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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第74話 セシリアから届いた、花ではなく仕事の手紙

 王都冬季灯火網の会議から二日後、宰相家へ一通の手紙が届いた。


 封蝋を見た瞬間、リディアは指先を止めた。


 王家の正式な紋ではない。

 けれど、王宮に出入りする者なら見覚えのある、淡い花の意匠。


 セシリア・ラングフォード。


 王太子エドワードのそばにいる令嬢。

 かつて、リディアが王太子の隣から退くきっかけになった人。


 ハロルドは何も言わず、銀の盆の上に封書を載せていた。

 エマも、リディアの横顔を静かに見守っている。


 作業室には、北区と東区の報告書が積まれていた。王都冬季灯火網の記録帳も作り始めたばかりで、机の上は紙で埋まっている。


 今は仕事の時間だ。


 そう思えば、読まずに後回しにすることもできる。


 だが、封書は妙に軽かった。


 軽いのに、重い。


 リディアはしばらくそれを見つめ、そっと息を吸った。


「……開けます」


 自分に言い聞かせるように言うと、エマが小さく頷いた。


「はい」


 封を切る。


 便箋には、セシリアらしい柔らかな筆跡が並んでいた。丸みを帯びた字。以前なら、少し幼く見えたかもしれない。けれど今日は、不思議と丁寧に見えた。


 ――宰相夫人リディア様。

 突然のお手紙をお許しください。

 まず、私はこの手紙を謝罪のためだけに書いているのではありません。もちろん、謝らなければならないことはたくさんあります。私は以前、あなたを冷たい方だと思い込んでいました。そう思うことで、自分が選ばれた理由を信じようとしていました。

 けれど今、その考えがどれほど幼かったか、少しずつわかってきました。

 あなたが王都のためにしていることを耳にするたび、私は自分が何も知らなかったのだと思います。

 ただ、私はあなたの代わりになりたいのではありません。なれないことも、ようやくわかりました。

 私は私にできることで、冬季灯火網と慈善舞踏会のお役に立ちたいのです。


 リディアは、そこで一度読む手を止めた。


 胸の奥に、複雑なものが広がる。


 謝罪のためだけではない。


 その書き出しが、かえってよかった。


 ただ謝られれば、リディアはまた受け取るかどうかを考えなければならない。許すべきか、距離を置くべきか、過去とどう向き合うべきか。


 けれどセシリアは、謝罪だけを差し出してこなかった。


 仕事の話を持ってきた。


 それが少し意外で、少しだけ救いでもあった。


 リディアは続きを読んだ。


 ――慈善舞踏会について、私にもできることを考えました。

 私は帳簿や制度作りは得意ではありません。けれど、夜会の空気や、貴族の方々がどんな言葉に耳を傾けやすいかは、少しだけわかります。

 華やかに飾りすぎれば、現場へ届くお金が減る。けれど、あまりにも堅い報告だけでは、寄付をする方々の心が遠のいてしまうかもしれません。

 ですから、現場報告を舞踏会の中で重くしすぎず、それでも忘れられない形にするお手伝いができないかと思いました。

 具体的には、招待客へ配る小冊子に、薪、灯具、外套、薬湯、修繕などを示す小さな花印をつけてはどうでしょうか。花は飾りではなく、用途の印です。

 また、会場の花も切り花ではなく、鉢植えにして、舞踏会後に施療院や孤児院へ届ける形にできないでしょうか。豪華ではありませんが、窓辺に置けば少し明るくなります。

 もし許されるなら、私はその選定と手配を担当したいです。

 私にできることは小さいです。

 でも、花をただ殿下へ贈るだけではなく、誰かの窓辺へ残せる形にしたいと思いました。


 最後の一文で、リディアは長く黙った。


 花をただ殿下へ贈るだけではなく。


 その言葉に、セシリア自身の痛みが滲んでいた。


 彼女は、王太子を慰めるための花を贈っていた。

 明るく、可愛らしく、場を和ませるものとして。


 それが彼女の価値だと思っていたのかもしれない。


 だが今、その花を別の場所へ置こうとしている。


 誰かの窓辺へ。

 施療院へ。

 孤児院へ。


 リディアは便箋を机へ置いた。


 すぐには返事ができなかった。


 感情だけなら、複雑だ。


 セシリアを見れば、過去の痛みが完全に消えるわけではない。王太子の隣にいた彼女。自分が冷たいと思われることで、彼女が選ばれた理由を支えていたこと。そういうものは、今も胸のどこかに残っている。


