表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/110

第69話 そんな顔をされると、私はどうしていいかわからない

 翌朝、リディアはいつもより早く目を覚ました。


 昨夜、温室で交わした会話が、まだ胸の奥に残っていた。


 ――わかっていても、面白くないものは面白くない。


 アルベルトが、あんなふうに言うとは思わなかった。


 彼はいつも、感情より先に理屈を置く。必要か、不要か。妥当か、そうでないか。事実か、誤りか。すべてを静かに分けていく人だ。


 その人が、あんなにも不器用に「面白くない」と言った。


 クラウス医師がリディアの記録票を褒めたことは、仕事としてはよいことだった。アルベルトもそれを理解していた。施療院との連携が深まることも、東区の渡り灯にとって必要だとわかっていた。


 それなのに、面白くなかった。


 その矛盾を、彼は隠しきれなかった。


 リディアは寝台の上で、そっと自分の頬に触れた。


 熱はない。


 けれど、思い出すだけで少し頬が温かくなる。


「……困るわ」


 小さく呟く。


 本当に困る。


 クラウス医師に褒められたときの照れとは違う。王妃に評価されたときの緊張とも違う。父へ手紙を送ったときの怖さとも、王太子に謝られたときの痛みとも違う。


 アルベルトが少し困った顔をした。

 それだけで、自分までこんなに落ち着かなくなる。


 何なのだろう、これは。


 考えようとすると、胸の奥が逃げるようにざわめく。


 まだ名前をつけたくない。

 けれど、名前をつけないまま放っておくには、少しずつ大きくなりすぎている。


 身支度を終えて朝食へ向かうと、食堂にはすでにアルベルトがいた。


 彼はいつものように新聞ではなく、王宮から届いた簡易報告書に目を通している。朝から仕事をしていることに、もはや驚かなくなった自分がいる。


「おはようございます」


「ああ」


 返事はいつも通り短い。


 だが、リディアはその横顔をつい見てしまった。


 昨日の温室で、視線を逸らした横顔。

 面白くないと認めたときの、わずかに硬い口元。

 自分に評価されると一番落ち着かなくなると言われたときの、言葉を失った目。


 思い出す。


 思い出してしまう。


「何だ」


 アルベルトが資料から目を上げた。


 リディアは慌てて視線を逸らす。


「いえ、何でもありません」


「何でもない顔ではなかった」


「旦那様こそ、いつもそうおっしゃいますね」


「事実だからな」


 平然と返される。


 普段ならそこで少し笑えた。

 だが今日は、彼がいつも通りであればあるほど、昨夜の“いつも通りではない顔”が浮かんできてしまう。


 リディアは席に着き、スープへ手を伸ばした。


 温かい。

 けれど、なぜか味がいつもより遠い。


「食欲がないのか」


 すぐに気づかれた。


「あります」


「そうは見えない」


「少し考えごとをしていただけです」


「東区か」


 仕事の話へ寄せられ、リディアは少しだけほっとした。


「はい。渡り灯の試験運用前に、橋番の交代基準をもう一度確認したいと思って」


「それはオスカーにも任せられる」


「ええ。でも、最初の基準だけは私も見ておきたいのです」


「無理はするな」


「はい」


 そこで会話は一度切れた。


 アルベルトは資料へ目を戻す。

 リディアもスープを飲む。


 けれど胸の奥は、まだ静かではなかった。


 アルベルトは、こちらを縛らない。

 クラウス医師との打ち合わせを止めるつもりもない。

 リディアが正当に評価されることを、当然だと言った。


 なのに、面白くない。


 その感情を、彼は自分の中でどう扱っているのだろう。


 知りたい。


 そう思った瞬間、リディアはまたスプーンを止めた。


 知りたい。


 仕事ではなく。

 責任ではなく。

 宰相としての判断でもなく。


 アルベルトが何を感じ、何を欲し、何に困るのかを。


 そのことに気づくと、途端に食堂の空気まで少し違って感じられた。


「リディア」


 名を呼ばれ、肩が跳ねそうになる。


「はい」


「今日は午前中で作業を切れ」


「なぜですか」


「昨日から顔が落ち着かない」


 あまりにも真正面から言われ、リディアは言葉に詰まった。


「……それは、疲れではないと思います」


「なら何だ」


「まだ、よくわかりません」


 正直にそう答えると、アルベルトはわずかに目を細めた。


 追及はしなかった。


「わかったら言え」


「言えることなら」


「言えないことなのか」


「わかりません」


 また同じ返事になってしまう。


 けれど本当に、わからなかった。


 アルベルトは少しだけ沈黙し、それから短く言った。


「なら、無理に言葉にするな」


 その一言に、胸の奥が少し緩んだ。


 いつもそうだ。


 言えと言いながら、無理には奪わない。

