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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第75話 花は飾りではなく、役割を示す印になる

 セシリアの花印案は、思っていた以上に早く慈善婦人会へ広がった。


 もちろん、最初から好意的に受け止められたわけではない。


 貴婦人たちの反応は、実にさまざまだった。


「まあ、可愛らしいですわね」と素直に微笑む者。

「舞踏会の品格にしては、少し素朴すぎませんこと」と首を傾げる者。

「用途別の印だなんて、商会の帳簿みたい」と小さく笑う者。

 そして、ファーネル侯爵夫人のように、完璧な笑みを浮かべたまま沈黙する者。


 その沈黙が、一番厄介だった。


 リディアは、王宮内の小サロンで開かれた打ち合わせの席に、セシリアの図案を並べた。


 薪を示す山茶花。

 灯具を示す星形の花。

 外套を示す綿花。

 薬湯を示す薬草の葉。

 修繕を示す蔦と釘。

 橋番の夜食を示す小麦の穂。


 どれも小さい。

 主張しすぎない。

 けれど、一目で区別できる。


 紙面の端に小さく添えるだけで、寄付がどこに使われるのかが見える。


 それは、リディアが考えていた用途別記録に、柔らかな入口を作るものだった。


「この印を、小冊子の用途一覧に使います」


 リディアは説明した。


「寄付者名を大きく並べるのではなく、何に支援が届くかを示すための印です。薪なら山茶花、灯具なら星形の花。舞踏会の場で長い説明を読まなくても、支援の行き先が見えるようにします」


 グレイス伯爵夫人が、星形の花印を手に取った。


「これは素敵ですわ。灯具だと、すぐにわかりますもの」


「それに、柔らかいですわね」


 ローゼン侯爵夫人も頷いた。


「数字だけの記録より、初めて支援に参加する方には入りやすいでしょう」


 リディアは、静かに胸を撫で下ろした。


 ローゼン夫人とグレイス夫人が理解してくれれば、場は少し安定する。

 だが問題は、その先だった。


 ファーネル侯爵夫人が、ゆっくり扇を閉じる。


「可愛らしい案ですわ。けれど、少し……若い方らしすぎませんこと?」


 声は柔らかい。


 だが、言葉の端には棘がある。


「舞踏会にいらっしゃるのは、王都の名だたる方々です。あまりにも愛らしい印では、子どもの慈善遊びのように見られてしまうのではないかしら」


 数人の夫人が、微妙な顔で図案を見た。


 リディアはすぐには反論しなかった。


 こういうとき、強く否定すれば、かえって「やはり若い感覚に固執している」と見られる。ファーネル夫人は、それを狙っている。


 だから、リディアは図案を一枚取り上げた。


「おっしゃる通り、印は愛らしすぎると軽く見えます」


 ファーネル夫人の目がわずかに動いた。


「ですから、色数を抑えます。線も少し細くし、装飾ではなく目印として使います。大きく飾るのではなく、小冊子の項目横に置く程度です」


「それなら、花である必要がございます?」


 別の夫人が尋ねた。


「薪なら薪の絵、灯具なら灯具の絵でよいのでは」


「それでも機能します」


 リディアは頷いた。


「ただ、舞踏会の場で配る小冊子としては、あまり直接的な絵ばかりですと、報告書に近くなりすぎます。花印は、社交の場に馴染ませながら用途を示すためのものです」


 そこへ、セシリアが小さく手を上げた。


 今日は彼女も打ち合わせに参加していた。


 淡い黄色のドレス。派手すぎず、けれど彼女らしい明るさがある。以前のように、ただ場を華やかにするためだけの装いではない。胸元の飾りも控えめで、手元には自分で描いた図案をまとめた小さな帳面を持っていた。


 彼女は少し緊張した顔で口を開いた。


「発言してもよろしいでしょうか」


 リディアが頷く。


「もちろんです」


 セシリアは一瞬、リディアを見た。


 その目には、まだ遠慮がある。

 そして、少しの覚悟もあった。


「私は、花が好きです」


 セシリアは言った。


「でも、今回の印は、花を見せるために描いたものではありません。小冊子を開いた方が、これは何の支援なのかを少しでも早くわかるようにしたくて……その、花なら、夜会の席でも目に入りやすいと思いました」


 言葉は少し拙い。


 リディアのように整ってはいない。

 けれど、セシリア自身の言葉だった。


「たとえば、薪の印に山茶花を選んだのは、冬でも咲く花だからです。薪は火のためのものですが、ただ木の束を描くより、冬を越す印にしたいと思いました。灯具は星形の花にしました。夜に目印になるものだから」


 夫人たちが、図案へ視線を戻す。


 セシリアは続けた。


「外套は綿花です。暖かさを示したくて。薬湯は薬草の葉。修繕は……蔦と釘です。花ではなくてもよいかと思ったのですが、修繕だけ硬い印にすると、そこだけ目立ちすぎるので」


