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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第71話 東区の雨夜、灯りは橋の上に置かれた

 夕方から、雨が降り始めた。


 強い雨ではない。


 窓硝子を叩く音も、耳を塞ぎたくなるほどではなかった。けれど細く、途切れず、まるで王都全体を静かに濡らしていくような雨だった。


 空は早くから暗くなり、庭の木々の枝先には薄い水滴が重なっている。冬の雨は、雪よりも厄介なことがある。降った瞬間は音もなく静かでも、地面を濡らし、石畳を滑りやすくし、夜の冷えと混じって人の体温を奪っていく。


 東区の橋は、今ごろどうなっているだろう。


 リディアは作業室の窓辺に立ち、曇った硝子の向こうを見ていた。


 今日は、東区「渡り灯」の試験運用初日だった。


 対象となるのは、施療院へ続くあの細い生活橋。

 橋の両側には、ファーネル侯爵夫人が寄付した灯具が置かれる。もちろん、家紋は入っていない。雨に強い覆い付きの灯具で、舞踏会の装飾ではなく、実際に橋の足元を照らすためのものだ。


 橋番は三名。

 片側に一人ずつ、そして施療院まで付き添うための予備が一人。

 雨除けの仮設小屋は、橋の東側に置かれた。長く滞在させるためではなく、橋を渡る前にほんの少し息を整えるための小さな場所。


 記録票も届いているはずだ。

 渡橋成功。

 途中停止。

 付き添い必要。

 施療院到着。

 帰路確認。

 引き返し。


 何度も確認した項目が、頭の中に自然と浮かぶ。


 行きたい。


 胸の奥で、何度もその言葉が揺れていた。


 現場へ行って、自分の目で確かめたい。灯りの高さは足りているのか。橋番は迷っていないか。記録票は濡れずに書けているか。ミナのような子が来たとき、声をかける人はちゃんといるか。