 踏み込みながら、最後の線は越えない。


 だから余計に、困る。


 朝食のあと、リディアは作業室で東区の記録票を確認した。


 オスカーは約束通り、午後に休むつもりで仕事を詰めているらしい。いつもより少しだけ速くペンが走っている。


「オスカー」


「はい」


「急いで午後に疲れ切るのは、休むとは言いません」


「……奥様は、旦那様に似てこられましたね」


 真顔で言われ、リディアは手元の資料を落としかけた。


「私が?」


「はい。特に、相手の逃げ道を先回りして塞ぐところが」


「それは褒めているの?」


「半分は」


「残り半分は?」


「少し怖いです」


 リディアは困ってしまった。


「そんなに怖い顔をしているかしら」


「今は大丈夫です」


「今は」


「はい。昨日、ファーネル侯爵夫人の予算案を削っているときは、少し旦那様に近づいていました」


 それを聞いていたエマが、茶器を置きながら静かに頷く。


「私もそう思いました」


「エマまで」


「ただ、奥様の怖さは旦那様より柔らかいです」


「それは褒め言葉として受け取るべき?」


「はい」


 リディアは思わず笑ってしまった。


 作業室に柔らかな空気が流れる。


 だが笑ったあと、ふと昨夜のアルベルトの顔を思い出し、また胸の奥が落ち着かなくなった。


 エマはそれに気づいたらしい。


 オスカーが資料を取りに隣室へ出たあと、彼女は控えめに尋ねた。


「奥様、何か気がかりなことがございますか」


 リディアはすぐには答えられなかった。


 父のことでもない。

 ファーネル侯爵夫人のことでもない。

 渡り灯のことでも、北区の灯火所のことでもない。


 いや、少しは全部繋がっているのかもしれない。

 けれど一番胸を乱しているのは、別のことだ。


「……エマ」


「はい」


「人の表情が気になって、落ち着かなくなることはあるかしら」


 エマは少しだけ瞬きをした。


 それから、慎重に微笑んだ。


「ございます」


「そう」


「どなたのお顔でしょうか」


 静かな問いだった。


 けれど、逃げ道が少ない。


 リディアはカップを見下ろした。


「旦那様の」


 言ってしまった。


 声にした途端、頬が熱くなる。


 エマは驚かなかった。


 むしろ、少しだけ納得したように目元を和らげた。


「旦那様のお顔が、気になるのですね」


「ええ。最近、ほんの少し表情が変わると、それが気になってしまうの。昨日も……」


 そこまで言って、言葉を止める。


 アルベルトが嫉妬めいたことを言った、とはさすがに言いづらい。


 エマは急かさなかった。


「旦那様は、表情をあまり大きくお出しになりませんから」


「ええ」


「ですから、小さな変化に気づくには、よほどよく見ている必要がございます」


 リディアは固まった。


「よく……見ている」


「はい」


 エマは穏やかに続ける。


「奥様は、旦那様のお顔をよく見ていらっしゃるのですね」


 胸が、跳ねた。


 否定しようとして、できなかった。


 見ている。


 たしかに、見ている。


 アルベルトが何かに気づいたとき、ほんの少し眉を動かすこと。

 困ったとき、視線をわずかに外すこと。

 満足したとき、声が少しだけ低く落ち着くこと。

 怒っているときほど、表情が冷静になること。

 照れているのかもしれないとき、沈黙が一拍長くなること。


 いつの間に、そんなことまで覚えていたのだろう。


「……私、そんなに見ているのかしら」


「はい」


 エマは迷わず答えた。


「少なくとも、私にはそう見えます」


「恥ずかしいわ」


「恥ずかしいことではございません」


「でも」


「誰かをよく見るのは、その方を知りたいからではないでしょうか」


 知りたい。


 朝にも思った言葉だ。


 アルベルトが何を考えているのか。

 何を望んでいるのか。

 何に困るのか。


 知りたい。


 それは、仕事上の必要ではなかった。


 リディアは頬を押さえそうになり、どうにか踏みとどまった。


「エマ、私は……少し変なのかもしれません」


「変、でございますか」


「旦那様が困ったお顔をなさると、私まで困ってしまうの」


 言葉にすると、余計に奇妙だった。


 だがエマは笑わなかった。


「それは、奥様が旦那様のお心に近づいておいでだからではございませんか」


「近づく……」


「はい」


 エマは優しく言った。


「相手の表情が気になるのは、その方の内側を知りたいと思っているからかと」


 リディアは、完全に黙ってしまった。


 内側を知りたい。


 その言葉が、胸の中で静かに広がる。


 王太子の内側を知りたいと思ったことが、あっただろうか。


 あったのかもしれない。婚約者だった頃、彼が何を考えているのか知りたいと思ったことはある。だがそれは、どうすれば彼に嫌われないか、どうすれば正しく支えられるか、そういう不安に近かった。


