなく言われ、リディアは胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
「事実だ」
「はい」
今度は、素直に受け取れた。
その夜、リディアは小冊子の試し刷りを一冊だけ自室に持ち帰った。
エマに「今日は書類は見ないのでは」と少しだけ視線で言われたが、これは書類ではなく確認用の冊子だと言うと、エマは少しだけ呆れたように微笑んだ。
寝る前、リディアは花印の頁を開いた。
薪。灯具。外套。薬湯。修繕。橋番の夜食。
花は飾りではなく、役割を示す印になる。
そして人も、誰かの隣を飾るだけではない。
リディアは冊子を閉じ、そっと机の上に置いた。
王都の冬はまだ長い。
けれど、灯りは少しずつ増えている。
火だけではなく。
橋の手灯りだけでもなく。
誰かが自分の役割を見つける、その小さな瞬間もまた、ひとつの灯りなのかもしれない。




