第69話 そんな顔をされると、私はどうしていいかわからない
翌朝、リディアはいつもより早く目を覚ました。
昨夜、温室で交わした会話が、まだ胸の奥に残っていた。
――わかっていても、面白くないものは面白くない。
アルベルトが、あんなふうに言うとは思わなかった。
彼はいつも、感情より先に理屈を置く。必要か、不要か。妥当か、そうでないか。事実か、誤りか。すべてを静かに分けていく人だ。
その人が、あんなにも不器用に「面白くない」と言った。
クラウス医師がリディアの記録票を褒めたことは、仕事としてはよいことだった。アルベルトもそれを理解していた。施療院との連携が深まることも、東区の渡り灯にとって必要だとわかっていた。
それなのに、面白くなかった。
その矛盾を、彼は隠しきれなかった。
リディアは寝台の上で、そっと自分の頬に触れた。
熱はない。
けれど、思い出すだけで少し頬が温かくなる。
「……困るわ」
小さく呟く。
本当に困る。
クラウス医師に褒められたときの照れとは違う。王妃に評価されたときの緊張とも違う。父へ手紙を送ったときの怖さとも、王太子に謝られたときの痛みとも違う。
アルベルトが少し困った顔をした。
それだけで、自分までこんなに落ち着かなくなる。
何なのだろう、これは。
考えようとすると、胸の奥が逃げるようにざわめく。
まだ名前をつけたくない。
けれど、名前をつけないまま放っておくには、少しずつ大きくなりすぎている。
身支度を終えて朝食へ向かうと、食堂にはすでにアルベルトがいた。
彼はいつものように新聞ではなく、王宮から届いた簡易報告書に目を通している。朝から仕事をしていることに、もはや驚かなくなった自分がいる。
「おはようございます」
「ああ」
返事はいつも通り短い。
だが、リディアはその横顔をつい見てしまった。
昨日の温室で、視線を逸らした横顔。
面白くないと認めたときの、わずかに硬い口元。
自分に評価されると一番落ち着かなくなると言われたときの、言葉を失った目。
思い出す。
思い出してしまう。
「何だ」
アルベルトが資料から目を上げた。
リディアは慌てて視線を逸らす。
「いえ、何でもありません」
「何でもない顔ではなかった」
「旦那様こそ、いつもそうおっしゃいますね」
「事実だからな」
平然と返される。
普段ならそこで少し笑えた。
だが今日は、彼がいつも通りであればあるほど、昨夜の“いつも通りではない顔”が浮かんできてしまう。
リディアは席に着き、スープへ手を伸ばした。
温かい。
けれど、なぜか味がいつもより遠い。
「食欲がないのか」
すぐに気づかれた。
「あります」
「そうは見えない」
「少し考えごとをしていただけです」
「東区か」
仕事の話へ寄せられ、リディアは少しだけほっとした。
「はい。渡り灯の試験運用前に、橋番の交代基準をもう一度確認したいと思って」
「それはオスカーにも任せられる」
「ええ。でも、最初の基準だけは私も見ておきたいのです」
「無理はするな」
「はい」
そこで会話は一度切れた。
アルベルトは資料へ目を戻す。
リディアもスープを飲む。
けれど胸の奥は、まだ静かではなかった。
アルベルトは、こちらを縛らない。
クラウス医師との打ち合わせを止めるつもりもない。
リディアが正当に評価されることを、当然だと言った。
なのに、面白くない。
その感情を、彼は自分の中でどう扱っているのだろう。
知りたい。
そう思った瞬間、リディアはまたスプーンを止めた。
知りたい。
仕事ではなく。
責任ではなく。
宰相としての判断でもなく。
アルベルトが何を感じ、何を欲し、何に困るのかを。
そのことに気づくと、途端に食堂の空気まで少し違って感じられた。
「リディア」
名を呼ばれ、肩が跳ねそうになる。
「はい」
「今日は午前中で作業を切れ」
「なぜですか」
「昨日から顔が落ち着かない」
あまりにも真正面から言われ、リディアは言葉に詰まった。
「……それは、疲れではないと思います」
「なら何だ」
「まだ、よくわかりません」
正直にそう答えると、アルベルトはわずかに目を細めた。
