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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第73話 王都に広がる灯火網

 王妃からの呼び出しは、東区の渡り灯が二夜目を越えた朝に届いた。


 封書は、いつもの王妃付き女官の手で宰相家へ運ばれてきた。白い封蝋に王妃の紋章。余計な装飾のない、けれど誰が見ても軽く扱えない封書だった。


 リディアは作業室で東区の追加報告を読んでいた。


 昨夜は、渡橋利用者二組。

 引き返しなし。

 橋番一名が手の冷えを訴え、交代時間をさらに短縮。

 灯具の雨覆いは職人の修正により改善。

 記録票の濡れ防止板は有効。

 帰路状態欄、現場から「使いやすい」との返答あり。


 まだ小さな試験運用だ。

 けれど、少しずつ形になっている。


 その報告を読み終えた直後だった。


「奥様、王妃陛下よりお手紙です」


 ハロルドの声に、部屋の空気が変わった。


 オスカーがペンを止める。

 エマも茶器を置く手を一瞬だけ止めた。


 リディアは封書を受け取った。


 封を切る指先は、少し緊張していた。けれど、以前のようにただ怯える緊張ではない。


 王妃からの手紙を読むことは、今でも怖い。

 だがその怖さの中に、自分の仕事を見られる緊張がある。


 それは、悪いものではなかった。


 ――宰相夫人。

 北区冬の灯火所、ならびに東区渡り灯の初期報告を確認しました。

 両制度は性質こそ異なりますが、いずれも冬季夜間支援として一定の成果を示し始めています。

 ついては、王宮慈善局にて、北区および東区の試験運用をもとに、王都全体の冬季支援網について協議を行います。

 あなたも出席なさい。

 ただし、成功を誇る場ではありません。次に火を灯すため、どこに火を置き、どこには置かぬかを決める場です。


 読み終えて、リディアは手紙を静かに机へ置いた。


 王都全体の冬季支援網。


 言葉としては、以前から何度か出ていた。慈善局の若い官吏も、婦人会の一部も、王都全区へ灯火所を作るべきだと言っていた。


 だが、そのときリディアは止めた。


 北区の成功を、そのまま全区に広げてはいけない。

 東区には東区の形がある。

 同じ看板を増やすことが慈善ではない。


 そう言った。


 そして今、王妃はその先へ進めようとしている。


 北区と東区を並べ、同じにしないまま、一つの網として考える。


「王妃陛下は、何と?」


 オスカーが尋ねた。


「王都全体の冬季支援網について協議するそうです」


「全体……」


 オスカーの顔が、少し引き締まった。


「ついに、そこまで」


「ええ」


 リディアは手紙をもう一度見た。


「ただし、王妃陛下は成功を誇る場ではないと書いておられます。どこに火を置き、どこには置かないかを決める場だと」


「置かないことも決める」


「はい」


 その言葉に、リディアは少しだけ救われた。


 全体へ広げる、と言えば、人はどうしても増やすことばかり考える。けれど王妃は、置かないことも含めて決めよと言っている。


 それはきっと、焦る善意を止めるために必要な考え方だった。


「旦那様は?」


「執務室にいらっしゃいます」


「お見せします」


 リディアが立ち上がると、エマがすぐ外套ではなく肩掛けを手に取った。


「奥様、廊下が少し冷えますので」


「すぐそこよ」


「すぐそこでも、冷えます」


 その言い方があまりにも自然だったので、リディアは逆らわなかった。


 執務室へ行くと、アルベルトは財務局からの書類を読んでいた。リディアが入る前に、いつものように声をかける。


「入ってもよろしいでしょうか」


「入れ」


 扉を開けると、アルベルトは顔を上げた。


 リディアの手にある封書を見ただけで、何の用件か察したようだった。


「王妃か」


「はい」


 手紙を渡すと、彼は短い時間で読み終えた。


 それから、机に置いていた別の書類を一枚、横へ滑らせる。


「来ると思っていた」


「ご存じだったのですか」


「正式な呼び出しは今朝だろうが、慈善局長から昨夜打診があった」