 けれど、この提案そのものは悪くなかった。


 むしろ、かなりよい。


 花印で用途を示す。

 小冊子を重すぎず読ませる。

 切り花ではなく鉢植えにして、舞踏会後も現場に残す。


 それは、セシリアだから思いつける形だった。


「奥様」


 オスカーが控えめに声をかける。


「拝見してもよろしいでしょうか」


 リディアは少し迷ったが、頷いた。


「ええ。実務案として見てください」


 オスカーは手紙を読み、何度か目を止めた。


 読み終えると、彼は率直に言った。


「これは使えます」


「そう思う?」


「はい。小冊子に用途別の印をつける案は、かなりよいです。文字ばかりですと、夜会で読む方は少ないでしょう。花印で薪や灯具を示せば、視覚的に伝わります」


「鉢植えは?」


「切り花より費用は抑えられる可能性があります。ただし運搬と管理が必要です。施療院や孤児院側が受け取れるか確認しなければなりません」


「そうね」


「ですが、舞踏会後も残る装飾という意味では、奥様の方針に合います。飾りを飾りで終わらせない」


 飾りを飾りで終わらせない。


 その言葉に、リディアは小さく頷いた。


「ファーネル侯爵夫人は、どう思うかしら」


「反対はしづらいかと」


 オスカーは冷静に答えた。


「花を減らすのではなく、花の意味を変える提案です。しかもセシリア様からの案となれば、社交界での響きもよい」


「セシリア様の名を、使うことにならない?」


 思わずそう尋ねていた。


 オスカーは少しだけ目を細めた。


「ご本人が望み、役割が明確で、実際に仕事をなさるなら、“使う”のとは違うと思います」


 リディアは便箋を見つめた。


 役割が明確で、実際に仕事をする。


 王妃が言ったことにも繋がる。


 仕事をした者の名を消してはいけない。


 セシリアもまた、自分の仕事を探しているのかもしれない。


「旦那様に相談します」


 リディアは手紙を持って執務室へ向かった。


 アルベルトは机に向かっていたが、彼女が入るとすぐに顔を上げた。


「何かあったか」


「セシリア様から手紙が届きました」


 アルベルトの表情は変わらなかった。


 だが、目だけが少し鋭くなる。


「読んだのか」


「はい」


「気分は」


 まずそれを聞く。


 リディアは少しだけ息を整えた。


「複雑です」


「そうだろうな」


「でも、提案自体は悪くありません」


 手紙を差し出すと、アルベルトは黙って読んだ。


 読み終えるまで、部屋は静かだった。


 彼は便箋を机の上に置き、短く言う。


「使える」


「オスカーも同じことを言いました」


「実務としては妥当だ。小冊子の花印は有効だろう。鉢植えも、管理先があるなら悪くない」


「セシリア様の名前を出すべきでしょうか」


「出すなら役割と一緒に出せ」


「役割と」


「ああ。王太子の寵愛を受ける令嬢としてではない。花印と鉢植え装飾の担当者としてだ」


 その区別は、とても大事に思えた。


 セシリアを、誰かの隣にいる人としてではなく、担当を持つ人として扱う。


 それは、リディア自身が求めてきたものでもある。


「私は、彼女を許したいのかどうか、まだわかりません」


 リディアは正直に言った。


 アルベルトは頷いた。


「すぐに決める必要はない」


「でも、仕事の提案は受けてもいいのでしょうか」


「許すことと、仕事として評価することは別だ」


 その言葉に、リディアは少し目を伏せた。


 そうだ。


 王太子の謝罪を受け取ったことと、彼の隣へ戻るかどうかが別だったように。


 セシリアの提案を評価することと、過去をすべて許すことも別なのだ。


「君が嫌なら断ればいい」


 アルベルトは続けた。


「提案が有用でも、君を削ってまで受ける必要はない」


「……削られるほどではありません」


「本当に?」


 すぐに問われる。


 リディアは自分の胸の中を確かめた。


 痛みはある。

 けれど、それだけではない。


 セシリアの手紙を読んだとき、リディアは少し驚き、少し戸惑い、そして少しだけ安心した。


 彼女もまた、誰かの代わりではない場所を探している。


 それを踏みにじりたいとは思わなかった。


「はい」


 リディアは答えた。


「削られるのではなく……少し痛いけれど、見てみたいと思います。彼女が自分の仕事を持つところを」


 アルベルトはしばらく彼女を見ていた。


 やがて、低く言う。


「君は優しすぎる」


 リディアは小さく首を振った。


「たぶん、違います」


「違うのか」


「はい。これは優しさだけではありません」


 自分でも、言葉を探しながら続ける。


「セシリア様の提案が現場に役立つなら、受けるべきだと思います。それに……彼女が“リディアの代わり”ではなく、彼女自身の仕事を持てるなら、そのほうが王宮にとってもよいはずです」