 そう思うたび、リディアは自分の手を見た。


 昨日、アルベルトに包まれた手。


 爪を立てる前に言え、と言われた手。


 今日は体調も戻りきっていない。午前中は休み、午後に少しだけ資料を見た。エマにもマーサにも、今日は無理をしないよう何度も釘を刺されている。


 だから現場へは行かない。


 いや、行けないのではない。

 行かないと決めた。


 現場に自分がいなくても回る仕組みにしなければ、渡り灯は続かない。


 そう頭ではわかっている。


 けれど、わかっていることと、落ち着いて待てることは別だった。


「奥様」


 オスカーが机の横から声をかけた。


「第一報は、鐘二つ後の予定です。施療院長からの使いが来ます」


「ええ」


 リディアは窓から離れ、机の前へ戻った。


 作業室の机には、東区の地図と記録用の写しが置かれている。橋の位置には青い印。施療院には赤い印。橋番の配置は、小さな黒い駒で示してあった。


 その駒を見ていると、本物の橋番たちの顔が浮かぶ。


 昼の打ち合わせで会った、荷運び組合出身の大柄な男。

 東区施療院の下働きをしている、声のよく通る中年女性。

 そして予備の付き添い役に選ばれた、若い職人。


 彼らは今、雨の橋に立っている。


 自分はここで、乾いた部屋にいる。


 そのことに、少しだけ後ろめたさがあった。


「奥様」


 今度はエマが、温かい茶を置いてくれた。


「お飲みください。手が冷えております」


「冷えている?」


「はい。窓辺に長く立っておいででしたので」


 自分では気づかなかった。


 リディアは茶杯を両手で包む。


 温かい。


 けれど、東区の橋に立つ人たちは、今この温かさを持っていない。そう思いかけて、リディアは小さく首を振った。


 違う。


 そうではない。


 自分が冷えれば、橋番が温まるわけではない。

 自分が不安に身を削れば、現場が楽になるわけでもない。


 今の自分の仕事は、待つことだ。


 報告を受け取り、必要なら次の手を打つ。

 現場を信じて待つ。


 それも仕事なのだ。


 扉が叩かれたのは、それから少ししてからだった。


 作業室の空気が一瞬で引き締まる。


 入ってきたのは、東区施療院からの使いの少年だった。雨に濡れた外套を着て、頬が赤くなっている。ハロルドがすぐに乾いた布を渡し、エマが温かい湯を用意する。


「急がなくていいわ」


 リディアは少年へ言った。


「まず、濡れた手を温めて」


 少年は少し驚いた顔をした。


「でも、報告を」


「報告するあなたが倒れたら困ります」


 言いながら、リディアは自分でも苦笑しそうになった。


 誰かに言われ続けた言葉が、もう自分の口から自然に出ている。


 少年は手を温めてから、折りたたまれた紙を差し出した。


 オスカーが受け取り、リディアの前へ置く。


 第一報。


 リディアは息を整えてから、紙を開いた。


 雨天運用、開始。

 橋番三名、配置完了。

 灯具三基、点灯。

 固定灯一基、雨覆いの内側に水滴入り。火は消えず。位置調整済み。

 利用者、現時点でなし。

 橋上、滑りあり。橋番より、中央板の縄追加希望。


 利用者なし。


 リディアは、ほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちになった。


 でも、それでいい。


 利用者がいないのは、困っている人がいないという意味ではないかもしれない。まだ時間が早いだけかもしれない。雨の夜に外へ出ることをためらっている人がいるかもしれない。