「では、旦那様はもう」


「王都冬季灯火網の仮枠は作ってある」


 リディアは思わず瞬きをした。


「もう?」


「必要になると思った」


 アルベルトにとっては、それだけのことなのだろう。


 リディアは差し出された書類を見た。


 そこには、仮称としてこう書かれていた。


 王都冬季灯火網


 北区冬の灯火所。

 東区渡り灯。

 南区孤児院暖房支援。

 西区夜間施療導線調査。

 中央区一時休憩所既存施設確認。

 職人組合夜間荷運び安全路。


 まだ空欄も多い。

 だが、王都全体を一つの仕組みとして見始めているのがわかる。


「灯火網……」


 リディアは小さく呟いた。


「火を置く場所だけではなく、支える道や人員も含めた網だ」


 アルベルトは言った。


「北区は火。東区は橋。南区は孤児院と古い建物。西区は施療院と夜道。中央区は既存施設が多いから新設は不要かもしれない」


「地区ごとに、違う形を」


「ああ」


 彼の視線が、リディアへ向く。


「君が言ったことだ」


 胸が小さく震えた。


 自分が言ったこと。


 北区と東区は違う。

 同じ形を押しつけてはいけない。


 その考えが、今こうして王都全体の仕組みへ広がろうとしている。


 嬉しさより先に、やはり重さが来た。


 封書一通で感じたときと同じだ。


 灯りは、一つ増えれば次を求められる。

 けれど増やすなら、消えない形にしなければならない。


「私で、よいのでしょうか」


 ふと、言葉が漏れた。


 アルベルトはすぐには答えなかった。


 リディアは自分でも、なぜ今その言葉が出たのかわからなかった。王妃に呼ばれたのだ。仕事として必要だから出席する。それはわかっている。


 それでも、王都全体という言葉は大きすぎた。


 北区の火。東区の橋。そこまでは、まだ目で見た人々の顔が浮かぶ。ミナの手や、灯火守りの冷えた手を思い出せる。


 けれど王都全体となると、急に遠くなる。

 地図の上の線になってしまう。


 そこへ自分の名が載ることが、少し怖かった。


「君一人でやるわけではない」


 アルベルトが言った。


「王妃、慈善局、財務、現場、支援家、組合。全て使う」


「使う」


「関わらせる、と言い換えてもいい」


「そちらのほうが穏やかです」


「意味は同じだ」


 リディアは少しだけ笑った。


 その短いやり取りで、胸の重さがほんの少し軽くなる。


「君は、北区と東区で必要な視点を出した。だから会議に必要とされている」


「はい」


「王都全体を一人で背負えという話ではない」


「わかっています」


「本当に?」


 問い返され、リディアは少し言葉に詰まった。


 アルベルトの視線が、静かに刺さる。


「……わかろうとしています」


「それでいい」


 彼は書類を閉じた。


「会議では、まず君が北区と東区の違いを説明しろ。成功例ではなく、違いとして」


「違いとして」


「ああ。北区は居場所、東区は導線。そう整理すれば、他地区でも“何が足りないか”を見る流れになる」


 リディアは頷いた。


「南区は、孤児院と古い建物の暖房。以前見た第三孤児院のように、窓や壁の修繕が先になるかもしれません」


「それも入れろ」


「西区は、まだ現地を見ていません」


「だから調査枠だ。まだ制度名をつけるな」


「はい」


「中央区は、貴族家の施療支援や教会施設がある。新設すると重複する可能性がある」


「既存施設の確認から」


「そうだ」


 話しながら、リディアの中で少しずつ輪郭ができていく。


 王都全体。


 そう聞くと大きすぎる。


 だが、一つずつ見ればいいのだ。


 どこに火が必要か。

 どこに橋番が必要か。

 どこに修繕が必要か。

 どこには新しいものを作らず、既存のものを繋ぐべきか。


 網とは、すべて同じ糸で覆うことではない。

 必要な場所へ、それぞれ違う結び目を作ることなのかもしれない。


 王宮での協議は、その日の午後に行われた。


 出席者は王妃、アルベルト、リディア、慈善局長、財務担当官、各地区担当の官吏、そして数名の慈善婦人会代表。ローゼン侯爵夫人とグレイス伯爵夫人もいた。ファーネル侯爵夫人の姿もある。