 アルベルトに対する「知りたい」は、少し違う。


 彼を満足させるためではない。

 失望されないためでもない。


 ただ、知りたい。


 この人が、どんなふうに自分を見て、どんなふうに感情を飲み込み、どんなふうに不器用に言葉を選ぶのか。


 それを知りたい。


 リディアは胸に手を当てた。


 鼓動が少し早い。


「……ありがとう、エマ」


「いいえ」


「少し、考えてみます」


「はい。ですが、考えすぎてお茶を冷まさない程度に」


 その言い方があまりに自然だったので、リディアはまた笑ってしまった。


 午後、オスカーを半ば強制的に休ませたあと、リディアは温室へ向かった。


 ブルースターは今日も静かに咲いている。


 その花を見ていると、少し気持ちが整う。

 けれど今日は、花よりもガラスに映る自分の顔が気になった。


 自分は今、どんな顔をしているのだろう。


 王太子に謝られたときとは違う。

 父に手紙を書いたときとも違う。

 ファーネル侯爵夫人と向き合ったときとも違う。


 もっと柔らかく、もっと不安定な顔をしている気がする。


 夕方、アルベルトが温室へ来た。


 彼は扉を開ける前に、いつものように声をかけた。


「入るぞ」


「はい」


 その一言だけで、胸がまた少し騒がしくなる。


 アルベルトは入ってくると、リディアの顔を見てすぐに言った。


「考えすぎた顔だな」


「……今日は皆に顔のことばかり言われます」


「皆?」


「オスカーにも、エマにも」


「何を言われた」


「私が旦那様のお顔をよく見ていると」


 言った瞬間、温室の空気が止まった気がした。


 アルベルトの表情は、ほとんど変わらない。


 けれど、わかる。


 彼は今、言葉を失っている。


 リディアはそれを見て、また胸が落ち着かなくなった。


「……今もです」


「何がだ」


「そういうお顔をされると、私はどうしていいかわからなくなります」


 つい、口に出ていた。


 アルベルトは黙ったままリディアを見る。


 リディアも、もう視線を逸らせなかった。


「旦那様は、普段あまり表情を変えません。でも、少しだけ困ったり、言葉を探したり、視線を逸らしたりなさると……それが気になってしまいます」


 言えば言うほど、恥ずかしさが増していく。


 けれど止めなかった。


「昨日、クラウス医師のことで少し面白くないと仰ったときも。今朝、私が何でもないと言ったときも。今も」


 リディアは膝の上で手を重ねた。


「旦那様のそういうお顔を見てしまうと、私は……自分の気持ちまでわからなくなります」


 沈黙。


 温室の葉が、かすかに揺れる。


 アルベルトはしばらく何も言わなかった。


 それから、ゆっくり口を開く。


「それを私に言うのか」


「言ってはいけませんでしたか」


「いや」


 彼は少しだけ視線を落とした。


「……困る」


 低い声だった。


 リディアの心臓が、また跳ねた。


「困るのですか」


「ああ」


「旦那様も?」


「私もだ」


 その返事に、胸の奥が一気に熱くなった。


 自分だけではない。


 彼も、困る。


 冷静で、何でも判断できて、王宮でも社交界でも揺るがないこの人が。

 リディアの言葉に困っている。


 そのことが、嬉しいような、怖いような、恥ずかしいような気持ちを連れてくる。


「……少し、安心しました」


 リディアが言うと、アルベルトは顔を上げた。


「安心?」


「私だけが困っているのかと思っていたので」


「君は」


 アルベルトは言いかけて、止まった。


 まただ。


 その止まる顔が、リディアの胸を乱す。


「……また、そういうお顔です」


「言葉を選んでいる」


「何を?」


「君に余計な負担をかけない言葉を」


 その答えが、あまりにも彼らしかった。