追及はしなかった。
「わかったら言え」
「言えることなら」
「言えないことなのか」
「わかりません」
また同じ返事になってしまう。
けれど本当に、わからなかった。
アルベルトは少しだけ沈黙し、それから短く言った。
「なら、無理に言葉にするな」
その一言に、胸の奥が少し緩んだ。
いつもそうだ。
言えと言いながら、無理には奪わない。
踏み込みながら、最後の線は越えない。
だから余計に、困る。
朝食のあと、リディアは作業室で東区の記録票を確認した。
オスカーは約束通り、午後に休むつもりで仕事を詰めているらしい。いつもより少しだけ速くペンが走っている。
「オスカー」
「はい」
「急いで午後に疲れ切るのは、休むとは言いません」
「……奥様は、旦那様に似てこられましたね」
真顔で言われ、リディアは手元の資料を落としかけた。
「私が?」
「はい。特に、相手の逃げ道を先回りして塞ぐところが」
「それは褒めているの?」
「半分は」
「残り半分は?」
「少し怖いです」
リディアは困ってしまった。
「そんなに怖い顔をしているかしら」
「今は大丈夫です」
「今は」
「はい。昨日、ファーネル侯爵夫人の予算案を削っているときは、少し旦那様に近づいていました」
それを聞いていたエマが、茶器を置きながら静かに頷く。
「私もそう思いました」
「エマまで」
「ただ、奥様の怖さは旦那様より柔らかいです」
「それは褒め言葉として受け取るべき?」
「はい」
リディアは思わず笑ってしまった。
作業室に柔らかな空気が流れる。
だが笑ったあと、ふと昨夜のアルベルトの顔を思い出し、また胸の奥が落ち着かなくなった。
エマはそれに気づいたらしい。
オスカーが資料を取りに隣室へ出たあと、彼女は控えめに尋ねた。
「奥様、何か気がかりなことがございますか」
リディアはすぐには答えられなかった。
父のことでもない。
ファーネル侯爵夫人のことでもない。
渡り灯のことでも、北区の灯火所のことでもない。
いや、少しは全部繋がっているのかもしれない。
けれど一番胸を乱しているのは、別のことだ。
「……エマ」
「はい」
「人の表情が気になって、落ち着かなくなることはあるかしら」
エマは少しだけ瞬きをした。
それから、慎重に微笑んだ。
「ございます」
「そう」
「どなたのお顔でしょうか」
静かな問いだった。
けれど、逃げ道が少ない。
リディアはカップを見下ろした。
「旦那様の」
言ってしまった。
声にした途端、頬が熱くなる。
エマは驚かなかった。
むしろ、少しだけ納得したように目元を和らげた。
「旦那様のお顔が、気になるのですね」
「ええ。最近、ほんの少し表情が変わると、それが気になってしまうの。昨日も……」
そこまで言って、言葉を止める。
アルベルトが嫉妬めいたことを言った、とはさすがに言いづらい。
エマは急かさなかった。
「旦那様は、表情をあまり大きくお出しになりませんから」
「ええ」
「ですから、小さな変化に気づくには、よほどよく見ている必要がございます」
リディアは固まった。
「よく……見ている」
「はい」
エマは穏やかに続ける。
「奥様は、旦那様のお顔をよく見ていらっしゃるのですね」
胸が、跳ねた。
否定しようとして、できなかった。
見ている。
たしかに、見ている。
アルベルトが何かに気づいたとき、ほんの少し眉を動かすこと。
困ったとき、視線をわずかに外すこと。
満足したとき、声が少しだけ低く落ち着くこと。
怒っているときほど、表情が冷静になること。
照れているのかもしれないとき、沈黙が一拍長くなること。
いつの間に、そんなことまで覚えていたのだろう。
「……私、そんなに見ているのかしら」
「はい」
エマは迷わず答えた。
「少なくとも、私にはそう見えます」
「恥ずかしいわ」
「恥ずかしいことではございません」
「でも」
「誰かをよく見るのは、その方を知りたいからではないでしょうか」
知りたい。
朝にも思った言葉だ。
アルベルトが何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
