第68話 アルベルトは嫉妬を仕事の顔で隠す
東区施療院から届いた最初の試験準備報告は、思っていたよりも細かかった。
橋の両側に置く灯具の位置。
雨除け小屋の仮設場所。
橋番候補者の名前。
施療院まで付き添う者の交代表。
そして、渡り灯の記録票を試しに使ってみた結果。
まだ実際の夜間運用は始まっていない。
けれど施療院側は、昼のうちに橋を渡る人々へ声をかけ、どの場所で足を止めやすいか、灯りがどの高さにあれば見やすいかを確認してくれていた。
リディアはその報告を読みながら、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
机の上の紙が、少しずつ現場と繋がっていく。
書類の中だけにあった「渡り灯」が、東区の橋の上で本当に形を持ち始めているのだ。
「奥様、東区施療院のクラウス医師がお見えです」
ハロルドが告げたのは、午後の作業が一段落しかけたころだった。
リディアは顔を上げる。
「クラウス医師?」
「はい。施療院長の代理として、渡り灯の記録票について直接ご相談したいとのことです」
オスカーが資料から顔を上げた。
「クラウス医師は、東区施療院で夜間診療を担当している若い医師です。院長からの報告にも何度か名前がありました」
「そう。では、こちらへ」
しばらくして作業室へ通されたのは、二十代後半ほどの青年だった。
医師らしい簡素な外衣に、少し古びた鞄。髪は淡い茶色で、きっちり整えてはいるが、王宮勤めの官吏たちとは違う実務の疲れが肩に残っている。
だが目は明るかった。
「お初にお目にかかります、宰相夫人。東区施療院のクラウス・レーヴェです」
「リディア・グランディスです。遠いところをありがとうございます」
「こちらこそ、直接お時間をいただき感謝いたします」
クラウスは深く礼をし、それから持参した書類を机の上に広げた。
その動きに無駄がない。
医師というより、現場で何でも自分で片づけてきた人の手つきだった。
「まず、記録票の件ですが」
彼はすぐ本題に入った。
「非常に使いやすいです」
リディアは少し意外に思った。
「本当ですか?」
「はい。夜間の現場で長い文章は書けません。患者を見ながら橋番の報告も受けるとなると、印をつける形式でなければ続きません。その点、奥様の記録票は必要なところだけを拾える」
クラウスは、試しに使った記録票を差し出した。
渡橋成功。途中停止。付き添い必要。施療院到着。帰路確認。
印がつけられ、必要なところだけ短い備考がある。
リディアはそれを丁寧に見た。
「途中停止が三件ありますね」
「昼の試験で、です。夜ならもっと増えるでしょう。橋の中央、手すりが低いところで止まる人が多いようです」
「灯りの高さは?」
「高すぎると霧に散ります。低すぎると足元だけで、向こう側が見えない。橋番が持つ手灯りと、固定灯を併用したほうがよいかと」
オスカーがすぐ書き留める。
リディアも頷いた。
「では、固定灯は橋の両端。中央付近は橋番の手灯りで補う形がよさそうですね」
「そう思います」
クラウスは迷いなく頷いた。
「それと、帰路確認の項目ですが……正直、最初に見たときは少し細かすぎるかと思いました」
「そうでしたか」
「ええ。施療院としては、来た患者を見ることで手いっぱいですから。帰った後まで確認する余裕があるか、と」
彼はそこで、少し表情を改めた。
「ですが試しに昼の患者で確認してみると、片足を痛めて来た職人が、帰りは橋を渡れず立ち止まっていました。行きは痛みに気を取られて渡れた。治療後、急に怖くなったそうです」
リディアは息を呑む。
「帰りのほうが怖くなることもあるのですね」
「あります。治療を受けて気が緩むと、そこで足が止まる者もいる。奥様の項目がなければ、私たちは見落としていました」
クラウスはまっすぐリディアを見た。
「渡り灯は、施療院にとっても助けになります。正直に申し上げれば、これまで我々は“来ない患者”を数える方法を持っていませんでした。来た者だけを診て、来なかった者については、ただ運が悪かった、次は早く来てほしい、そう言うしかなかった」
