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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第70話 触れる前に許可をくれる人

 その朝、リディアはいつもより少しだけ、世界の輪郭が遠いように感じた。


 起き上がれないほどではない。

 熱があるわけでもない。

 喉が痛いわけでも、咳が出るわけでもない。


 ただ、寝台から足を下ろしたとき、床の冷たさがいつもより深く体に染みた。


 昨日までの疲れが、遅れてやって来たのだとすぐにわかった。


 王宮で王妃の前に立った。

 王太子からの謝罪を受け取った。

 父へ初めて“いいえ”を書いた。

 ファーネル侯爵夫人と向き合い、慈善舞踏会の条件を通した。

 そして、アルベルトの表情ひとつで、自分の心がこんなにも乱れることを知ってしまった。


 仕事も、過去も、家族も、社交も、感情も。


 すべてが一度に押し寄せていた。


 それでも、リディアは身支度を整えた。


 今日は東区の渡り灯の最終準備がある。橋番の交代表、雨除け小屋の資材搬入、灯具の規格確認、記録票の最終版。確認すべきものはいくつもあった。


 休んでいる場合ではない。


 そう思いながら鏡の前へ座ったところで、背後に控えていたエマが静かに言った。


「奥様」


「何かしら」


「本日のご予定は、少し調整なさったほうがよろしいかと」


 リディアは鏡越しにエマを見る。


「顔色が悪い?」


「はい」


 遠慮のない返事だった。


 以前なら、リディアはすぐに微笑んで取り繕っただろう。

 大丈夫です。少し眠りが浅かっただけです。予定通りに。


 そう言えば、たいていの人は引き下がる。


 けれど、この屋敷では引き下がらない。


「熱はありません」


「熱が出てから休むのは遅いかと」


 言い方が、どこかアルベルトに似てきた。


 リディアは思わず小さく息を吐いた。


「皆、旦那様に似てきているわ」


「旦那様が奥様を休ませるよう、屋敷全体へよく申しつけておりますので」


「……そこまで?」


「はい」


 エマは平然としている。


 リディアは少しだけ困った顔になった。


「でも、今日は東区の確認が」


「オスカー様が進めてくださいます」


「最終判断は私が」


「最終判断をなさるためにも、奥様ご自身が倒れないことが大切です」


 何も言い返せなかった。


 それもまた、アルベルトに言われたことと同じだった。


 支える人を見なければ、火は消える。

 自分も、その支える側の一人なのだ。


 リディアは鏡の中の自分を見た。


 たしかに顔色は少し白い。目元にも疲れが出ている。きちんと整えれば外には隠せるだろうが、隠せることと平気なことは違う。


「……大丈夫です」


 そう言いかけて、止まった。


 エマが何も言わず待っている。


 リディアは膝の上で手を重ね、少しだけ息を整えた。


「違うわね」


「奥様?」


「大丈夫ではなく……大丈夫にするために、休みます」


 言葉にすると、少し胸が軽くなった。


 エマの目元が、ほんのわずかに和らぐ。


「それがよろしいかと存じます」


「でも、午前中だけ。午後に少し資料を見ます」


「まず旦那様へご報告いたします」


「そこまでしなくても」


「いたします」


 柔らかな声なのに、まったく譲る気がない。


 リディアは観念して頷いた。


「お願い」


 朝食の席で、アルベルトはリディアを一目見て言った。


「今日は休め」


 あまりに早かった。


 椅子に座る前である。


「まだ何も申し上げていません」


「顔に出ている」


「そんなに?」


「ああ」


 迷いのない返事だった。


 リディアは少しだけ頬に手を当てた。


「隠せていませんか」


「隠そうとするな」


 その一言に、胸の奥を軽く突かれた。


 隠すこと。

 整えること。

 いつも通りに見せること。


 それは、彼女が長年身につけてきた癖だった。


「今日は予定を止める」


 アルベルトは席に着きながら、当然のように言った。


「東区の渡り灯は?」


「オスカーに任せる。橋番の最終確認はクラウス医師と施療院長ができる。君が今日倒れるほうが問題だ」


「倒れるほどでは」


 言いかけると、アルベルトの視線が少しだけ鋭くなった。


 リディアは口を閉じる。


 そして、苦笑した。


「……大丈夫にするために、休みます」


