第67話 善意を飾りにしないために
翌朝、作業室の机の上には、ファーネル侯爵夫人から届いた慈善舞踏会の予算案と、リディアが赤字で書き込んだ修正案が並んでいた。
装飾費。
楽団費。
招待状。
菓子。
記念品。
寄付者名簿。
会場警備。
収益見込み。
そして、実際に北区と東区へ届く額。
数字だけを見るなら、それは立派な催しだった。
王都の貴族たちが集まり、冬の夜に灯火を捧げる舞踏会。美しい燭台が並び、楽団が新曲を奏で、夫人たちは「王都の冬に温もりを」と微笑む。翌日の社交界では、きっと話題になるだろう。
だが、リディアの目に映っているのは、硝子細工の灯りではなかった。
北区で冷えた手を温めるための薪。
灯火守りが夜半に口にする温かな食事。
東区の橋に置く、雨でも消えにくい灯具。
橋番の外套。
滑り止めの縄。
帰路を確認するための記録票。
舞踏会の美しさに金が消えれば、そこへ届くはずのものが減る。
それだけは譲れなかった。
「奥様、こちらが修正後の試算です」
オスカーが新しい表を差し出した。
昨夜遅くまで計算してくれたのだろう。目の下に少し疲れが見えたが、文字は相変わらず読みやすい。
「ありがとう。……オスカー、昨夜はちゃんと休みましたか」
「はい。二時間ほど」
「それは休んだとは言いません」
「旦那様にも同じことをよく言われます」
「では、改善しましょう。今日の午後は、あなたも一度休んで」
オスカーは少し困った顔をした。
「しかし、舞踏会の修正案が」
「あなたが倒れたら、記録も修正案も止まります」
そう言うと、オスカーは目を瞬いた。
リディア自身も、言ってから少し驚いた。
それは、かつてアルベルトに言われたこととほとんど同じだった。
支える人を見なければ、火は消える。
灯火守りだけではない。
記録係も、書記官も、支援制度を作る者も同じなのだ。
オスカーは苦笑し、小さく頭を下げた。
「承知しました。午後、少し休みます」
「約束ですよ」
「はい。奥様も」
「……私も?」
「はい。旦那様に報告する前に、私からも申し上げておきます」
思わぬ反撃に、リディアは言葉を失った。
そこへエマが茶を置きながら静かに言う。
「オスカー様のおっしゃる通りかと」
「エマまで」
「奥様が倒れられた場合、旦那様が大変静かに恐ろしいことになりますので」
「……それは、私が休む理由としては少し違う気がします」
「ですが有効です」
リディアは思わず小さく笑ってしまった。
作業室に、少しだけ柔らかな空気が広がる。
こうして笑える時間があるから、次の厳しい場へ向かえるのだと思った。
リディアは修正案へ視線を戻した。
「装飾費は、最初の三分の一まで削ります。どうしても灯りを演出に使うなら、実際に渡り灯で採用する灯具と同規格のものを展示する。舞踏会後はすべて東区へ回す」
「はい」
「特注の硝子飾りは不要。銀細工の燭台も不要。記念品も不要。招待状は簡素に。ただし、小冊子は残します」
「現場報告を載せるものですね」
「ええ。北区の灯火所で何が必要だったか。東区の橋で何が問題だったか。支援金が何に使われるか。それを説明するためのものにします」
リディアは次の紙をめくった。
「舞踏会の中で、短い現場報告の時間を入れます。美談としてではなく、数字と状況の報告として」
「孤児や利用者を招く件は」
「しません」
即答だった。
「支援を受けた人を、貴族たちの感動のために立たせる必要はありません。どうしても現場の声を入れるなら、施療院長か灯火守りの代表に、無理のない範囲で書面をもらうだけで十分です」
「承知しました」
「それから、支援者名は金額順ではなく用途別。薪、灯具、外套、薬湯、修繕、橋番の夜食。どこに何が使われたかを明記する」
言いながら、リディアは自分の中にある怒りが、昨日より落ち着いた形になっていることに気づいた。
ファーネル侯爵夫人へ向ける怒り。
慈善が飾りにされることへの怒り。