 リディアは胸が苦しくなる。


「いつも、考えてくださるのですね」


「当然だ」


「私は、旦那様の前では少しずつ考えずに言えるようになってきたのに」


「それはいいことだ」


「でも、旦那様はまだ考えすぎです」


 言ってから、自分で驚いた。


 こんなことを、アルベルトに言う日が来るなんて。


 彼も少し驚いたようだった。


「私が?」


「はい」


「君に言われるとは思わなかった」


「私も言うとは思いませんでした」


 二人の間に、少しだけ可笑しな沈黙が落ちる。


 リディアは深く息を吸った。


 ここで逃げたら、また胸の中に残ってしまう気がした。


「旦那様」


「何だ」


「私は、旦那様に評価されると、一番落ち着かなくなります」


 昨夜も似たようなことを言った。


 だが今日は、もう少し先へ進みたかった。


「でも、それは嫌ではありません」


 アルベルトの目がわずかに揺れる。


「嫌ではないのか」


「はい。困ります。恥ずかしいです。どうしていいかわからなくなります。でも……嫌ではないのです」


 言いながら、リディアは自分の中にあるものを少しずつ確かめていた。


 これはまだ、恋だと断言できない。

 いや、もしかしたらもうそうなのかもしれない。

 けれど今の彼女には、その言葉はまだ大きすぎる。


 だから、今言えるところまでを言う。


「旦那様が私を見てくださることが、私は……嬉しいのだと思います」


 声は小さかった。


 けれど、温室には確かに届いた。


 アルベルトはしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり息を吐いた。


「そうか」


 短い。


 いつも通りの返事。


 けれど、声が少しだけ低く、柔らかかった。


「はい」


「私も」


 彼は一度言葉を切った。


 リディアは待った。


「君が私を見ることは、嫌ではない」


 その言い方に、リディアは思わず瞬きをした。


「嫌ではない、ですか」


「ああ」


「それは……旦那様なりには、かなり」


「言うな」


 低く止められた。


 けれど、その耳元がほんの少し赤くなっているように見えて、リディアは今度こそ笑いそうになった。


 笑ってはいけない気がした。

 でも、完全には堪えきれなかった。


 小さく、笑みがこぼれる。


 アルベルトはそれを見て、さらに少しだけ困った顔をした。


 その顔を見て、リディアの胸はまた高鳴る。


「……やはり、困ります」


「何がだ」


「そんな顔をされると」


 アルベルトは、今度は否定しなかった。


 ただ、静かに言った。


「慣れろ」


「無茶をおっしゃいます」


「私も慣れる」


「旦那様も?」


「ああ」


 何に慣れるのか。


 リディアには、聞けなかった。


 聞いたら、今度こそ何かがはっきりしてしまう気がしたから。


 温室の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わっていく。


 北区の灯火所には、そろそろ火が入るころだろう。

 東区の橋にも、渡り灯の準備が進んでいる。


 王都の冬はまだ長い。


 やるべき仕事は山ほどある。


 それでも今、この温室の中にだけ、ほんの少し違う時間が流れていた。


 リディアはブルースターの小さな花を見つめながら思った。


 たぶん自分は、もうかなり深いところまで来ている。


 橋の途中で立ち止まるように、怖さもある。

 けれど向こう側には、誰かが待っている気がする。


 それが誰なのかは、もうわかっている。


 ただ、その名を呼ぶには、まだ少し勇気が足りなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