何に困るのか。
知りたい。
それは、仕事上の必要ではなかった。
リディアは頬を押さえそうになり、どうにか踏みとどまった。
「エマ、私は……少し変なのかもしれません」
「変、でございますか」
「旦那様が困ったお顔をなさると、私まで困ってしまうの」
言葉にすると、余計に奇妙だった。
だがエマは笑わなかった。
「それは、奥様が旦那様のお心に近づいておいでだからではございませんか」
「近づく……」
「はい」
エマは優しく言った。
「相手の表情が気になるのは、その方の内側を知りたいと思っているからかと」
リディアは、完全に黙ってしまった。
内側を知りたい。
その言葉が、胸の中で静かに広がる。
王太子の内側を知りたいと思ったことが、あっただろうか。
あったのかもしれない。婚約者だった頃、彼が何を考えているのか知りたいと思ったことはある。だがそれは、どうすれば彼に嫌われないか、どうすれば正しく支えられるか、そういう不安に近かった。
アルベルトに対する「知りたい」は、少し違う。
彼を満足させるためではない。
失望されないためでもない。
ただ、知りたい。
この人が、どんなふうに自分を見て、どんなふうに感情を飲み込み、どんなふうに不器用に言葉を選ぶのか。
それを知りたい。
リディアは胸に手を当てた。
鼓動が少し早い。
「……ありがとう、エマ」
「いいえ」
「少し、考えてみます」
「はい。ですが、考えすぎてお茶を冷まさない程度に」
その言い方があまりに自然だったので、リディアはまた笑ってしまった。
午後、オスカーを半ば強制的に休ませたあと、リディアは温室へ向かった。
ブルースターは今日も静かに咲いている。
その花を見ていると、少し気持ちが整う。
けれど今日は、花よりもガラスに映る自分の顔が気になった。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
王太子に謝られたときとは違う。
父に手紙を書いたときとも違う。
ファーネル侯爵夫人と向き合ったときとも違う。
もっと柔らかく、もっと不安定な顔をしている気がする。
夕方、アルベルトが温室へ来た。
彼は扉を開ける前に、いつものように声をかけた。
「入るぞ」
「はい」
その一言だけで、胸がまた少し騒がしくなる。
アルベルトは入ってくると、リディアの顔を見てすぐに言った。
「考えすぎた顔だな」
「……今日は皆に顔のことばかり言われます」
「皆?」
「オスカーにも、エマにも」
「何を言われた」
「私が旦那様のお顔をよく見ていると」
言った瞬間、温室の空気が止まった気がした。
アルベルトの表情は、ほとんど変わらない。
けれど、わかる。
彼は今、言葉を失っている。
リディアはそれを見て、また胸が落ち着かなくなった。
「……今もです」
「何がだ」
「そういうお顔をされると、私はどうしていいかわからなくなります」
つい、口に出ていた。
アルベルトは黙ったままリディアを見る。
リディアも、もう視線を逸らせなかった。
「旦那様は、普段あまり表情を変えません。でも、少しだけ困ったり、言葉を探したり、視線を逸らしたりなさると……それが気になってしまいます」
言えば言うほど、恥ずかしさが増していく。
けれど止めなかった。
「昨日、クラウス医師のことで少し面白くないと仰ったときも。今朝、私が何でもないと言ったときも。今も」
リディアは膝の上で手を重ねた。
「旦那様のそういうお顔を見てしまうと、私は……自分の気持ちまでわからなくなります」
沈黙。
温室の葉が、かすかに揺れる。
アルベルトはしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり口を開く。
「それを私に言うのか」
「言ってはいけませんでしたか」
「いや」
彼は少しだけ視線を落とした。
「……困る」
低い声だった。
リディアの心臓が、また跳ねた。
「困るのですか」
「ああ」
「旦那様も?」
「私もだ」
その返事に、胸の奥が一気に熱くなった。
自分だけではない。
彼も、困る。