困っている人の声が、舞踏会の美しい演出に変えられることへの怒り。
それはもう、ただ胸を焼くものではなかった。
線を引くための熱になっていた。
昼過ぎ、慈善婦人会の再会合が開かれた。
今回は王宮内の小会議室だった。舞踏会の規模と収支に関わるため、慈善局からも担当官が二名、財務担当官の補佐も一名出席している。ファーネル侯爵夫人の案をただの社交の提案ではなく、公的な慈善事業の一環として扱うためだ。
ファーネル侯爵夫人は、今日も微笑んでいた。
冬の朝霧を思わせる薄青のドレス。肩口には小さな銀糸の刺繍。美しい。悔しいほどに、彼女は場を作るのが上手い。
「宰相夫人、修正案をお持ちくださったとか」
「はい」
リディアは席に着き、資料を配った。
「慈善舞踏会そのものには賛成いたします。ただし、条件があります」
夫人たちの視線が集まる。
ローゼン侯爵夫人は落ち着いている。グレイス伯爵夫人は少し緊張しているようだった。ファーネル侯爵夫人の隣に座る数名の貴婦人たちは、リディアがどこまで譲るかを測るように見ている。
リディアは資料を開いた。
「まず、装飾費に上限を設けます」
室内の空気が、少し硬くなった。
「舞踏会の趣旨上、灯りの演出は必要でしょう。ですが、舞踏会のためだけに作る高価な飾りは不要です。灯具は東区の渡り灯で実際に使用できる規格のものに限定し、舞踏会後は現場へ回します」
ファーネル侯爵夫人の笑みが、わずかに深くなる。
「まあ。実用的ですこと」
「はい」
リディアはその言葉をまっすぐ受け取った。
「実用的であることを、今回は最優先にします」
軽い皮肉を、恥じる理由にしない。
それだけで、少し場の流れが変わる。
「次に、収支報告を公開します。舞踏会にかかった費用、集まった寄付、実際に北区と東区へ回る額。すべて用途別に記録します」
「寄付者の名は?」
ある伯爵夫人が尋ねた。
「金額順ではなく、用途別に記載します。薪を支援した方、灯具を支援した方、橋番の外套を支援した方。金額の大小だけで名誉を競う形にはしません」
「それでは、高額寄付をする方の張り合いが薄れるのでは?」
「張り合いのための慈善ではありません」
リディアは静かに答えた。
「ですが、支援内容が明確になれば、自分の寄付が何を支えたかはわかります。それは名誉として十分に重いものだと思います」
ローゼン侯爵夫人が頷いた。
「私は賛成ですわ。金額だけでは、支援の意味が見えませんもの」
グレイス伯爵夫人も続く。
「外套を何着、という形で記録されるほうが、次も支援しやすいです。何が足りないのかもわかりますし」
リディアは二人へ軽く頭を下げた。
ファーネル侯爵夫人はまだ笑っている。
けれど、少しずつ場がリディアの修正案へ傾いていることを、当然気づいているだろう。
「さらに、舞踏会の中で短い現場報告の時間を設けます」
リディアは資料の該当箇所を示した。
「北区の冬の灯火所で、初夜にどのような問題が起きたか。東区の渡り灯が、なぜ北区と違う形になったのか。支援者の皆様に、現場の状況を知っていただきたいのです」
ファーネル侯爵夫人が扇を開いた。
「報告は大切ですわ。でも、舞踏会の場が重くなりすぎませんこと? せっかく善意を広げる華やかな夜なのですから」
「重くなりすぎないよう、時間は短くします」
「それなら、支援を受けた子どもたちを数名招いて、花束を渡してもらうほうが心に響くのではなくて?」
来た。
リディアは、手元の資料を指で押さえた。
予想していた提案だった。
そして、最も避けたいものだった。
「それはいたしません」
即座に答えた。
ファーネル夫人の笑みが止まる。
「なぜ?」
「支援を受けた人を、貴族の感動のために立たせるべきではないからです」
会議室が静かになる。
リディアは続けた。
「もちろん、ご本人が望むなら別です。ですが、孤児院の子どもや施療院の利用者は、貴族の前で花束を渡すために支援を受けているわけではありません。彼らの涙や感謝を、舞踏会の美しい場面として使うことは避けたいのです」
