第66話 ファーネル侯爵夫人の甘い罠
フォルセイン侯爵家からの返書は、まだ届いていなかった。
届いていないことが、かえってリディアの胸を落ち着かなくさせる。
父は、あの手紙を読んだだろう。
怒っただろうか。
失望しただろうか。
あるいは、表面だけは穏やかな返事を書きながら、その奥に冷たい言葉を忍ばせてくるだろうか。
何度かそんな考えが頭をよぎった。
けれど、リディアはそのたびに机の上の資料へ目を戻した。
北区の冬の灯火所。
東区の渡り灯。
橋番の配置案。
雨除け小屋の木材手配。
灯具職人との見積もり。
橋の滑り止めに使う縄と鉄具。
考えるべきことは、いくらでもある。
父の返事を待って、心を全部そこへ置いてしまえば、また昔の自分に戻る気がした。父の顔色をうかがい、家の空気を読み、叱責が来る前に身構える自分に。
だから、仕事をした。
逃げるためではなく、今の自分が選んだ場所へ立つために。
「奥様、ファーネル侯爵夫人よりお手紙です」
その日の午後、エマが差し出した封書を見て、リディアは一瞬だけ眉を動かした。
淡い薔薇色の封筒。香りのついた紙。封蝋には、あの侯爵家の紋章。
ファーネル侯爵夫人。
渡り灯の灯具支援を申し出てくれた夫人だ。だが、家紋入り灯籠の件でリディアがはっきり断って以来、表面上は穏やかでも、内心では決して納得していないだろう相手でもある。
「ありがとう」
リディアは封を切った。
中の文面は、予想よりずっと華やかだった。
――宰相夫人リディア様。
北区の冬の灯火所、そして東区の渡り灯。王都の冬に新たな希望をもたらす素晴らしい試みと、心より敬意を表します。
つきましては、これらの事業をさらに広く支援するため、慈善舞踏会を開催してはいかがでしょうか。
王都の貴族たちが一堂に会し、冬の夜に灯りを捧げる趣向の舞踏会。収益は灯火所と渡り灯へ寄付し、支援の輪を大きく広げる。
善意は、美しく見せることで、より多くの心へ届きます。
ぜひ奥様にも、名誉顧問としてお力添えいただきたく存じます。
読み終えたあと、リディアはしばらく手紙を見つめていた。
慈善舞踏会。
言葉だけなら、悪くない。
支援を集めるには、貴族社会の場を使う必要がある。茶会、夜会、舞踏会、演奏会。華やかな催しに慈善の意味を添えれば、多くの寄付が集まることもある。
王宮でも、そうした例は何度も見てきた。
だから、即座に否定はできなかった。
けれど、手紙の一文が引っかかる。
善意は、美しく見せることで、より多くの心へ届きます。
美しく見せる。
その言葉は、甘かった。
美しい響きを持っているのに、どこか舌の奥に残る甘さがある。
リディアは手紙を丁寧に折り、机の上へ置いた。
「オスカーはいるかしら」
「作業室に」
「呼んでください。それから、旦那様にも後ほどお目通しをお願いしたいと」
「かしこまりました」
作業室へ移ると、オスカーはすぐにやって来た。
リディアが手紙を渡すと、彼は読むにつれて、表情を少しずつ曇らせた。
「慈善舞踏会ですか」
「ええ」
「収益が灯火所と渡り灯へ入るなら、資金面では助かります」
「そうね」
「ただ……」
オスカーは手紙の末尾を見た。
「名誉顧問、という言葉が気になります」
「私もです」
リディアは頷いた。
名誉顧問。
まるでリディアを立てているようでいて、実際には彼女の名を舞踏会へ引き込むための言葉だ。宰相夫人が関わっている催しとなれば、支援者は集まりやすい。王妃の耳にも届くだろう。
そして主催は、ファーネル侯爵夫人。
「舞踏会自体を否定するつもりはありません」
リディアは言った。
「支援が集まるなら、それは現場の助けになります。東区の灯具も、橋番の外套も、北区の薪も足りないままですもの」
「はい」
「でも、舞踏会を開く費用が大きすぎれば、本末転倒になります」
オスカーが即座に頷く。
「収支案を求めましょう」
「ええ。まずはそこからです」
その日の夕方、アルベルトが執務室へ戻ったところで、リディアはファーネル侯爵夫人の手紙を見せた。
彼は読み終えると、短く言った。
「罠だな」
あまりにも率直な言い方に、リディアは一瞬だけ言葉を失った。
「……罠、ですか」
「ああ」
「でも、支援を集める意図そのものは」
「あるだろう」