 王太子エドワードはいなかった。


 そのことに、リディアは少しだけ胸を撫で下ろした自分に気づいた。

 まだ、平気ではないのだ。


 でも、それでいい。


 王妃は会議の冒頭で言った。


「本日は、北区と東区の初期成果を祝う場ではありません。王都の冬に対し、何を制度として残し、何を広げず、何を新たに調べるかを決める場です」


 その声で、会議室の空気が引き締まる。


「宰相夫人、説明を」


「はい」


 リディアは立ち上がった。


 手元には、北区と東区の比較表がある。


 北区冬の灯火所。

 目的、寒さと夜間孤立への対応。

 必要資源、薪、炉、灯火守り、薬湯、滞在記録。

 課題、薪消費、守り手の体調、薬湯補充。


 東区渡り灯。

 目的、川霧と雨天時の施療院到達支援。

 必要資源、橋番、灯具、手灯り、滑り止め、帰路状態記録。

 課題、灯具防水、橋番交代、記録票保護、翌日対応。


 リディアはゆっくり話し始めた。


「北区と東区は、どちらも冬季夜間支援です。ですが、同じ制度ではありません。北区で必要だったのは、寒さの中で身を寄せる場所でした。一方、東区で必要だったのは、施療院まで橋を渡るための支えです」


 官吏たちが資料へ目を落とす。


「北区に東区の渡り灯を置いても足りません。東区に北区の炉を置いても、橋を渡れない人には届きません。ですから、王都全体を考えるなら、最初に決めるべきは“何を作るか”ではなく、“何が妨げになっているか”だと思います」


 言いながら、リディアは少しだけ自分の声を確かめた。


 震えていない。


 緊張はある。

 でも、自分の言葉として話せている。


「冬の支援は、火を増やすだけではありません。火が必要な場所もあれば、橋番が必要な場所もあります。建物の修繕が必要な場所、既存施設を繋げばよい場所、あるいは新しい制度を置かないほうがよい場所もあるはずです」


 ファーネル侯爵夫人が、少しだけ扇を動かした。


 何か言いたげだったが、まだ口は挟まない。


 リディアは続けた。


「私は、仮にこの枠組みを“王都冬季灯火網”と呼ぶなら、その灯火はすべて同じ形でなくてよいと考えます。大きな炉も、橋の手灯りも、修繕された窓も、夜に待つ人の声も、冬を越すための灯りです」


 会議室が静かになった。


 王妃が、ゆっくり頷く。


「よい整理です」


 その一言で、少しだけ空気が動いた。


 慈善局長が資料を手に取る。


「では、各地区ごとに分類しましょう。北区は冬の灯火所を三十日記録継続。東区は渡り灯の十日試験運用継続。南区は孤児院と古い集合住宅の暖房・修繕調査。西区は夜間施療導線の確認。中央区は既存施設との重複調査」