 朝、エマに言った言葉を繰り返す。


 アルベルトの目が、ほんのわずかに動いた。


「そうだ」


 短い肯定。


 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。


 食後、リディアは自室で横になることになった。


 本当は温室へ行きたかったが、アルベルトに「今日は寝台か長椅子だ」と言われた。あまりにも明確な命令だったので、反論する余地がない。


 部屋には、エマが温かい茶と軽い果物を置いてくれた。香りの強すぎない花も、窓辺に少しだけある。


 静かだった。


 静かすぎて、かえって落ち着かない。


 何もしていないと、考えが勝手に動き出す。


 東区の橋番は足りているだろうか。

 灯具の予備は届いただろうか。

 ファーネル侯爵夫人は舞踏会当日に何を仕掛けてくるだろうか。

 父からの返事はいつ来るだろうか。

 王太子は、あのあと何を思っただろうか。


 そして。


 アルベルトは、昨日のことをどう思っているのだろう。


 ――君が私を見ることは、嫌ではない。


 あの言葉を思い出すだけで、胸が騒がしくなる。


 嫌ではない。


 彼らしい、回りくどくて、けれど妙に真っ直ぐな言い方。


 リディアは寝台の上で目を閉じた。


 休まなければならない。


 そう思うほど、心が休まらない。


 しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


「入るぞ」


 アルベルトの声だった。


 リディアは少し体を起こそうとした。


「そのままでいい」


 扉が開くより先に言われる。


 彼は入ってくると、部屋の入口近くで立ち止まった。いつも通り、必要以上には近づかない。


「眠れたか」


「少しだけ」


「実際は?」


「……眠れていません」


「だろうな」


 見抜かれていた。


 アルベルトは椅子を少し引き寄せたが、寝台のすぐそばまでは来なかった。


「東区の件は進んでいる。オスカーから報告が来た」


「灯具は?」


「届いた。二基は固定用、三基は手持ち用。橋番が実際に持って確認している」


「雨除け小屋は」


「仮設は今日中に終わる。施療院長が位置を確認した」


「クラウス医師は?」


 言ってから、リディアは少しだけしまったと思った。


 アルベルトの表情は変わらない。


 だが、沈黙が一拍だけ生まれた。


「……橋番の動線確認をしている」


「そうですか」


「仕事はできる男だな」


 声は淡々としていた。


 けれど、そこにわずかな硬さを感じて、リディアは思わず彼を見た。


 アルベルトは視線を逸らさない。


 昨日、妬いていると認めた人。

 そして、それでも必要な人間を必要だと評価できる人。


 胸の奥が、また少し温かくなる。


「旦那様」


「何だ」


「ありがとうございます」


「何に対してだ」


「東区の報告を、私が気にする順番で伝えてくださったことに」


 アルベルトは一瞬黙った。


「気になるだろうと思っただけだ」


「はい。だから、ありがとうございます」


「……そうか」


 彼は視線を少しだけ外した。


 その横顔が、またリディアを困らせる。


 そんな顔をされると、どうしていいかわからない。


 昨日、そう言ったばかりなのに。


「まだ顔色が悪い」


 アルベルトが話題を変えた。


「考えごとをしてしまって」


「何を」


「いろいろです」


「広すぎる」


「東区のこと、舞踏会のこと、父のこと、殿下のこと……」


 そこまで言って、少し迷った。


 でも、今さら隠しても仕方がない気がした。


「それから、旦那様のこと」


 アルベルトの表情が、ほんのわずかに止まった。


「私の?」


「はい」


「私は今ここにいる」


「そういうことではなく」


 言いながら、自分でも少し笑ってしまった。


 この人は時々、本当にわかっていないのか、わかっていて逃げているのかわからない。


「旦那様が何を考えていらっしゃるのか、考えていました」


「私の思考など、今は気にするな」


「気になってしまうのです」


 言ってしまった。


 アルベルトは黙った。


 その沈黙が、今のリディアには少しだけ苦しかった。


「すみません。休むべきときに、こんな話を」


「謝るな」


 すぐに言われた。


「君が気にしたことを口にしただけだ」


 その言い方に、胸が少しほどける。


 アルベルトは低く続けた。


「私が何を考えているか知りたいなら、聞けばいい」