アルベルトは手紙を机へ置いた。
「だから罠として厄介だ」
リディアは椅子に座り直した。
アルベルトは続ける。
「全面的に拒めば、君は慈善を広げる機会を潰した女にされる。受ければ、ファーネル侯爵夫人の舞台に引き込まれる」
「舞台……」
「あの女は慈善事業を支援したいのではない。慈善事業を支援している自分を、最も美しく見せたいのだ」
かなり辛辣だった。
だが、リディアは否定できなかった。
ファーネル侯爵夫人は、悪意だけの人ではないのだろう。少なくとも、完全に無意味な支援をしようとしているわけではない。灯具も寄付する。舞踏会の収益も、一定額は回すつもりだろう。
だが、それ以上に重要なのは、誰が中心に見えるかだ。
冬の灯火所と渡り灯を、ファーネル侯爵夫人の華やかな舞踏会の飾りに変えること。
「収支案を求めようと思っています」
リディアが言うと、アルベルトは頷いた。
「それがいい」
「もし準備費が高すぎれば、条件を出します」
「高すぎるだろうな」
「まだ見ていません」
「見るまでもない」
言い切られ、リディアは少しだけ苦笑した。
「旦那様は、時々未来の書類まで読まれますね」
「人の欲は、書類より先に形が見える」
それは、以前の自分なら少し怖い言葉だったかもしれない。
けれど今のリディアには、その意味が少しずつわかり始めていた。
人は、美しい言葉で欲を包む。
支援。
善意。
名誉。
広がる心。
冬の夜に灯りを。
どれも嘘ではない。
だが、その奥に何を置いているかで、意味はまったく変わる。
「私は、この舞踏会を断るべきでしょうか」
リディアは尋ねた。
アルベルトはすぐには答えなかった。
少し考えたあと、低く言う。
「君が守りたい線次第だ」
「線」
「北区と東区の支援に金は要る。貴族社会の関心も、全て悪ではない。だが、現場を飾りにするなら潰せ」
潰せ。
あまりに容赦のない言葉に、リディアは目を瞬いた。
「……もう少し穏やかな言い方は」
「止めろ」
「ありがとうございます」
「何がだ」
「少し穏やかになりました」
そう言うと、アルベルトは一瞬だけ黙った。
最近、この沈黙が少しだけ増えた気がする。
リディアが返すと、アルベルトがわずかに言葉を失う。
それに気づく自分にも、リディアは少し戸惑っていた。
「とにかく」
彼は話を戻した。
「舞踏会の収支案を出させろ。装飾費、会場費、楽団、食事、招待状、警備、人件費。全てだ」
「はい」
「そのうえで、実際に北区と東区へ届く額を計算しろ」
「それが少なければ」
「断る理由になる」
リディアは頷いた。
ファーネル侯爵夫人へ返事を送り、収支案を求めると、驚くほど早く返答が来た。
きっと、最初から用意していたのだろう。
作業室でその予算案を広げた瞬間、オスカーが額に手を当てた。
「これは……豪華ですね」
かなり控えめな言い方だった。
リディアは一項目ずつ目を通す。
会場装飾費。
冬の灯火を模した銀細工の燭台。
氷を連想させる硝子細工の飾り。
楽団。
舞踏用の特別な曲。
菓子職人。
花。
招待状。
客人用の小冊子。
寄付者名を記す記念帳。
さらに、舞踏会のあとに配る記念品。
そして最後に、収益から寄付へ回す予定額。
リディアはその数字を見て、静かに紙を置いた。
「これでは、準備費が大きすぎます」
「はい。集まる額にもよりますが、最低見込みだと、実際に現場へ回るのは全体の半分以下です」
「半分以下」
「かなり楽観的に見ても、です」
オスカーの声が硬くなる。
「奥様。これは、慈善舞踏会というより、慈善を名目にした社交催事です」
リディアは何も言わなかった。
まさにそうだ。
美しい灯り。
冬の希望。
貴族たちの善意。
そのすべてが、舞踏会の装飾として消費されている。
もちろん、社交催事としてなら立派だろう。王都の貴族たちは集まり、ファーネル侯爵夫人の趣向を褒め、冬の灯火所と渡り灯の話をする。寄付も集まる。
だが、本当に支援が必要な人々に届く前に、金の多くが硝子細工や楽団や記念品へ消えていく。
それは違う。
「奥様」
エマがそっと茶を置いた。
「少し、お顔が怖くなっておいでです」
リディアは瞬きをした。
「そう?」
「はい」
オスカーも小さく頷いた。
「いつもの旦那様ほどではありませんが」