 財務担当官がすぐに言った。


「新設制度ばかりでは予算が持ちません。既存施設の活用を前提にした分類が必要です」


「その通りです」


 リディアは頷いた。


「新しい看板を増やせばよいわけではありません。むしろ、すでにある施療院、教会、孤児院、組合の休憩所を繋げるほうが早い場所もあると思います」


 グレイス伯爵夫人が小さく手を上げた。


「支援者側としては、地区ごとに必要なものが見えると寄付しやすいですわ。たとえば、北区なら薪、東区なら外套や灯具、南区なら窓枠修繕の材料というように」


「用途別支援ですね」


「ええ。金額だけを出すより、自分の支援が何に変わるかがわかりますもの」


 ローゼン侯爵夫人も頷いた。


「舞踏会の寄付記録にも、それを反映できますわね」


 ファーネル侯爵夫人の扇が、ほんの少し止まった。


 自分が主催する舞踏会が、リディアの用途別支援の仕組みに組み込まれていくことを、面白く思っていないのだろう。


 それでも、彼女は笑った。


「皆様がわかりやすいとおっしゃるなら、わたくしも賛成ですわ。ただ……王都冬季灯火網という名は、少し地味ではありませんこと?」


 来た。


 リディアはそう思った。


 ファーネル夫人は美しさを捨てない。

 名と見せ方の人だ。


「王都の貴族たちの心を動かすなら、もう少し詩的な名のほうがよろしいのでは? たとえば、“冬薔薇の灯り”ですとか」


 一部の夫人たちが、少し反応する。


 冬薔薇の灯り。


 たしかに美しい。

 舞踏会の題名としてなら、よく響くだろう。


 だが、制度名としては違う。


 リディアは静かに答えた。


「舞踏会の副題として使うなら、美しいと思います」


 ファーネル夫人が少し目を細める。


「副題?」


「はい。ですが制度名は、現場の方々が使いやすいものにしたいのです。冬季灯火網なら、冬の支援であり、灯火所や渡り灯を含む網であることが伝わります。詩的な名は、現場の記録や指示には向かないかもしれません」


 王妃の口元が、わずかに動いた。


 笑ったのではない。

 だが、満足したように見えた。


「そうですね」


 王妃が言った。


「舞踏会には舞踏会にふさわしい名を。制度には制度にふさわしい名を。混ぜてはなりません」


 ファーネル夫人は優雅に頭を下げた。


「もちろんでございます、王妃陛下」


 会議はその後、かなり実務的に進んだ。


 南区の孤児院について、リディアは以前訪ねた第三孤児院の例を出した。毛布だけでなく窓の修繕が必要だったこと。古い毛布には子どもの安心が宿る場合があり、すべて新しくすればよいわけではないこと。