ある夫人が小さく息を呑む。
ファーネル侯爵夫人は、少しだけ声を低くした。
「使う、という言い方はあまりに冷たくありませんこと?」
「冷たく聞こえるなら、なおさら気をつけるべきことだと思います」
リディアは視線を逸らさなかった。
「善意の場では、誰も悪意を持っていないからこそ、境界が曖昧になります。子どもたちを励ましたい。感謝を伝える機会を作りたい。そういう言葉の中で、気づけば見世物にしてしまうことがある」
王太子妃候補だった頃の自分を、ほんの少し思い出した。
美しく立つこと。
正しく微笑むこと。
誰かの期待に沿うこと。
周囲は悪意だけでそれを求めていたわけではない。むしろ、彼女のため、家のため、王家のためという顔をしていた。
それでも、あれは苦しかった。
だからわかる。
善意でも、人は人を飾りにする。
「私は、支援を受ける人を飾りにしたくありません」
リディアは言った。
その言葉に、グレイス伯爵夫人が深く頷いた。
「……私も、そのほうがよいと思います」
彼女は少し言いづらそうに、しかしはっきりと口を開いた。
「以前、別の慈善会で孤児院の子どもたちが歌を披露したことがありました。皆、感動して寄付も集まりましたけれど……あとから、子どもたちがひどく緊張していたと聞きました。あれが本当に子どもたちのためだったのか、今でも少し気になっていましたの」
ローゼン侯爵夫人も静かに言った。
「なら、今回はやめましょう。現場報告は書面で十分です」
流れが決まった。
ファーネル侯爵夫人は、扇の陰で口元だけ笑っていた。
「皆様がそうおっしゃるなら、わたくしも反対はいたしませんわ」
声は優雅だった。
けれど、目は笑っていなかった。
その後の話し合いは、思ったより実務的に進んだ。
装飾費の上限。
支援総額の最低割合。
舞踏会終了後の収支公開。
現場報告の読み上げ時間。
寄付用途別の記録。
招待客への小冊子。
記念品の廃止。
現場利用者を招かないこと。
ファーネル侯爵夫人の華やかな案は、かなり削られた。
だが、完全に地味なものになったわけではない。
ローゼン侯爵夫人が言ったように、貴族の場には一定の美しさも必要だ。だからリディアも、すべてを削ることはしなかった。楽団は残し、会場の灯りも残し、舞踏の時間もきちんと設ける。
ただし、美しさが支援を食い潰さないようにした。
それが、リディアの引いた線だった。
会議の終わり、ファーネル侯爵夫人がにこやかに言った。
「では、この修正案で進めましょう。宰相夫人の厳格なお心配りにより、きっと堅実な会になりますわね」
堅実。
その言葉には、華やかさを削がれたことへの小さな皮肉が混じっていた。
だがリディアは微笑んだ。
「はい。堅実で、現場へ届く会にしたいと思います」
返すと、夫人の目がわずかに細くなった。
会議が終わり、出席者たちが部屋を出ていく。
リディアが資料をまとめていると、ローゼン侯爵夫人が近づいてきた。
「お疲れさまでした、宰相夫人」
「ありがとうございます」
「今日は、よく踏み込みましたね」
「踏み込みすぎたでしょうか」
「いいえ。踏み込まなければ、あの舞踏会は美しいだけの空箱になっていたでしょう」
ローゼン夫人は、ふっと小さく笑った。
「それにしても、“支援を受ける人を飾りにしたくない”という言葉は効きましたわ。あれを言われたら、誰も表立って反論できません」
「私も、言ってから少し強すぎたかと思いました」
「強い言葉は、強く使うべきところで使えばよいのです」
その言葉に、リディアは少し目を見開いた。
「強い言葉を、ですか」
「ええ。女性が強い言葉を使うと、すぐに冷たいとか可愛げがないとか言われますでしょう?」
ローゼン夫人は、まるで自分の若い頃を思い出すように目を細めた。
「でも、柔らかい言葉だけで守れないものもありますわ」