「それは、かなり怖いという意味かしら」
「いえ、そこまでは」
微妙な間があった。
リディアは思わず少しだけ笑ってしまった。
怒っている。
自分でもわかった。
ファーネル侯爵夫人に対してだけではない。
慈善という言葉が、こんなにも簡単に美しい飾りへ変わってしまうことに怒っている。
北区の火を守る人がいる。
東区の橋を怖がる子がいる。
その人たちのために集めるはずのお金が、舞踏会の見栄えへ流れていく。
怒って当然だ。
そう、今なら思える。
「条件を出します」
リディアは言った。
オスカーがペンを取る。
「はい」
「まず、装飾費に上限を設けます。会場に灯火を模した飾りを置くなら、実際の渡り灯で使う灯具の展示にします。使い終わったら現場へ回せるものだけ」
「銀細工の燭台は?」
「不要です」
「硝子細工の飾りは」
「不要です」
「記念品は」
「不要です」
オスカーのペンが軽快に走る。
少し容赦がない返答になっている自覚はあった。
だが、止まらなかった。
「招待状は簡素に。小冊子を作るなら、北区と東区の現場報告を載せます。寄付者名を飾るためではなく、何に使われるかを伝えるものに」
「舞踏会の楽団は」
「最低限は必要でしょう。舞踏会ですから。ただし、新曲の委嘱は不要です」
「菓子職人は」
「通常の夜会程度で。冬の灯火を模した特注菓子は不要」
「花は」
「季節のものを少量」
「記念帳は」
「寄付用途記録に統一します。名前だけを美しく書き連ねる帳面ではなく、何を支援したかを残すものに」
言い終えたあと、リディアは息を吐いた。
オスカーが顔を上げる。
「かなり削れます」
「削りすぎかしら」
「いえ。慈善事業としては妥当です。ただ、ファーネル侯爵夫人はかなり嫌がるかと」
「でしょうね」
リディアは静かに頷いた。
「でも、このままでは受けられません」
その日の夕方、リディアはファーネル侯爵夫人との面会へ向かった。
場所は王宮近くの小サロン。慈善婦人会がよく使う部屋だ。大きな会議室ではないが、人目がまったくないわけでもない。話し合いにはちょうどいい。
ファーネル侯爵夫人は、いつも通り完璧だった。
白銀の髪飾り。淡い青のドレス。冬の灯火を意識したのか、胸元には小さな燭台を模した飾りが光っている。
「宰相夫人、ご検討いただけまして?」
「はい」
リディアは席に着いた。
「舞踏会によって支援を集めること自体は、意義があると思います」
ファーネル夫人の笑みが深くなる。
「まあ、嬉しいですわ」
「ただし、この予算案のままでは賛同できません」
笑みが、ほんのわずかに止まった。
「……と、申しますと?」
リディアは用意してきた修正案を机に置いた。
「装飾費が大きすぎます。現場へ回る額が少なすぎます。舞踏会を開くなら、支援総額の一定割合以上が必ず北区と東区へ届く形にしてください」
ファーネル夫人は資料へ目を落とす。
扇を持つ手が、少しだけ硬くなった。
「奥様。社交の場には、それ相応の格式が必要ですわ。貴族の皆様に足を運んでいただくには、美しさも大切です」
「承知しています」
「では」
「ですが、美しさのために現場へ届く支援が半分以下になるなら、慈善の名を使うべきではありません」
室内が静かになった。
ファーネル侯爵夫人は、ゆっくり顔を上げた。
「ずいぶん、厳しいことをおっしゃるのね」
「必要なことだと思います」
「善意は、美しく見せてこそ広がるものですわ」
「広がった善意が、硝子細工と記念品で消えてしまっては意味がありません」
言い切ったあと、リディアは自分の胸が少し熱くなっていることに気づいた。
怒っている。
でも、声は荒げない。
怒りを、言葉の芯にする。
ファーネル侯爵夫人は、笑っていた。
けれど、その目には明らかな苛立ちがあった。
「奥様は、貴族社会の心というものを少し軽く見ていらっしゃるのではなくて? 人は、夢を見たいのです。美しい夜、灯り、音楽、善意に包まれる自分。そうした感動が寄付を生むのですわ」
「夢を否定するつもりはありません」
リディアは静かに返した。
「でも、北区で火を守る人は、夢では暖まりません。東区の橋を渡る子どもは、感動では足元を照らせません」
ファーネル夫人の口元がわずかに引き締まる。
「ですから、舞踏会を開くなら、条件があります」