 西区については、まだ現地情報が薄いため、制度化せず調査から入ることにした。


 中央区は、貴族家や教会の既存支援が多く、王宮が新しい看板を立てれば重複する恐れがある。そこで、まず支援の空白地帯を調べることになった。


 職人組合の夜間荷運びについては、東区の怪我人報告から話が広がった。荷運び仕事の者が施療院へ行きやすい時間帯や、簡易休憩所の有無も確認する必要がある。


 リディアは、自分一人で答えようとしなかった。


 わからないところは、わからないと言った。

 現地調査が必要なところは、そう言った。

 財務担当官が難色を示したものは、優先度を下げた。


 不思議と、それで会議は進んだ。


 完璧に答えなくても、仕事は進む。

 そのことを、リディアは少しずつ学んでいた。


 最後に王妃が全体をまとめた。


「王都冬季灯火網を、正式な検討枠として設けます。ただし、宰相夫人の名だけで動かすものではありません」


 その言葉に、リディアは顔を上げた。


 王妃は会議室全体を見渡す。


「北区には北区の現場責任者を。東区には施療院長と橋番を。南区には孤児院関係者を。支援者名も、現場の名も、記録に残しなさい」


 王妃の視線が、リディアへ向く。


「仕事をした者の名を消せば、次に仕事をする者が育ちません。女であろうと、平民であろうと、現場の者であろうと同じです」


 その言葉は、静かに会議室へ落ちた。


 リディアは、胸が熱くなるのを感じた。


 仕事をした者の名を消さない。


 かつてのリディアは、名を消される側だった。

 家のために働き、王太子のために整え、けれどそれは当然として扱われた。


 だからこそ、今は消したくない。


 灯火守りの名も。

 橋番の名も。

 記録係の名も。

 施療院長の名も。


 もちろん、必要以上に表へ出して負担をかけるのではない。

 けれど、仕事をした事実は残す。


「承知いたしました」


 リディアは頭を下げた。


 会議が終わるころには、外は夕方になっていた。


 王宮の廊下を歩きながら、リディアは少し疲れていた。けれど、以前のような消耗ではない。


 大きなものが動き始めた疲れだった。


 隣を歩くアルベルトが言う。


「王都冬季灯火網は、しばらく騒がれる」


「でしょうね」


「君の名も出る」


「……はい」


「嫌か」


 問われ、リディアは少し考えた。


 名前が出るのは怖い。


 社交界の噂も増えるだろう。

 ファーネル侯爵夫人のように、利用しようとする人もいる。

 父のように、家名へ結びつけようとする人もいる。


 それでも。


「嫌ではありません」


 リディアは答えた。


「怖いです。でも、王妃陛下がおっしゃったように、仕事をした人の名を消すべきではないなら……私の名も、必要な範囲では残るべきなのだと思います」


 アルベルトは少しだけ目を細めた。


「そう言えるようになったか」


「まだ、少し怖いです」


「怖くていい」


「またですか」


「怖さを失うと、名の扱いを誤る」


 リディアは、その言葉を胸に留めた。


 名は重い。

 けれど、消されてはいけない。


 その重さを怖いと思うくらいで、きっとちょうどいいのだ。


 宰相家へ戻ると、作業室にはすでに東区からの夜間準備報告が届いていた。


 北区の火も、今夜また灯る。

 東区の橋にも、灯りが置かれる。

 南区の孤児院には、近日中に調査員が向かう。


 王都冬季灯火網。


 それはまだ、紙の上で生まれたばかりの言葉だ。


 けれど、北区の火と東区の手灯りが、その最初の結び目になっている。


 リディアは机の上に、今日の会議資料をそっと置いた。


「オスカー」


「はい」


「王都冬季灯火網の記録帳を、新しく作りましょう」


「承知しました。表題はそのままで?」


「はい。ただし、最初の頁には北区と東区だけでなく、関わった現場の方々の役割も残してください」


「お名前も?」


「必要な範囲で。負担にならないよう、役割名でも構いません。でも、誰か一人の功績にしないこと」


 オスカーは、少しだけ微笑んだ。


「奥様らしい記録帳になりますね」


「そうかしら」


「はい」


 その言葉を、リディアは今度は素直に受け取った。


「では、お願いします」


 夜になり、リディアは温室へ行った。


 ブルースターの花は、今日も静かに咲いている。


 ガラスの外には、冬の夜。

 そのどこかで、灯火所の火が揺れ、渡り灯の手灯りが橋の上を動いている。


 そしてこれから、王都のあちこちへ別々の灯りが生まれていくかもしれない。


 大きな炉。

 小さな手灯り。

 修繕された窓。

 温かい食事。

 夜道で声をかける人。


 すべて同じ形ではない。

 けれど、同じ冬を越すための灯りだ。


 アルベルトが後から温室へ来た。


「ここにいたか」


「はい」


 彼はいつもの椅子に座る。


「疲れた顔だ」


「疲れました」


 素直に答えると、彼は短く頷いた。


「なら、早く休め」


「少しだけ、ここにいたいです」


「少しだけだ」


「はい」


 リディアはブルースターを見たまま言った。


「王都全体と聞くと、まだ怖いです」


「ああ」


「でも、今日の会議で少しわかりました。全部を同じ火で照らさなくてもいいのですね」


「そうだ」


「それぞれの場所に合う灯りを探す。そう考えれば、少しだけ手が届く気がします」


 アルベルトは静かに聞いていた。


「旦那様」


「何だ」


「私の名が出ることを、少し怖いと思いながら、それでも残していいと思えたのは……旦那様が、私の線を何度も認めてくださったからです」


 アルベルトの視線が、リディアに向いた。


 リディアは少し頬が熱くなるのを感じたが、続けた。


「父のためでも、殿下のためでも、社交界のためでもなく。私自身の名として扱っていいのだと、少しずつ思えるようになりました」


 沈黙が落ちる。


 アルベルトはしばらく何も言わなかった。


 それから、低く言う。


「それなら、よかった」


 短い言葉。


 けれど、とても柔らかかった。


 リディアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 王都に広がろうとしている灯火網。


 その最初の火は、北区の炉だけではなかったのかもしれない。


 もしかすると、リディアの中にも、ずっと小さな灯りがあった。


 消えかけて、見えなくなって、何度も風に揺れた灯り。


 それをこの屋敷で、少しずつ守ってもらった。


 だから今、彼女は王都の灯りについて考えられる。


 そう思うと、少しだけ泣きそうになった。


 けれど、泣かなかった。


 今夜は、泣くよりも先に、静かにこの灯りを見ていたかった。

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