彼の声には、現場で何度も味わった無力感が滲んでいた。
「でも、橋で引き返した人の数を記録できれば、夜間受診が少ない理由を初めて示せます。これは大きい。奥様の記録欄のおかげで、現場の声が初めて上に届きました」
その言葉は、まっすぐすぎた。
リディアは一瞬、どう受け取ればよいかわからなくなる。
以前の癖で「そんな、大したことでは」と言いかけた。
だが、止めた。
これは自分一人の功績ではない。
けれど、自分が考えた項目が現場の役に立ったことは事実だ。
受け取っていい。
リディアはゆっくり頭を下げた。
「そう言っていただけて、嬉しいです。現場で使えなければ、どれほど整った書類でも意味がありませんから」
「整っているだけでなく、使えます」
クラウスは、やや身を乗り出した。
「失礼を承知で申し上げますが、王宮から来る書式の多くは、現場で使いづらいのです。見た目は立派ですが、実際には欄が多すぎる。あるいは、欲しい欄がない。奥様のものは、現場で何が起きるかを見た人の書式です」
そこまで率直に褒められると、さすがに頬が熱くなる。
リディアは視線を少し落としながらも、どうにか答えた。
「ありがとうございます。東区で、橋を見せていただいたおかげです」
「見ただけで、ここまで拾える方は多くありません」
クラウスはさらりと言った。
「施療院長も申しておりました。宰相夫人は、橋ではなく人を見てくださった、と」
その言葉に、リディアの胸が小さく震えた。
橋ではなく人。
自分は本当に、そうできているだろうか。
まだ迷う。
まだ足りない。
それでも、そう見てくれた人がいる。
それは、リディアにとって思った以上に大きなことだった。
「奥様」
オスカーが横から、少しだけ咳払いをした。
「こちら、備考欄の修正案も確認を」
「あ、ええ」
リディアは慌てて資料へ視線を戻した。
気を取り直し、クラウスと記録票の細部を詰めていく。
橋番が医師へ伝えるべき症状。
付き添いが必要な基準。
帰路確認を誰が行うか。
施療院へ着いたあと、待機できる場所をどこにするか。
夜間に母子が来た場合、子どもを先に暖めるか、診察を優先するか。
話は実務的だった。
だが、クラウスはリディアの意見に対して一つ一つ素直に反応した。
「なるほど」
「それは現場で使えます」
「その視点はありませんでした」
「奥様、それはぜひ院長にも伝えます」
そのたびに、リディアは少しずつ落ち着かなくなった。
褒められることに、まだ慣れていない。
それでも、以前のように全部を否定してしまうことはなかった。
打ち合わせの終わりに、クラウスは資料を鞄へしまい、改めて深く礼をした。
「渡り灯の試験運用、施療院としても全力で支えます」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「奥様のおかげで、東区の夜が少し変わるかもしれません」
リディアが返事をする前に、作業室の扉が開いた。
アルベルトが入ってきた。
いつものように静かな足取りだったが、部屋の空気がわずかに引き締まる。
クラウスはすぐに姿勢を正した。
「宰相閣下」
「東区施療院の医師か」
「はい。クラウス・レーヴェと申します。本日は記録票の件で、奥様にご相談を」
「ああ」
アルベルトの返事は短い。
短いが、冷たいわけではない。
少なくとも、表面上は。
リディアはその一瞬で、少しだけ違和感を覚えた。
いつものアルベルトより、さらに無駄がない。
いや、無駄がないのはいつものことだ。
ただ今日は、声が少し低い気がした。
クラウスは気づいていないのか、真面目に続けた。
「奥様の記録票は大変実用的で、施療院としても助かっております。特に帰路確認と引き返し人数の項目は、現場では非常に重要です」
「そうか」
アルベルトはリディアを一瞥した。
「役に立っているならいい」
「はい。正直、驚きました。王宮からの制度案で、ここまで現場に即したものは珍しいので」
クラウスの声には純粋な敬意があった。
リディアは少し居心地が悪くなる。
アルベルトは表情を変えなかった。
だが、なぜか部屋の温度が一度下がったように感じた。