「聞いてもよろしいのですか」


「答えられることなら答える」


「答えられないことも?」


「ある」


 正直すぎる返事に、リディアは少し笑った。


「では……今、何を考えていらっしゃいますか」


 アルベルトは少しだけ目を伏せた。


 すぐに答えない。


 言葉を選んでいる。


 リディアは待った。


「君が休むのが下手だと思っている」


「……それは、私にもわかります」


「わかっているなら改善しろ」


「努力します」


「それと」


 彼は言葉を切った。


「君が、何もしない時間に不安を感じるのだろうと思っている」


 リディアは目を見開いた。


 図星だった。


「どうして」


「見ればわかる」


「またそれです」


「事実だ」


 彼は淡々と言った。


「君は仕事をしている間、少なくとも目の前のことを見ていられる。だが休むと、過去や不安が入り込む。だから休むこと自体が下手になる」


 リディアは言葉を失った。


 なぜ、そこまで見えてしまうのだろう。


 自分でも、はっきり言葉にできていなかったのに。


「……はい」


 小さく認めた。


「そうだと思います。何もしないでいると、いろいろ考えてしまいます。だから、つい書類を見たくなるのです」


「書類は逃げ場にもなる」


「逃げているのでしょうか」


「全部ではない」


 アルベルトは首を振った。


「君の仕事は本物だ。だが、休むべきときに仕事へ逃げるなら、それは問題だ」


 厳しい。


 でも、責める声ではない。


 リディアは布団の上で手を握りかけた。


 無意識だった。


 指先が掌へ入り込む。


 その瞬間、アルベルトの視線が動いた。


「リディア」


 低い声。


 リディアははっとした。


 自分の手を見る。


 爪が掌へ食い込みかけていた。


「すみません」


「謝るな」


 アルベルトは立ち上がった。


 けれど、すぐには近づかなかった。


 寝台の横に立ち、彼女の手へ視線を落とす。


「触れていいか」


 リディアは息を止めた。


 夫婦なのに。


 彼は、まだ許可を取る。


 手を取るだけなのに。


 いや、だからこそなのかもしれない。


 この人は、リディアが自分の体を自分のものとして取り戻せるように、いつも待ってくれる。


 触れる前に、声をかける。

 扉を開ける前に、知らせる。

 無理に近づかない。

 逃げ道を塞がない。


 そのひとつひとつが、リディアを少しずつここまで連れてきた。


「……はい」


 少し迷ってから、リディアは頷いた。


 アルベルトは、ゆっくり手を伸ばした。


 急がない。

 リディアが身構える時間も、受け入れる時間も奪わない。


 彼の指が、リディアの手に触れた。


 温かかった。


 大きな手だった。

 けれど、力は驚くほど穏やかだった。


 アルベルトは彼女の拳を無理に開かせるのではなく、指先にそっと触れて、少しずつ力が抜けるのを待った。


「力を抜け」


「はい」


「急がなくていい」


 そう言われると、かえって力を抜けた。


 リディアの指が、ゆっくり開く。


 掌には、まだ傷にはなっていないが、爪の跡が薄くついていた。


 アルベルトの眉がわずかに寄る。


 それを見て、リディアの胸が少し痛んだ。


「傷にはなっていません」


「なる前に止めろ」


 低い声だった。


「はい」


「違う」


 彼はリディアの掌を見たまま言った。


「傷を作る前に、言え」


 胸の奥が、強く揺れた。


 傷を作る前に。


 言え。


 それは、手のことだけではないのだとわかった。


 苦しくなる前に。

 眠れなくなる前に。

 大丈夫と笑ってしまう前に。

 自分を責めて、爪を立てる前に。


 言え。


「……何を、言えばいいのでしょう」


 声が小さくなる。


「怖い。疲れた。考えたくない。休み方がわからない。何でもいい」


「そんなことを言っても」


「困らない」


 即答だった。


「少なくとも、君が一人で傷を作るよりいい」


 リディアは目を伏せた。


 手はまだ、アルベルトの手の中にある。


 離そうと思えば離せる。

 彼は強く握っていない。


 それでも、離したくなかった。


「……疲れました」


 ぽつりと出た。


 アルベルトは黙って聞いている。


「怖いことも、怒ることも、言い返すことも、仕事も……全部、自分で選んでいるのに。選んでいるのに、疲れました」


「ああ」