リディアは修正案を指で示した。
「装飾費の上限。収支報告の公開。支援者名は金額順ではなく用途別。現場報告を読む時間を設けること。そして、孤児や利用者を舞踏会に呼んで見世物にしないこと」
「見世物だなんて」
「そのつもりがなくても、そうなることがあります」
リディアは東区のミナを思い出した。
小さな手。橋を怖がる目。
あの子を、美しい慈善の象徴として舞踏会に立たせるようなことは、絶対にしたくなかった。
「支援を受けた人の涙を、貴族の感動のために使うべきではありません」
ファーネル侯爵夫人は沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて彼女は、ゆっくり扇を閉じた。
「……奥様は、本当に手強くおなりですこと」
「そうでしょうか」
「ええ。以前のあなたなら、もっと遠慮なさったでしょうに」
その言葉には、刺すような響きがあった。
以前のあなた。
王太子妃候補として、静かに笑い、反論を飲み込んでいた頃のリディア。
たしかに、以前なら遠慮したかもしれない。
場を乱さないように。
相手の顔を立てるように。
自分が我慢すれば済むと考えて。
でも、今は違う。
「遠慮すれば現場の支援が減るなら、遠慮はいたしません」
リディアは言った。
ファーネル夫人の笑みが、今度こそ冷えた。
「よろしいですわ。修正案を、改めて検討いたしましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、舞踏会をあまりにも地味にすれば、寄付は集まりません。その責任も、奥様がお持ちになるのですね?」
罠だった。
派手にすれば現場が削られる。
地味にすれば寄付が集まらない責任を問われる。
リディアは、その言葉の意図を理解した。
だからこそ、静かに答えた。
「責任は、記録で示します」
「記録?」
「どれだけ集まり、どれだけ現場に届いたか。舞踏会にかかった費用も、寄付に回った額も、すべて記録します。その上で改善します」
ファーネル夫人は、少しだけ目を細めた。
「記録がお好きですのね」
「はい」
リディアは、もうその言葉を恥じなかった。
「人の善意も、使い道が見えなければ迷子になりますから」
その日の帰り、リディアは馬車の中で深く息を吐いた。
疲れた。
王妃の会議とも、王太子との会話とも違う疲れだった。
ファーネル侯爵夫人は、甘い香りのする罠を仕掛けてくる。言葉は優雅で、表情は美しく、提案は一見魅力的だ。だからこそ、どこに線を引くべきか見失いそうになる。
けれど、見失わなかった。
少なくとも今日は。
宰相家へ戻ると、アルベルトが玄関ホールにいた。
偶然ではないだろう。
「どうだった」
「罠でした」
リディアが答えると、アルベルトは少しだけ眉を上げた。
「わかったか」
「はい」
「それで?」
「踏みませんでした。たぶん」
アルベルトは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「ならいい」
その一言で、張っていたものが少し緩む。
「ただ、とても疲れました」
「だろうな」
「今日は、怒るより先に眠いです」
「それでいい。怒りにも体力が要る」
また真面目に言われて、リディアは少し笑ってしまった。
「旦那様」
「何だ」
「明日は、舞踏会の修正案をもう一度見ます」
「今日は見るな」
「はい」
素直に答えると、アルベルトが少しだけ意外そうにした。
「素直だな」
「怒るにも体力が要るそうなので」
そう返すと、彼は一瞬黙り、それから低く言った。
「よく覚えている」
「旦那様のお言葉ですから」
言ってから、リディアは少し頬が熱くなった。
アルベルトも、わずかに視線を逸らした。
「……休め」
「はい」
その短いやり取りだけで、ファーネル侯爵夫人の甘い罠で疲れた心が、少しだけ元の場所へ戻っていく。
リディアは自室へ向かいながら思った。
善意は、美しく見せれば広がるのかもしれない。
けれど、美しさのために本当に必要なものが削られるなら、その善意は途中で迷子になる。
ならば、自分の仕事はその道筋をつけることだ。
火が消えないように。
橋が渡れるように。
そして、善意が誰かの名誉だけに辿り着かないように。