「現場で使えなければ意味がない」
アルベルトは淡々と言った。
「引き続き、使いづらい点があれば報告しろ」
「承知しました」
クラウスは深く頭を下げる。
「奥様にも、改めてお礼申し上げます。東区の者たちは、渡り灯に期待しております」
「私だけの力ではありません。施療院の皆様が動いてくださるからです」
「それでも、始まりを作ってくださったのは奥様です」
真っ直ぐすぎる言葉に、リディアはまた少し頬が熱くなる。
「……ありがとうございます」
そのやり取りの間、アルベルトは黙っていた。
黙っているだけなのに、なぜか存在感が増している。
クラウスが退室したあと、作業室には少し妙な沈黙が残った。
オスカーが資料を揃える音だけがする。
エマは茶器を整えながら、何も聞こえなかった顔をしている。
リディアはアルベルトを見た。
「旦那様」
「何だ」
「何か、ご不快な点がありましたか」
「ない」
即答だった。
けれど、ある。
リディアには、なぜかそう思えた。
「そうでしょうか」
「そうだ」
「でも、先ほどから少し……」
言いかけて、適切な言葉を探す。
怖い、ではない。
怒っている、でも少し違う。
いつもより仕事の顔が厚い、という感じだ。
「少し、無口でいらっしゃいます」
「私は普段から多弁ではない」
「それはそうですが」
オスカーが横で咳払いをした。
明らかに何かを堪えている。
リディアはそちらを見た。
「オスカー?」
「いえ。何でもありません」
「今の顔は、何でもない顔ではありません」
「旦那様の前では申し上げづらいこともあります」
「オスカー」
アルベルトの声が少し低くなる。
「はい。申し上げません」
即答したオスカーの顔が真剣すぎて、リディアはますますわからなくなった。
アルベルトは机の上の資料を手に取り、何事もなかったように確認を始めた。
「記録票の修正は」
「こちらです」
リディアは資料を差し出す。
アルベルトは読みながら、淡々と指摘を入れた。
「橋番から施療院への報告経路を明確にしろ。口頭だけでは抜ける」
「はい」
「帰路確認は、施療院側だけに負担を寄せるな。橋番側にも印を残せ」
「そのほうがよいですね」
「夜間の職人利用者が増える可能性がある。荷運び組合にも話を通せ」
「わかりました」
完全に仕事の顔だった。
いつも通り有能で、判断は速く、指摘は的確。
けれど、どこか硬い。
リディアはそれが気になって仕方なかった。
その夜、夕食後に温室へ行くと、アルベルトも後からやって来た。
偶然ではないだろう。
けれど彼は、いつものように「ここにいたか」とだけ言って、少し離れた椅子に座った。
リディアはブルースターを見ていたが、今日は花よりも隣の人の沈黙が気になる。
「旦那様」
「何だ」
「やはり、何か怒っていらっしゃいますか」
「怒ってはいない」
また即答。
リディアは彼の顔を見た。
「では、不快?」
「それも違う」
「では……」
言葉に詰まる。
アルベルトは窓の外へ視線を向けたまま、少し黙った。
温室の外には、夜の庭が広がっている。ガラスに映る彼の横顔は、いつも通り冷静だった。けれど、いつもよりほんの少しだけ口元が固い。
リディアは慎重に言った。
「クラウス医師が、何か失礼なことを言ったでしょうか」
「いや」
「私が、何か?」
「君も何も悪くない」
「では、なぜ」
アルベルトは、しばらく答えなかった。
その沈黙は、仕事の沈黙ではない。
言うべきかどうか迷っている沈黙だった。
リディアは待った。
急かさない。
この人が自分にそうしてくれるように。
やがて、アルベルトは低く言った。
「君が正当に評価されるのは当然だ」
唐突な言葉だった。
リディアは瞬きをする。
「はい」
「渡り灯の記録票は、現場で使える。君の視点が役に立っている。クラウス医師が評価したのも妥当だ」
「……はい」
「それは当然だ」
同じ言葉を繰り返したあと、彼は少しだけ視線を逸らした。
「だが、面白いかどうかは別だ」
リディアはすぐには意味がわからなかった。
面白いかどうか。
何が?
クラウス医師が評価したことが?
リディアが褒められたことが?