冷静で、何でも判断できて、王宮でも社交界でも揺るがないこの人が。
リディアの言葉に困っている。
そのことが、嬉しいような、怖いような、恥ずかしいような気持ちを連れてくる。
「……少し、安心しました」
リディアが言うと、アルベルトは顔を上げた。
「安心?」
「私だけが困っているのかと思っていたので」
「君は」
アルベルトは言いかけて、止まった。
まただ。
その止まる顔が、リディアの胸を乱す。
「……また、そういうお顔です」
「言葉を選んでいる」
「何を?」
「君に余計な負担をかけない言葉を」
その答えが、あまりにも彼らしかった。
リディアは胸が苦しくなる。
「いつも、考えてくださるのですね」
「当然だ」
「私は、旦那様の前では少しずつ考えずに言えるようになってきたのに」
「それはいいことだ」
「でも、旦那様はまだ考えすぎです」
言ってから、自分で驚いた。
こんなことを、アルベルトに言う日が来るなんて。
彼も少し驚いたようだった。
「私が?」
「はい」
「君に言われるとは思わなかった」
「私も言うとは思いませんでした」
二人の間に、少しだけ可笑しな沈黙が落ちる。
リディアは深く息を吸った。
ここで逃げたら、また胸の中に残ってしまう気がした。
「旦那様」
「何だ」
「私は、旦那様に評価されると、一番落ち着かなくなります」
昨夜も似たようなことを言った。
だが今日は、もう少し先へ進みたかった。
「でも、それは嫌ではありません」
アルベルトの目がわずかに揺れる。
「嫌ではないのか」
「はい。困ります。恥ずかしいです。どうしていいかわからなくなります。でも……嫌ではないのです」
言いながら、リディアは自分の中にあるものを少しずつ確かめていた。
これはまだ、恋だと断言できない。
いや、もしかしたらもうそうなのかもしれない。
けれど今の彼女には、その言葉はまだ大きすぎる。
だから、今言えるところまでを言う。
「旦那様が私を見てくださることが、私は……嬉しいのだと思います」
声は小さかった。
けれど、温室には確かに届いた。
アルベルトはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「そうか」
短い。
いつも通りの返事。
けれど、声が少しだけ低く、柔らかかった。
「はい」
「私も」
彼は一度言葉を切った。
リディアは待った。
「君が私を見ることは、嫌ではない」
その言い方に、リディアは思わず瞬きをした。
「嫌ではない、ですか」
「ああ」
「それは……旦那様なりには、かなり」
「言うな」
低く止められた。
けれど、その耳元がほんの少し赤くなっているように見えて、リディアは今度こそ笑いそうになった。
笑ってはいけない気がした。
でも、完全には堪えきれなかった。
小さく、笑みがこぼれる。
アルベルトはそれを見て、さらに少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、リディアの胸はまた高鳴る。
「……やはり、困ります」
「何がだ」
「そんな顔をされると」
アルベルトは、今度は否定しなかった。
ただ、静かに言った。
「慣れろ」
「無茶をおっしゃいます」
「私も慣れる」
「旦那様も?」
「ああ」
何に慣れるのか。
リディアには、聞けなかった。
聞いたら、今度こそ何かがはっきりしてしまう気がしたから。
温室の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わっていく。
北区の灯火所には、そろそろ火が入るころだろう。
東区の橋にも、渡り灯の準備が進んでいる。
王都の冬はまだ長い。
やるべき仕事は山ほどある。
それでも今、この温室の中にだけ、ほんの少し違う時間が流れていた。
リディアはブルースターの小さな花を見つめながら思った。
たぶん自分は、もうかなり深いところまで来ている。
橋の途中で立ち止まるように、怖さもある。
けれど向こう側には、誰かが待っている気がする。
それが誰なのかは、もうわかっている。
ただ、その名を呼ぶには、まだ少し勇気が足りなかった。