その言葉は、リディアの胸に静かに残った。
柔らかい言葉だけで守れないもの。
まさにそうだ。
北区の火も、東区の橋も、支援を受ける人の尊厳も、ただ優しく微笑んでいるだけでは守れない。
「覚えておきます」
リディアが言うと、ローゼン夫人は満足そうに頷いた。
「それから、ファーネル夫人はまだ諦めていませんよ」
「……やはり」
「ええ。あの方は、場の中心で輝くのが好きなのです。舞踏会本番でも、何か仕掛けてくるかもしれません」
「気をつけます」
「気をつけるだけでなく、味方を増やしなさい」
ローゼン夫人は静かに続けた。
「今日はグレイス夫人があなたに頷きました。あの方は派手ではないけれど、誠実です。ほかにも、実務を重んじる夫人たちはいます。あなた一人でファーネル夫人の華やかさに対抗する必要はありません」
リディアは、思わず深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。私も、この年になってようやく、少しは若い方の役に立てますわ」
そう言って、ローゼン夫人は去っていった。
その背を見送りながら、リディアは不思議な気持ちになった。
以前の社交界は、敵ばかりに見えた。
噂し、値踏みし、失敗を待つ場所。
けれど今は、少し違う。
ファーネル夫人のような人もいる。
だが、ローゼン夫人やグレイス夫人のように、リディアの言葉を受け止めてくれる人もいる。
社交界もまた、一枚岩ではない。
そこに気づけたことは、大きかった。
宰相家へ戻ると、アルベルトは執務室で待っていた。
リディアが報告書を持って入ると、彼はすぐに顔を上げる。
「通ったか」
「はい。かなり削りましたが、舞踏会自体は開催されます」
「ファーネル侯爵夫人は」
「笑っていました」
「怒っているな」
「はい」
即答すると、アルベルトの目がわずかに動いた。
「わかるようになったな」
「人の欲は、書類より先に形が見えるそうなので」
そう返すと、アルベルトは一瞬だけ黙った。
「……私の言葉か」
「はい」
「よく覚えている」
「旦那様のお言葉ですから」
今度は、自分で言ってから逃げなかった。
アルベルトが少しだけ視線を外す。
その反応が、リディアにはなぜか胸の奥をくすぐるように感じられた。
「それで、条件は?」
彼が話を戻す。
リディアは資料を差し出した。
「装飾費の上限、収支報告の公開、用途別記録、現場報告、利用者を招かないこと。おおむね通りました」
アルベルトは資料を読み、短く頷いた。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ただ、当日も気を抜くな」
「ローゼン侯爵夫人にも、同じようなことを言われました」
「なら正しい」
その言い方に、リディアは少し笑った。
「旦那様は、ローゼン侯爵夫人を評価していらっしゃるのですね」
「現実を見る人間は使える」
「また、そのような言い方を」
「褒めている」
「伝わりづらいです」
「君には伝わっているだろう」
不意にそう言われ、リディアは返事に詰まった。
伝わっている。
たしかに、最近は少しわかるようになっていた。
アルベルトの「悪くない」が、かなり褒めていること。
短い「休め」が、心配していること。
黙って隣にいることが、支えているということ。
そして今のように、わずかに視線を外すのが、照れているのかもしれないこと。
「……少しは」
リディアがそう答えると、アルベルトは目を伏せた。
「ならいい」
その声が、わずかに柔らかい。
リディアは資料を机に置きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
善意を飾りにしないために、今日はかなり強い言葉を使った。
それでも今、ここへ戻れば、自分の言葉を受け止めてくれる人がいる。
そのことが、リディアには何より心強かった。