そこまで考えて、ようやく胸の奥が跳ねた。
「旦那様、それは……」
「何でもない」
「何でもないことではない気がします」
「気のせいだ」
あまりにも早い否定だった。
リディアは思わず彼を見つめる。
アルベルトは、こちらを見ない。
いつもはまっすぐ見てくる人が、今は見ない。
それだけで、答えのようなものだった。
「もしかして」
リディアは、少しだけ声を落とした。
「クラウス医師に、妬いていらっしゃいますか」
言ってから、自分の心臓が強く打った。
あまりにも踏み込んだことを聞いた気がする。
アルベルトは一瞬、本当に動きを止めた。
温室の空気まで止まったように感じた。
「……妬く?」
低い声で、彼は繰り返した。
リディアは頬が熱くなるのを感じながらも、目を逸らせなかった。
「違いますか」
沈黙。
長い。
リディアは、言わなければよかったかもしれないと思い始めた。
だが、アルベルトはやがて深く息を吐いた。
「違う、と言えば嘘になるのだろうな」
胸が、大きく跳ねた。
認めた。
この人が。
あまりにも静かに、あまりにも不器用に。
「……そう、ですか」
リディアの声も小さくなる。
何と言えばいいのかわからない。
嬉しいと言うには、あまりに恥ずかしい。
困ると言うには、胸の奥が温かい。
でも、平静ではいられない。
「クラウス医師は、仕事として評価してくださっただけです」
「わかっている」
「私も、そのように受け取りました」
「それもわかっている」
「では」
「わかっていても、面白くないものは面白くない」
あまりに正直な言葉だった。
リディアは、思わず目を見開いた。
アルベルトは少しだけ眉を寄せる。
「何だ」
「いえ……旦那様が、そのような言い方をなさるとは思わなくて」
「私も、言う予定はなかった」
「では、なぜ」
「君が聞いたからだ」
真面目に返され、リディアは困ったように笑いそうになった。
でも笑えなかった。
胸が落ち着かない。
クラウス医師に褒められたときの照れとは、まるで違う。
アルベルトが面白くないと思った。
それを隠そうとして、仕事の顔で覆っていた。
そして今、隠しきれずに認めた。
それが、どうしようもなく胸を揺らす。
「私は」
リディアはゆっくり言葉を探した。
「旦那様に評価されると、一番……落ち着かなくなります」
言ってしまった。
今度はアルベルトがこちらを見た。
その目がわずかに揺れる。
「私に?」
「はい」
「なぜ」
「わかりません」
正直に言う。
「クラウス医師に褒められたときは、ありがたいと思いました。恥ずかしくもありました。でも、旦那様に“悪くない”と言われると……もっと胸の中が騒がしくなります」
リディアは膝の上で指を重ねた。
「それが、なぜなのかは、まだよくわかりません」
沈黙が落ちた。
温室の中で、ブルースターが静かに揺れている。
アルベルトは何も言わない。
でも、その沈黙は冷たくなかった。
「……そうか」
やがて、彼はそれだけ言った。
声はいつもより少し低い。
「はい」
「なら、今後も正当に評価する」
あまりにも仕事めいた返答に、リディアは一瞬ぽかんとした。
「そこなのですか」
「他に何を言えと」
「……いえ、旦那様らしいです」
今度こそ、少し笑ってしまった。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を外す。
その横顔が、いつもよりわずかに柔らかく見えた。
「旦那様」
「何だ」
「クラウス医師は、東区のために必要な方です」
「わかっている」
「これからも、打ち合わせは必要になります」
「それもわかっている」
「では、仕事の顔を厚くしすぎないでください」
アルベルトが、今度こそはっきりこちらを見た。
「厚く?」
「はい。今日、少し怖かったです」
「……そうか」
「クラウス医師が怯えるほどではありませんでしたが、オスカーは明らかに何かを察していました」
「あれは余計なことを察しすぎる」
「旦那様に似てきていますから」
リディアがそう言うと、アルベルトは低く息を吐いた。
「困ったものだな」
「本当に」
二人の間に、少しだけ笑いに近い空気が流れた。
けれど、胸の奥のざわめきは消えない。
むしろ、名前のないまま少し大きくなっている。
リディアはまだ、それを恋とは呼べなかった。
呼ぶには怖い。
あまりにも大きくて、これまで自分が知っていた感情とは違いすぎる。
けれど少なくとも、わかることが一つある。
アルベルトの不器用な嫉妬は、リディアを困らせた。
そして、少しだけ嬉しくもさせた。
その夜、温室から戻るころ、リディアはふと思った。
人の欲は、書類より先に形が見える。
なら、この人の欲も、少しだけ見え始めたのかもしれない。
独占したい。
けれど縛りたくはない。
評価されるリディアを誇らしく思う。
でも、他の男がまっすぐ褒めるのは面白くない。
なんて不器用な人なのだろう。
そう思うと、胸がまた小さく跳ねた。
リディアはそれを、まだ誰にも言わなかった。