「そこまで考えるのは優しさでは?」


「仕事です」


 リディアがそう返すと、アルベルトが一瞬黙った。


 そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


「そうか」


「はい」


「なら、仕事として扱え」


 その言葉に、リディアは頷いた。


 返書は、その日のうちに書いた。


 リディアは何度も文面を直した。


 優しすぎても違う。

 冷たすぎても違う。

 謝罪への返事にしすぎても違う。


 これは仕事の返事だ。


 だが、相手は傷を抱えて手紙を書いてきた人でもある。


 リディアは、最終的にこう書いた。


 ――セシリア様。

 お手紙を拝見いたしました。

 ご提案いただいた、小冊子への用途別花印、ならびに舞踏会後に現場へ届ける鉢植え装飾の案は、冬季灯火網の趣旨に合うものと考えます。

 実務として検討したく存じますので、花印の案と、鉢植えの種類・費用・運搬方法について、簡単な案をお送りいただけますでしょうか。

 なお、この件は慈善舞踏会の装飾担当ではなく、“用途案内および現場還元装飾”の担当として扱います。

 支援が飾りで終わらず、現場へ残る形になることを願っております。


 そこまで書いて、少し迷った。


 過去について、一言も触れないままでよいのか。


 許したとは書けない。

 だが、何も感じていないわけでもない。


 リディアは最後に短く加えた。


 ――このお手紙を、仕事の申し出として受け取ります。

 そのことに、私は少し救われました。


 書いたあと、胸が少し震えた。


 救われた。


 少し大げさだろうか。


 でも本当だった。


 セシリアがただ謝罪だけをしてきたのではなく、自分の役割を探す手紙を書いてくれたこと。

 それは、リディアにとっても救いだった。


 返書をアルベルトに見せると、彼は最後の一文で少しだけ目を止めた。


「入れるのか」


「はい」


「無理に優しくしていないか」


 リディアは少し考え、首を振った。


「していません。これは本当です」


「ならいい」


 封をして、ハロルドへ渡す。


 手紙が運ばれていくと、リディアは少しだけ息を吐いた。


 セシリアから届いたものは、花の手紙だった。

 けれど中身は、花ではなく仕事だった。


 それが、どこか今の彼女らしくないようで、今の彼女だからこそのものにも見えた。


 翌日、セシリアから驚くほど早く返事が届いた。


 今度は、便箋だけではなかった。


 小さな図案が何枚も添えられている。


 薪を示す小さな山茶花。

 灯具を示す星形の花。

 外套を示す白い綿花。

 薬湯を示す薬草の葉。

 修繕を示す蔦と釘の意匠。

 橋番の夜食を示す小麦の穂。


 華やかすぎず、しかし見やすい。


 下には、セシリアの字で説明が書かれていた。


 ――花が目立ちすぎると、用途が隠れてしまうので、小さくしました。

 ――冬薔薇は美しいですが、少し華美なので外しました。

 ――鉢植えは、寒さに強く、窓辺に置けるものを選びたいです。施療院には香りの強すぎないもの、孤児院には世話が簡単なものがよいかと思います。

 ――私は花のことしか詳しくありません。でも、花のことであれば、役に立てるかもしれません。


 リディアはその図案を一枚ずつ見た。


 綺麗だった。


 けれど、ただ綺麗なだけではなかった。