「休みたいのに、休むのも怖いです。何もしないと、また昔のことを考えてしまうから」


「ああ」


「父から返事が来るのも怖いです。殿下のことを思い出すのも、少しつらいです。ファーネル侯爵夫人に負けたくないと思う自分にも、少し疲れます」


 言葉が、少しずつ出てくる。


 まとまっていない。

 美しくもない。

 王宮で話すような整った言葉ではない。


 でも、アルベルトは遮らなかった。


「それから」


 リディアは手元を見た。


「旦那様のことを考えると、落ち着かなくなります」


 言ってから、頬が熱くなる。


 今日一番、言わなくてもよかったことかもしれない。


 けれど、もう遅い。


 アルベルトの手が、ほんのわずかに止まった。


「それは、疲れの原因か」


「わかりません」


 リディアは正直に答えた。


「でも、休もうとしても考えてしまいます」


 アルベルトはしばらく黙った。


 長い沈黙だった。


 けれど、手は離れなかった。


「……それについては、私にも責任があるな」


 やがて、彼が言った。


 リディアは驚いて顔を上げる。


「旦那様に?」


「ああ。君を落ち着かなくさせているなら」


「そういう意味では」


 慌てて言いかけると、彼がわずかに目を細めた。


「嫌か」


 短い問いだった。


 リディアの胸が跳ねる。


 嫌か。


 昨日も、自分は似たようなことを言った。


 嫌ではない。


 困る。

 恥ずかしい。

 どうしていいかわからない。


 でも、嫌ではない。


「……嫌では、ありません」


 小さく答えた。


 アルベルトの手が、リディアの手を包んだまま、ほんの少しだけ温かくなった気がした。


「そうか」


 声は低い。


 それだけなのに、リディアの胸はまた騒がしくなる。


「ですが、今は休む話でした」


「そうだな」


「旦那様のせいで、また眠れなくなりそうです」


 言ってから、リディアは自分で驚いた。


 こんな言い方をするつもりはなかった。


 アルベルトも、一瞬だけ目を見開いたように見えた。


 それから、ほんのわずかに口元を緩めた。


 本当にわずかだった。


 けれど、リディアにはわかった。


 笑った。


 たぶん、笑った。


「それは困ったな」


 声が少しだけ柔らかい。


 リディアの胸が、また落ち着かなくなる。


「そういうお顔をなさるからです」


「どんな顔だ」


「……言えません」


「なぜ」


「余計に眠れなくなります」


 アルベルトは低く息を吐いた。


 呆れたようで、少し違う。


 どこか、困っているようでもあった。


「では、もう話すな」


「はい」


「目を閉じろ」


「はい」


 リディアは素直に目を閉じた。


 手は、まだ握られている。


 いや、正確には包まれている。

 逃げたければ逃げられる強さで。

 けれど、そこにあるとわかる温度で。


「眠れなくてもいい」


 アルベルトの声が近くで聞こえた。


「横になって、呼吸を整えろ。考えが出てきたら、追うな」


「難しいです」


「だろうな」


「……そこは否定してください」


「嘘はよくない」


 リディアは目を閉じたまま、少し笑ってしまった。


 笑うと、少し息が楽になる。


「旦那様」


「何だ」


「手を……もう少しだけ、このままでもよろしいですか」


 沈黙。


 ほんの一拍。


「君が望むなら」


 その返事に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 君が望むなら。


 何度も聞いた言葉。


 でも、今日はいつもより深く響いた。


 リディアは、アルベルトの手の中で少しだけ指を緩めた。


 疲れている。

 怖い。

 不安もある。

 胸は落ち着かない。


 でも、今は傷を作る前に言えた。


 疲れたと。

 怖いと。

 手を離さないでほしいと。


 そのことだけで、少し眠れる気がした。


 しばらくして、リディアの呼吸がゆっくりになっていった。


 眠ったのか、眠りかけているのか、自分ではわからなかった。


 ただ、最後に覚えているのは、アルベルトの手の温かさだった。


 触れる前に許可をくれる人。


 そして、触れたあとも、逃げ道を残してくれる人。


 その人の手がそばにあることが、今のリディアには何より安心だった。

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