 そこで彼女は、少しだけ頬を赤くした。


「すみません。説明が下手で」


「いいえ」


 グレイス伯爵夫人がすぐに言った。


「とてもよくわかりましたわ」


 ローゼン侯爵夫人も静かに頷く。


「印に意味があるなら、子どもっぽくは見えません。むしろ、覚えやすい」


 ファーネル侯爵夫人は、まだ笑っていた。


「セシリア様は、本当にお花がお好きなのですね」


 その言い方には、柔らかい称賛と、少しの軽視が混じっていた。


 花のことしかわからない娘。


 そう言外に含ませている。


 リディアは、その響きを聞き逃さなかった。


 以前なら、セシリアを守るような発言をすることに迷ったかもしれない。

 自分が庇えば、かえって変に見えるのではないか。

 過去を知る者たちに何を噂されるか。


 けれど今、目の前にあるのは仕事だった。


 セシリアの案は、使える。

 そして彼女は、花を飾りではなく役割に変えようとしている。


 なら、その仕事は守るべきだ。


「花を好きであることは、今回の担当に必要な知識です」


 リディアは静かに言った。


 ファーネル夫人の視線がこちらへ向く。


「花の種類、季節、香りの強さ、世話のしやすさ、会場での見え方、舞踏会後に運べるかどうか。これらは装飾だけではなく、実務です。セシリア様はその点で、私たちより詳しい」


 セシリアが驚いたようにリディアを見る。


 リディアは続けた。


「この印は、帳簿の記録を読ませるための入口になります。花をただ美しく使うのではなく、支援の用途を示すために使う。私は、この案を採用したいと思います」


 ファーネル夫人は、ゆっくり扇を開いた。


「宰相夫人がそこまでおっしゃるなら、異論はございませんわ」


 異論はない。

 だが納得したわけではない。


 その声を聞きながら、リディアは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 その後の打ち合わせでは、花印の色と配置を決めた。