 用途が見える。

 現場へ残る。

 支援を受ける人の邪魔にならない。


 ちゃんと考えられている。


「……セシリア様は、花のことなら本当にお詳しいのね」


 リディアが呟くと、エマがそっと微笑んだ。


「奥様、少し嬉しそうでございます」


「そう?」


「はい」


 リディアは図案へ目を落とした。


 嬉しい。


 たしかに、少し。


 セシリアがリディアの代わりになろうとするのではなく、自分にできることを持ってきたことが。

 そして、それが本当に役に立ちそうなことが。


 リディアはその図案を持って、アルベルトの執務室へ向かった。


 彼は図案を見て、短く言った。


「採用でいい」


「早いですね」


「使える」


「旦那様は本当に実務評価が早いです」


「迷う理由がない」


 そう言いながら、彼は星形の花印を一枚手に取った。


「これは灯具か」


「はい」


「わかりやすい」


「そうですね」


「君の小冊子に合う」


 リディアは、その言葉に少し胸が温かくなった。


 自分の小冊子。

 セシリアの花印。


 別々のものが、ひとつの仕事になろうとしている。


「旦那様」


「何だ」


「私は、セシリア様と仲良くなりたいわけではないのだと思います」


「そうか」


「でも、同じ仕事の中で、別の役割を持つことはできるのかもしれません」


「それでいい」


 アルベルトは図案を机へ置いた。


「無理に近づく必要はない。だが、役割があるなら組める」


「はい」


「それも線だ」


 その言葉に、リディアは頷いた。


 近づきすぎない。

 遠ざけすぎない。

 仕事として関わる。

 役割を認める。


 それもまた、線なのだ。


 夜、温室でブルースターを見ていると、リディアはセシリアの花印を思い出した。


 花は、飾りになる。

 慰めにもなる。

 人を惑わせる甘い演出にもなる。


 でも、目印にもなる。


 支援がどこへ届くのかを示す、小さな印にも。


 人も同じなのかもしれない。


 誰かの隣を飾るだけだった人が、自分の役割を持つこともある。

 誰かの代わりとして見られていた人が、自分の名で仕事をすることもある。


 リディアも。

 セシリアも。


 きっと違う形で、それを探している。


 温室の扉が開き、アルベルトが入ってきた。


「ここにいたか」


「はい」


「今日は疲れていないか」


「少し。でも、悪い疲れではありません」


「そうか」


 リディアはブルースターから目を上げた。


「セシリア様の花印、よい案でしたね」


「ああ」


「少し、安心しました」


「何に」


「彼女が、彼女自身の役割を持てそうなことに」


 アルベルトは少しだけ黙った。


「君はやはり優しい」


「仕事です」


「そうだったな」


 その声に、ほんのわずかな笑みが混じったように聞こえた。


 リディアはそれだけで、また少し胸が落ち着かなくなる。


 けれど今日は、その落ち着かなさも嫌ではなかった。


 花ではなく、仕事の手紙。


 それは、過去をなかったことにはしない。

 けれど、過去だけで相手を閉じ込めるものでもない。


 リディアはそのことを、静かに受け止めていた。

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