 ただ、灯りはついた。


 橋番も立っている。


 最初の一歩は、動いた。


「中央板の縄を追加」


 リディアはすぐに言った。


「予備はありますか」


 オスカーが確認する。


「東区倉庫にあります。橋番の予備人員が持ち出せます」


「では、施療院長へ伝えてください。滑る場所の追加は、現場判断で行ってよいと。次からは記録票に、滑り箇所の欄を足しましょう」


「承知しました」


 オスカーがすぐに書き留める。


 その動きは速い。


 リディアは少年に向き直った。


「戻る前に、温かいものを飲んで。あなたの分も仕事のうちです」


 少年は、今度は素直に頷いた。


「ありがとうございます、奥様」


 その呼び方が、少しくすぐったかった。


 使いが出ていったあと、作業室にはまた待つ時間が戻った。


 外の雨は、少し強くなっている。


 窓に水滴が流れ、庭の灯りが滲んで見える。東区の橋の灯りも、こんなふうに滲んでいるのだろうか。霧が出れば、もっと見えにくくなる。


 リディアは椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いた。


 落ち着かない。


 オスカーは資料を整理している。エマは茶を温め直している。誰も騒がない。けれど、部屋の全員が次の報告を待っていることはわかった。


「行きたいか」


 低い声がして、リディアは振り返った。


 アルベルトが入口に立っていた。


 いつの間に来たのだろう。雨に濡れた様子はないが、外から戻ったばかりなのか、肩に少し冷えをまとっている。


「……はい」


 リディアは正直に答えた。


「行きたいです」


 アルベルトは近くの椅子へ腰を下ろした。


「なら、なぜ行かない」


 問われ、リディアは少しだけ考えた。


「今日、私が行けば、現場の人たちは私を見ると思います」


「ああ」


「橋番も、施療院長も、利用者も。宰相夫人が来ているからと、普段とは違う動きをするかもしれません」


「ああ」


「それに……私がいなければ動かない仕組みでは、続きません」


 リディアは東区の地図へ目を落とした。


「だから、今日は待つのが仕事です」


 アルベルトは、ほんのわずかに目を細めた。


「悪くない判断だ」


 いつもの短い評価。


 だが、今のリディアにはそれが胸に深く染みた。


 行きたい自分を、ただ止めるのではない。

 待つ判断そのものを認められた。


「でも、落ち着きません」


「だろうな」


「少し、手が冷えます」


「茶を飲め」


「飲んでいます」


「なら、もう一杯飲め」


 あまりにも真面目に言われ、リディアは少し笑ってしまった。


 緊張で固くなっていた空気が、わずかに緩む。


 アルベルトは作業室の机に置かれた第一報へ目を通した。


「滑り箇所の欄を足すのは妥当だ」


「はい」


「灯具の雨覆いに水が入ったなら、職人へ構造を確認させろ。初日に見つかってよかった」


「よかった?」


「運用前に見落として、本格運用で消えるよりいい」


 その言い方に、リディアは深く頷いた。


 失敗ではなく、改善点。


 そう見れば、胸の重さが少し変わる。


 次の報告が届いたのは、夜がさらに深まってからだった。


 今度の使いは施療院の下働きの女性だった。外套の裾は濡れていたが、顔は少し興奮している。


「利用者がありました」


 その一言で、リディアは立ち上がりかけた。


 アルベルトの視線を感じ、途中で座り直す。


 女性は息を整えてから、報告書を差し出した。


 オスカーが読み上げる。


「利用者三名。母子一組、老人一名、怪我人一名」


 作業室の空気が変わった。


 リディアの指先が、机の端に触れる。


 母子。


 もしかして。


「母子は?」


 声が少し急いた。


 女性が答えた。


「マリさんとミナです。ミナの咳がまた少し出たそうで」


 リディアは息を呑んだ。


 あの子だ。


 橋の途中が怖いと言った女の子。


「渡れましたか」


「はい。最初、橋の前で止まりました。固定灯は見えていたんですが、雨音で怖くなったようで。でも、橋番が声をかけました。向こう側にも人がいる、と」


 女性は少し笑った。


「それで、予備の付き添い役が半分まで一緒に渡りました。途中で一度止まりましたが、手灯りを足元に向けたら進めました」


 リディアは目を閉じそうになった。


 渡れた。


 あの子が、雨の橋を渡れた。


「施療院には?」


「到着済み。熱は高くありません。薬湯と診察を受けました。帰路はまだです。院長が、少し休ませてから戻すと」


「帰路確認を忘れないように伝えてください」


「はい。院長もそう申しておりました。奥様の項目があるから、帰りもちゃんと見ると」


 リディアは小さく息を吐いた。


 胸の奥が熱い。


 これは喜びなのか、安堵なのか、それとも別のものなのか。


 わからない。


 けれど、東区の橋に置いた灯りは、確かに誰かへ届いた。


「老人と怪我人は」


 アルベルトが静かに尋ねた。


 リディアははっとする。


 ミナのことで胸がいっぱいになりかけていた。


 女性はすぐに答える。


「老人は橋の手前で足を滑らせかけましたが、橋番が支えました。付き添い必要。施療院到着済み。怪我人は荷運びの男性で、足首を痛めたと。手灯りのみで渡橋成功。ただし帰りは付き添い予定です」


「引き返しは?」


「現時点では一名。橋の手前まで来た女性が、今日は怖いと戻りました。名前は聞いていません。橋番が明日の昼に施療院から声をかけられるよう、服装と大まかな年齢だけ記録しています」