 色は抑える。

 小冊子の各項目横に置く。

 寄付箱にも同じ印を使い、薪、灯具、薬湯など支援先を選べるようにする。

 舞踏会後、集計時にも同じ印を使い、どの用途へどれだけ集まったかを見せる。


 セシリアは、思ったよりよく動いた。


 最初は遠慮がちだったが、花や配置の話になると、少しずつ言葉が増えた。


「香りの強い花は、施療院には向きません。具合の悪い方には負担になります」

「孤児院なら、世話が簡単なものがよいです。水やりを子どもたちの負担にしてしまうとよくないので」

「会場の鉢植えは、背の高いものを減らしたほうがいいと思います。視界を遮ると、かえって圧迫感が出ます」

「舞踏会後に運ぶなら、鉢の重さも確認が必要です。見た目だけで大きな鉢を選ぶと、運搬費が増えます」


 リディアは、そのたびに内心で少し驚いた。


 セシリアは、ただ華やかなものを好むだけではない。

 花に関することなら、現実的な視点も持っている。


 それを、彼女自身も知らなかったのかもしれない。


 あるいは、これまで誰も“仕事”として求めなかったのかもしれない。


 打ち合わせが終わるころには、花印の採用と、鉢植え装飾の試算作成が決まった。


 貴婦人たちが席を立つ中、セシリアは少しだけその場に残った。


 リディアも資料を揃えていたため、自然と二人だけの距離が近くなる。


 もちろん、完全な二人きりではない。

 部屋の隅には女官もいるし、扉の外には従者も控えている。


 それでも、今までより少しだけ静かな時間だった。


「リディア様」


 セシリアが小さく呼んだ。


 リディアは手を止める。


「はい」


「先ほどは……ありがとうございました」


「花印の件ですか」


「はい」


 セシリアは、両手で帳面を抱えた。


「私、少し怖かったのです。花のことしか言えないと笑われる気がして」


 リディアは彼女を見た。


 その不安は、本物だった。


「でも、花のことを知っているからこそできる仕事があります」


 リディアは言った。


「今日は、それがよくわかりました」


 セシリアの目が揺れる。


「本当に、そう思われますか」


「はい」


「……嬉しいです」


 小さな声だった。


 それは、以前の華やかな笑顔とは違っていた。

 もっと静かで、もっと危うく、けれど本当の喜びに近い表情だった。


 リディアは少しだけ言葉を探した。


 優しくしすぎるのは違う。

 突き放すのも違う。


 彼女たちは、すぐに友人になるわけではない。

 過去が消えるわけでもない。


 でも、同じ仕事の中で役割を持つことはできる。


「セシリア様」


「はい」


「小冊子の花印については、あなたが担当です。ですから、次回までに清書案と、鉢植えの候補を三種類ほど出していただけますか」


 セシリアは一瞬、驚いた顔をした。


 それから、まっすぐ頷いた。


「はい。やります」


 その返事は、可愛らしいというより、真剣だった。


 リディアは静かに頷く。


「お願いします」


 そのやり取りを、少し離れた場所でローゼン侯爵夫人が見ていた。


 彼女は何も言わなかったが、目元にわずかな笑みを浮かべていた。


 王宮からの帰り道、リディアは馬車の中で図案の写しを見ていた。


 花印は、小さなものだ。


 王都冬季灯火網の中では、本当に些細な役割かもしれない。

 薪や灯具や橋番の配置に比べれば、直接命を救うものではない。


 けれど、その小さな印があることで、人は支援の行き先を知る。


 何に自分の寄付が使われるのかを、少しだけ身近に感じる。


 それは、善意を飾りだけにしないための道標になる。


 セシリアらしい仕事だと思った。


 宰相家へ戻ると、アルベルトは作業室にいた。


 彼はリディアが持ち帰った図案を見て、静かに頷いた。


「通ったか」


「はい。採用されました」


「ファーネル侯爵夫人は」


「笑っていました」


「怒っているな」


「はい」


 最近、このやり取りが少し定番になってきた気がする。


 リディアは思わず小さく笑った。


 アルベルトがこちらを見る。


「何だ」


「いえ。旦那様と話していると、ファーネル侯爵夫人の笑顔の温度がわかりやすくなってきた気がします」


「それはいい」


「いいのでしょうか」


「敵意を見抜けるのは必要だ」


「また実務ですね」


「他に何がある」


 真顔で返される。


 リディアは図案を机に並べた。


「セシリア様は、よい仕事をされました」


「ああ」


「少し、驚きました。あの方は、ただ華やかなものが好きな方だと思っていました」


「人は、役割を与えられて初めて見える部分がある」


 アルベルトの言葉に、リディアは手を止めた。


「役割を与えられて」


「君もそうだっただろう」


 その言葉に、リディアは少し胸が詰まった。


 王太子妃候補という役割。

 侯爵家の娘という役割。

 宰相夫人という役割。

 そして今、冬季灯火網を作る者としての役割。


 役割は、人を縛ることもある。

 けれど、人を開くこともある。


 どちらになるかは、その役割が相手を見ているかどうかで変わるのかもしれない。


「セシリア様は、王太子殿下の隣を飾る花ではなく、仕事の印を描く人になろうとしているのかもしれません」


 リディアが言うと、アルベルトは少しだけ目を細めた。


「その言い方は悪くない」


「褒められましたか」


「褒めた」


 あまりにも素直に認められて、今度はリディアのほうが言葉に詰まった。


 アルベルトの口元が、ほんのわずかに動く。


「君も、私の顔に慣れてきたのではなかったのか」


「……そういうお顔は、まだ慣れていません」


「そうか」


 彼は視線を外した。


 まただ。


 その顔に、リディアの胸がふわりと揺れる。


 だが今日は、逃げなかった。


「旦那様」


「何だ」


「セシリア様の花印を見ていて、思いました」


「何を」


「花は、飾りにもなります。でも、印にもなります。使い方で、意味が変わるのですね」


「そうだな」


「私も、以前は誰かの隣に置かれる飾りのように感じていました」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


 でも、続けた。


「でも今は、少しずつ違う役割を持てている気がします」


 アルベルトは静かに聞いていた。


「それは、旦那様が私を飾りとして扱わなかったからだと思います」


 部屋の空気が、少し止まる。


 アルベルトの目が、リディアを見る。


「私は、君を飾るつもりで迎えたわけではない」


「はい」


「利用するつもりもなかった」


「はい」


「ただ……」


 彼は言葉を止めた。


 リディアは待った。


 最近、待つことが少しだけできるようになってきた気がする。


 アルベルトは、やがて低く言った。


「君が息をできる場所にしたかった」


 胸の奥が、静かに震えた。


 リディアはすぐには答えられなかった。


 この人は、時々こういうことを言う。


 何の前触れもなく。

 飾り気もなく。

 だからこそ、逃げ場がないほど真っ直ぐに。


「……そういうことをおっしゃるから」


 リディアは小さく言った。


「私は、どうしていいかわからなくなります」


「慣れろ」


「まだ無理です」


「私も慣れていない」


 その返事があまりにも正直で、リディアは少しだけ笑った。


 でも、目元が熱い。


「では、一緒に慣れるしかありませんね」


 言った瞬間、アルベルトが完全に言葉を失った。


 リディア自身も、言ってから驚いた。


 一緒に。


 自然に出た言葉だった。


 夫婦なのだから当たり前のはずなのに、その響きは今までになく深かった。


 アルベルトは、しばらく沈黙したあと、低く答えた。


「そうだな」


 それだけだった。


 けれど、その一言だけで、リディアの胸はいっぱいになった。


 夜、温室へ行くと、ブルースターの花が静かに咲いていた。


 リディアはその花を見ながら、セシリアの花印を思い出した。


 花は飾りではなく、役割を示す印になる。


 人もまた、誰かの隣を飾るだけで終わらなくていい。


 リディアも。

 セシリアも。


 それぞれ別の形で、ようやく自分の場所を探し始めている。


 そしてリディアの隣には、彼女を飾りとしてではなく、息をする人間として見てくれる人がいる。


 そのことが、今夜は何より温かかった。

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