 リディアは頷いた。


 引き返した人も、見えた。


 それも大事だ。


「その記録も必ず写してください。引き返したことは失敗ではありません。次にどう支えるかを見るための記録です」


「はい」


 報告を終えた女性にも、温かい茶が出された。


 彼女は恐縮していたが、エマが静かに「お飲みになってからお戻りください」と言うと、素直に受け取った。


 使いが帰ったあと、作業室はまた静かになった。


 けれど今度の静けさは、先ほどとは違っていた。


 何かが動いたあとの静けさだった。


 リディアは椅子の背に少し身を預ける。


 体から力が抜けた。


「奥様」


 オスカーが少し心配そうに見る。


「大丈夫ですか」


「ええ」


 今度の大丈夫は、嘘ではなかった。


「少し……安心しました」


 アルベルトがこちらを見る。


「まだ初夜だ」


「はい」


「一組渡れたから成功と決めるには早い」


「わかっています」


「問題も出る」


「はい」


「だが」


 彼は少しだけ間を置いた。


「初めの一歩としては、悪くない」


 リディアは、思わず笑みをこぼした。


「はい」


 その笑みを、アルベルトが見ていた。


 目が合う。


 胸がまた少しだけ跳ねた。


 昨日までなら、その視線に戸惑って逸らしていたかもしれない。

 でも今日は、逸らさなかった。


 東区の橋で、ミナが渡った。

 怖い途中を、声と灯りに支えられて。


 なら、自分も少しだけこの視線の中にいられる気がした。


「旦那様」


「何だ」


「待つのも、疲れますね」


「ああ」


「でも、現場を信じて待ててよかったです」


「それができるなら、次へ進める」


 次へ。


 その言葉が、静かに胸へ残る。


 次の報告は、夜更け近くに届いた。


 母子、帰路確認済み。

 ミナ、橋の中央で一度停止。橋番が手灯りを下げ、母親と付き添いが両側から声をかける。渡橋成功。

 老人、帰路は施療院に宿泊。明朝帰宅予定。

 怪我人、付き添いにより帰路確認済み。

 引き返し一名について、翌昼の施療院巡回時に声かけ予定。

 橋番一名、手が冷えたため交代。温かい食事の追加希望。

 灯具一基、雨覆い再調整必要。

 記録票、濡れ防止の板が必要。


 完全ではない。


 むしろ、改善点だらけだ。


 でも、誰も怪我をしていない。

 橋の途中で止まった子は、渡り切った。

 帰路も確認された。

 引き返した人も、記録から消えなかった。


 リディアは報告書を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。


「……火ではないのですね」


 ぽつりと言う。


 オスカーが顔を上げる。


「奥様?」


「北区は火でした。東区は……声と手灯りです」


 橋の向こうで誰かが待っている仕組み。

 それが、今夜ほんの少しだけ形になった。


 アルベルトは立ち上がり、報告書の端を見た。


「橋番の食事追加は明日からだな」


「はい。冷えれば判断も鈍ります」


「記録票の濡れ防止板は職人に作らせる」


「予算は」


「舞踏会の記念品を削った分から回せばいい」


 その即答に、リディアは思わず小さく笑った。


「ファーネル侯爵夫人が聞いたら、またお怒りになります」


「現場で使えるなら問題ない」


「そうですね」


 そう言える自分がいた。


 以前なら、まず夫人の機嫌や社交界の噂を気にしていただろう。


 今も気にならないわけではない。

 だが、優先順位は変わった。


 橋番の冷えた手。

 濡れた記録票。

 灯具の雨覆い。


 そちらが先だ。


 夜が深くなり、最後の報告が届いたあと、リディアはようやく作業を終えた。


 オスカーは記録をまとめ、エマは温かい茶を片づける。ハロルドは明朝の使いの手配を確認していた。


 皆が動いている。


 渡り灯は、リディア一人のものではない。


 その事実が、今夜ほど頼もしく感じられたことはなかった。


 作業室を出る前、リディアはもう一度だけ東区の地図を見た。


 橋の両側に置かれた黒い駒。

 小さな青い印。

 施療院へ続く細い線。


「今日は、待つのが仕事でした」


 リディアは静かに言った。


 隣にいたアルベルトが頷く。


「ああ」


「でも、待っているだけではありませんでした」


「そうだな」


「現場が動いて、こちらが受け取って、また直していく。そういう仕事なのですね」


「続けるとは、そういうことだ」


 続ける。


 北区も、東区も。


 火を灯すだけではない。

 橋に灯りを置くだけでもない。


 続けるために、見る。

 記録する。

 直す。

 休ませる。

 また灯す。


 リディアは、少し疲れた体で深く息を吸った。


「旦那様」


「何だ」


「今日は、眠れそうです」


 アルベルトは彼女を見た。


「なら、寝ろ」


「はい」


 そのそっけない返事に、リディアは小さく笑った。


 東区の雨夜、灯りは橋の上に置かれた。


 それはまだ、かすかな灯りだった。

 雨に揺れ、霧に滲み、改善点だらけの頼りない始まりだった。


 それでも、その灯りの向こうで誰かが待っていたから、一人の少女は橋を渡れた。


 その報告を胸に、リディアは作業室の灯りを消した。

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